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前編

ー/ー



「池に、行ってみるか」

 父さんが僕の部屋に入ってきて、唐突にそんなことを言いだしたのは、僕が二十三回目の通院を終えた日のことだった。

「池に?」

 僕は聞き返した。父さんの言っている「池」とは、水が溜まってできるそれではなく、地名である。静岡県伊東市にある、小さな集落。母さんの故郷なのに、もう十七年も行っていない。

「うん……」

 僕は父さんの顔を見ないまま、答えだけ返した。

「そうか」

 それだけ言って、父さんは部屋の外に出ていった。

 次の日、僕と父さんは大した荷物も持たず、新宿駅で小田原行きのロマンスカーに乗った。乗換えが面倒だが、東京駅からJRで行くよりも安上がりだから、と父さんは弁明した。僕は素直に従った。池へは、ただの旅行で行くのではない。心を病んでいる、僕のリハビリも兼ねて、やや長期で滞在するために向かうのだ。こんな僕につきあって、父さんも大変だ。ロマンスカーの中で、二人とも言葉少なく、車窓の外ばかり眺めていた。

 小田原で、伊東線に乗り換えた。

 そのとき、僕は、亜沙子と一緒に箱根へ旅行したことを思いだした。もう彼女が僕の隣にいることはないのだと思うと、叫びだしたくなる衝動に駆られる。次いでそんな感情的なところを「子供っぽい」と亜沙子に罵られたことを思いだし、僕の心は深い泥沼の奥へと沈んでいく。

「晃一、前を見ろ」

 父に声をかけられて、僕はわれに返った。

 伊豆急下田行きの電車の中で、僕は父のほうを向かず、カチャカチャと携帯ゲーム機で遊んでいた。亜沙子に捨てられてから、片時も携帯ゲーム機を離したことはない。別に、ヒロイックファンタジーを疑似体験することで現実逃避しようとは考えていない。ただ、黙って物事を考えていると、どうしても亜沙子のことへと思いを巡らせてしまう。そして鬱になる。だから、何かに集中して気を紛らわせる必要があり――携帯ゲームはちょうどよい遊び道具なのだ。

「海だ」

 ぼそりと父が呟いたが、僕はゲームの画面から顔を上げなかった。精神を蝕む鬱屈とした感情を抑えるのに必死だった。

 気がつけば、伊豆高原の駅だった。

「懐かしいな、晃一」

 残念ながら、父が言うほどには、僕は懐かしさを感じていない。むしろ、伊豆高原の駅前はこんなにさびれていたかと、首を傾げた。駅前のロータリーは、人影がまばらで、殺風景だった。とくに大自然を感じるような景色でもなく、だだっ広いだけの、田舎の駅前である。幼い頃の印象と、随分と違う。

「ほら、晃一。伯父さんだ」

 伊豆高原に着いたら連絡する予定だったが、すでに、迎えは到着していたようだ。
伯父さんが、熊のように太い腕を振って、僕達に挨拶して来た。

「十七年ぶりだな、だいぶ老けた」
「義兄さんも、少し、筋肉が落ちたみたいですね」十七年間、年賀状でしかやり取りのなかった関係にしては、意外にも二人とも慣れ親しんでいるようすだ。そういえば、母さんが亡くなる前は、父さんはよく母さんの実家に遊びに行っていた。
「娘の涼子だ」

 伯父さんが、後ろに立っている若い娘を紹介した。

「お久しぶりです」

 涼子さんは、にこりと笑った。ウェーブがかった長髪が可愛らしい、柔和な雰囲気の女の子だった。

 *

 ロータリーの隅に、軽トラックが停まっている。農家のトラックだ。

「うちの車が壊れているんで、乗せてもらってきたんだ」

 運転手の名前は、八島宗助さん。

「みんなはソウ爺さんと呼んでいる」

 伯父さんが説明すると、ソウ爺さんはしゃがれ声で、

「うるせえ、早く乗れ」

 と呟いた。伯父さん達はトラックの助手席にすわり、僕と父さんはトラックの荷台に乗っかった。むき出しの荷台にすわるのは、初めての体験だ。トラックが走りだし、木立の中を通り抜けてゆく。草木の匂いが風とともに流れてきた。

「こんにちは」

 運転席の後ろの窓から、荷台の僕に、涼子さんが話しかけてきた。いきなり声をかけられて、僕は狼狽する。もごもごと口ごもり、ようやく、自分の名前を言った。

「ほとんど初対面だね。よろしく」

 涼子さんは意外と気さくだ。あれこれ話を振ってくる。そのひとつひとつに、僕はどもりなりながら、答えを返した。

 林を抜けると、トラックは住宅地に入った。

「ここがもう池だよ」

 涼子さんが説明してくれる。池の里は、山間部にある、盆地の村だ。高地の奥まった所にあるため、閑静な土地柄である。

「少し、きれいにはなっているが」

 父さんが口を開いた。

「十七年で、あまり変わっていないな」僕は幼い頃のことなど思いだせず、こんなものだったかと、あたりを見回していた。

「あぶねえ!」

 ソウ爺さんが怒鳴って、トラックを急停車させる。僕はつんのめり、車体に頭をぶつけた。

「どうしました」

 父さんが声をかける。

「狸だ。急に道の真ん中に出てきやがって!」

 ソウ爺さんは大声でわめきちらす。荷台から身を乗りだし、道路を見てみると、ちょうど狸が道の端へと退避するところだった。四匹いるうち、いちばん後ろの大柄な狸が、こちらを見てきた。目が合い、しばらく見つめあう。トラックが発進したあとも、大狸は僕のことを見ていた。

 伯父さんの家は、二階建ての小ぢんまりとした造りだ。瓦の屋根と黄ばんだ家の壁が、どこか時代を感じさせる。ちょうど部屋が二つ空いていたので、僕と父さん、それぞれ一人で一部屋使わせてもらうこととなった。父さんが選んだ部屋は、もともと、母さんが幼い頃住んでいた部屋だった。今まで、母さんの死から目を逸らしていた父さんが、どうして母さんを思い起こさせるような部屋を選んだのか、僕には理解できなかった。

 部屋に入って、荷物を置いてから、すぐに僕は携帯ゲーム機を取りだした。電源を入れ、カーペットの上にうつ伏せになる。ゲームを始めてから一分もしないうちに、部屋の扉が叩かれた。

「大室山に行かないか」

 伯父さんの声だ。渋々、僕はゲーム機の電源を切った。

 家を出て、うらぶれたバス停まで向かう。

 父さんは、

「私はこのあたりを散策するよ」

 と断って、同行しなかった。代わりに、涼子さんが一緒についてきた。

「ひまだから、ご一緒しまーす」

 子供っぽく笑って、涼子さんはひらひらと手を振った。

「ニートがなにを言いやがる」

 伯父さんは鼻を鳴らした。

「あれが、大室山だよ」

 涼子さんが、道の先、森の奥にそびえる小山を指差した。木一本生えていない、禿坊主の山だった。山と言うより、丘に見える。緑色の、のっぺら山だ。

 大室山を見ているうちに、僕は、「彼女」を思いだした。

 夢か、現か。

 六歳のとき、僕は大室山の麓で、不思議な体験をした。

 *

 その人は、人間だったのか。妖怪か、神様の類だったのか。ともあれ、その人と出会い、暗い洞窟の中で語り明かした記憶は、鮮明に残っている。

 僕はその人を、「蛇の姫」と呼んでいた。

 蛇の姫と出会ったのは、僕が六歳のときだった。心臓の病で母さんが亡くなったあと、僕と父さんは遺骨を納めに、母さんの実家である池の里へと赴いた。葬式の終わった次の日、伯父さんが、僕と父さんを大室山へと連れて行ってくれた。そのときから、大室山はのっぺらとした山だった(思い返せば、山頂部へのリフトに乗るとき、どっちが先に乗るかで、同い年の女の子と喧嘩した記憶がある。あれは、小さい頃の涼子さんだった)。

