離れていても
ー/ー
好きな本を持ってカフェでゆっくりとした時間を過ごすこと。それが敬悟にとって有意義な休日の使い方だった。店内にはジャズの演奏が流れ、白髪の店主は音を立てないように、カップや食器を洗っている。コーヒーを口にすると、仄かな酸味と苦味が広がった。スマートフォンを眺めていると、敬悟は「えっ」と声を上げた。店主と目が合い、敬悟は頭を掻きながら会釈をする。
メッセージアプリの友人一覧の、ある写真に釘付けになったのだ。専門学生時代の友人、慎二である。穏やか笑顔を向けた彼の胸には赤ん坊が抱えられていた。敬悟は胸の中に、じんわりと暖かい感情が広がった。懐かしさと共に、電車の揺れと差し込む夕陽が思い出される。
敬悟が慎二と出会ったのは、専門学生の頃だった。当時の敬悟は電車で通っており、途中の駅で慎二と合流するため、登下校を共にすることが多かった。
住宅街、電柱、田圃、目まぐるしく車窓の光景が流れていく。夕陽が見え隠れし、その度に目を細めていたのを覚えている。敬悟は隣に座る慎二に話しかけた。
「慎二は、これからバイト?」
「ああ。そうだよ」
「学校行きながらバイトしててさ、よく頑張ってるよな」敬悟は苦笑した。「俺なんて帰ったらヘトヘトだよ」
「そんなことないって」慎二は小さく笑う。「敬悟の方が立派だよ。一時間半も時間をかけて通学してるじゃん。そりゃ疲れるって。俺なんて十五分で着くんだよ」
「時間はかかると言っても、寝たり、本を読めば着いちゃうからさ、大変だとは感じたことはないなあ」褒められるのがむず痒くなり、敬悟は話題を変えた。「慎二はバイト代、何に使ってるの?」
「そうだねえ」慎二は顎に指を乗せ、思案する表情をつくる。「携帯料金と定期代を払うから、余ったお金で好きなご飯食べることに使ってるかな」
「えっ」敬悟は友人の顔をまじまじと見つめた。「携帯と定期代、自分で払ってるのか?」
慎二はパスケースには入った定期券を取り出し、ひらひらと揺らす。
「厳密に言えば、定期代は一部だけどね」
敬悟はかあっと顔が火照るのを感じた。身を窄め、顔を両手で覆いたい気分になる。「だとしても、自分で負担してるんだから、すごいよ」
「親にさ、携帯代は自分で払えって言われてるんだ。うちは兄弟多くて裕福な訳じゃないしさ、仕方ないよ」
慎二は今日あった出来事を話すような、軽い口調だった。淡々としているのだ。慎二はより、肩身の狭さを感じた。
住宅街を抜け、田圃が目の前に広がった。夕陽を遮る障害物はなくなり、存在感を示すようにオレンジの光が車内に差し込んでくる。照らされた慎二の表情は、嘆きや、不満げな様子は微塵も感じられなかった。敬悟は、手に持っていた手提げを見下ろした。中には母親から持たされた弁当が入っている。下校中なので、重さは感じない。慎二の昼食は持参した弁当、もしくはコンビニである。それに関しても、自身のバイト代から出されているのだろうか。
突然、身体が横に吹き飛びそうになり、敬悟は天地がひっくり返ったような感覚に襲われた。耳をつんざくような音が遅れて届き、電車が止まったことに気づく。駅に着いたのだ。
「それじゃ、また明日」
定期券を手にした慎二が立ち上がっていた。小柄な背中に夕陽が差し、敬悟は目を細めてしまう。
慎二を見送った敬悟は、手元にある長方形の板を見つめた。真っ黒な液晶画面には、弛んだ頬。まるで甘さの塊のような男の顔が写されていた。カバーの内側には二枚のカードが差し込んである。定期券と学生証だ。敬悟はふと気づく。自分で手に入れたものは何一つないのだ、と。目を閉じ、電車の揺れに身を任せる。夢か現実か。狭間に揺られ、まどろみに沈んでゆく。
