後編
ー/ー 次の日、母の墓がある龍渓院に、僕と父さんは足を運んだ。母が亡くなってから十七年間、一度も訪れたことはない。いつも盆の時期になると、東京の家で、仏壇に線香を上げるだけだった。
「ねえ、父さん」
母の墓に水をかけながら、僕は背後に声をかけた。
「母さんと結婚する前、父さんは別の女の人と付き合ったりしていた?」
父さんは花束を抱えたまま、照れ臭そうに笑う。
「面白いことを聞くな」
「教えて」
「どうということはない、大学で知りあった女性と、ごく普通の交際を続けていただけだ。性格が合わなくって、結局喧嘩別れしたけどな。それよりも、母さんとの馴れ初めの話は聞きたくないのか」
「十分、聞かされましたよ」
父さんと母さんの出会いは、平凡なものだ。
父さんは伯父さんと、もともと、大学で先輩後輩の間柄だった。ある夏休み、父さんは伯父さんの家に遊びに行ったとき、母さんと出会った。そこでお互い惹かれあい、時を重ねるうちに情愛も深まり、とうとう結婚することになったのだ。
母さんは、池の里を深く愛していたそうだ。
「一歩もここから出たくない、とあいつは言っていたんだがな」
父さんは、池の里に引き篭もろうとする母さんを、強引に説得して、東京で一緒に暮らすこととなった。そして三年後、僕が生まれた年、母さんは何の前触れもなく、重い病にかかった。心臓の病気だった。
「いつ発作がきて死んでもおかしくない、そんなあいつを見ていると、私が無理に東京へ連れだしたせいで、あいつは心臓を病んだのではないか……あいつが死んでからも、ずっと苦しんでいた」
珍しく、父さんが心情を吐露する。僕が父さんから花束を受け取り、花瓶に挿しているときも、話を続けている。
「あいつは、心臓を病んでいるとわかってから、一心不乱に何かを書き続けていた。イラストが中心だったから、絵物語のようだった。それが何か、私が見ようとすると、あいつは必死になって隠した。ついに中身を知ることはなかったんだが……」
その口ぶりから、いまでは、母さんが何を書いていたのか知っているのだと、僕は悟った。
「あら、佑介さん、来てらしたのね」
墓の向こうから、よそいきの呉服を着た女性が、上品な足どりで近づいてくる。涼子さんの母親だ。
「私、これから伊東に行ってくるの。茶道の教室」
月に二度、涼子さんの母親は、茶道を習いに、車で三十分かかる伊東の町へ出向いている。運転手は、いつも伯父さんだそうだ。
「そうそう、晃一君は今度の盆踊り、行くの?」
訊かれて、僕は下をうつむく。涼子さんが誘ってくれた、別荘地での盆踊りのことだ。曖昧に首を傾げて、是とも否ともとれない態度をとった。
「涼子が、晃一君とぜひ一緒に行きたいって言っていたから、よかったらおつきあいしてね」
それだけ言って、母さんの墓に線香と花を供えると、涼子さんの母親は姿勢よく背筋を伸ばして、しずしずと歩き去っていった。
「あいつも、茶の湯が好きだったな」
母さんのことを思いだし、父さんは遠くを見つめたまま、懐かしげに呟いた。
*
僕は三たび、蛇の姫と東屋で対面していた。
蛇の姫は、手毬を取りだし、僕に笑いかける。
「遊びませんか」
水底のように月光のブルーに包まれた世界で、僕と蛇の姫は、手毬を投げあった。三匹の子狸が、肩を並べて、僕達を観察している。僕が目を向けると、三匹ともびくりと体を震わせ、いつでも逃げられるように身構えた。
「今日は、何かいいことでもありましたか」
蛇の姫に問われて、僕は手毬を持ったまま、彼女を見る。
「どうして、そう思うの」
「誰かに恋焦がれているような、幸せな顔をしております」
僕は、涼子さんのことを頭に浮かべた。思い当たるのは、彼女しかいない。しかし、従妹に恋愛感情を抱いているなど、あまり考えたくなかった。
「あなたは、恋をしたことはありますか」
「ありますよ」
「教えてくれます?」
僕は手毬を投げ、蛇の姫の答えを待った。蛇の姫は、記憶を辿るように、空を眺めていたが、
「女性の過去は訊く物ではありませんよ」
苦笑して、手毬を投げ返してきた。
「恋したことは、一度だけございます」
何回か手毬を投げあったあと、蛇の姫は独り語りを始めた。
「その人は、東よりやってきた、眉目秀麗な若武者でした。大室山の麓、蛇穴に人を喰らう大蛇が出ると聞き、退治しに来たのです。ところが、ここに棲んでいたのは、大蛇などではなく、妙齢の女性でした。それが私――」
お互い一目見て、若武者と蛇の姫は、恋に落ちた。二人は洞窟の中で、一年近く共に暮らしていた。だが、人間である若武者は、暗い洞窟での生活が耐えられなかった。
「ここを出て、共に鎌倉で暮らそうではないか」
蛇の姫は断ったが、若武者は断固として、洞窟を出ることを譲らなかった。
不和の末、ついに二人は決別した。
「私は、一度もこの地を離れたことがございません」
蛇の姫が屈むと、遠巻きに眺めていた子狸たちが、ささっと寄ってくる。毛むくじゃらの柔らかい体を、蛇の姫にすり寄せた。
「ここを離れて何がありましょうか。この地には、生きるために必要なすべてが存在します。なぜ人は、自らが負いきれない多くのものを抱えて、短い生を全うするのでしょう」
蛇の姫の言うことは、僕にとって、非常に納得のいくものだった。誰か一人を愛することでも、裏切りや落命によって、多大な心労を抱え込むことになる。この上、大勢の人間に囲まれて暮らすなど、どうしてできようか。頭がパンクしてしまう。
「僕も、誰か甘えられる人が一人いれば、それでいいんだ」
僕のすべてを受け止めて、慰めてくれる人がいれば、たとえ世界中が僕を嫌おうとも、怖くはない。
「ならば、私に甘えても、かまいませんよ」
蛇の姫が、両手を差しだす。僕はその手を掴み、彼女の胸元に、顔を埋めた。耳に伝わる、彼女の心臓の鼓動が心地よく、なんだか、涙が滲んできた。十七年間、ずっと求め続けて、得られなかった感覚だ。
やがて、月が雲に隠れ、雷鳴が大室高原一帯に響き渡った。
「一碧湖の赤牛が、また封印を解こうと、暴れているようですね」
ぽつりぽつりと雨が降りだす中、蛇の姫は険しい表情で、虚空を睨む。
「今宵はここで失礼させていただきます。お経島に行って、赤牛を抑えなければなりませんので」
黒雲が渦巻き、滝のような大雨が、周囲の風景を掻き消した……。
*
目覚まし時計が鳴っている。すでに朝を迎え、僕はベッドの上にいた。
「おはよう、ゆうべはすごい嵐だったね」
ベッドの横で、涼子さんが、僕の洗濯物入れから、シャツや下着などを取りだしている。彼女が何をしているのか悟り、顔が真っ赤になった。
「ごめんね、暇だったから、晃一君のも洗濯しようと思ったの」
彼女の愛らしい笑顔に、僕は何も言えなくなった。二人きりで部屋にいることに、僕の胸は気まずさを感じていた。
涼子さんが部屋から出ようとしたとき、
「涼子さん、待って」
僕は思わず、彼女を呼び止めた。
「うん?」
と涼子さんは振り返る。
「僕も盆踊り、行ってもいい?」
恐る恐る、訊いてみる。予想外に、彼女は大喜びした。
「やった、しつこく誘ってみるもんだね」
はしゃいでいる彼女は、本当に無邪気で、胸の中が愛しさでいっぱいになってきた。
涼子さんがウキウキと部屋を出ていったあと、僕はベッドの上に腰かけたまま、ぼんやりと窓の外を眺めた。澄み切った青空は、雲ひとつない。嵐のあとの快晴だった。
蛇の姫は、実在するのだろうか。僕の妄想の産物だろうか。
その答えは、この晴れ渡った青空が教えてくれるような気がする。
「晃一君、お邪魔するね」
また、涼子さんが中に入ってきた。手には、何かのチケットを二枚持っている。
「晃一君、美術館って、興味ある?」
「あるけど、どうかしたの」
「これ、池田二十世紀美術館の割引券。よかったら、一緒に行かない?」
従妹とはいえ、まるでデートに誘われているようで、胸が昂ぶってきた。
「はい、行きます」
思わず、裏返った声になる。そんな僕の様子が滑稽だったのか、涼子さんは口に手を当てて、くすくすと笑った。
池田二十世紀美術館は、大室山を挟んで反対側、別荘地のほうにある。日の光が館内に差し込みつつ、開放感を持たせるように設計された、居心地のいい美術館だった。僕は絵画のことなどよくわからなかったが、涼子さんの解説を聞いているだけで、満足な気持ちに浸った。
「ダリとゴッホは二人とも、産まれてすぐに死んだ自分の兄と、同じ名前をしているの。面白い偶然でしょ」
サルバドール・ダリの六連作、『キリン Ⅰ~Ⅵ』を前にして、涼子さんはいきいきと語る。
「どうして、二人とも、兄と同じ名前を?」
「そこまで知らないけど、きっと幼い子供を失った母親が、悲しみのあまり同じ名前を付けたんじゃないかな」
子を思う母の心。母さんは、幼い僕を残して死んでゆくとき、どんな気持ちだったのだろう。
「これ……」
「エミール・ノルデ? 私も、大好き」
エミール・ノルデの、『城』。ハガキ大の小さなスペースに、夕焼けに染まった崖上の古城が描かれている。その狭い空間から、無限の世界の広がりを感じる。僕は息をするのも忘れそうなほど、絵の中の古城を凝視した。
「戦時中、ドイツの統治下で、絵を描くことは禁止されていたんだって。だから、ハガキ大の紙を使って、ノルデはこっそりと絵を描いていたの」
閉じられた世界。限られた空間。それなのに、ノルデの『城』からは、どんなに精緻に描かれた絵画よりも、深い味わいが溢れでている。
「どうして人は、自分が負いきれない多くのものを抱えて、短い生を全うするんだろう……」
「え?」
こんな小さな絵からでも、実に多くのことを教えてもらえるのに。
『人の話を聞いていろ、遊びじゃねえんだぞ』
『それくらいも知らないのか、使えない奴だな』
『何度言ったらわかるんだ、真面目にやる気があるのか』
東京の職場で、何度も受けた罵声の数々。彼らは――僕の上司や先輩は、広い世界に身を置き、数多くの人間と接しても、上手に立ち回れる能力を持った人々なのだろう。
でも僕にとって、あの世界で生きることは、苦痛でしかなかった。
僕は、たった一つのものですら、いっぱいいっぱいになって抱え込む、不器用な人間なのだから。
「この城、住みたいな」
僕の言葉に、涼子さんは「そうだね」と頷いた。
その後、僕達は一碧湖の美術館にも寄り、湖でボートに乗ったり、湖畔を一周したりして、いとこ同士でのデートを満喫した。血の繋がった兄弟ではないし、法的にも許される関係であるが、どこか背徳的な感じがし、僕は終始ドキドキと心臓を鳴らせていた。
