「今年も初夏の妖精が来たわ」
極北にある小さな森の、小さな妖精たちが口々に噂する。
初夏の妖精、と呼ばれた彼女は一歩一歩踏みしめるように大地を歩く。
その足跡からは新緑が芽吹き、小さな花々がその命を喜ぶように花弁を開いた。
初夏の妖精には『マリィ』という名前があった。
しかし、誰もその名を呼ぶことはない。
彼女自身が自分に『マリィ』という名前が与えられていたことを忘れているからだ。
マリィは空を見上げた。
美しい水色の空に、白い雲が柔らかいベッドのようにぷかぷかと浮いている。
マリィがふぅ、と息を吹くと、辺りの木々がざわめき鮮やかな新芽を芽吹かせた。
その新芽はみるみると葉を大きくさせ、あっという間に深緑の木陰を作り出す。
爽やかな風がマリィの頬を撫でていく。
木々の深緑と同じ色をしたマリィの髪が、優しく揺れた。
「今年も無事に夏を届けられそうでよかった」
マリィは小さく呟いた。
彼女の仕事は、世界に夏を届けること。
彼女が歩いた跡には生命が満ちあふれ、世界を彩り、また次の命へその命を繋いでいく。
それを他のものたちは『初夏の妖精がやってきた』と呼ぶのだ。
マリィは自分がいつからこの仕事をしているのか知らない。
けれども、彼女は自分の仕事に誇りを持っていた。
そんな彼女が最後に夏を届けるのは、必ずこの極北の地と決めていた。
「今年も無事に初夏の妖精が来たみたいだね。これなら作物がよく育ちそうだ」
「今年も娘たちに新しいドレスを買ってあげられそうね」
森の近くを通り掛かった若い夫婦が、嬉しそうに話す。
その様子を微笑ましそうに眺めるマリィ。
マリィが自分の仕事納めにこの地を選ぶのには訳があった。
「やっぱりここへ来ると心がざわざわする」
そう独りごちると、マリィは森の中へ進んでいく。
自身が茂らせた草木をかき分け、森の奥へ進んでいくと一つの小さな石碑があった。
いつ、誰が、何のためにここへ立てたのかもわからない小さな石碑。
表面には何か文字が刻まれているようだが、苔に覆われたそれは解読することが難しい。
マリィはその石碑の隣へそっと腰掛ける。
こうしていると、なぜだか心が落ち着くのだ。
身体の中心にぽっかりと空いた空洞を埋めてくれるような、そんな心持ちがするのだ。
そうしてどれくらいの時間が経っただろう。
不意に草木をガサガサとかき分け、こちらへ向かってくる足音が聞こえてきた。
「やっぱり今年も来たのね」
マリィが嬉しそうに声を上擦らせて言うのと同時に、一人の若い男が現れた。
「やぁ、マリィ」
男は石碑にそう呼び掛けると、そっと跪いた。
「今年も春が来て、夏が来る。きみがずっと見たいと言っていた花たちもきれいに咲いたよ。きみはどうしてる?」
石碑に話し掛けながら、男は色とりどりの花で作られた花束を取り出した。
「きみは花も咲かない、冬で閉ざされたこの地が嫌いだと言っていたね。自分が死んだら、必ずこの地に花を咲かせるんだ、とも」
マリィはじっと男の話に耳を傾ける。
「その言葉通り……ほら、きみが死んでからこの地には花が咲くようになった。みんなは『初夏の妖精が来た』なんて言うけど、本当はきみなんだろう?」
男の目には涙が滲んでいた。
「でもね、マリィ。僕は花が咲く大地より、きみが生きてくれている世界のほうがずっとずっとよかったよ」
そう言って涙をこぼす男の頬に、マリィはそっと触れた。
「泣かないで。夏が来て、美しい世界を目の前にしたらそんな悲しみもきっと消えてしまうわ」
「僕の悲しみが消えることなんて、未来永劫あり得ない」
「そんなこと言わないで。それなら私はあなたのために未来永劫美しい夏を届けるわ」
「マリィ……」
石碑に向かってむせび泣く男を、マリィはとても可哀想に思った。
それと同時に、自分の胸の空虚な穴と彼の悲しみを重ね合わせていた。
世界に生命あふれる夏を届けていても、埋まらない何かをマリィはずっと抱えている。
彼を見ているとなくしてしまった自分自身の一部を見ているような、そんな気持ちになってしまうのだった。
「あなたがこのマリィという名の石碑のために泣くたびに、私の心の穴が少しだけ満たされるような気がするの」
けれど、マリィの声は彼には届かない。
「マリィ。僕はずっとずっときみを愛しているよ」