 大室山の山頂部、ぐるりの一周は、東は太平洋の遥か水平線、西は天城の連山が広がっているのを一望の下にできる。僕は、山の上の売店で買ってもらったフランクフルトを握り締め、火口の縁に造られた道を、駆け足で走り回っていた。高地を吹き抜けるそよ風が、視界に広がる大海原の青さと相まって、清清しく感じられた。「あれが、俺達の住んでいる池だぞ」南側に回ったとき、盆地にある村を指して、伯父さんは教えてくれた。不意に、僕は母さんが亡くなったことを思いだして、涙がこぼれてきた。

「そうだ、山を降りたら、面白いところに連れて行ってやろうか」

 急に僕が泣きだしたので、伯父さんは慌てて、麓の「さくらの里」に行くことを提案してきた。

「さくらの里には、大蛇が棲んでいるという穴があるんだ」

 なんでも、大室山の麓にはかつて大蛇が棲んでいたが、鎌倉時代に武士に退治された――という伝説が残っているらしい。僕は伯父さんの話に魅力を感じ、ぜひとも、その「大蛇の穴」を見てみたくなった。子供は現金なものである。すぐに涙を拭き、伯父さんの腕をひっぱった。

 大室山から降りて、車道を道なりに進んでいくと、さくらの里の入り口があった。桜の木が林立する中、僕達は伯父さんに連れられて、奥へ奥へと進んでいく。やがて、木々が密集している薄暗い一角が姿を現した。

「あれが大蛇の穴だ」

 よく見れば、木々が集合している区画を、柵が取り囲んでいる。湿った空気がそこから流れでていた。僕はおっかなびっくり、怖いもの見たさで、伯父さんの後ろについて、木立へと近寄った。
穴は、木々に囲まれて、存在していた。予想をはるかに上回って深々としており、大きな口を開けている。穴そのものが大蛇の大顎のように見える。叔父さんの家が丸ごと入っても、ありあまりそうなほどだ。

「伯父さん、もういいよ、帰ろ」

 僕は伯父さんの腕を引いた。

 そのときだった。

「……」

 穴の中から、女の人の声が聞こえてきた。母さんの声に聞こえた。僕を招くその声に抗うことはできず、ふらふらと柵を越えて、穴の縁に近づいていく。

「晃一!」

 父さんと伯父さんが叫んだときには、六歳の子供の小さい体は、がばっと大口を開けている穴の中へと落ちていってしまった。

 *

 意識を取り戻すと、あたりは真っ暗だった。顔に水滴が当たり、上を見上げれば、土の天井がある。すぐに、ここが洞窟の中だと判った。僕は、伯父さんが教えてくれた大蛇の伝説を思いだし、恐ろしくなって、わんわんと泣きだした。

 不意に、女の人の手が、柔らかく僕の頭を包んできた。

「安かれ……大室山の大蛇は、貴方のような子供を食べたりは致しません」

 おっとりと落ち着いた声に、僕は泣くのをやめて、声のしたほうを向いた。彩り鮮やかな十二単を着た女性が、困ったように微笑みながら、僕を見ている。

「おねえさん、だれ?」
「大室山に古くから住んでいる者です」

 彼女こそが、「蛇の姫」であった。

「どうぞこちらへ」

 蛇の姫の招きに応じて、僕は洞窟の中の小部屋へと入った。

 部屋には座敷があり、囲炉裏が切ってある。蛇の姫はそこでお茶を立て、僕に振舞ってくれた。幼い僕は、お茶があまりにも苦いので、ちょっと口をつけてすぐに、要らない、と突っ返した。蛇の姫は、

「あらあら」

 と苦笑した。

 蛇の姫は、大室山の主である偉いお姫様に仕えているらしかった。同じ姫でも、大室山の主は、格が違うようだった。その偉いお姫様は、たまにしか大室山を訪れず、来たら半年ほど滞在して、また日本各地のどこかへ旅立ってしまうらしい。そのたまの来訪のため、蛇の姫は、いつ来ても大丈夫なように準備をしているとのことだった。僕が、独りで寂しくないのか、と尋ねると、天城の天狗の兄弟が遊びに来るから寂しくない、と答えた。

 僕は、見知らぬ女の人に暗い洞窟へと引き込まれながら、不思議と恐怖心は抱いていなかった。それに、蛇の姫は、幼い僕が怯えてしまわないようにと、あれこれ気配りをしてくれていた。

「悲しいことでもありましたか」

 しばらく話をしたあとで、蛇の姫は尋ねてきた。僕は、母さんが亡くなったことを話した。

「なんと哀れな……幼い貴方は、母の胸にまだすがりたいでしょうに」

 そう言われて、僕は母さんの温もりを思いだし、涙が溢れてきた。蛇の姫は、僕の手を握ってくれた。彼女の掌は、冷たく、柔らかかった。「さあ、お眠りなさい」まるで母さんに甘えているような心地だった。僕は蛇の姫の膝に頭を乗せ、静かに眠りに着いた。

「この次は手鞠でもご用意して、お待ちしております……」

 その言葉を最後に、蛇の姫との記憶は途絶えている。

 目を覚ますと、幼い僕は、伯父さんの車の中にいた。「遊び疲れたな、ぐっすり眠っていたぞ」伯父さんの言葉で、僕は、自分が夢を見ていたのだとわかった。しかし、記憶を辿れば辿るほど、蛇の姫との邂逅は、鮮明なものとなって頭の中に甦ってくる。

 あれは、現実だったのか、幻だったのか。母を恋い慕う気持ちが見せた白昼夢なのか。いまでも僕にはわからない。

 願わくば、あれが現実であってほしい――そう僕は思っていた。

 *

「次は、室の腰、室の腰」

 バスの音声案内で、僕は幼少時の回想から抜けだした。

 すでにバスは、大室山の麓を一周して、さくらの里へと出ていた。桜の木が立ち並んでいるが、盛夏の折、当然、花は咲いていない。桜林の奥に、大室山がそびえ立っている。標高はさほどでもないが、近くで見ると、ずんぐりした緑色の巨体は、圧倒的な迫力をもってこちらに迫ってきた。

 バスを降りて、リフト乗り場に着いたとき、僕は予期せぬところで時の流れを感じた。十七年前は一人乗りだったリフトが、二人乗りになっている。伯父さんと涼子さんは一緒に乗るものだと思い、僕は一歩下がっていたが、涼子さんが近くに寄ってくる。「お父さん、独りで乗ってね」天真爛漫に笑いながら、意地悪なことを言う。

 僕は、彼女がわざわざ僕と一緒に乗るのを選んだことに、戸惑いを感じていた。

「大室は、空気がのんびりしてるから、落ち着くんだ」

 リフトに乗って、すぐ涼子さんは口を開いた。お喋り好きなのか、間断なく、僕に話しかけてくる。おっとりした話し方が可愛らしく、ただ彼女の声を聞いているだけで、僕の心は癒されていた。

