出題編1-1

1/2





 枕元に置いてあった電話がけたたましい着信音を鳴らしたのは、まだ日も上がりきらない午前五時のことだった。頭とは違ってまだ眠りから覚めない体に鞭を打って体を起こし、画面には予想通りに『探偵さん』という名前が表示されていることを確認してから、渡橋銀杏は黄緑色の応答ボタンを押す。 「もう、こんな時間になに……」  銀杏は一人の部屋でいつも通りの対応をしながら、空いている左手でベッドの横にある窓をさっと開けた。すると、冷たい冬の風が部屋の中にどかどかと土足で上がり込んでくる。夜の間に暖房で温められた空気が部屋の奥に押し流しされてていき、風は被っている布団の中にも入り込んでくる。二月なので、寝起きの無防備なパジャマ姿の体には冷たいどころか、痛いとすらも感じた。  時間が早いおかげか、窓から見える外には誰の姿も見えず、白く静かな世界が広がっていた。太陽光を反射する銀白色の積雪が、ビル群の黒を覆いつくしている。 「もしも~し」  空気が綺麗なせいか、電話から聞こえる探偵さんこと、小伏凪沙の声までもがクリアに聞こえた。鼓膜に向かって一直線に飛んできて、そのまま反対の耳から通り抜けていくように感じるほど。性格以外は完璧な彼女らしいといつも思わされる。 「もしもし、おはようございます」  銀杏はあえて不機嫌そうに聞こえるような声色で返事をしながら、目を擦る。その瞬間に欠伸が出て、喉の奥にまで冷たい空気が差し込んできた。ひんやりとして気持ちがいいけれども、それと同時にわずかな痛みを感じた。 「おはよう」  まるで太陽のように明るい声が銀杏の鼓膜を、冷たい風がちくちくと寝起きの体を刺す。おかげで、寝起きでぼんやりとしていた目はぱっちりと開き、脳もパソコンのように一気に回転し始める感覚すら覚えた。電話を肩とほっぺたで挟みながら、体も目を覚まさせるために逆手で組んで手を前に伸ばした。 「んあっ」  思いがけず、体の奥から大きな声が出た。悲しいかな探偵事務所の薄給で東京都内に一人で暮らしているせいで部屋は狭く、布団の中でもあまり足も伸ばせやしないから目覚めた時には体がいつも凝り固まっている。冬の間は、寒さのせいか余計に。  銀杏の体が少し動くたびにパキパキと音が鳴った。しかし、そんなことは電話の先には伝わらない。凪沙は推理の時以外には頭を使いたくないのか、言葉の奥や電話先の状況を想像することはしない。できないのかもしれないけど。興味がないことにはとことん興味を持たず、実際に銀杏の私生活について何かを聞かれたことはもうすぐ事務所で働いて一年にもなるのに、一度たりとも聞かれたことはなかった。 「何を喘いでるのよ。男でも隣にいるの?」  相も変わらず、意味のわからないことを言う。本当にこの人は状況とか相手の気分とかを考えたりはしない。銀杏は呆れながら、それを否定する。 「いませんよ」  およそ二十代前半の女性とは思えないような起きがけのガラガラ声で、電話に向かって銀杏は声をぶつけた。相変わらず、変わり者というか常識のないというか。とにかく不思議な性格をした電話相手の調子に飲み込まれる。たまには落ち着いて話がしたいのに、いつも銀杏のペースでは話させてもらえない。まあ、そのおかげで銀杏も仕事のスイッチが入ったのだが。まさにルーティーンのような会話で、銀杏の一日は始まる。今日は珍しく、渡橋銀杏の朝は早い。 「おはよう、仕事だわ」  仕事? まだ、日も上がっていないのに。親から上京の時に送られた赤い色の目覚まし時計を見るとまだ午前五時だ。雪に反射する朝焼けのせいで明るく感じるけれども、アラームをセットしていた時間まではまだ二時間もある。とりあえずこの電話が終わった瞬間に二度寝をしようと銀杏は決めた。 「いや、始業時間は九時からです。もう少し寝かせてください」  そう言いながら、布団に再び潜り込む。