*
盆踊りの日がやって来た。
伯父さんは別荘地の管理事務所で働いているので、手伝いがあるため、車で先に現地に行っている。代わりに、僕と涼子さんは、一緒にソウ爺さんのトラックに乗せてもらった。
「俺が、本当の盆踊りを教えてやる。別荘族の連中に盆踊りの何がわかる」
と、運転中、ソウ爺さんは何度も息巻いた。確かに、見事な刺繍の浴衣を着て、尋常ならざる気合が入っている。
「三度のメシよりお祭り好きなの」
と涼子さんが僕に耳打ちしてくれる。その涼子さんは、薄いピンクの浴衣を着て、ウェーブのかかった長髪はかんざしでポニーテール風に束ねていた。
「その浴衣……可愛いね」
自分に出せる最大限の勇気を振り絞って、彼女を褒めた。
「うん」
短く答えて、涼子さんは僕から目を逸らす。照れているようだった。
会場に着くと、先に来ていた涼子さんの母親が出迎えてくれた。
「あら、ソウさんったら、張りきっちゃって」
「盆踊りの「ぼ」の字も知らんようなガキどもに、負けて堪るものか」
ただし、あとで、ソウ爺さんは腰を痛めて、泣く泣く踊りの輪から抜けることになる。気概だけは若々しくても、体は追いつかなかったようだ。
曲が流れ、盆踊りが始まる。小学生のとき以来、一度も踊っていないから、他の人の見よう見まねだった。それでも、音楽に合わせて踊るのは、とても楽しいものだった。ひとしきり踊り、いい汗もかいたので、僕は脇へと引っ込んだ。
「ああ、疲れた」
涼子さんがやって来て、隣にすわった。汗に濡れた涼子さんの横顔は、やけに艶があり、僕はつい恥ずかしくなって顔を背けた。
「食べる?」
屋台で買ってきた焼きそばを、僕に差しだしてくる。
「じゃあ、いただきます」
僕は頭を下げ、焼きそばのパックを受け取った。
「晃一君は、カノジョとかいるの?」
いきなりの質問に、僕は戸惑う。大学や職場でも、女の子はよく他人の恋愛関係について聞いてきたものだから、他意はないのだとわかっている。それでも、前後の脈絡もなく、こんな質問をされると、勝手な思い込みをしたくなってしまう。
「いたけど、ずっと前に終わったよ。今は特に……」
「そう」
涼子さんは目を細めて、踊っている群衆を見つめている。
「晃一君って、女の子にもてそうだし、優しい人なのに。不思議だな。どうして別れたの?」
理由を問われて、僕は亜沙子に捨てられた経緯を、掻い摘んで説明した。
「僕が、あのとき彼女を許していれば、良かったんだろうけど」
心の底から、そう思う。どうして僕はあのとき、亜沙子を許してやれなかったのだろう。他の男とデートをしたくらいで、あんなに怒鳴って。
「私も、東京で、つきあっていた人に捨てられたの」
ぽつりぽつりと、涼子さんは話し始める。
「サークルで知りあった男の人だけど、酷いんだよ。大学のゼミで飲み会やって、知りあった女の子とラブホ行って、関係持ったって……で、私はやっぱり好みじゃないからって……セックスだけの付き合いなら、考えてもいい、って……前日まで、結婚しよう、とか言ってたくせに」
泣きそうになるのを、涼子さんは目元を拭って、気丈に堪えた。
「東京は、だから嫌い」
ぐす、と鼻を鳴らす。
「友達は、真剣になり過ぎだって、口を揃えて言うの。大学でのつきあいなんて、一種の契約みたいなものだって」
そこで、涼子さんは身を乗りだし、僕に詰め寄る。
「でも、いつか結婚しよう、って言ったんだよ」
涼子さんの気持ちは、痛いほどわかる。亜沙子もよく、軽々しく、その言葉を口にしていた。
「それなのに、その自分の言葉に、ちっとも重みを感じてない。責任を持っていない。ただノリだけで、そんな大事なことを、簡単に口にする。あの東京の空気、私は、大嫌い」
涼子さんの独白は、盆踊りの音色に飲み込まれた。
祭りの喧騒が、やけに寂しさを感じさせた。
「晃一君は、ずっと池にいてくれる?」
小さな声で、涼子さんは尋ねてくる。僕には、わからない。父さんから命じられたら、帰らなければならないような気もする。でも、できることなら、一生ここで暮らしていきたかった。
「ずっと、池にいてもいいの?」
逆に、僕は涼子さんに聞き返した。
「ずっと、いて」
僕の肩に頭をそっと寄せ、涼子さんは目を閉じた。
「盆踊り、もう踊らないの?」
「もう疲れたから、このまま、寝る」
涼子さんは、体も寄せて、僕に寄りかかる体勢になった。僕は彼女の寝顔を見ながら、どうすることもできず、その場で固まっていた。
そうこうしているうちに、盆踊りの夜は、瞬く間に散会を迎えた。ほとんどの時間、涼子さんと肩を寄せあっていた。伯父さんに見られていたら大変だ、と思った。
*
盆踊りが終わってからは、特にすることもなく、僕は涼子さんと伊豆高原を散策したりしていた。いまでは、僕の携帯ゲーム機は、充電が切れたまま、部屋の隅に放り出されている。ゲームよりも、涼子さんといる時間のほうが、ずっと楽しい。
放っているのは、ゲームだけでなかった。大蛇の穴には、蛇の姫と三回目に会って以来、一度も訪れていない。いまは、夜遅くまで僕の部屋で、涼子さんと他愛もない話をしている。蛇の姫のことは、少しずつ夢や幻の類として、忘却の彼方に追いやられていた。
そんなある日のことだった。
「みんな、学習センターのほうへ来てくれないか。見せたいものがある」
朝食時、父さんが僕達を誘ってきた。「見せたいって、何があるんだ」伯父さんに訊かれても、「センターへ行ってからのお楽しみですよ」と内容を明かしてくれない。気のせいか、父さんは上機嫌なようだった。
センターは、伯父さんの家から、徒歩二分ぐらいの所にある。閑静な池の里に、ぽつんと佇む建物だ。気になっていたが、これまで一度も立ち寄らなかった。
入館してすぐの図書コーナーで、子供達が本を読んでいる。山間部にある池の里では、物が潤沢にないから、たくさんの本が置いてある学習センターは、ちょっとした娯楽の場なのだろう。一所懸命読書する子供達の姿に、心が和んだ。
「階段を上がって、すぐのところだ」
父さんに連れられて、僕と伯父さん一家は、二階に上がった。掲示板に、誰かが書いた絵物語が展示されている。倉木明子。母さんの名前が、作者名として掲げられている。
「明子の作品だ。センターに頼み込んで、八月の間だけ、展示させてもらうことになった」
父さんは、くたびれているが、満足した表情で、絵物語を眺めている。「母さんの部屋で寝泊りしていたら、偶然、箪笥の後ろに入っていたのを見つけたんだ。亡くなる一年前、一度だけここに家族で訪れただろう?きっとそのときに隠したんだろうな」
「きれいな絵……」
涼子さんが、うっとりと母さんの絵物語を見つめて、溜め息を洩らした。中国の山水画のように、ぼんやりと絵の具がにじんでいて、まるで水底の光景を眺めているようだ。
タイトルは、『蛇の姫』と書かれていた。
内容は、大蛇の穴の伝説を基に、大蛇を女妖怪と見立てての、武士と蛇の姫が繰り広げるラブロマンスだった。蛇の姫は、大室山の祭神、磐長姫の娘という設定になっていた。一碧湖の赤牛や、万次郎・万三郎の天狗兄弟も登場し、この伊豆に伝わる民話を総結集させたような物語であった。
「蛇穴には、年の頃十七くらいの女性が潜んでいた――実際に、そういう逸話が残されている。母さんは、本当によく調べて、この作品を書いていたんだな」
物語を読んでいるうちに、僕は、母さんの想いを感じ取った。話の中に出てくる「蛇の姫」は、母さんそのものだった。伊豆の地を愛し、外の世界を忌み嫌い、けっして洞窟の外から出ようとはしない。
「あいつは、私と知りあった頃から、東京は嫌だ、池の里に帰りたい……そう繰り返していたよ」
心臓の病にかかり、池の里に戻ることなく、大嫌いな東京で息を引き取ることになった母さん。その心境を考えると、僕は切なくなってきた。
物語の最後、蛇の姫は、武士が鎌倉で共に暮らそうと誘うのを断固拒む。それでも連れだそうとする武士を、蛇の姫は、洞窟から追いだしてしまう。
「明子は、池に住みたいと言っていた。私は、東京での仕事を捨てるわけにもいかず、池には住めないと突っ撥ねていた。きっとあいつは、私のことを怨んでいると思っていた……」
父さんの表情は、憑き物でも落ちたように、爽やかなものだった。
「私は、ずっと、あいつの気持ちがわからなかったんだ。私のことを愛してくれているのか、私のことを憎んでいるのか。あいつが生きているあいだ、始終、怯えながら生きてきた」
でも、と父さんは小さな声を出す。声が震えている。
「ようやく、明子の気持ちを、知ることができた。この物語を読んで、ようやくわかったんだ――」
このとき、僕の古い記憶が甦った。
まだ五歳の僕は、母さんにすり寄って甘えては、よく母さんから物語を聞かされた。内容は憶えていないが、きっと、『蛇の姫』だったのだろう。
やはり、幼少の頃に出会い、そして十七年経って再会した「蛇の姫」は、母の語った『蛇の姫』が成せる、僕の妄想の産物だったのだ。物心ついてから母を失い、成人してから亜沙子に捨てられた、その悲しみが、記憶の底の「蛇の姫」を呼び覚ましたのだ。
そう思った瞬間、僕の視界は暗くなった。
*
夢か、現か。
僕は、大蛇の穴の中にいる。
十七年前、僕は確かに、この洞窟に招き入れられた。そこで、蛇の姫と最初の邂逅を果たしたのだ。
小さな座敷部屋で、蛇の姫はお茶を点てている。あのときと同じだ。
「ゆっくりしていって下さい。これが、最後のお茶となるでしょうから」
蛇の姫は、泣いていた。ゆるゆると茶碗を回しつつ、ときどき、目を固く瞑っては、涙がこぼれて、お茶に落ちてしまうのを抑えていた。
最後のお茶。その意味をよく考えるが、あまり実感が湧かない。
「貴方は、私に“意味”を与えてしまいました。私を私として受け止めてくれた貴方は、もう何処にもいない」
蛇の姫から、お茶を受け取る。作法を知らない僕は、適当なやり方で茶碗を持ち上げて、くい、と一息に飲み干した。
「貴方の成長した姿を見たとき、私は本当に、嬉しく思いました。できれば、このままずっと、貴方と共に生きてゆきたい、そう思っておりました」
これは、僕の妄想か、それとも現実か。意識すればするほど、蛇の姫の姿は霞んでくる。ようやく僕は、蛇の姫に二度と会えなくなるということに、焦りを感じだした。
「お母さん」
僕は、蛇の姫のことを、無意識のうちにそう呼んだ。
「行かないで、お母さん」
「まあ」
蛇の姫は、口の端だけで、寂しげに微笑んだ。
「この子ったら……大きくなっても、まだ甘えん坊なのですね」