 やがて、リフトは山頂部に到着した。

 伊豆の風景が、眼下に広がる。はるか遠くに見える、白っぽい港町は、北東にある伊東の町だ。ちょっと目線をずらせば、千葉の房総半島まで見える。

「今日は天気がいいな、富士山も綺麗に見えるぞ」

 伯父さんの言うとおり、もっと北のほうへ目を向ければ、雪をかぶった富士山がどっしりと鎮座している。

「写真撮ろうよ、あっちのほうで」

 僕の服を引き、火口を挟んで反対側のほうを指差した。

「涼子さん、ここで撮らないの?」

 富士山や、伊東の町などをバックに写真が撮れるはずだ。

「本当に眺め、いいと思う?」

 涼子さんは先へと歩きだした。僕はもう一度景色を眺めて、なるほど、と納得した。伊東の町までのあいだ、小山が連なる土地に、ゴルフ場が汚らしく広がっている。

「矢筈山は、げんこつ山って呼ばれているの」

 矢筈山とは、池の里の終端にそびえる、ごつごつした形状の山のことだ。弓に矢をつがえるための、矢筈に形が似ているからだろうが、涼子さんの教えてくれた「げんこつ山」の呼び名のほうが、あの山の形状をより正確に表しているかもしれない。

「あれが、私達の住んでいる、池の里」

 盆地に、細長く、田んぼが広がっている。家並みは、端のほうに小ぢんまりと密集している。

「げんこつやまのたぬきさん、おっぱいのんで、ねんねして……」

 突然、涼子さんが童謡をうたいだす。僕が目を丸くして見ていると、ちょっと頬を染めて、涼子さんは笑った。

「こういう歌、あるでしょう? もしかしたら矢筈山のことを歌っているのかな、って。池の里が大好きだから、たとえ関係なくても、私はこの唄が好き」

 僕も、「げんこつやまのたぬきさん」が好きになりそうだった。特に彼女がうたう「げんこつやまのたぬきさん」は、それだけで安らかな眠りにつけそうな、優しい響きがあった。

 *

 夜を迎えた。

 虫が鳴いている。池の夜は、東京の夏の夜よりも騒がしい。僕は何度も寝返りを打ちながら、虫の鳴き声に耳を澄ませていた。いまごろになって、自分があの忙しない東京から脱出できたのだと実感し、じわじわと嬉しさがこみあげてきた。

 大室山から戻ったあと、僕は部屋に引きこもったまま、ずっと携帯ゲームで遊んでいた。部屋から出たのは、食事とトイレのときだけだ。ふと、従妹が置いてくれたチラシに目がいった。一週間後、伊豆高原の別荘地で、盆踊りをやるらしい。

「一緒に行こうよ」

 と彼女は誘いかけてくれたが、まだ外に出るのは怖かった。

 ふと、虫の音が止んだ。あれだけ大合唱していたのが、ぱたりと、不自然な感じで。しばらくして、声が聞こえてきた。十七年前、大蛇の穴から聞こえてきたのと同じ声だ。僕は声に誘われるまま、家の外に出た。

 真っ暗な林道へと入っていく。声は、大室山のほうから聞こえる。坂道を延々と上っていき、高台の上へと上がる。大室山の麓の道に出て、道なりに、さくらの里まで歩いていく。

 桜林に辿りついた瞬間、雲間から、月が顔を出した。

 月明かりに照らされ、蒼く浮かび上がる大室山。その麓、桜の木が整列して僕を迎えてくれる――桜林の中心には、艶やかな黒髪を風になびかせ、十二単の女性が佇んでいる。夢だと思えば、かえって意識が覚醒してきて、目の前の「蛇の姫」が現実だと感じられる。

「手鞠を用意して、お待ちしておりました」

 十七年前と変わらない、優しい口調で、僕に微笑みかける。ああ、この人にとって、十七年は大して長くもないのだな――人外の者を相手にしながら、僕は、その程度の感慨しか抱かなかった。

「あなたは、何者ですか?」

 ずっと疑問に思っていたことを、彼女に問う。

「古くから、この大室山の麓に住む者です」

 十七年前と同じ答えだ。

 これが夢であるにせよ、幻であるにせよ、僕はこの再会を楽しもうと考えた。

 僕と蛇の姫は、東屋の椅子に腰掛けた。洞窟の中に連れ込まれるかと思ったが、

「また大泣きされては可哀想ですから」

 と蛇の姫は笑顔を見せた。

「貴方がこの地にやってきたことを知って、是非ともお会いしたくなったのです」

 やはりあの声は、彼女が僕を誘う声だった。

「大きくなりましたね、人違いかと思いました」

 あらかじめ用意してあったお茶と菓子を差しだし、蛇の姫は懐かしげに目を細める。

「ずっと、ここに住んでいるのですか?」

 僕が尋ねると、蛇の姫は、大室山のシルエットを見上げて、

「姫様がいつ戻ってきても大丈夫なように、常に準備を整えている必要がございます」

 おもむろに、大室山の主について語り始めた。大室山の主は、その昔、この地で子供を産んだそうだ。その子供は、別れた男との間に宿した子だった。

「子供はどこへ?」

 僕が問うと、蛇の姫は答えず、顔を背けた。

 一時間ほど話をし、ひと段落ついたところで、

「さ、今宵はここまで」

 蛇の姫は立ち上がった。

「もう夜も更けました、家に帰ってゆっくりお休みなさい」

 蛇の姫が姿を消した。同時に、周囲を照らしていた月明かりも掻き消え、あたりは一寸先も見えない暗闇に飲み込まれる。僕はパニックに陥った。

 気がつくと、僕はベッドの中にいた。すでに夜は明けていた。

 *

 蛇の姫と出会った次の日、僕は散歩に出かけた。夏の日差しが、白んだ肌にちりちりと染み込んでくる。朝飯を食べていないので、小腹が空き、小さな商店でエビカツを買って食べた。下手な市販品よりも美味しいカツに、舌鼓を打っていると、ソウ爺さんのトラックが、店の前に止まった。荷台には、涼子さんも乗っている。

「これから田んぼへ行くの、一緒に行こうよ」
「うん」

 か細く応えて、僕は荷台に乗った。
 涼子さんは、純白のブラウスに、桃色のスカートを穿いている。おっとりとした彼女に、よく似合う格好だった。トラックは、すぐに農地へと入った。矢筈山の麓まで、延々とある広大な田んぼの横を、トラックは疾走していく。田んぼを挟んで対岸にも道はあり、向こうのほうにもトラックが一台、並走して走っている。不意に、涼子さんは僕の腕を引いた。

「あれ、山神社っていうの」

 道の右側に、林を背にして、鳥居だけが見える。林の中に、本殿はあるようだ。

「年末にね、池の水で造ったお酒をふるまうんだよ。で、年を越すの」

 その話を聞いて、僕も輪に加われたらどんなに幸せだろう、と夢想した。

 ソウ爺さんの田んぼに着いたものの、涼子さんは手伝いに来たわけではなかった。

「ここで、いつも絵を描いてるの」

 黄色いスケッチブックを、鞄から取りだした。

「涼子は、美大に通っていたんだよ」

 ソウ爺さんが、トラックから肥料を下ろしながら、話してきた。

「おい、坊主。お前はこっちを手伝え」
「だめだめ、ソウ爺さん。晃一君は私と最初に約束したんだから。ね、早くこっちへ行こう」

 誘われるがまま、僕は彼女のあとを着いていった。後ろから、ソウ爺さんが大声で、

「手伝え!」

 と呼び止める。あとが怖いな、と思った。

 ヂイイ……蝉の鳴き声が夏の空気を運んでくる。ゆったりとウェーブのかかった髪を風になびかせ、涼子さんは田んぼの畦道を歩いていく。里の終端まで辿りついた。そこから先は、矢筈山――げんこつ山への登山口だ。涼子さんはスケッチブックを取り出し、矢筈山を背にして、丸太の上にすわった。ちゃんと腰の下にシートを敷いて、スカートに気を遣っているのが、やけに女の子らしく感じられた。