このわずかな時間で冷やされた掛布団は気持ち良かった。しかし、凪沙はそう素直に寝かせてはくれない。 「いいから、早く準備しないと間に合わないわよ!」  銀杏が寝起きで不機嫌なうえに電話越しに大きな声をだされてさらにイライラしているということも理解したうえで、凪沙はそれを遠慮なく踏み越えてくる。もうそれには慣れっこだった。やれやれと溜息をつきながら再び体を起こす。  いつも冷静に反論するけれども、それの意味がないことを銀杏は過去の経験から知っていた。どうせ、電話口の向こうにいる相手にはいつも言い負かされるのだ。きっと、銀杏が仮に検察で物的証拠をいくら用意しても、凪沙が弁護する殺人犯を無罪放免にされる気がする。凪沙は天才なのだから、同じ土俵で戦っても仕方がない。  これまでいろんな人に出会ってきたけれども、凪沙ほどの天才は私の前には現れなかったし、きっとこれからも出てこないと思う。少なくともこれからどれだけ努力しても、銀杏にはあの事件を、トリックを解き明かすことはできないだろう。 「そっちの事情はどうでもいいから、とりあえず落ち着いて話を聞いて。依頼のメールに気が付いたのがさっきなの。まあ、起こして悪かったとは思ってるわよ」  依頼のメールという言葉が、銀杏の頭に引っ掛かった。それと同時に一段と気温が下がった気がする。いや、これは寒気だろうか。 「ちょっと待ってください、そのメールはいつ届いていたんですか?」 「え? ちょっと待ってね。ああ、一昨日よ」  凪沙は、特に連絡にかなりルーズな所がある。なのに謎のこだわりで私にメールにログインさせてくれない。天才には変なこだわりが多い。しかし、社会人としては致命的だから、できれば任せてほしい。こういうことをなくすために。 「一昨日ってまずいじゃないですか。急を要する案件ならどうするんですか」 「だから、急いでるの。要件を端的にまとめるわ。九時に旅行用の荷物を一式、事務所まで持ってきてちょうだい。向こうで洗濯はできるから、着替えは少なくてもいいわ。ただ、向こうは東京よりもよっぽど寒いだろうから、上着とかインナーは多めに用意しておいてね。あと、私の分の服も貸してちょうだい」 「はい?」  まあ、当たり前だけれども銀杏には意味がわからなかった。突然、電話をかけてきたかと思えば旅行用の荷物を用意しろというのだ。そして、その話しぶりから察するにおそらくこれから東京よりも寒いところに行かなければならない。  想像するだけで痛い。  いや、こんなに寒いのにいったいどこへ行くというのだ。朝だということもあるがこんなに寒いし、気温は昼間になっても片手で数えきれるほどにしか上がらないだろう。おそらく、これからもっと雪が降るはずだ。ハワイやグアムに連れて行ってくれるならば大歓迎だけれども、この人なら例えばシベリア鉄道でロシア横断とか、アラスカにオーロラを見に行くとか言い出しかねない。そういうのは友達とやってほしいのだが、残念ながら凪沙にとって友達の一番手と仕事の部下は同じく銀杏だ。  しかも、その遊びなら断ることができるのだが、今回は仕事だ。 「じゃあ、よろしくね!」  銀杏が話そうとすると、長くなることを理解したのか凪沙にすぐさま電話を切られた。なんてあわただしい、もう一年近くの付き合いだから大抵のことには対応できるけれども、早朝にたたき起こされるのだけは勘弁してほしい。本当は惰眠をむさぼりたかったけれども、それをしているとおそらく九時に旅行用の荷物をそろえて出勤をすることは不可能だ。荷物だって、どれくらいいるのかわからないのに。  しぶしぶ布団を抜け出て、冷たい床に触れないように靴下を履く。 「ひいっ」  靴下を勢いよく引っ張ったせいでバランスを崩し、右足が素足のままで床にくっついた。体のどこから出たのかもわからない声が、一人暮らしの冷たい部屋に響いた。



