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〈須臾〉と〈渺〉

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 別海は、利玖達を連れて廊下に出ると、着物の胸元から懐紙を二枚抜いて指に挟んだ。  正方形で、その分、普通の懐紙よりも小さく見える。崩した文字で何か書き付けられているようだったが、廊下が薄暗くて、利玖には読めなかった。  別海は、重ね合わせた懐紙を、ぱんっと左右から挟むように手のひらで打った。  その手をそっと開くと、懐紙は、見えない水流にすべり込んだように螺旋の軌道を描いて舞い落ち、床に触れた途端、ふわっと霧のような白い気体を噴出した。  柊牙は「うわっ」と叫んで腕で顔を覆ったが、利玖は瞬きをするのも忘れて、目の前で起きている幻想的な光景に見入っていた。  もうもうと立ちのぼっていた気体が徐々に薄れていくと、懐紙が落ちた所には、ぺったりと床に腹をつけた大きな影が二つ横たわっていた。 「二体とも貸してやりたい所だなんが、老人一人じゃ心もとないんでね。一体はこちらに回してくれるかい」  まるで湖の水面を泳ぐように、なめらかに床の上を行き来する二匹の魚を、利玖は声もなく見つめていた。  体長は一メートルほどもあろうか。顔の前に長いふんが突き出し、頭部から背びれにかけて、岩稜のような突起が並んでいる。  利玖が記憶している魚類の中では、チョウザメが、それに最も近い姿をしていた。 「式神だ」史岐が拳を口に当て、驚愕したように呟く。「こんなにしっかりと実体のあるものを、二体も同時に呼び出すなんて……」 「お褒めの言葉ありがとう」別海はかがみ込んで二体の式神の背に手を置いた。「こっちの体の色が薄いのが〈須臾しゅゆ〉。もう一体が〈びょう〉だ。名があるくらいだから、それなりの働きは保証するよ。おまえさん方には、そうだね……、〈須臾〉をついて行かせようか」  そう決めると、別海はもう一枚懐紙を抜いた。  式神達を呼び出す為に使った物よりも薄く、雲のような繊維が透けて見えている。かすかに青みがかった美しい和紙だった。  何もない廊下の隅めがけて、別海がそれを斜めに放ると、栓を抜いたように、その場所からこんこんと水が湧き出してきたので、利玖達は慌てて飛びのいた。 「ああ、大丈夫だよ」別海が手を振る。「この水には実体がないから、触れていても濡れはしない。感覚が鋭い人間には、冷たさや、歩いていく時に水をかくような感触があるかもしれないが」  別海の言う通り、利玖には、ほのかな光を放つ水面がホログラムのように揺れているのが見えるだけだったが、史岐や柊牙は、雪原に立っているような、ごく薄い冷気が足元をさするのを感じていた。 「この水がある所が、つまり、彼らの活動範囲という事ですか?」じわじわと廊下を覆っていく水を目で追いながら柊牙が訊ねる。 「いや。水がない所でも、短時間なら行動出来る」  別海が指を動かすと〈渺〉がそれに従って水のない和室へ入っていき、すぐに引き返してきた。 「だが、出来れば水のある所を辿って行く事をおすすめする。この水は〈須臾〉と〈渺〉の領分だ。水に浸かっている間は動きが良くなるし、この子らを介して、わたし達も遠隔で会話が出来る」 「へえ……、そりゃすごい」  自分のそばにやって来た〈須臾〉を無遠慮に眺め回している柊牙を見て、別海が、くすっと笑った。 「槻本家当主のお嬢様への手土産は、これで手を打ってくれると助かるんだがね」  柊牙は、ぎくっと目を上げ、きまりが悪そうに瞬きをしてうつむいた。



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