「晃一君って、いまはサラリーマン?」

 田園風景を写生しながら、涼子さんが話しかけてくる。入道雲を眺めていた僕は、顔を上に向けたまま、

「そうだったけど、やめた」

 と小さい声で返した。

「都会で働くのは、もうこりごりだよ」
「私も東京は嫌い」

 鉛筆をカリカリとせわしなく動かしながら、涼子さんはうなずいた。

 僕が会社をやめることになったのは、仕事よりも、もともと精神を病んでいたことが原因となっている。

 その心の病は、大学時代、恋人に捨てられたことから始まった。恋人は、亜沙子といった。あるとき、亜沙子が、同じサークルの他の男とデートをしたので、僕はそのことをなじった。デートした場所は、次の日の僕と行く約束をしていた遊園地だった。ただそれだけのことだったが、ヒステリックに喚き散らす僕に、亜沙子は愛想を尽かした。

 僕は、亜沙子に何から何まで依存していた。彼女のいない世界など考えられず、彼女と一緒に生きることだけが僕の喜びだった。だから、彼女から別れを告げられたとき、僕の精神は崩壊した。世界のすべてが、僕を否定しているような錯覚に陥った。

 その後、社会人となってから、徐々にストレスが溜まっていき、ついに病院へ行く必要があるほど、心を病んでしまったのである。

「私、二度と東京には行きたくない」

 涼子さんは、わずかに眉をひそめ、呟いた。

「絶対、行きたくない」

 確認するように、もう一度呟く。彼女にも何かあったのかと思い、さり気なく質問しようとしたが、胸の奥で言葉は引っかかり、何も聞けなくなってしまった。

 *

 五日目の夜、僕は自分から、大室山の麓へと赴いた。

 もしも蛇の姫が幻だったら――そんな恐怖を内に抱えて、僕はさくらの里へと足を踏み入れた。

 彼女は、ちゃんと、僕のことを待ってくれていた。

「あら」

 こちらの顔を覗き込んで、蛇の姫は痛々しげに眉をひそめる。

「泣かれていたのですか」

 ここへ来る前、僕はベッドで泣いていた。亜沙子のことを思いだし、

「その性格が鬱陶しい」

 と別れ際に言われた言葉が、また僕の胸を締めつけてきたからだ。

「苦しいことは誰かに話すものですよ」

 そう言われても、亜沙子が鬱陶しいと言ったのは、まさに僕が愚痴っぽかったからであって、もしも同じように自分の苦しみを告白して、否定されようものなら――と、僕は怯えるあまり、何も話せなかった。

 ふと、ガサガサと、何かが近づいてくる音がする。

「まあ、よくいらっしゃいましたね」

 彼女が声をかけたほうを見ると、子狸が三匹、物珍しげに僕のことを見ている。

「矢筈山の主、大狸の子供達です」

 やはり、げんこつ山には狸が棲んでいるのか。

「ときどき、私のところへ遊びに来るのですよ」

 子狸たちは、蛇の姫の足元によちよちと歩み寄り、毛むくじゃらの体をすり寄せてきた。僕が撫でようとすると、子狸は警戒して、あとずさりした。すぐにパッと散り、子狸たちはそこら辺を駆け回り、自分たちだけで遊び始めた。

「ごめんなさい、あの子たちは人見知りするのです」

 くすりと蛇の姫は笑った。

 今晩も、月明かりが、さくらの里を青白く照らしていた。

「辛いことがあるなら」

 ほう、と蛇の姫は溜め息をつく。

「遠慮せず、おっしゃってください」

 彼女に再度促され、僕の胸に、すべてぶちまけたい衝動が生まれる。

「僕は」

 勇気を振り絞って、声を出す。

「僕は東京で、大好きだった人に捨てられたんだ」

 そこからは、言葉が止まらなかった。自分のことを長々と話すのは、何年ぶりだろうか。蛇の姫がいちいち相槌を打ってくれるのが、無性に嬉しかった。

「幸せだったことなんて、一度もないよ」

 蛇の姫は茶碗から顔を上げ、ふっと微笑んだ。

「ひとつくらい、幸せな思い出はあるでしょう」

 僕は自分の半生を振り返ってみる。その間に、蛇の姫はお茶を献じてくれた。透き通るような緑色の、薫り高い緑茶だった。

「ひとつ、あった」
「どんな思い出ですか」
「もうはっきりとは憶えていないけど、小さいときに、母さんに連れられて動物園へ行ったんだ。母さんが亡くなる一年前だったかな」

 幼稚園の遠足だったので、みんな母親同伴で来ていた。僕の母さんは心臓を病んでいたのに、僕のために、一緒に来てくれた。遠足が終わり、現地解散となったとき、母さんは帰ろうとせず、僕と一緒に動物園に残っていた。みんなが帰ったことに気がつかず、急に周りが寂しくなったので、僕は困惑していた。やがて、涙目になってきた。そんな僕の手を、母さんは優しく握ってくれて、園内を一緒に歩いてくれた。閉園時間が迫る夕刻の動物園は、朱に染まり、人影がまばらで、物悲しい雰囲気だった。でも、母さんの手が温かく、僕は安らかな気分に浸っていた。

「それが僕の憶えている、幸せな思い出」

 長々と話して、僕は、お茶をくいと飲み干した。蛇の姫は、僕を静かに見つめていた。

 にわかに、月が雲に隠れ、あたりは暗くなった。突風が巻き起こり、桜の木が斜めに傾きだす。

「ああ、万次郎と万三郎がいらっしゃったのですね」

 蛇の姫は空を見上げたあと、顔を上に向けたまま、

「今日はもうお帰りになったほうがよろしいですね。彼らが風を巻いてくるときは、必ず機嫌が悪いのです……」

 そこで、僕の記憶は途絶えた。目を覚ましたときには、またベッドの上で寝ていた。

 *

 池にやってきてから、一週間経った。夕飯後、涼子さんがやって来て、

「しあさって、一緒に盆踊りに行こうよ」

 と誘ってきてくれた。三日後の夜、別荘地の広場で盆踊りをやるそうだ。池に来た日、涼子さんからチラシを貰っている。

「気が向いたら、いつでも声かけてね」

 涼子さんが部屋から出たあと、妙にいらいらしながら、僕はゲームで遊んでいた。

 外から車のエンジン音が聞こえてきた。伯父さんの家のガレージからだ。昨日、伯父さんの車が直ったばかりだ。しばらくして、涼子さんが部屋のドアを叩いてきた。

「伊東の花火大会が大室山から見られるけど、一緒に行かない?」

 僕は躊躇する。外に出るよりも、部屋に篭もっていたい気もする。

「早く決めないと、置いてくぞ」

 涼子さんは、からかうようにヒラヒラと手を振り、部屋から出ていった。迷った末に、僕はゲーム機の電源を切った。

 車には、父さんも乗っていた。

「父さんも?」

 花火に行くのか、と僕が訪ねると、父は黙って頷いた。なんだか、少しだけ、やつれていた。今日の父さんは、朝ごはんのあと、慌ただしくどこかへ出かけて、夕飯前までずっと戻ってこなかった。