write-comment-iconコメントを書く
write-comment-iconレビューを書く



comment-icon新着コメント



コメントはありません。投稿してみようっ!


出題編1-1

1/2

 枕元に置いてあった電話がけたたましい着信音を鳴らしたのは、まだ日も上がりきらない午前五時のことだった。頭とは違ってまだ眠りから覚めない体に鞭を打って体を起こし、画面には予想通りに『探偵さん』という名前が表示されていることを確認してから、渡橋銀杏は黄緑色の応答ボタンを押す。 「もう、こんな時間になに……」  銀杏は一人の部屋でいつも通りの対応をしながら、空いている左手でベッドの横にある窓をさっと開けた。すると、冷たい冬の風が部屋の中にどかどかと土足で上がり込んでくる。夜の間に暖房で温められた空気が部屋の奥に押し流しされてていき、風は被っている布団の中にも入り込んでくる。二月なので、寝起きの無防備なパジャマ姿の体には冷たいどころか、痛いとすらも感じた。  時間が早いおかげか、窓から見える外には誰の姿も見えず、白く静かな世界が広がっていた。太陽光を反射する銀白色の積雪が、ビル群の黒を覆いつくしている。 「もしも~し」  空気が綺麗なせいか、電話から聞こえる探偵さんこと、小伏凪沙の声までもがクリアに聞こえた。鼓膜に向かって一直線に飛んできて、そのまま反対の耳から通り抜けていくように感じるほど。性格以外は完璧な彼女らしいといつも思わされる。 「もしもし、おはようございます」  銀杏はあえて不機嫌そうに聞こえるような声色で返事をしながら、目を擦る。その瞬間に欠伸が出て、喉の奥にまで冷たい空気が差し込んできた。ひんやりとして気持ちがいいけれども、それと同時にわずかな痛みを感じた。 「おはよう」  まるで太陽のように明るい声が銀杏の鼓膜を、冷たい風がちくちくと寝起きの体を刺す。おかげで、寝起きでぼんやりとしていた目はぱっちりと開き、脳もパソコンのように一気に回転し始める感覚すら覚えた。電話を肩とほっぺたで挟みながら、体も目を覚まさせるために逆手で組んで手を前に伸ばした。 「んあっ」  思いがけず、体の奥から大きな声が出た。悲しいかな探偵事務所の薄給で東京都内に一人で暮らしているせいで部屋は狭く、布団の中でもあまり足も伸ばせやしないから目覚めた時には体がいつも凝り固まっている。冬の間は、寒さのせいか余計に。  銀杏の体が少し動くたびにパキパキと音が鳴った。しかし、そんなことは電話の先には伝わらない。凪沙は推理の時以外には頭を使いたくないのか、言葉の奥や電話先の状況を想像することはしない。できないのかもしれないけど。興味がないことにはとことん興味を持たず、実際に銀杏の私生活について何かを聞かれたことはもうすぐ事務所で働いて一年にもなるのに、一度たりとも聞かれたことはなかった。 「何を喘いでるのよ。男でも隣にいるの?」  相も変わらず、意味のわからないことを言う。本当にこの人は状況とか相手の気分とかを考えたりはしない。銀杏は呆れながら、それを否定する。 「いませんよ」  およそ二十代前半の女性とは思えないような起きがけのガラガラ声で、電話に向かって銀杏は声をぶつけた。相変わらず、変わり者というか常識のないというか。とにかく不思議な性格をした電話相手の調子に飲み込まれる。たまには落ち着いて話がしたいのに、いつも銀杏のペースでは話させてもらえない。まあ、そのおかげで銀杏も仕事のスイッチが入ったのだが。まさにルーティーンのような会話で、銀杏の一日は始まる。今日は珍しく、渡橋銀杏の朝は早い。 「おはよう、仕事だわ」  仕事? まだ、日も上がっていないのに。親から上京の時に送られた赤い色の目覚まし時計を見るとまだ午前五時だ。雪に反射する朝焼けのせいで明るく感じるけれども、アラームをセットしていた時間まではまだ二時間もある。とりあえずこの電話が終わった瞬間に二度寝をしようと銀杏は決めた。 「いや、始業時間は九時からです。もう少し寝かせてください」  そう言いながら、布団に再び潜り込む。