彼女は手毬を拾い、僕に放ってきた。
「遊びましょう、消えて無くなる前に」
いつかの夜のように、僕と蛇の姫は、手毬を投げあった。
「もう立派な男の子なのですから、お父さんを困らせないで、自立するのですよ」
「うん」
「好きな人に甘えてしまうことのないよう、気をつけるのですよ」
「うん」
「辛いことや悲しいことがあったら、池の里から大室山を見るのですよ。貴方には見えなくても、私はいつでも、貴方のことを見守っておりますから」
「うん」
もう、蛇の姫の姿は、ぼんやりとしか見えない。洞窟の風景へと、彼女は溶け込んでいく。
「……お母さん?」
僕は手毬を持ったまま、呆然と立ちすくむ。
「やだよ、いやだよ、お母さん」
十七年間、僕が求め続けたものが、ようやく腕の中に入ってきたかと思ったら、またするりと抜けでていってしまった。
「お母さん、帰ってきてよお……」
それから、子供のようにわんわんと泣きじゃくり、僕は母のことを何度も何度も呼ぶ。妄想でも、幻覚でもいい。本当の蛇の姫でもいい。僕のことを大事に抱えてくれた、あの「蛇の姫」に、僕はもう一度会いたかった。
そして、世界は暗転した。
気がつけば、僕は部屋のベッドで、横になっている。ベッド際に、父さんが佇んでいた。「急に気を失うから、驚いたぞ」僕は、みんなの前で、白目を向いて倒れたらしい。ただ、姿が掻き消えるようなことはなかったそうだ。
やっぱり、「蛇の姫」は、僕の心が見せたまぼろしだったのだろうか。
「ところで、これは晃一のものか?」
父さんが何か丸いものを投げた。それを両手で受け取り、僕は目を見開いた。
「父さん、どこでこれを」
「お前のそばに転がっていた。しかし、変だな。そいつはもともと、私の部屋の箪笥にしまわれていたんだが……お前が持ち出したのか?」
それは、手毬だった。紛れもなく、蛇の姫と遊んでいた、あの手毬だ。
「母さん」
僕は、じっと手毬を眺めた。蛇の姫の香りが、室内に漂っているような気がした。
*
伊豆大島が澄んで見える、快晴の候。
パラグライダーを装着した青年が、大室山の斜面を駆け下り、タン、と空中へ飛び上がる。風の流れに乗って、大室高原を眼下に、宙を滑空していった。
「気持ちよさそうだね」
パラグライダー乗りのことか、それとも、草の上に寝転がっている僕のことか。涼子さんが、僕の右横にすわってきた。
「一ヵ月だね」
と言ってから、僕から反応がないので、左拳でコンコンと僕の額を叩いてきた。
「もう一ヵ月経ったね」
眉間に指輪が当たり、痛い。
「聞いてるって」
「う、そ。ムシしてたぞ」
おどけた口調で、僕を揶揄する。
「うるさいなあ」
僕は上体を起こし、涼子さんと向かいあった。ふと、彼女の左手薬指に、指輪が嵌められているのに気がついた。
「それ……」
内心、僕は穏やかでなくなる。
「これ? 東京の元カレからもらったやつ。未練のペアリング」
金額以外は、何の価値も持たない指輪だと知り、僕はホッとした。そんな僕の表情を見逃さず、
「安心した?」
と涼子さんがからかってくる。彼女への気持ちを、当の本人に見透かされている。
「捨てなよ、そんなもの」
ぶっきら棒に、僕は言い捨てる。
「高かったんだよ、これ。もったいないよ」
涼子さんは、そう言いながらも、左手から指輪を外した。僕が様子を見守っていると、彼女は「未練のペアリング」をつまみ、しげしげと眺める。
「そんなもの抱えられるほど、器用な子じゃないでしょ、涼子さんは」
それでも、昔の思い出を簡単には捨てられないのか、涼子さんは指輪から目を離さず、何かを考えている。
「晃一君」
「はい」
「私、ずーっと言いたいセリフがあったんだけど、今ここで大声で叫んでもいい?」
「どうぞ」
僕は許可する。
「男なんて、バカヤロー!」
本当に大声を出して、涼子さんは指輪を放り投げた。指輪はあっというまに見えなくなり、大室山の緑色の斜面に吸い込まれていった。何事かと、他の観光客が涼子さんに注目する。
「ああ、すっきりした。肩が軽くなったみたい」
ふわりと立ち上がり、涼子さんは背伸びする。
「私も、寝るね」
彼女はもう一度腰を下ろし、仰向けに寝た。
ふと、僕は考える。結局、「蛇の姫」とはなんだったのか。
蛇の姫と最後に会ってから、身の回りで変化したことがある。それは、ときどき、池の里で狸と目が合うことだ。木陰から、子連れの大狸が、じっと僕を見ている。あれは、僕のことを見守っているのだろうか。
正体がなんであるかは、ともあれ、「蛇の姫」が伊豆を愛し、伊豆にのみ生きる純粋な存在であることは、間違いない。それ以上、僕は深く考えないようにした。
僕も、体を倒して、再び寝転がる。そよ風が、頬を撫でた。大海原を眺めながら、世界はなんて広いんだろう、と僕は感心していた。でも、僕は、この地に根付いて生きるだけで、十分だ。多くのものなんて必要ない。
母さんが生まれた、池の里。
母さんが愛した、伊豆の地。
母さんの魂が眠るこの地は、悲しいことも苦しいことも、嬉しいことも愛しいことも、みんな優しく包み込んでくれる。これ以上、何を望む?
「涼子さん、迷惑だったら、忘れてくれていいんだけど……」
かつて、亜沙子に言ったのと、同じ言葉を口に出す。涼子さんは、期待に満ちた目で、僕のことを見てきた。大丈夫、きっと、この告白は上手くいく。二人は、いつまでも幸せにやっていける。僕も彼女も、「蛇の姫」と同じだから。
麓のほうから、学校の鐘の音が聞こえてくる。
風に乗って届けられる、涼やかな音色のチャイムを背に、涼子さんは身を起こして、僕の唇に、優しくキスをした。
「ねえ、父さん」
母の墓に水をかけながら、僕は背後に声をかけた。
「母さんと結婚する前、父さんは別の女の人と付き合ったりしていた?」
父さんは花束を抱えたまま、照れ臭そうに笑う。
「面白いことを聞くな」
「教えて」
「どうということはない、大学で知りあった女性と、ごく普通の交際を続けていただけだ。性格が合わなくって、結局喧嘩別れしたけどな。それよりも、母さんとの馴れ初めの話は聞きたくないのか」
「十分、聞かされましたよ」
父さんと母さんの出会いは、平凡なものだ。
父さんは伯父さんと、もともと、大学で先輩後輩の間柄だった。ある夏休み、父さんは伯父さんの家に遊びに行ったとき、母さんと出会った。そこでお互い惹かれあい、時を重ねるうちに情愛も深まり、とうとう結婚することになったのだ。
母さんは、池の里を深く愛していたそうだ。
「一歩もここから出たくない、とあいつは言っていたんだがな」
父さんは、池の里に引き篭もろうとする母さんを、強引に説得して、東京で一緒に暮らすこととなった。そして三年後、僕が生まれた年、母さんは何の前触れもなく、重い病にかかった。心臓の病気だった。
「いつ発作がきて死んでもおかしくない、そんなあいつを見ていると、私が無理に東京へ連れだしたせいで、あいつは心臓を病んだのではないか……あいつが死んでからも、ずっと苦しんでいた」
珍しく、父さんが心情を吐露する。僕が父さんから花束を受け取り、花瓶に挿しているときも、話を続けている。
「あいつは、心臓を病んでいるとわかってから、一心不乱に何かを書き続けていた。イラストが中心だったから、絵物語のようだった。それが何か、私が見ようとすると、あいつは必死になって隠した。ついに中身を知ることはなかったんだが……」
その口ぶりから、いまでは、母さんが何を書いていたのか知っているのだと、僕は悟った。
「あら、佑介さん、来てらしたのね」
墓の向こうから、よそいきの呉服を着た女性が、上品な足どりで近づいてくる。涼子さんの母親だ。
「私、これから伊東に行ってくるの。茶道の教室」
月に二度、涼子さんの母親は、茶道を習いに、車で三十分かかる伊東の町へ出向いている。運転手は、いつも伯父さんだそうだ。
「そうそう、晃一君は今度の盆踊り、行くの?」
訊かれて、僕は下をうつむく。涼子さんが誘ってくれた、別荘地での盆踊りのことだ。曖昧に首を傾げて、是とも否ともとれない態度をとった。
「涼子が、晃一君とぜひ一緒に行きたいって言っていたから、よかったらおつきあいしてね」
それだけ言って、母さんの墓に線香と花を供えると、涼子さんの母親は姿勢よく背筋を伸ばして、しずしずと歩き去っていった。
「あいつも、茶の湯が好きだったな」
母さんのことを思いだし、父さんは遠くを見つめたまま、懐かしげに呟いた。
*
僕は三たび、蛇の姫と東屋で対面していた。
蛇の姫は、手毬を取りだし、僕に笑いかける。
「遊びませんか」
水底のように月光のブルーに包まれた世界で、僕と蛇の姫は、手毬を投げあった。三匹の子狸が、肩を並べて、僕達を観察している。僕が目を向けると、三匹ともびくりと体を震わせ、いつでも逃げられるように身構えた。
「今日は、何かいいことでもありましたか」
蛇の姫に問われて、僕は手毬を持ったまま、彼女を見る。
「どうして、そう思うの」
「誰かに恋焦がれているような、幸せな顔をしております」
僕は、涼子さんのことを頭に浮かべた。思い当たるのは、彼女しかいない。しかし、従妹に恋愛感情を抱いているなど、あまり考えたくなかった。
「あなたは、恋をしたことはありますか」
「ありますよ」
「教えてくれます?」
僕は手毬を投げ、蛇の姫の答えを待った。蛇の姫は、記憶を辿るように、空を眺めていたが、
「女性の過去は訊く物ではありませんよ」
苦笑して、手毬を投げ返してきた。
「恋したことは、一度だけございます」
何回か手毬を投げあったあと、蛇の姫は独り語りを始めた。
「その人は、東よりやってきた、眉目秀麗な若武者でした。大室山の麓、蛇穴に人を喰らう大蛇が出ると聞き、退治しに来たのです。ところが、ここに棲んでいたのは、大蛇などではなく、妙齢の女性でした。それが私――」
お互い一目見て、若武者と蛇の姫は、恋に落ちた。二人は洞窟の中で、一年近く共に暮らしていた。だが、人間である若武者は、暗い洞窟での生活が耐えられなかった。
「ここを出て、共に鎌倉で暮らそうではないか」
蛇の姫は断ったが、若武者は断固として、洞窟を出ることを譲らなかった。
不和の末、ついに二人は決別した。
「私は、一度もこの地を離れたことがございません」
蛇の姫が屈むと、遠巻きに眺めていた子狸たちが、ささっと寄ってくる。毛むくじゃらの柔らかい体を、蛇の姫にすり寄せた。
「ここを離れて何がありましょうか。この地には、生きるために必要なすべてが存在します。なぜ人は、自らが負いきれない多くのものを抱えて、短い生を全うするのでしょう」