「父さん、今日、何してた?」
「生涯学習センターに行っていた」
「伯父さんの家の近くにある、あそこ? 何しに行ったの」
「ちょっとしたお願い事があってな。まだ決定していないから、話がまとまったら、晃一にも教えてあげるよ」

 父は口を閉ざし、それ以上何も話さなくなった。涼子さんは伯父さんと話しているので、所在なく、僕は窓の外を見た。電灯のない山中の田舎道は、夜になると文字通り一寸先も闇だ。見てはいけないものを見てしまいそうで、怖くなって、車内に目を戻した。

 リフト乗り場では、また、涼子さんと僕が一緒にすわった。

「毎年、この時期になると、大室山のリフトは夜でも動いているよ」
「ああ、花火大会が見られるから」
「初日の出のときも、元旦の早朝から動いているの。でも、雲に隠れたり、大島の陰から出たり、毎年まともに日の出を見られないんだ」

 涼子さんは、リフトに乗っているあいだ、ずっと喋り通しだった。

 山頂部に着くと、すでに多くの人達が、山の北側に集まっている。そこから、伊東の町の夜景が見える。黒ずんだ海に面して、港町の灯が、チカチカと白く輝いている。

 音もなく、炎の玉が夜空へと昇っていく。ドン、と爆発音がし、花火が弾けた。伊東の按針祭をしめくくる、一万三千発の大花火大会の始まりである。ひゅるひゅる、ひゅるひゅると、花火は打ち上げられ、ひらいては散っていく。炎の玉が豆のように小さく見える。広大な伊豆の夜景の一部として、空に咲き乱れる花火を山上から見るのは、新鮮なおもむきがあった。

 涼子さんは、音楽プレーヤーを片手に、何かの曲を聴きながら、花火を鑑賞している。微かに笑ってはいるが、目は寂しそうだった。不意に、胸を締めつけられるような感覚に襲われ、衝動的に、僕は声をかけようとした。伯父さんが僕の腕を引き、首を振った。