「あなたの気持ちはきっとマリィに届いているわ」
「マリィ……マリィ」
悲痛な男の声がたまらなくなり、マリィはそっと彼を抱き締めた。
すると、男は突然顔をあげて叫んだ。
「マリィ!? そこにいるのかい?」
マリィは困惑した。
「いるのは私だけ。それに彼に私は見えていないはずなのに、どうして?」
男はなおも声をあげる。
「マリィ、僕にはわかるよ。僕のことを見ているんだろう? いつも僕が泣くと、泣きべそくんってからかいながら僕のことを抱き締めてくれたじゃないか」
「それは私のことじゃないわ」
マリィがそう言うと、まるで言葉が届いたかのように男は静かになった。
「……取り乱してすまなかった。また来るよ、マリィ」
静かに立ち上がり、去っていく男の背中をマリィは何も言わず見送った。
***
それからもマリィは何度も何度も、数え切れないくらいの初夏をこの極北の地に連れてきた。
そして石碑を訪れるたびに、また男も必ず現れ、マリィへの愛を捧げた。
年を追うごとに少しずつ老いていく男に、呆れながら彼女は言う。
「あなた、今年も飽きずにやってきたのね」
男はにこにこと笑いながら、花束を石碑へ差し出した。
「マリィ、今年も来てくれてありがとう」
彼女は小さくため息をつく。
「ばかね、あなたのために来たわけじゃないわ」
男の大きな手のひらが石碑を愛おしそうに撫でた。
「僕のためじゃないって? それでもきみの全てに感謝を伝えたいんだよ」
マリィは身を乗り出し、男の眼前に顔を突き出す。
「あなたって、本当にばか。こうしたってどうせ気付かないんでしょう」
ほんの少し寂しそうなマリィの声音は、いつだって彼の耳には届かなかった。
***
ある年、マリィがいつものように初夏をつれてこの地にやってくると喪に服す一軒の家があった。
「あぁ、ジェフェリー。なんてばかな息子だったんだろう。子どもの頃に好きだった娘を思い続けて、ついに一人ぼっちでいってしまった」
「母さん、ばかだなんて言ってはいけないよ。兄さんは一つの愛を貫いたんだ」
マリィはその家の前で立ち止まると、ふっと庭に息を吹きかけた。
するとみるみるうちに薔薇のつるが伸び、真っ赤な花が咲き乱れた。
「見てよ、母さん! なんて美しい薔薇だ。きっと兄さんの愛があの世でようやく結ばれたんだよ」
「なんてことだ。あぁ、あぁ。ジェフェリー。本当によかったね……」
抱き合って泣く親子を見て、マリィは穏やかな笑みを浮かべた。
この『ジェフェリー』という男が、本当にあの世で好きな娘と結ばれているといい。そう思いながら。
そしていつものように石碑へ向かった。
石碑を目にしたマリィはすぐに異変に気付く。
苔むした石碑のすぐ隣に、真新しい石碑が立っていたのだ。
「これは……?」
マリィはしゃがみこみ、真新しい石碑をまじまじと見つめた。
石碑の表面には『ジェフェリー・キャンベル ここに眠る』と書かれている。
「どうして彼のお墓がここに?」
彼女は先ほどの親子たちを思い浮かべながら首をひねった。
「マリィ」
聞き慣れた声で振り返ると、あの男がいた。
「やっと、やっと会えたね!」
そう言うと、なんと男は力強くマリィを抱き締めたのだ。
マリィは仰天した。
今まで男はマリィを抱き締めるどころか、触れることも会話をすることもできなかったのだから。
「なに、なんなの!?」
驚きもがくマリィをなおも強く抱き締める男。
「僕だよ! ジェフェリーだよ! 忘れちゃったのかい!?」
そのとき、マリィは自身の胸にぽっかりと空いた穴がゆっくりと閉じていくのを確かに感じた。
「ジェフェリー……?」
「そうだよ! ようやくその声で僕の名を呼んでくれたね、ありがとうマリィ」
男の顔を見上げると、ぐしゃぐしゃになった泣き顔がそこにあった。
「……泣かないで、泣きべそくん」
今度はマリィの方から男を抱き締めた。
――彼女はようやく理解した。
胸に空いた穴は――自分がなくしたと思っていたものは、彼だったのだと。
ジェフェリーは涙で濡れた顔を拭うと、満面の笑みで問いかけた。
「マリィ、これからはずっと側にいてくれる?」
「いいわ。でも私は忙しいの。あなたについてこれるかしら?」
「当たり前だ。きみとなら、未来永劫どこへだって行くよ」
手を繋いで歩く二人の足跡には、色とりどりの美しい花が咲いていた。