蛇の姫の言うことは、僕にとって、非常に納得のいくものだった。誰か一人を愛することでも、裏切りや落命によって、多大な心労を抱え込むことになる。この上、大勢の人間に囲まれて暮らすなど、どうしてできようか。頭がパンクしてしまう。
「僕も、誰か甘えられる人が一人いれば、それでいいんだ」
僕のすべてを受け止めて、慰めてくれる人がいれば、たとえ世界中が僕を嫌おうとも、怖くはない。
「ならば、私に甘えても、かまいませんよ」
蛇の姫が、両手を差しだす。僕はその手を掴み、彼女の胸元に、顔を埋めた。耳に伝わる、彼女の心臓の鼓動が心地よく、なんだか、涙が滲んできた。十七年間、ずっと求め続けて、得られなかった感覚だ。
やがて、月が雲に隠れ、雷鳴が大室高原一帯に響き渡った。
「一碧湖の赤牛が、また封印を解こうと、暴れているようですね」
ぽつりぽつりと雨が降りだす中、蛇の姫は険しい表情で、虚空を睨む。
「今宵はここで失礼させていただきます。お経島に行って、赤牛を抑えなければなりませんので」
黒雲が渦巻き、滝のような大雨が、周囲の風景を掻き消した……。
*
目覚まし時計が鳴っている。すでに朝を迎え、僕はベッドの上にいた。
「おはよう、ゆうべはすごい嵐だったね」
ベッドの横で、涼子さんが、僕の洗濯物入れから、シャツや下着などを取りだしている。彼女が何をしているのか悟り、顔が真っ赤になった。
「ごめんね、暇だったから、晃一君のも洗濯しようと思ったの」
彼女の愛らしい笑顔に、僕は何も言えなくなった。二人きりで部屋にいることに、僕の胸は気まずさを感じていた。
涼子さんが部屋から出ようとしたとき、
「涼子さん、待って」
僕は思わず、彼女を呼び止めた。
「うん?」
と涼子さんは振り返る。
「僕も盆踊り、行ってもいい?」
恐る恐る、訊いてみる。予想外に、彼女は大喜びした。
「やった、しつこく誘ってみるもんだね」
はしゃいでいる彼女は、本当に無邪気で、胸の中が愛しさでいっぱいになってきた。
涼子さんがウキウキと部屋を出ていったあと、僕はベッドの上に腰かけたまま、ぼんやりと窓の外を眺めた。澄み切った青空は、雲ひとつない。嵐のあとの快晴だった。
蛇の姫は、実在するのだろうか。僕の妄想の産物だろうか。
その答えは、この晴れ渡った青空が教えてくれるような気がする。
「晃一君、お邪魔するね」
また、涼子さんが中に入ってきた。手には、何かのチケットを二枚持っている。
「晃一君、美術館って、興味ある?」
「あるけど、どうかしたの」
「これ、池田二十世紀美術館の割引券。よかったら、一緒に行かない?」
従妹とはいえ、まるでデートに誘われているようで、胸が昂ぶってきた。
「はい、行きます」
思わず、裏返った声になる。そんな僕の様子が滑稽だったのか、涼子さんは口に手を当てて、くすくすと笑った。
池田二十世紀美術館は、大室山を挟んで反対側、別荘地のほうにある。日の光が館内に差し込みつつ、開放感を持たせるように設計された、居心地のいい美術館だった。僕は絵画のことなどよくわからなかったが、涼子さんの解説を聞いているだけで、満足な気持ちに浸った。
「ダリとゴッホは二人とも、産まれてすぐに死んだ自分の兄と、同じ名前をしているの。面白い偶然でしょ」
サルバドール・ダリの六連作、『キリン Ⅰ~Ⅵ』を前にして、涼子さんはいきいきと語る。
「どうして、二人とも、兄と同じ名前を?」
「そこまで知らないけど、きっと幼い子供を失った母親が、悲しみのあまり同じ名前を付けたんじゃないかな」
子を思う母の心。母さんは、幼い僕を残して死んでゆくとき、どんな気持ちだったのだろう。
「これ……」
「エミール・ノルデ? 私も、大好き」
エミール・ノルデの、『城』。ハガキ大の小さなスペースに、夕焼けに染まった崖上の古城が描かれている。その狭い空間から、無限の世界の広がりを感じる。僕は息をするのも忘れそうなほど、絵の中の古城を凝視した。
「戦時中、ドイツの統治下で、絵を描くことは禁止されていたんだって。だから、ハガキ大の紙を使って、ノルデはこっそりと絵を描いていたの」
閉じられた世界。限られた空間。それなのに、ノルデの『城』からは、どんなに精緻に描かれた絵画よりも、深い味わいが溢れでている。
「どうして人は、自分が負いきれない多くのものを抱えて、短い生を全うするんだろう……」
「え?」
こんな小さな絵からでも、実に多くのことを教えてもらえるのに。
『人の話を聞いていろ、遊びじゃねえんだぞ』
『それくらいも知らないのか、使えない奴だな』
『何度言ったらわかるんだ、真面目にやる気があるのか』
東京の職場で、何度も受けた罵声の数々。彼らは――僕の上司や先輩は、広い世界に身を置き、数多くの人間と接しても、上手に立ち回れる能力を持った人々なのだろう。
でも僕にとって、あの世界で生きることは、苦痛でしかなかった。
僕は、たった一つのものですら、いっぱいいっぱいになって抱え込む、不器用な人間なのだから。
「この城、住みたいな」
僕の言葉に、涼子さんは「そうだね」と頷いた。
その後、僕達は一碧湖の美術館にも寄り、湖でボートに乗ったり、湖畔を一周したりして、いとこ同士でのデートを満喫した。血の繋がった兄弟ではないし、法的にも許される関係であるが、どこか背徳的な感じがし、僕は終始ドキドキと心臓を鳴らせていた。
*
盆踊りの日がやって来た。
伯父さんは別荘地の管理事務所で働いているので、手伝いがあるため、車で先に現地に行っている。代わりに、僕と涼子さんは、一緒にソウ爺さんのトラックに乗せてもらった。
「俺が、本当の盆踊りを教えてやる。別荘族の連中に盆踊りの何がわかる」
と、運転中、ソウ爺さんは何度も息巻いた。確かに、見事な刺繍の浴衣を着て、尋常ならざる気合が入っている。
「三度のメシよりお祭り好きなの」
と涼子さんが僕に耳打ちしてくれる。その涼子さんは、薄いピンクの浴衣を着て、ウェーブのかかった長髪はかんざしでポニーテール風に束ねていた。
「その浴衣……可愛いね」
自分に出せる最大限の勇気を振り絞って、彼女を褒めた。
「うん」
短く答えて、涼子さんは僕から目を逸らす。照れているようだった。
会場に着くと、先に来ていた涼子さんの母親が出迎えてくれた。
「あら、ソウさんったら、張りきっちゃって」
「盆踊りの「ぼ」の字も知らんようなガキどもに、負けて堪るものか」
ただし、あとで、ソウ爺さんは腰を痛めて、泣く泣く踊りの輪から抜けることになる。気概だけは若々しくても、体は追いつかなかったようだ。
曲が流れ、盆踊りが始まる。小学生のとき以来、一度も踊っていないから、他の人の見よう見まねだった。それでも、音楽に合わせて踊るのは、とても楽しいものだった。ひとしきり踊り、いい汗もかいたので、僕は脇へと引っ込んだ。
「ああ、疲れた」
涼子さんがやって来て、隣にすわった。汗に濡れた涼子さんの横顔は、やけに艶があり、僕はつい恥ずかしくなって顔を背けた。
「食べる?」
屋台で買ってきた焼きそばを、僕に差しだしてくる。
「じゃあ、いただきます」
僕は頭を下げ、焼きそばのパックを受け取った。
「晃一君は、カノジョとかいるの?」
いきなりの質問に、僕は戸惑う。大学や職場でも、女の子はよく他人の恋愛関係について聞いてきたものだから、他意はないのだとわかっている。それでも、前後の脈絡もなく、こんな質問をされると、勝手な思い込みをしたくなってしまう。
「いたけど、ずっと前に終わったよ。今は特に……」
「そう」
涼子さんは目を細めて、踊っている群衆を見つめている。
「晃一君って、女の子にもてそうだし、優しい人なのに。不思議だな。どうして別れたの?」
理由を問われて、僕は亜沙子に捨てられた経緯を、掻い摘んで説明した。
「僕が、あのとき彼女を許していれば、良かったんだろうけど」
心の底から、そう思う。どうして僕はあのとき、亜沙子を許してやれなかったのだろう。他の男とデートをしたくらいで、あんなに怒鳴って。
「私も、東京で、つきあっていた人に捨てられたの」
ぽつりぽつりと、涼子さんは話し始める。
「サークルで知りあった男の人だけど、酷いんだよ。大学のゼミで飲み会やって、知りあった女の子とラブホ行って、関係持ったって……で、私はやっぱり好みじゃないからって……セックスだけの付き合いなら、考えてもいい、って……前日まで、結婚しよう、とか言ってたくせに」
泣きそうになるのを、涼子さんは目元を拭って、気丈に堪えた。
「東京は、だから嫌い」
ぐす、と鼻を鳴らす。
「友達は、真剣になり過ぎだって、口を揃えて言うの。大学でのつきあいなんて、一種の契約みたいなものだって」
そこで、涼子さんは身を乗りだし、僕に詰め寄る。
「でも、いつか結婚しよう、って言ったんだよ」
涼子さんの気持ちは、痛いほどわかる。亜沙子もよく、軽々しく、その言葉を口にしていた。
「それなのに、その自分の言葉に、ちっとも重みを感じてない。責任を持っていない。ただノリだけで、そんな大事なことを、簡単に口にする。あの東京の空気、私は、大嫌い」
涼子さんの独白は、盆踊りの音色に飲み込まれた。
祭りの喧騒が、やけに寂しさを感じさせた。
「晃一君は、ずっと池にいてくれる?」
小さな声で、涼子さんは尋ねてくる。僕には、わからない。父さんから命じられたら、帰らなければならないような気もする。でも、できることなら、一生ここで暮らしていきたかった。
「ずっと、池にいてもいいの?」
逆に、僕は涼子さんに聞き返した。
「ずっと、いて」
僕の肩に頭をそっと寄せ、涼子さんは目を閉じた。
「盆踊り、もう踊らないの?」
「もう疲れたから、このまま、寝る」
涼子さんは、体も寄せて、僕に寄りかかる体勢になった。僕は彼女の寝顔を見ながら、どうすることもできず、その場で固まっていた。
そうこうしているうちに、盆踊りの夜は、瞬く間に散会を迎えた。ほとんどの時間、涼子さんと肩を寄せあっていた。伯父さんに見られていたら大変だ、と思った。
*
盆踊りが終わってからは、特にすることもなく、僕は涼子さんと伊豆高原を散策したりしていた。いまでは、僕の携帯ゲーム機は、充電が切れたまま、部屋の隅に放り出されている。ゲームよりも、涼子さんといる時間のほうが、ずっと楽しい。
放っているのは、ゲームだけでなかった。大蛇の穴には、蛇の姫と三回目に会って以来、一度も訪れていない。いまは、夜遅くまで僕の部屋で、涼子さんと他愛もない話をしている。蛇の姫のことは、少しずつ夢や幻の類として、忘却の彼方に追いやられていた。