このわずかな時間で冷やされた掛布団は気持ち良かった。しかし、凪沙はそう素直に寝かせてはくれない。 「いいから、早く準備しないと間に合わないわよ!」  銀杏が寝起きで不機嫌なうえに電話越しに大きな声をだされてさらにイライラしているということも理解したうえで、凪沙はそれを遠慮なく踏み越えてくる。もうそれには慣れっこだった。やれやれと溜息をつきながら再び体を起こす。  いつも冷静に反論するけれども、それの意味がないことを銀杏は過去の経験から知っていた。どうせ、電話口の向こうにいる相手にはいつも言い負かされるのだ。きっと、銀杏が仮に検察で物的証拠をいくら用意しても、凪沙が弁護する殺人犯を無罪放免にされる気がする。凪沙は天才なのだから、同じ土俵で戦っても仕方がない。  これまでいろんな人に出会ってきたけれども、凪沙ほどの天才は私の前には現れなかったし、きっとこれからも出てこないと思う。少なくともこれからどれだけ努力しても、銀杏にはあの事件を、トリックを解き明かすことはできないだろう。 「そっちの事情はどうでもいいから、とりあえず落ち着いて話を聞いて。依頼のメールに気が付いたのがさっきなの。まあ、起こして悪かったとは思ってるわよ」  依頼のメールという言葉が、銀杏の頭に引っ掛かった。それと同時に一段と気温が下がった気がする。いや、これは寒気だろうか。 「ちょっと待ってください、そのメールはいつ届いていたんですか?」 「え? ちょっと待ってね。ああ、一昨日よ」  凪沙は、特に連絡にかなりルーズな所がある。なのに謎のこだわりで私にメールにログインさせてくれない。天才には変なこだわりが多い。しかし、社会人としては致命的だから、できれば任せてほしい。こういうことをなくすために。 「一昨日ってまずいじゃないですか。急を要する案件ならどうするんですか」 「だから、急いでるの。要件を端的にまとめるわ。九時に旅行用の荷物を一式、事務所まで持ってきてちょうだい。向こうで洗濯はできるから、着替えは少なくてもいいわ。ただ、向こうは東京よりもよっぽど寒いだろうから、上着とかインナーは多めに用意しておいてね。あと、私の分の服も貸してちょうだい」 「はい?」  まあ、当たり前だけれども銀杏には意味がわからなかった。突然、電話をかけてきたかと思えば旅行用の荷物を用意しろというのだ。そして、その話しぶりから察するにおそらくこれから東京よりも寒いところに行かなければならない。  想像するだけで痛い。  いや、こんなに寒いのにいったいどこへ行くというのだ。朝だということもあるがこんなに寒いし、気温は昼間になっても片手で数えきれるほどにしか上がらないだろう。おそらく、これからもっと雪が降るはずだ。ハワイやグアムに連れて行ってくれるならば大歓迎だけれども、この人なら例えばシベリア鉄道でロシア横断とか、アラスカにオーロラを見に行くとか言い出しかねない。そういうのは友達とやってほしいのだが、残念ながら凪沙にとって友達の一番手と仕事の部下は同じく銀杏だ。  しかも、その遊びなら断ることができるのだが、今回は仕事だ。 「じゃあ、よろしくね!」  銀杏が話そうとすると、長くなることを理解したのか凪沙にすぐさま電話を切られた。なんてあわただしい、もう一年近くの付き合いだから大抵のことには対応できるけれども、早朝にたたき起こされるのだけは勘弁してほしい。本当は惰眠をむさぼりたかったけれども、それをしているとおそらく九時に旅行用の荷物をそろえて出勤をすることは不可能だ。荷物だって、どれくらいいるのかわからないのに。  しぶしぶ布団を抜け出て、冷たい床に触れないように靴下を履く。 「ひいっ」  靴下を勢いよく引っ張ったせいでバランスを崩し、右足が素足のままで床にくっついた。体のどこから出たのかもわからない声が、一人暮らしの冷たい部屋に響いた。



write-comment-iconコメントを書く
write-comment-iconレビューを書く



comment-icon新着コメント



コメントはありません。投稿してみようっ!