「涼子もいろいろあったんだ、独りにしてやってくれ」

 涼子さんに、何があったのか。僕はそのことを想像して、気持ちが落ち着かなかった。


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みんなのリアクション

「池に、行ってみるか」
 父さんが僕の部屋に入ってきて、唐突にそんなことを言いだしたのは、僕が二十三回目の通院を終えた日のことだった。
「池に?」
 僕は聞き返した。父さんの言っている「池」とは、水が溜まってできるそれではなく、地名である。静岡県伊東市にある、小さな集落。母さんの故郷なのに、もう十七年も行っていない。
「うん……」
 僕は父さんの顔を見ないまま、答えだけ返した。
「そうか」
 それだけ言って、父さんは部屋の外に出ていった。
 次の日、僕と父さんは大した荷物も持たず、新宿駅で小田原行きのロマンスカーに乗った。乗換えが面倒だが、東京駅からJRで行くよりも安上がりだから、と父さんは弁明した。僕は素直に従った。池へは、ただの旅行で行くのではない。心を病んでいる、僕のリハビリも兼ねて、やや長期で滞在するために向かうのだ。こんな僕につきあって、父さんも大変だ。ロマンスカーの中で、二人とも言葉少なく、車窓の外ばかり眺めていた。
 小田原で、伊東線に乗り換えた。
 そのとき、僕は、亜沙子と一緒に箱根へ旅行したことを思いだした。もう彼女が僕の隣にいることはないのだと思うと、叫びだしたくなる衝動に駆られる。次いでそんな感情的なところを「子供っぽい」と亜沙子に罵られたことを思いだし、僕の心は深い泥沼の奥へと沈んでいく。
「晃一、前を見ろ」
 父に声をかけられて、僕はわれに返った。
 伊豆急下田行きの電車の中で、僕は父のほうを向かず、カチャカチャと携帯ゲーム機で遊んでいた。亜沙子に捨てられてから、片時も携帯ゲーム機を離したことはない。別に、ヒロイックファンタジーを疑似体験することで現実逃避しようとは考えていない。ただ、黙って物事を考えていると、どうしても亜沙子のことへと思いを巡らせてしまう。そして鬱になる。だから、何かに集中して気を紛らわせる必要があり――携帯ゲームはちょうどよい遊び道具なのだ。
「海だ」
 ぼそりと父が呟いたが、僕はゲームの画面から顔を上げなかった。精神を蝕む鬱屈とした感情を抑えるのに必死だった。
 気がつけば、伊豆高原の駅だった。
「懐かしいな、晃一」
 残念ながら、父が言うほどには、僕は懐かしさを感じていない。むしろ、伊豆高原の駅前はこんなにさびれていたかと、首を傾げた。駅前のロータリーは、人影がまばらで、殺風景だった。とくに大自然を感じるような景色でもなく、だだっ広いだけの、田舎の駅前である。幼い頃の印象と、随分と違う。
「ほら、晃一。伯父さんだ」
 伊豆高原に着いたら連絡する予定だったが、すでに、迎えは到着していたようだ。
伯父さんが、熊のように太い腕を振って、僕達に挨拶して来た。
「十七年ぶりだな、だいぶ老けた」
「義兄さんも、少し、筋肉が落ちたみたいですね」十七年間、年賀状でしかやり取りのなかった関係にしては、意外にも二人とも慣れ親しんでいるようすだ。そういえば、母さんが亡くなる前は、父さんはよく母さんの実家に遊びに行っていた。
「娘の涼子だ」
 伯父さんが、後ろに立っている若い娘を紹介した。
「お久しぶりです」
 涼子さんは、にこりと笑った。ウェーブがかった長髪が可愛らしい、柔和な雰囲気の女の子だった。
 *
 ロータリーの隅に、軽トラックが停まっている。農家のトラックだ。
「うちの車が壊れているんで、乗せてもらってきたんだ」
 運転手の名前は、八島宗助さん。
「みんなはソウ爺さんと呼んでいる」
 伯父さんが説明すると、ソウ爺さんはしゃがれ声で、
「うるせえ、早く乗れ」
 と呟いた。伯父さん達はトラックの助手席にすわり、僕と父さんはトラックの荷台に乗っかった。むき出しの荷台にすわるのは、初めての体験だ。トラックが走りだし、木立の中を通り抜けてゆく。草木の匂いが風とともに流れてきた。
「こんにちは」
 運転席の後ろの窓から、荷台の僕に、涼子さんが話しかけてきた。いきなり声をかけられて、僕は狼狽する。もごもごと口ごもり、ようやく、自分の名前を言った。
「ほとんど初対面だね。よろしく」
 涼子さんは意外と気さくだ。あれこれ話を振ってくる。そのひとつひとつに、僕はどもりなりながら、答えを返した。
 林を抜けると、トラックは住宅地に入った。
「ここがもう池だよ」
 涼子さんが説明してくれる。池の里は、山間部にある、盆地の村だ。高地の奥まった所にあるため、閑静な土地柄である。
「少し、きれいにはなっているが」
 父さんが口を開いた。
「十七年で、あまり変わっていないな」僕は幼い頃のことなど思いだせず、こんなものだったかと、あたりを見回していた。
「あぶねえ!」
 ソウ爺さんが怒鳴って、トラックを急停車させる。僕はつんのめり、車体に頭をぶつけた。
「どうしました」
 父さんが声をかける。
「狸だ。急に道の真ん中に出てきやがって!」
 ソウ爺さんは大声でわめきちらす。荷台から身を乗りだし、道路を見てみると、ちょうど狸が道の端へと退避するところだった。四匹いるうち、いちばん後ろの大柄な狸が、こちらを見てきた。目が合い、しばらく見つめあう。トラックが発進したあとも、大狸は僕のことを見ていた。
 伯父さんの家は、二階建ての小ぢんまりとした造りだ。瓦の屋根と黄ばんだ家の壁が、どこか時代を感じさせる。ちょうど部屋が二つ空いていたので、僕と父さん、それぞれ一人で一部屋使わせてもらうこととなった。父さんが選んだ部屋は、もともと、母さんが幼い頃住んでいた部屋だった。今まで、母さんの死から目を逸らしていた父さんが、どうして母さんを思い起こさせるような部屋を選んだのか、僕には理解できなかった。
 部屋に入って、荷物を置いてから、すぐに僕は携帯ゲーム機を取りだした。電源を入れ、カーペットの上にうつ伏せになる。ゲームを始めてから一分もしないうちに、部屋の扉が叩かれた。
「大室山に行かないか」
 伯父さんの声だ。渋々、僕はゲーム機の電源を切った。
 家を出て、うらぶれたバス停まで向かう。
 父さんは、
「私はこのあたりを散策するよ」
 と断って、同行しなかった。代わりに、涼子さんが一緒についてきた。
「ひまだから、ご一緒しまーす」
 子供っぽく笑って、涼子さんはひらひらと手を振った。
「ニートがなにを言いやがる」
 伯父さんは鼻を鳴らした。
「あれが、大室山だよ」
 涼子さんが、道の先、森の奥にそびえる小山を指差した。木一本生えていない、禿坊主の山だった。山と言うより、丘に見える。緑色の、のっぺら山だ。
 大室山を見ているうちに、僕は、「彼女」を思いだした。
 夢か、現か。
 六歳のとき、僕は大室山の麓で、不思議な体験をした。
 *
 その人は、人間だったのか。妖怪か、神様の類だったのか。ともあれ、その人と出会い、暗い洞窟の中で語り明かした記憶は、鮮明に残っている。
 僕はその人を、「蛇の姫」と呼んでいた。
 蛇の姫と出会ったのは、僕が六歳のときだった。心臓の病で母さんが亡くなったあと、僕と父さんは遺骨を納めに、母さんの実家である池の里へと赴いた。葬式の終わった次の日、伯父さんが、僕と父さんを大室山へと連れて行ってくれた。そのときから、大室山はのっぺらとした山だった(思い返せば、山頂部へのリフトに乗るとき、どっちが先に乗るかで、同い年の女の子と喧嘩した記憶がある。あれは、小さい頃の涼子さんだった)。
 大室山の山頂部、ぐるりの一周は、東は太平洋の遥か水平線、西は天城の連山が広がっているのを一望の下にできる。僕は、山の上の売店で買ってもらったフランクフルトを握り締め、火口の縁に造られた道を、駆け足で走り回っていた。高地を吹き抜けるそよ風が、視界に広がる大海原の青さと相まって、清清しく感じられた。「あれが、俺達の住んでいる池だぞ」南側に回ったとき、盆地にある村を指して、伯父さんは教えてくれた。不意に、僕は母さんが亡くなったことを思いだして、涙がこぼれてきた。
「そうだ、山を降りたら、面白いところに連れて行ってやろうか」
 急に僕が泣きだしたので、伯父さんは慌てて、麓の「さくらの里」に行くことを提案してきた。
「さくらの里には、大蛇が棲んでいるという穴があるんだ」