そんなある日のことだった。
「みんな、学習センターのほうへ来てくれないか。見せたいものがある」
朝食時、父さんが僕達を誘ってきた。「見せたいって、何があるんだ」伯父さんに訊かれても、「センターへ行ってからのお楽しみですよ」と内容を明かしてくれない。気のせいか、父さんは上機嫌なようだった。
センターは、伯父さんの家から、徒歩二分ぐらいの所にある。閑静な池の里に、ぽつんと佇む建物だ。気になっていたが、これまで一度も立ち寄らなかった。
入館してすぐの図書コーナーで、子供達が本を読んでいる。山間部にある池の里では、物が潤沢にないから、たくさんの本が置いてある学習センターは、ちょっとした娯楽の場なのだろう。一所懸命読書する子供達の姿に、心が和んだ。
「階段を上がって、すぐのところだ」
父さんに連れられて、僕と伯父さん一家は、二階に上がった。掲示板に、誰かが書いた絵物語が展示されている。倉木明子。母さんの名前が、作者名として掲げられている。
「明子の作品だ。センターに頼み込んで、八月の間だけ、展示させてもらうことになった」
父さんは、くたびれているが、満足した表情で、絵物語を眺めている。「母さんの部屋で寝泊りしていたら、偶然、箪笥の後ろに入っていたのを見つけたんだ。亡くなる一年前、一度だけここに家族で訪れただろう?きっとそのときに隠したんだろうな」
「きれいな絵……」
涼子さんが、うっとりと母さんの絵物語を見つめて、溜め息を洩らした。中国の山水画のように、ぼんやりと絵の具がにじんでいて、まるで水底の光景を眺めているようだ。
タイトルは、『蛇の姫』と書かれていた。
内容は、大蛇の穴の伝説を基に、大蛇を女妖怪と見立てての、武士と蛇の姫が繰り広げるラブロマンスだった。蛇の姫は、大室山の祭神、磐長姫の娘という設定になっていた。一碧湖の赤牛や、万次郎・万三郎の天狗兄弟も登場し、この伊豆に伝わる民話を総結集させたような物語であった。
「蛇穴には、年の頃十七くらいの女性が潜んでいた――実際に、そういう逸話が残されている。母さんは、本当によく調べて、この作品を書いていたんだな」
物語を読んでいるうちに、僕は、母さんの想いを感じ取った。話の中に出てくる「蛇の姫」は、母さんそのものだった。伊豆の地を愛し、外の世界を忌み嫌い、けっして洞窟の外から出ようとはしない。
「あいつは、私と知りあった頃から、東京は嫌だ、池の里に帰りたい……そう繰り返していたよ」
心臓の病にかかり、池の里に戻ることなく、大嫌いな東京で息を引き取ることになった母さん。その心境を考えると、僕は切なくなってきた。
物語の最後、蛇の姫は、武士が鎌倉で共に暮らそうと誘うのを断固拒む。それでも連れだそうとする武士を、蛇の姫は、洞窟から追いだしてしまう。
「明子は、池に住みたいと言っていた。私は、東京での仕事を捨てるわけにもいかず、池には住めないと突っ撥ねていた。きっとあいつは、私のことを怨んでいると思っていた……」
父さんの表情は、憑き物でも落ちたように、爽やかなものだった。
「私は、ずっと、あいつの気持ちがわからなかったんだ。私のことを愛してくれているのか、私のことを憎んでいるのか。あいつが生きているあいだ、始終、怯えながら生きてきた」
でも、と父さんは小さな声を出す。声が震えている。
「ようやく、明子の気持ちを、知ることができた。この物語を読んで、ようやくわかったんだ――」
このとき、僕の古い記憶が甦った。
まだ五歳の僕は、母さんにすり寄って甘えては、よく母さんから物語を聞かされた。内容は憶えていないが、きっと、『蛇の姫』だったのだろう。
やはり、幼少の頃に出会い、そして十七年経って再会した「蛇の姫」は、母の語った『蛇の姫』が成せる、僕の妄想の産物だったのだ。物心ついてから母を失い、成人してから亜沙子に捨てられた、その悲しみが、記憶の底の「蛇の姫」を呼び覚ましたのだ。
そう思った瞬間、僕の視界は暗くなった。
*
夢か、現か。
僕は、大蛇の穴の中にいる。
十七年前、僕は確かに、この洞窟に招き入れられた。そこで、蛇の姫と最初の邂逅を果たしたのだ。
小さな座敷部屋で、蛇の姫はお茶を点てている。あのときと同じだ。
「ゆっくりしていって下さい。これが、最後のお茶となるでしょうから」
蛇の姫は、泣いていた。ゆるゆると茶碗を回しつつ、ときどき、目を固く瞑っては、涙がこぼれて、お茶に落ちてしまうのを抑えていた。
最後のお茶。その意味をよく考えるが、あまり実感が湧かない。
「貴方は、私に“意味”を与えてしまいました。私を私として受け止めてくれた貴方は、もう何処にもいない」
蛇の姫から、お茶を受け取る。作法を知らない僕は、適当なやり方で茶碗を持ち上げて、くい、と一息に飲み干した。
「貴方の成長した姿を見たとき、私は本当に、嬉しく思いました。できれば、このままずっと、貴方と共に生きてゆきたい、そう思っておりました」
これは、僕の妄想か、それとも現実か。意識すればするほど、蛇の姫の姿は霞んでくる。ようやく僕は、蛇の姫に二度と会えなくなるということに、焦りを感じだした。
「お母さん」
僕は、蛇の姫のことを、無意識のうちにそう呼んだ。
「行かないで、お母さん」
「まあ」
蛇の姫は、口の端だけで、寂しげに微笑んだ。
「この子ったら……大きくなっても、まだ甘えん坊なのですね」
彼女は手毬を拾い、僕に放ってきた。
「遊びましょう、消えて無くなる前に」
いつかの夜のように、僕と蛇の姫は、手毬を投げあった。
「もう立派な男の子なのですから、お父さんを困らせないで、自立するのですよ」
「うん」
「好きな人に甘えてしまうことのないよう、気をつけるのですよ」
「うん」
「辛いことや悲しいことがあったら、池の里から大室山を見るのですよ。貴方には見えなくても、私はいつでも、貴方のことを見守っておりますから」
「うん」
もう、蛇の姫の姿は、ぼんやりとしか見えない。洞窟の風景へと、彼女は溶け込んでいく。
「……お母さん?」
僕は手毬を持ったまま、呆然と立ちすくむ。
「やだよ、いやだよ、お母さん」
十七年間、僕が求め続けたものが、ようやく腕の中に入ってきたかと思ったら、またするりと抜けでていってしまった。
「お母さん、帰ってきてよお……」
それから、子供のようにわんわんと泣きじゃくり、僕は母のことを何度も何度も呼ぶ。妄想でも、幻覚でもいい。本当の蛇の姫でもいい。僕のことを大事に抱えてくれた、あの「蛇の姫」に、僕はもう一度会いたかった。
そして、世界は暗転した。
気がつけば、僕は部屋のベッドで、横になっている。ベッド際に、父さんが佇んでいた。「急に気を失うから、驚いたぞ」僕は、みんなの前で、白目を向いて倒れたらしい。ただ、姿が掻き消えるようなことはなかったそうだ。
やっぱり、「蛇の姫」は、僕の心が見せたまぼろしだったのだろうか。
「ところで、これは晃一のものか?」
父さんが何か丸いものを投げた。それを両手で受け取り、僕は目を見開いた。
「父さん、どこでこれを」
「お前のそばに転がっていた。しかし、変だな。そいつはもともと、私の部屋の箪笥にしまわれていたんだが……お前が持ち出したのか?」
それは、手毬だった。紛れもなく、蛇の姫と遊んでいた、あの手毬だ。
「母さん」
僕は、じっと手毬を眺めた。蛇の姫の香りが、室内に漂っているような気がした。
*
伊豆大島が澄んで見える、快晴の候。
パラグライダーを装着した青年が、大室山の斜面を駆け下り、タン、と空中へ飛び上がる。風の流れに乗って、大室高原を眼下に、宙を滑空していった。
「気持ちよさそうだね」
パラグライダー乗りのことか、それとも、草の上に寝転がっている僕のことか。涼子さんが、僕の右横にすわってきた。
「一ヵ月だね」
と言ってから、僕から反応がないので、左拳でコンコンと僕の額を叩いてきた。
「もう一ヵ月経ったね」
眉間に指輪が当たり、痛い。
「聞いてるって」
「う、そ。ムシしてたぞ」
おどけた口調で、僕を揶揄する。
「うるさいなあ」
僕は上体を起こし、涼子さんと向かいあった。ふと、彼女の左手薬指に、指輪が嵌められているのに気がついた。
「それ……」
内心、僕は穏やかでなくなる。
「これ? 東京の元カレからもらったやつ。未練のペアリング」
金額以外は、何の価値も持たない指輪だと知り、僕はホッとした。そんな僕の表情を見逃さず、
「安心した?」
と涼子さんがからかってくる。彼女への気持ちを、当の本人に見透かされている。
「捨てなよ、そんなもの」
ぶっきら棒に、僕は言い捨てる。
「高かったんだよ、これ。もったいないよ」
涼子さんは、そう言いながらも、左手から指輪を外した。僕が様子を見守っていると、彼女は「未練のペアリング」をつまみ、しげしげと眺める。
「そんなもの抱えられるほど、器用な子じゃないでしょ、涼子さんは」
それでも、昔の思い出を簡単には捨てられないのか、涼子さんは指輪から目を離さず、何かを考えている。
「晃一君」
「はい」
「私、ずーっと言いたいセリフがあったんだけど、今ここで大声で叫んでもいい?」
「どうぞ」
僕は許可する。
「男なんて、バカヤロー!」
本当に大声を出して、涼子さんは指輪を放り投げた。指輪はあっというまに見えなくなり、大室山の緑色の斜面に吸い込まれていった。何事かと、他の観光客が涼子さんに注目する。
「ああ、すっきりした。肩が軽くなったみたい」
ふわりと立ち上がり、涼子さんは背伸びする。
「私も、寝るね」
彼女はもう一度腰を下ろし、仰向けに寝た。
ふと、僕は考える。結局、「蛇の姫」とはなんだったのか。
蛇の姫と最後に会ってから、身の回りで変化したことがある。それは、ときどき、池の里で狸と目が合うことだ。木陰から、子連れの大狸が、じっと僕を見ている。あれは、僕のことを見守っているのだろうか。
正体がなんであるかは、ともあれ、「蛇の姫」が伊豆を愛し、伊豆にのみ生きる純粋な存在であることは、間違いない。それ以上、僕は深く考えないようにした。
僕も、体を倒して、再び寝転がる。そよ風が、頬を撫でた。大海原を眺めながら、世界はなんて広いんだろう、と僕は感心していた。でも、僕は、この地に根付いて生きるだけで、十分だ。多くのものなんて必要ない。
母さんが生まれた、池の里。
母さんが愛した、伊豆の地。
母さんの魂が眠るこの地は、悲しいことも苦しいことも、嬉しいことも愛しいことも、みんな優しく包み込んでくれる。これ以上、何を望む?