真っ暗な空間だった。足元が液状化したような不安定さを感じ、敬悟は姿勢を保つので精一杯になる。目の前には慎二が立っていた。同じように彼の地面も揺らいでいる。しかし慌てる様子は見られない。腕を組み、その姿勢を保っていた。いつの間にか四つん這いとなった敬悟は顔を上げ、動じない男の表情を見つめた。
彼は、自分の足で立っているのだ。
肩を叩かれ、敬悟は目を見開いた。どうやら、眠っていたらしい。駅員が心配そうな表情で見下ろしていた。「お兄さん、終点だよ」
いつの間にか日が落ち、降車を促すアナウンスが流れている。礼を伝えた敬悟は急いで改札に向かい、実家へ連絡を入れた。
情けない。待合室で迎えの車を待つ間、その言葉がシャボン玉のように浮かんでは消えていく。それがひたすら、繰り返されていた。
ピーラーで皮を剥いたじゃがいもをまな板に置く。とんとんとん、とリズミカルな音が心地よい。手のひらで豆腐を切り、水の入った鍋にそれらを投入し、火をかけた。あっと思い出し、榎を冷蔵庫から取り出し、鍋に入れる。夕食の味噌汁である。カフェから帰宅した敬悟は、出産祝いは何を贈ろうかと考えていた。専門学校を卒業後、敬悟は県外の企業に内定をもらい、一人暮らしを始めた。きっかけは夕陽に照らされた、慎二の後ろ姿だった。家賃、水光熱、食費、携帯代。当たり前の生活の裏には人の努力がある。敬悟は身を持ってそれを体感した。学生の頃は両親に反抗していたが、一人暮らしを始めてからは反発する気持ちは消えていた。今では入れ替わるように、感謝の気持ちが生まれている。両親と慎二の後ろ姿に、少しでも近づけただろうか、と敬悟は独りごちた。
鍋の水が沸騰し、ぐつぐつと音を立て始めた。じゃがいもに火が通るまでの間に、敬悟はスマートフォンを操作する。出産祝いにどういったものを渡せば良いのか、わからなかった。どうやら、ギフトカードなるものもあるらしいが、首を振る。味気がないのだ。画面をスクロールしていると、『名入れタオル』というものが見つかった。なるほど、これならば実用的であるし、いいかもしれない。購入し、プレゼント用のメッセージを作成した。送信し、相手が住所を打ち込めば荷物が届く仕組みとなっている。便利な世の中になったものだ、と敬悟は感心した。
夕食を食べていると、スマートフォンが振動した。慎二からだった。『ありがとう』というメッセージと共に、うさぎのスタンプが送られていた。敬悟は思わず微笑み、『どう致しまして』と返す。味噌汁が普段より、美味しく感じられていた。
数ヶ月後、その日の敬悟は用事を済ませ、電車の中で揺られていた。窓の外には住宅街と田圃。そして差し込む夕陽。慎二の後ろ姿が思い出されていた。スマートフォンがポケットで振動する。取り出したところで、ブレーキ音が耳に響く。電車がゆっくりと停止し、扉が開く。アナウンスが到着を知らせていた。今は天地が揺らぐ感覚に陥ることはない。差出人は慎二だった。出産祝いのお礼のメッセージと共に、プレゼントの通知が送られていた。「おお」と敬悟は呟く。
プレゼントはバームクーヘンだった。『ありがとう。コーヒーはよく飲むし、お供にさせていただくよ』と敬悟は返事をする。
再びスマートフォンが震えた。『よかった!敬悟は専門の頃からコーヒー飲んでたもんね。喜んでくれたようでよかったよ』
一瞬、鼻につんとした痛みを感じた。慎二とは卒業以来、会っていない。メッセージを送ったのも久しぶりだった。にも関わらず当時を思い出し、適したプレゼントを送ってくれている。彼の中に確かな自分がいることを感じ、目頭が熱くなった。
届くのは五日後らしい。白髪の店主を思い浮かべる。豆を挽いてもらって家で飲もうかな、と予定を頭の中で組み立てる。同時に慎二の幸せそうな姿が消えることなく、いつまでも浮かんでいた。
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