 なんでも、大室山の麓にはかつて大蛇が棲んでいたが、鎌倉時代に武士に退治された――という伝説が残っているらしい。僕は伯父さんの話に魅力を感じ、ぜひとも、その「大蛇の穴」を見てみたくなった。子供は現金なものである。すぐに涙を拭き、伯父さんの腕をひっぱった。
 大室山から降りて、車道を道なりに進んでいくと、さくらの里の入り口があった。桜の木が林立する中、僕達は伯父さんに連れられて、奥へ奥へと進んでいく。やがて、木々が密集している薄暗い一角が姿を現した。
「あれが大蛇の穴だ」
 よく見れば、木々が集合している区画を、柵が取り囲んでいる。湿った空気がそこから流れでていた。僕はおっかなびっくり、怖いもの見たさで、伯父さんの後ろについて、木立へと近寄った。
穴は、木々に囲まれて、存在していた。予想をはるかに上回って深々としており、大きな口を開けている。穴そのものが大蛇の大顎のように見える。叔父さんの家が丸ごと入っても、ありあまりそうなほどだ。
「伯父さん、もういいよ、帰ろ」
 僕は伯父さんの腕を引いた。
 そのときだった。
「……」
 穴の中から、女の人の声が聞こえてきた。母さんの声に聞こえた。僕を招くその声に抗うことはできず、ふらふらと柵を越えて、穴の縁に近づいていく。
「晃一!」
 父さんと伯父さんが叫んだときには、六歳の子供の小さい体は、がばっと大口を開けている穴の中へと落ちていってしまった。
 *
 意識を取り戻すと、あたりは真っ暗だった。顔に水滴が当たり、上を見上げれば、土の天井がある。すぐに、ここが洞窟の中だと判った。僕は、伯父さんが教えてくれた大蛇の伝説を思いだし、恐ろしくなって、わんわんと泣きだした。
 不意に、女の人の手が、柔らかく僕の頭を包んできた。
「安かれ……大室山の大蛇は、貴方のような子供を食べたりは致しません」
 おっとりと落ち着いた声に、僕は泣くのをやめて、声のしたほうを向いた。彩り鮮やかな十二単を着た女性が、困ったように微笑みながら、僕を見ている。
「おねえさん、だれ?」
「大室山に古くから住んでいる者です」
 彼女こそが、「蛇の姫」であった。
「どうぞこちらへ」
 蛇の姫の招きに応じて、僕は洞窟の中の小部屋へと入った。
 部屋には座敷があり、囲炉裏が切ってある。蛇の姫はそこでお茶を立て、僕に振舞ってくれた。幼い僕は、お茶があまりにも苦いので、ちょっと口をつけてすぐに、要らない、と突っ返した。蛇の姫は、
「あらあら」
 と苦笑した。
 蛇の姫は、大室山の主である偉いお姫様に仕えているらしかった。同じ姫でも、大室山の主は、格が違うようだった。その偉いお姫様は、たまにしか大室山を訪れず、来たら半年ほど滞在して、また日本各地のどこかへ旅立ってしまうらしい。そのたまの来訪のため、蛇の姫は、いつ来ても大丈夫なように準備をしているとのことだった。僕が、独りで寂しくないのか、と尋ねると、天城の天狗の兄弟が遊びに来るから寂しくない、と答えた。
 僕は、見知らぬ女の人に暗い洞窟へと引き込まれながら、不思議と恐怖心は抱いていなかった。それに、蛇の姫は、幼い僕が怯えてしまわないようにと、あれこれ気配りをしてくれていた。
「悲しいことでもありましたか」
 しばらく話をしたあとで、蛇の姫は尋ねてきた。僕は、母さんが亡くなったことを話した。
「なんと哀れな……幼い貴方は、母の胸にまだすがりたいでしょうに」
 そう言われて、僕は母さんの温もりを思いだし、涙が溢れてきた。蛇の姫は、僕の手を握ってくれた。彼女の掌は、冷たく、柔らかかった。「さあ、お眠りなさい」まるで母さんに甘えているような心地だった。僕は蛇の姫の膝に頭を乗せ、静かに眠りに着いた。
「この次は手鞠でもご用意して、お待ちしております……」
 その言葉を最後に、蛇の姫との記憶は途絶えている。
 目を覚ますと、幼い僕は、伯父さんの車の中にいた。「遊び疲れたな、ぐっすり眠っていたぞ」伯父さんの言葉で、僕は、自分が夢を見ていたのだとわかった。しかし、記憶を辿れば辿るほど、蛇の姫との邂逅は、鮮明なものとなって頭の中に甦ってくる。
 あれは、現実だったのか、幻だったのか。母を恋い慕う気持ちが見せた白昼夢なのか。いまでも僕にはわからない。
 願わくば、あれが現実であってほしい――そう僕は思っていた。
 *
「次は、室の腰、室の腰」
 バスの音声案内で、僕は幼少時の回想から抜けだした。
 すでにバスは、大室山の麓を一周して、さくらの里へと出ていた。桜の木が立ち並んでいるが、盛夏の折、当然、花は咲いていない。桜林の奥に、大室山がそびえ立っている。標高はさほどでもないが、近くで見ると、ずんぐりした緑色の巨体は、圧倒的な迫力をもってこちらに迫ってきた。
 バスを降りて、リフト乗り場に着いたとき、僕は予期せぬところで時の流れを感じた。十七年前は一人乗りだったリフトが、二人乗りになっている。伯父さんと涼子さんは一緒に乗るものだと思い、僕は一歩下がっていたが、涼子さんが近くに寄ってくる。「お父さん、独りで乗ってね」天真爛漫に笑いながら、意地悪なことを言う。
 僕は、彼女がわざわざ僕と一緒に乗るのを選んだことに、戸惑いを感じていた。
「大室は、空気がのんびりしてるから、落ち着くんだ」
 リフトに乗って、すぐ涼子さんは口を開いた。お喋り好きなのか、間断なく、僕に話しかけてくる。おっとりした話し方が可愛らしく、ただ彼女の声を聞いているだけで、僕の心は癒されていた。
 やがて、リフトは山頂部に到着した。
 伊豆の風景が、眼下に広がる。はるか遠くに見える、白っぽい港町は、北東にある伊東の町だ。ちょっと目線をずらせば、千葉の房総半島まで見える。
「今日は天気がいいな、富士山も綺麗に見えるぞ」
 伯父さんの言うとおり、もっと北のほうへ目を向ければ、雪をかぶった富士山がどっしりと鎮座している。
「写真撮ろうよ、あっちのほうで」
 僕の服を引き、火口を挟んで反対側のほうを指差した。
「涼子さん、ここで撮らないの?」
 富士山や、伊東の町などをバックに写真が撮れるはずだ。
「本当に眺め、いいと思う?」
 涼子さんは先へと歩きだした。僕はもう一度景色を眺めて、なるほど、と納得した。伊東の町までのあいだ、小山が連なる土地に、ゴルフ場が汚らしく広がっている。
「矢筈山は、げんこつ山って呼ばれているの」
 矢筈山とは、池の里の終端にそびえる、ごつごつした形状の山のことだ。弓に矢をつがえるための、矢筈に形が似ているからだろうが、涼子さんの教えてくれた「げんこつ山」の呼び名のほうが、あの山の形状をより正確に表しているかもしれない。
「あれが、私達の住んでいる、池の里」
 盆地に、細長く、田んぼが広がっている。家並みは、端のほうに小ぢんまりと密集している。
「げんこつやまのたぬきさん、おっぱいのんで、ねんねして……」
 突然、涼子さんが童謡をうたいだす。僕が目を丸くして見ていると、ちょっと頬を染めて、涼子さんは笑った。
「こういう歌、あるでしょう? もしかしたら矢筈山のことを歌っているのかな、って。池の里が大好きだから、たとえ関係なくても、私はこの唄が好き」
 僕も、「げんこつやまのたぬきさん」が好きになりそうだった。特に彼女がうたう「げんこつやまのたぬきさん」は、それだけで安らかな眠りにつけそうな、優しい響きがあった。
 *
 夜を迎えた。
 虫が鳴いている。池の夜は、東京の夏の夜よりも騒がしい。僕は何度も寝返りを打ちながら、虫の鳴き声に耳を澄ませていた。いまごろになって、自分があの忙しない東京から脱出できたのだと実感し、じわじわと嬉しさがこみあげてきた。
 大室山から戻ったあと、僕は部屋に引きこもったまま、ずっと携帯ゲームで遊んでいた。部屋から出たのは、食事とトイレのときだけだ。ふと、従妹が置いてくれたチラシに目がいった。一週間後、伊豆高原の別荘地で、盆踊りをやるらしい。
「一緒に行こうよ」
 と彼女は誘いかけてくれたが、まだ外に出るのは怖かった。
 ふと、虫の音が止んだ。あれだけ大合唱していたのが、ぱたりと、不自然な感じで。しばらくして、声が聞こえてきた。十七年前、大蛇の穴から聞こえてきたのと同じ声だ。僕は声に誘われるまま、家の外に出た。
 真っ暗な林道へと入っていく。声は、大室山のほうから聞こえる。坂道を延々と上っていき、高台の上へと上がる。大室山の麓の道に出て、道なりに、さくらの里まで歩いていく。
 桜林に辿りついた瞬間、雲間から、月が顔を出した。
 月明かりに照らされ、蒼く浮かび上がる大室山。その麓、桜の木が整列して僕を迎えてくれる――桜林の中心には、艶やかな黒髪を風になびかせ、十二単の女性が佇んでいる。夢だと思えば、かえって意識が覚醒してきて、目の前の「蛇の姫」が現実だと感じられる。