「涼子さん、迷惑だったら、忘れてくれていいんだけど……」
かつて、亜沙子に言ったのと、同じ言葉を口に出す。涼子さんは、期待に満ちた目で、僕のことを見てきた。大丈夫、きっと、この告白は上手くいく。二人は、いつまでも幸せにやっていける。僕も彼女も、「蛇の姫」と同じだから。
麓のほうから、学校の鐘の音が聞こえてくる。
風に乗って届けられる、涼やかな音色のチャイムを背に、涼子さんは身を起こして、僕の唇に、優しくキスをした。
みんなのリアクション
まだリアクションはありません。最初の一歩を踏み出しましょう!
次の日、母の墓がある龍渓院に、僕と父さんは足を運んだ。母が亡くなってから十七年間、一度も訪れたことはない。いつも盆の時期になると、東京の家で、仏壇に線香を上げるだけだった。
「ねえ、父さん」
母の墓に水をかけながら、僕は背後に声をかけた。
「母さんと結婚する前、父さんは別の女の人と付き合ったりしていた?」
父さんは花束を抱えたまま、照れ臭そうに笑う。
「面白いことを聞くな」
「教えて」
「どうということはない、大学で知りあった女性と、ごく普通の交際を続けていただけだ。性格が合わなくって、結局喧嘩別れしたけどな。それよりも、母さんとの馴れ初めの話は聞きたくないのか」
「十分、聞かされましたよ」
「教えて」
「どうということはない、大学で知りあった女性と、ごく普通の交際を続けていただけだ。性格が合わなくって、結局喧嘩別れしたけどな。それよりも、母さんとの馴れ初めの話は聞きたくないのか」
「十分、聞かされましたよ」
父さんと母さんの出会いは、平凡なものだ。
父さんは伯父さんと、もともと、大学で先輩後輩の間柄だった。ある夏休み、父さんは伯父さんの家に遊びに行ったとき、母さんと出会った。そこでお互い惹かれあい、時を重ねるうちに情愛も深まり、とうとう結婚することになったのだ。
母さんは、池の里を深く愛していたそうだ。
「一歩もここから出たくない、とあいつは言っていたんだがな」
父さんは、池の里に引き篭もろうとする母さんを、強引に説得して、東京で一緒に暮らすこととなった。そして三年後、僕が生まれた年、母さんは何の前触れもなく、重い病にかかった。心臓の病気だった。
「いつ発作がきて死んでもおかしくない、そんなあいつを見ていると、私が無理に東京へ連れだしたせいで、あいつは心臓を病んだのではないか……あいつが死んでからも、ずっと苦しんでいた」
珍しく、父さんが心情を吐露する。僕が父さんから花束を受け取り、花瓶に挿しているときも、話を続けている。
「あいつは、心臓を病んでいるとわかってから、一心不乱に何かを書き続けていた。イラストが中心だったから、絵物語のようだった。それが何か、私が見ようとすると、あいつは必死になって隠した。ついに中身を知ることはなかったんだが……」
その口ぶりから、いまでは、母さんが何を書いていたのか知っているのだと、僕は悟った。
「あら、佑介さん、来てらしたのね」
墓の向こうから、よそいきの呉服を着た女性が、上品な足どりで近づいてくる。涼子さんの母親だ。
「私、これから伊東に行ってくるの。茶道の教室」
月に二度、涼子さんの母親は、茶道を習いに、車で三十分かかる伊東の町へ出向いている。運転手は、いつも伯父さんだそうだ。
「そうそう、晃一君は今度の盆踊り、行くの?」
訊かれて、僕は下をうつむく。涼子さんが誘ってくれた、別荘地での盆踊りのことだ。曖昧に首を傾げて、是とも否ともとれない態度をとった。
「涼子が、晃一君とぜひ一緒に行きたいって言っていたから、よかったらおつきあいしてね」
それだけ言って、母さんの墓に線香と花を供えると、涼子さんの母親は姿勢よく背筋を伸ばして、しずしずと歩き去っていった。
「あいつも、茶の湯が好きだったな」
母さんのことを思いだし、父さんは遠くを見つめたまま、懐かしげに呟いた。
*
僕は三たび、蛇の姫と東屋で対面していた。
蛇の姫は、手毬を取りだし、僕に笑いかける。
「遊びませんか」
水底のように月光のブルーに包まれた世界で、僕と蛇の姫は、手毬を投げあった。三匹の子狸が、肩を並べて、僕達を観察している。僕が目を向けると、三匹ともびくりと体を震わせ、いつでも逃げられるように身構えた。
「今日は、何かいいことでもありましたか」
蛇の姫に問われて、僕は手毬を持ったまま、彼女を見る。
「どうして、そう思うの」
「誰かに恋焦がれているような、幸せな顔をしております」
「誰かに恋焦がれているような、幸せな顔をしております」
僕は、涼子さんのことを頭に浮かべた。思い当たるのは、彼女しかいない。しかし、従妹に恋愛感情を抱いているなど、あまり考えたくなかった。
「あなたは、恋をしたことはありますか」
「ありますよ」
「教えてくれます?」
「ありますよ」
「教えてくれます?」
僕は手毬を投げ、蛇の姫の答えを待った。蛇の姫は、記憶を辿るように、空を眺めていたが、
「女性の過去は訊く物ではありませんよ」
苦笑して、手毬を投げ返してきた。
「恋したことは、一度だけございます」
何回か手毬を投げあったあと、蛇の姫は独り語りを始めた。
「その人は、東よりやってきた、眉目秀麗な若武者でした。大室山の麓、蛇穴に人を喰らう大蛇が出ると聞き、退治しに来たのです。ところが、ここに棲んでいたのは、大蛇などではなく、妙齢の女性でした。それが私――」
お互い一目見て、若武者と蛇の姫は、恋に落ちた。二人は洞窟の中で、一年近く共に暮らしていた。だが、人間である若武者は、暗い洞窟での生活が耐えられなかった。
「ここを出て、共に鎌倉で暮らそうではないか」
蛇の姫は断ったが、若武者は断固として、洞窟を出ることを譲らなかった。
不和の末、ついに二人は決別した。
「私は、一度もこの地を離れたことがございません」
蛇の姫が屈むと、遠巻きに眺めていた子狸たちが、ささっと寄ってくる。毛むくじゃらの柔らかい体を、蛇の姫にすり寄せた。
「ここを離れて何がありましょうか。この地には、生きるために必要なすべてが存在します。なぜ人は、自らが負いきれない多くのものを抱えて、短い生を全うするのでしょう」
蛇の姫の言うことは、僕にとって、非常に納得のいくものだった。誰か一人を愛することでも、裏切りや落命によって、多大な心労を抱え込むことになる。この上、大勢の人間に囲まれて暮らすなど、どうしてできようか。頭がパンクしてしまう。
「僕も、誰か甘えられる人が一人いれば、それでいいんだ」
僕のすべてを受け止めて、慰めてくれる人がいれば、たとえ世界中が僕を嫌おうとも、怖くはない。
「ならば、私に甘えても、かまいませんよ」
蛇の姫が、両手を差しだす。僕はその手を掴み、彼女の胸元に、顔を埋めた。耳に伝わる、彼女の心臓の鼓動が心地よく、なんだか、涙が滲んできた。十七年間、ずっと求め続けて、得られなかった感覚だ。
やがて、月が雲に隠れ、雷鳴が大室高原一帯に響き渡った。
「一碧湖の赤牛が、また封印を解こうと、暴れているようですね」
ぽつりぽつりと雨が降りだす中、蛇の姫は険しい表情で、虚空を睨む。
「今宵はここで失礼させていただきます。お経島に行って、赤牛を抑えなければなりませんので」
黒雲が渦巻き、滝のような大雨が、周囲の風景を掻き消した……。
*
目覚まし時計が鳴っている。すでに朝を迎え、僕はベッドの上にいた。
「おはよう、ゆうべはすごい嵐だったね」
ベッドの横で、涼子さんが、僕の洗濯物入れから、シャツや下着などを取りだしている。彼女が何をしているのか悟り、顔が真っ赤になった。
「ごめんね、暇だったから、晃一君のも洗濯しようと思ったの」
彼女の愛らしい笑顔に、僕は何も言えなくなった。二人きりで部屋にいることに、僕の胸は気まずさを感じていた。
涼子さんが部屋から出ようとしたとき、
「涼子さん、待って」
僕は思わず、彼女を呼び止めた。
「うん?」
と涼子さんは振り返る。
「僕も盆踊り、行ってもいい?」
恐る恐る、訊いてみる。予想外に、彼女は大喜びした。
「やった、しつこく誘ってみるもんだね」
はしゃいでいる彼女は、本当に無邪気で、胸の中が愛しさでいっぱいになってきた。
涼子さんがウキウキと部屋を出ていったあと、僕はベッドの上に腰かけたまま、ぼんやりと窓の外を眺めた。澄み切った青空は、雲ひとつない。嵐のあとの快晴だった。
蛇の姫は、実在するのだろうか。僕の妄想の産物だろうか。
その答えは、この晴れ渡った青空が教えてくれるような気がする。
「晃一君、お邪魔するね」
また、涼子さんが中に入ってきた。手には、何かのチケットを二枚持っている。
「晃一君、美術館って、興味ある?」
「あるけど、どうかしたの」
「これ、池田二十世紀美術館の割引券。よかったら、一緒に行かない?」
「あるけど、どうかしたの」
「これ、池田二十世紀美術館の割引券。よかったら、一緒に行かない?」
従妹とはいえ、まるでデートに誘われているようで、胸が昂ぶってきた。
「はい、行きます」
思わず、裏返った声になる。そんな僕の様子が滑稽だったのか、涼子さんは口に手を当てて、くすくすと笑った。
池田二十世紀美術館は、大室山を挟んで反対側、別荘地のほうにある。日の光が館内に差し込みつつ、開放感を持たせるように設計された、居心地のいい美術館だった。僕は絵画のことなどよくわからなかったが、涼子さんの解説を聞いているだけで、満足な気持ちに浸った。
「ダリとゴッホは二人とも、産まれてすぐに死んだ自分の兄と、同じ名前をしているの。面白い偶然でしょ」
サルバドール・ダリの六連作、『キリン Ⅰ~Ⅵ』を前にして、涼子さんはいきいきと語る。
「どうして、二人とも、兄と同じ名前を?」
「そこまで知らないけど、きっと幼い子供を失った母親が、悲しみのあまり同じ名前を付けたんじゃないかな」
「そこまで知らないけど、きっと幼い子供を失った母親が、悲しみのあまり同じ名前を付けたんじゃないかな」
子を思う母の心。母さんは、幼い僕を残して死んでゆくとき、どんな気持ちだったのだろう。
「これ……」
「エミール・ノルデ? 私も、大好き」
「エミール・ノルデ? 私も、大好き」
エミール・ノルデの、『城』。ハガキ大の小さなスペースに、夕焼けに染まった崖上の古城が描かれている。その狭い空間から、無限の世界の広がりを感じる。僕は息をするのも忘れそうなほど、絵の中の古城を凝視した。
「戦時中、ドイツの統治下で、絵を描くことは禁止されていたんだって。だから、ハガキ大の紙を使って、ノルデはこっそりと絵を描いていたの」
閉じられた世界。限られた空間。それなのに、ノルデの『城』からは、どんなに精緻に描かれた絵画よりも、深い味わいが溢れでている。
「どうして人は、自分が負いきれない多くのものを抱えて、短い生を全うするんだろう……」
「え?」
「え?」
こんな小さな絵からでも、実に多くのことを教えてもらえるのに。
『人の話を聞いていろ、遊びじゃねえんだぞ』
『それくらいも知らないのか、使えない奴だな』
『何度言ったらわかるんだ、真面目にやる気があるのか』
『それくらいも知らないのか、使えない奴だな』
『何度言ったらわかるんだ、真面目にやる気があるのか』
東京の職場で、何度も受けた罵声の数々。彼らは――僕の上司や先輩は、広い世界に身を置き、数多くの人間と接しても、上手に立ち回れる能力を持った人々なのだろう。
でも僕にとって、あの世界で生きることは、苦痛でしかなかった。
僕は、たった一つのものですら、いっぱいいっぱいになって抱え込む、不器用な人間なのだから。
「この城、住みたいな」
僕の言葉に、涼子さんは「そうだね」と頷いた。
その後、僕達は一碧湖の美術館にも寄り、湖でボートに乗ったり、湖畔を一周したりして、いとこ同士でのデートを満喫した。血の繋がった兄弟ではないし、法的にも許される関係であるが、どこか背徳的な感じがし、僕は終始ドキドキと心臓を鳴らせていた。
*
盆踊りの日がやって来た。
伯父さんは別荘地の管理事務所で働いているので、手伝いがあるため、車で先に現地に行っている。代わりに、僕と涼子さんは、一緒にソウ爺さんのトラックに乗せてもらった。
「俺が、本当の盆踊りを教えてやる。別荘族の連中に盆踊りの何がわかる」
と、運転中、ソウ爺さんは何度も息巻いた。確かに、見事な刺繍の浴衣を着て、尋常ならざる気合が入っている。
「三度のメシよりお祭り好きなの」
と涼子さんが僕に耳打ちしてくれる。その涼子さんは、薄いピンクの浴衣を着て、ウェーブのかかった長髪はかんざしでポニーテール風に束ねていた。
「その浴衣……可愛いね」
自分に出せる最大限の勇気を振り絞って、彼女を褒めた。
「うん」
短く答えて、涼子さんは僕から目を逸らす。照れているようだった。
会場に着くと、先に来ていた涼子さんの母親が出迎えてくれた。
「あら、ソウさんったら、張りきっちゃって」
「盆踊りの「ぼ」の字も知らんようなガキどもに、負けて堪るものか」
「盆踊りの「ぼ」の字も知らんようなガキどもに、負けて堪るものか」
ただし、あとで、ソウ爺さんは腰を痛めて、泣く泣く踊りの輪から抜けることになる。気概だけは若々しくても、体は追いつかなかったようだ。
曲が流れ、盆踊りが始まる。小学生のとき以来、一度も踊っていないから、他の人の見よう見まねだった。それでも、音楽に合わせて踊るのは、とても楽しいものだった。ひとしきり踊り、いい汗もかいたので、僕は脇へと引っ込んだ。
「ああ、疲れた」
涼子さんがやって来て、隣にすわった。汗に濡れた涼子さんの横顔は、やけに艶があり、僕はつい恥ずかしくなって顔を背けた。
「食べる?」
屋台で買ってきた焼きそばを、僕に差しだしてくる。
「じゃあ、いただきます」
僕は頭を下げ、焼きそばのパックを受け取った。
「晃一君は、カノジョとかいるの?」
いきなりの質問に、僕は戸惑う。大学や職場でも、女の子はよく他人の恋愛関係について聞いてきたものだから、他意はないのだとわかっている。それでも、前後の脈絡もなく、こんな質問をされると、勝手な思い込みをしたくなってしまう。
「いたけど、ずっと前に終わったよ。今は特に……」
「そう」
「そう」
涼子さんは目を細めて、踊っている群衆を見つめている。
「晃一君って、女の子にもてそうだし、優しい人なのに。不思議だな。どうして別れたの?」
理由を問われて、僕は亜沙子に捨てられた経緯を、掻い摘んで説明した。
「僕が、あのとき彼女を許していれば、良かったんだろうけど」
心の底から、そう思う。どうして僕はあのとき、亜沙子を許してやれなかったのだろう。他の男とデートをしたくらいで、あんなに怒鳴って。
「私も、東京で、つきあっていた人に捨てられたの」
ぽつりぽつりと、涼子さんは話し始める。
「サークルで知りあった男の人だけど、酷いんだよ。大学のゼミで飲み会やって、知りあった女の子とラブホ行って、関係持ったって……で、私はやっぱり好みじゃないからって……セックスだけの付き合いなら、考えてもいい、って……前日まで、結婚しよう、とか言ってたくせに」
泣きそうになるのを、涼子さんは目元を拭って、気丈に堪えた。
「東京は、だから嫌い」
ぐす、と鼻を鳴らす。
「友達は、真剣になり過ぎだって、口を揃えて言うの。大学でのつきあいなんて、一種の契約みたいなものだって」
そこで、涼子さんは身を乗りだし、僕に詰め寄る。
「でも、いつか結婚しよう、って言ったんだよ」
涼子さんの気持ちは、痛いほどわかる。亜沙子もよく、軽々しく、その言葉を口にしていた。
「それなのに、その自分の言葉に、ちっとも重みを感じてない。責任を持っていない。ただノリだけで、そんな大事なことを、簡単に口にする。あの東京の空気、私は、大嫌い」
涼子さんの独白は、盆踊りの音色に飲み込まれた。
祭りの喧騒が、やけに寂しさを感じさせた。
「晃一君は、ずっと池にいてくれる?」
小さな声で、涼子さんは尋ねてくる。僕には、わからない。父さんから命じられたら、帰らなければならないような気もする。でも、できることなら、一生ここで暮らしていきたかった。
「ずっと、池にいてもいいの?」
逆に、僕は涼子さんに聞き返した。
「ずっと、いて」
僕の肩に頭をそっと寄せ、涼子さんは目を閉じた。
「盆踊り、もう踊らないの?」
「もう疲れたから、このまま、寝る」
「もう疲れたから、このまま、寝る」
涼子さんは、体も寄せて、僕に寄りかかる体勢になった。僕は彼女の寝顔を見ながら、どうすることもできず、その場で固まっていた。
そうこうしているうちに、盆踊りの夜は、瞬く間に散会を迎えた。ほとんどの時間、涼子さんと肩を寄せあっていた。伯父さんに見られていたら大変だ、と思った。
*
盆踊りが終わってからは、特にすることもなく、僕は涼子さんと伊豆高原を散策したりしていた。いまでは、僕の携帯ゲーム機は、充電が切れたまま、部屋の隅に放り出されている。ゲームよりも、涼子さんといる時間のほうが、ずっと楽しい。
放っているのは、ゲームだけでなかった。大蛇の穴には、蛇の姫と三回目に会って以来、一度も訪れていない。いまは、夜遅くまで僕の部屋で、涼子さんと他愛もない話をしている。蛇の姫のことは、少しずつ夢や幻の類として、忘却の彼方に追いやられていた。
そんなある日のことだった。
「みんな、学習センターのほうへ来てくれないか。見せたいものがある」
朝食時、父さんが僕達を誘ってきた。「見せたいって、何があるんだ」伯父さんに訊かれても、「センターへ行ってからのお楽しみですよ」と内容を明かしてくれない。気のせいか、父さんは上機嫌なようだった。
センターは、伯父さんの家から、徒歩二分ぐらいの所にある。閑静な池の里に、ぽつんと佇む建物だ。気になっていたが、これまで一度も立ち寄らなかった。
入館してすぐの図書コーナーで、子供達が本を読んでいる。山間部にある池の里では、物が潤沢にないから、たくさんの本が置いてある学習センターは、ちょっとした娯楽の場なのだろう。一所懸命読書する子供達の姿に、心が和んだ。
「階段を上がって、すぐのところだ」
父さんに連れられて、僕と伯父さん一家は、二階に上がった。掲示板に、誰かが書いた絵物語が展示されている。倉木明子。母さんの名前が、作者名として掲げられている。
「明子の作品だ。センターに頼み込んで、八月の間だけ、展示させてもらうことになった」
父さんは、くたびれているが、満足した表情で、絵物語を眺めている。「母さんの部屋で寝泊りしていたら、偶然、箪笥の後ろに入っていたのを見つけたんだ。亡くなる一年前、一度だけここに家族で訪れただろう?きっとそのときに隠したんだろうな」
「きれいな絵……」
父さんは、くたびれているが、満足した表情で、絵物語を眺めている。「母さんの部屋で寝泊りしていたら、偶然、箪笥の後ろに入っていたのを見つけたんだ。亡くなる一年前、一度だけここに家族で訪れただろう?きっとそのときに隠したんだろうな」
「きれいな絵……」
涼子さんが、うっとりと母さんの絵物語を見つめて、溜め息を洩らした。中国の山水画のように、ぼんやりと絵の具がにじんでいて、まるで水底の光景を眺めているようだ。
タイトルは、『蛇の姫』と書かれていた。
内容は、大蛇の穴の伝説を基に、大蛇を女妖怪と見立てての、武士と蛇の姫が繰り広げるラブロマンスだった。蛇の姫は、大室山の祭神、磐長姫の娘という設定になっていた。一碧湖の赤牛や、万次郎・万三郎の天狗兄弟も登場し、この伊豆に伝わる民話を総結集させたような物語であった。
「蛇穴には、年の頃十七くらいの女性が潜んでいた――実際に、そういう逸話が残されている。母さんは、本当によく調べて、この作品を書いていたんだな」
物語を読んでいるうちに、僕は、母さんの想いを感じ取った。話の中に出てくる「蛇の姫」は、母さんそのものだった。伊豆の地を愛し、外の世界を忌み嫌い、けっして洞窟の外から出ようとはしない。
「あいつは、私と知りあった頃から、東京は嫌だ、池の里に帰りたい……そう繰り返していたよ」
心臓の病にかかり、池の里に戻ることなく、大嫌いな東京で息を引き取ることになった母さん。その心境を考えると、僕は切なくなってきた。
物語の最後、蛇の姫は、武士が鎌倉で共に暮らそうと誘うのを断固拒む。それでも連れだそうとする武士を、蛇の姫は、洞窟から追いだしてしまう。
「明子は、池に住みたいと言っていた。私は、東京での仕事を捨てるわけにもいかず、池には住めないと突っ撥ねていた。きっとあいつは、私のことを怨んでいると思っていた……」
父さんの表情は、憑き物でも落ちたように、爽やかなものだった。
「私は、ずっと、あいつの気持ちがわからなかったんだ。私のことを愛してくれているのか、私のことを憎んでいるのか。あいつが生きているあいだ、始終、怯えながら生きてきた」
でも、と父さんは小さな声を出す。声が震えている。
「ようやく、明子の気持ちを、知ることができた。この物語を読んで、ようやくわかったんだ――」
このとき、僕の古い記憶が甦った。
まだ五歳の僕は、母さんにすり寄って甘えては、よく母さんから物語を聞かされた。内容は憶えていないが、きっと、『蛇の姫』だったのだろう。
やはり、幼少の頃に出会い、そして十七年経って再会した「蛇の姫」は、母の語った『蛇の姫』が成せる、僕の妄想の産物だったのだ。物心ついてから母を失い、成人してから亜沙子に捨てられた、その悲しみが、記憶の底の「蛇の姫」を呼び覚ましたのだ。
そう思った瞬間、僕の視界は暗くなった。
*
夢か、現か。
僕は、大蛇の穴の中にいる。
十七年前、僕は確かに、この洞窟に招き入れられた。そこで、蛇の姫と最初の邂逅を果たしたのだ。
小さな座敷部屋で、蛇の姫はお茶を点てている。あのときと同じだ。
小さな座敷部屋で、蛇の姫はお茶を点てている。あのときと同じだ。
「ゆっくりしていって下さい。これが、最後のお茶となるでしょうから」
蛇の姫は、泣いていた。ゆるゆると茶碗を回しつつ、ときどき、目を固く瞑っては、涙がこぼれて、お茶に落ちてしまうのを抑えていた。
最後のお茶。その意味をよく考えるが、あまり実感が湧かない。
「貴方は、私に“意味”を与えてしまいました。私を私として受け止めてくれた貴方は、もう何処にもいない」
蛇の姫から、お茶を受け取る。作法を知らない僕は、適当なやり方で茶碗を持ち上げて、くい、と一息に飲み干した。
「貴方の成長した姿を見たとき、私は本当に、嬉しく思いました。できれば、このままずっと、貴方と共に生きてゆきたい、そう思っておりました」
これは、僕の妄想か、それとも現実か。意識すればするほど、蛇の姫の姿は霞んでくる。ようやく僕は、蛇の姫に二度と会えなくなるということに、焦りを感じだした。
「お母さん」
僕は、蛇の姫のことを、無意識のうちにそう呼んだ。
「行かないで、お母さん」
「まあ」
「まあ」
蛇の姫は、口の端だけで、寂しげに微笑んだ。
「この子ったら……大きくなっても、まだ甘えん坊なのですね」
彼女は手毬を拾い、僕に放ってきた。
「遊びましょう、消えて無くなる前に」
いつかの夜のように、僕と蛇の姫は、手毬を投げあった。
「もう立派な男の子なのですから、お父さんを困らせないで、自立するのですよ」
「うん」
「好きな人に甘えてしまうことのないよう、気をつけるのですよ」
「うん」
「辛いことや悲しいことがあったら、池の里から大室山を見るのですよ。貴方には見えなくても、私はいつでも、貴方のことを見守っておりますから」
「うん」
「うん」
「好きな人に甘えてしまうことのないよう、気をつけるのですよ」
「うん」
「辛いことや悲しいことがあったら、池の里から大室山を見るのですよ。貴方には見えなくても、私はいつでも、貴方のことを見守っておりますから」
「うん」
もう、蛇の姫の姿は、ぼんやりとしか見えない。洞窟の風景へと、彼女は溶け込んでいく。
「……お母さん?」
僕は手毬を持ったまま、呆然と立ちすくむ。
「やだよ、いやだよ、お母さん」
十七年間、僕が求め続けたものが、ようやく腕の中に入ってきたかと思ったら、またするりと抜けでていってしまった。
「お母さん、帰ってきてよお……」
それから、子供のようにわんわんと泣きじゃくり、僕は母のことを何度も何度も呼ぶ。妄想でも、幻覚でもいい。本当の蛇の姫でもいい。僕のことを大事に抱えてくれた、あの「蛇の姫」に、僕はもう一度会いたかった。
そして、世界は暗転した。
気がつけば、僕は部屋のベッドで、横になっている。ベッド際に、父さんが佇んでいた。「急に気を失うから、驚いたぞ」僕は、みんなの前で、白目を向いて倒れたらしい。ただ、姿が掻き消えるようなことはなかったそうだ。
やっぱり、「蛇の姫」は、僕の心が見せたまぼろしだったのだろうか。
やっぱり、「蛇の姫」は、僕の心が見せたまぼろしだったのだろうか。
「ところで、これは晃一のものか?」
父さんが何か丸いものを投げた。それを両手で受け取り、僕は目を見開いた。
「父さん、どこでこれを」
「お前のそばに転がっていた。しかし、変だな。そいつはもともと、私の部屋の箪笥にしまわれていたんだが……お前が持ち出したのか?」
「お前のそばに転がっていた。しかし、変だな。そいつはもともと、私の部屋の箪笥にしまわれていたんだが……お前が持ち出したのか?」
それは、手毬だった。紛れもなく、蛇の姫と遊んでいた、あの手毬だ。
「母さん」
僕は、じっと手毬を眺めた。蛇の姫の香りが、室内に漂っているような気がした。
*
伊豆大島が澄んで見える、快晴の候。
パラグライダーを装着した青年が、大室山の斜面を駆け下り、タン、と空中へ飛び上がる。風の流れに乗って、大室高原を眼下に、宙を滑空していった。
「気持ちよさそうだね」
パラグライダー乗りのことか、それとも、草の上に寝転がっている僕のことか。涼子さんが、僕の右横にすわってきた。
「一ヵ月だね」
と言ってから、僕から反応がないので、左拳でコンコンと僕の額を叩いてきた。
「もう一ヵ月経ったね」
眉間に指輪が当たり、痛い。
「聞いてるって」
「う、そ。ムシしてたぞ」
「う、そ。ムシしてたぞ」
おどけた口調で、僕を揶揄する。
「うるさいなあ」
僕は上体を起こし、涼子さんと向かいあった。ふと、彼女の左手薬指に、指輪が嵌められているのに気がついた。
「それ……」
内心、僕は穏やかでなくなる。
「これ? 東京の元カレからもらったやつ。未練のペアリング」
金額以外は、何の価値も持たない指輪だと知り、僕はホッとした。そんな僕の表情を見逃さず、
「安心した?」
と涼子さんがからかってくる。彼女への気持ちを、当の本人に見透かされている。
「捨てなよ、そんなもの」
ぶっきら棒に、僕は言い捨てる。
「高かったんだよ、これ。もったいないよ」
涼子さんは、そう言いながらも、左手から指輪を外した。僕が様子を見守っていると、彼女は「未練のペアリング」をつまみ、しげしげと眺める。
「そんなもの抱えられるほど、器用な子じゃないでしょ、涼子さんは」
それでも、昔の思い出を簡単には捨てられないのか、涼子さんは指輪から目を離さず、何かを考えている。
「晃一君」
「はい」
「私、ずーっと言いたいセリフがあったんだけど、今ここで大声で叫んでもいい?」
「どうぞ」
「はい」
「私、ずーっと言いたいセリフがあったんだけど、今ここで大声で叫んでもいい?」
「どうぞ」
僕は許可する。
「男なんて、バカヤロー!」
本当に大声を出して、涼子さんは指輪を放り投げた。指輪はあっというまに見えなくなり、大室山の緑色の斜面に吸い込まれていった。何事かと、他の観光客が涼子さんに注目する。
「ああ、すっきりした。肩が軽くなったみたい」
ふわりと立ち上がり、涼子さんは背伸びする。
「私も、寝るね」
彼女はもう一度腰を下ろし、仰向けに寝た。
ふと、僕は考える。結局、「蛇の姫」とはなんだったのか。
蛇の姫と最後に会ってから、身の回りで変化したことがある。それは、ときどき、池の里で狸と目が合うことだ。木陰から、子連れの大狸が、じっと僕を見ている。あれは、僕のことを見守っているのだろうか。
正体がなんであるかは、ともあれ、「蛇の姫」が伊豆を愛し、伊豆にのみ生きる純粋な存在であることは、間違いない。それ以上、僕は深く考えないようにした。
僕も、体を倒して、再び寝転がる。そよ風が、頬を撫でた。大海原を眺めながら、世界はなんて広いんだろう、と僕は感心していた。でも、僕は、この地に根付いて生きるだけで、十分だ。多くのものなんて必要ない。
母さんが生まれた、池の里。
母さんが愛した、伊豆の地。
母さんの魂が眠るこの地は、悲しいことも苦しいことも、嬉しいことも愛しいことも、みんな優しく包み込んでくれる。これ以上、何を望む?
「涼子さん、迷惑だったら、忘れてくれていいんだけど……」
かつて、亜沙子に言ったのと、同じ言葉を口に出す。涼子さんは、期待に満ちた目で、僕のことを見てきた。大丈夫、きっと、この告白は上手くいく。二人は、いつまでも幸せにやっていける。僕も彼女も、「蛇の姫」と同じだから。
麓のほうから、学校の鐘の音が聞こえてくる。
風に乗って届けられる、涼やかな音色のチャイムを背に、涼子さんは身を起こして、僕の唇に、優しくキスをした。