「手鞠を用意して、お待ちしておりました」
 十七年前と変わらない、優しい口調で、僕に微笑みかける。ああ、この人にとって、十七年は大して長くもないのだな――人外の者を相手にしながら、僕は、その程度の感慨しか抱かなかった。
「あなたは、何者ですか?」
 ずっと疑問に思っていたことを、彼女に問う。
「古くから、この大室山の麓に住む者です」
 十七年前と同じ答えだ。
 これが夢であるにせよ、幻であるにせよ、僕はこの再会を楽しもうと考えた。
 僕と蛇の姫は、東屋の椅子に腰掛けた。洞窟の中に連れ込まれるかと思ったが、
「また大泣きされては可哀想ですから」
 と蛇の姫は笑顔を見せた。
「貴方がこの地にやってきたことを知って、是非ともお会いしたくなったのです」
 やはりあの声は、彼女が僕を誘う声だった。
「大きくなりましたね、人違いかと思いました」
 あらかじめ用意してあったお茶と菓子を差しだし、蛇の姫は懐かしげに目を細める。
「ずっと、ここに住んでいるのですか?」
 僕が尋ねると、蛇の姫は、大室山のシルエットを見上げて、
「姫様がいつ戻ってきても大丈夫なように、常に準備を整えている必要がございます」
 おもむろに、大室山の主について語り始めた。大室山の主は、その昔、この地で子供を産んだそうだ。その子供は、別れた男との間に宿した子だった。
「子供はどこへ?」
 僕が問うと、蛇の姫は答えず、顔を背けた。
 一時間ほど話をし、ひと段落ついたところで、
「さ、今宵はここまで」
 蛇の姫は立ち上がった。
「もう夜も更けました、家に帰ってゆっくりお休みなさい」
 蛇の姫が姿を消した。同時に、周囲を照らしていた月明かりも掻き消え、あたりは一寸先も見えない暗闇に飲み込まれる。僕はパニックに陥った。
 気がつくと、僕はベッドの中にいた。すでに夜は明けていた。
 *
 蛇の姫と出会った次の日、僕は散歩に出かけた。夏の日差しが、白んだ肌にちりちりと染み込んでくる。朝飯を食べていないので、小腹が空き、小さな商店でエビカツを買って食べた。下手な市販品よりも美味しいカツに、舌鼓を打っていると、ソウ爺さんのトラックが、店の前に止まった。荷台には、涼子さんも乗っている。
「これから田んぼへ行くの、一緒に行こうよ」
「うん」
 か細く応えて、僕は荷台に乗った。
 涼子さんは、純白のブラウスに、桃色のスカートを穿いている。おっとりとした彼女に、よく似合う格好だった。トラックは、すぐに農地へと入った。矢筈山の麓まで、延々とある広大な田んぼの横を、トラックは疾走していく。田んぼを挟んで対岸にも道はあり、向こうのほうにもトラックが一台、並走して走っている。不意に、涼子さんは僕の腕を引いた。
「あれ、山神社っていうの」
 道の右側に、林を背にして、鳥居だけが見える。林の中に、本殿はあるようだ。
「年末にね、池の水で造ったお酒をふるまうんだよ。で、年を越すの」
 その話を聞いて、僕も輪に加われたらどんなに幸せだろう、と夢想した。
 ソウ爺さんの田んぼに着いたものの、涼子さんは手伝いに来たわけではなかった。
「ここで、いつも絵を描いてるの」
 黄色いスケッチブックを、鞄から取りだした。
「涼子は、美大に通っていたんだよ」
 ソウ爺さんが、トラックから肥料を下ろしながら、話してきた。
「おい、坊主。お前はこっちを手伝え」
「だめだめ、ソウ爺さん。晃一君は私と最初に約束したんだから。ね、早くこっちへ行こう」
 誘われるがまま、僕は彼女のあとを着いていった。後ろから、ソウ爺さんが大声で、
「手伝え!」
 と呼び止める。あとが怖いな、と思った。
 ヂイイ……蝉の鳴き声が夏の空気を運んでくる。ゆったりとウェーブのかかった髪を風になびかせ、涼子さんは田んぼの畦道を歩いていく。里の終端まで辿りついた。そこから先は、矢筈山――げんこつ山への登山口だ。涼子さんはスケッチブックを取り出し、矢筈山を背にして、丸太の上にすわった。ちゃんと腰の下にシートを敷いて、スカートに気を遣っているのが、やけに女の子らしく感じられた。
「晃一君って、いまはサラリーマン?」
 田園風景を写生しながら、涼子さんが話しかけてくる。入道雲を眺めていた僕は、顔を上に向けたまま、
「そうだったけど、やめた」
 と小さい声で返した。
「都会で働くのは、もうこりごりだよ」
「私も東京は嫌い」
 鉛筆をカリカリとせわしなく動かしながら、涼子さんはうなずいた。
 僕が会社をやめることになったのは、仕事よりも、もともと精神を病んでいたことが原因となっている。
 その心の病は、大学時代、恋人に捨てられたことから始まった。恋人は、亜沙子といった。あるとき、亜沙子が、同じサークルの他の男とデートをしたので、僕はそのことをなじった。デートした場所は、次の日の僕と行く約束をしていた遊園地だった。ただそれだけのことだったが、ヒステリックに喚き散らす僕に、亜沙子は愛想を尽かした。
 僕は、亜沙子に何から何まで依存していた。彼女のいない世界など考えられず、彼女と一緒に生きることだけが僕の喜びだった。だから、彼女から別れを告げられたとき、僕の精神は崩壊した。世界のすべてが、僕を否定しているような錯覚に陥った。
 その後、社会人となってから、徐々にストレスが溜まっていき、ついに病院へ行く必要があるほど、心を病んでしまったのである。
「私、二度と東京には行きたくない」
 涼子さんは、わずかに眉をひそめ、呟いた。
「絶対、行きたくない」
 確認するように、もう一度呟く。彼女にも何かあったのかと思い、さり気なく質問しようとしたが、胸の奥で言葉は引っかかり、何も聞けなくなってしまった。
 *
 五日目の夜、僕は自分から、大室山の麓へと赴いた。
 もしも蛇の姫が幻だったら――そんな恐怖を内に抱えて、僕はさくらの里へと足を踏み入れた。
 彼女は、ちゃんと、僕のことを待ってくれていた。
「あら」
 こちらの顔を覗き込んで、蛇の姫は痛々しげに眉をひそめる。
「泣かれていたのですか」
 ここへ来る前、僕はベッドで泣いていた。亜沙子のことを思いだし、
「その性格が鬱陶しい」
 と別れ際に言われた言葉が、また僕の胸を締めつけてきたからだ。
「苦しいことは誰かに話すものですよ」
 そう言われても、亜沙子が鬱陶しいと言ったのは、まさに僕が愚痴っぽかったからであって、もしも同じように自分の苦しみを告白して、否定されようものなら――と、僕は怯えるあまり、何も話せなかった。
 ふと、ガサガサと、何かが近づいてくる音がする。
「まあ、よくいらっしゃいましたね」
 彼女が声をかけたほうを見ると、子狸が三匹、物珍しげに僕のことを見ている。
「矢筈山の主、大狸の子供達です」
 やはり、げんこつ山には狸が棲んでいるのか。
「ときどき、私のところへ遊びに来るのですよ」
 子狸たちは、蛇の姫の足元によちよちと歩み寄り、毛むくじゃらの体をすり寄せてきた。僕が撫でようとすると、子狸は警戒して、あとずさりした。すぐにパッと散り、子狸たちはそこら辺を駆け回り、自分たちだけで遊び始めた。
「ごめんなさい、あの子たちは人見知りするのです」
 くすりと蛇の姫は笑った。
 今晩も、月明かりが、さくらの里を青白く照らしていた。
「辛いことがあるなら」
 ほう、と蛇の姫は溜め息をつく。
「遠慮せず、おっしゃってください」
 彼女に再度促され、僕の胸に、すべてぶちまけたい衝動が生まれる。
「僕は」
 勇気を振り絞って、声を出す。
「僕は東京で、大好きだった人に捨てられたんだ」
 そこからは、言葉が止まらなかった。自分のことを長々と話すのは、何年ぶりだろうか。蛇の姫がいちいち相槌を打ってくれるのが、無性に嬉しかった。
「幸せだったことなんて、一度もないよ」
 蛇の姫は茶碗から顔を上げ、ふっと微笑んだ。
「ひとつくらい、幸せな思い出はあるでしょう」
 僕は自分の半生を振り返ってみる。その間に、蛇の姫はお茶を献じてくれた。透き通るような緑色の、薫り高い緑茶だった。
「ひとつ、あった」
「どんな思い出ですか」
「もうはっきりとは憶えていないけど、小さいときに、母さんに連れられて動物園へ行ったんだ。母さんが亡くなる一年前だったかな」
 幼稚園の遠足だったので、みんな母親同伴で来ていた。僕の母さんは心臓を病んでいたのに、僕のために、一緒に来てくれた。遠足が終わり、現地解散となったとき、母さんは帰ろうとせず、僕と一緒に動物園に残っていた。みんなが帰ったことに気がつかず、急に周りが寂しくなったので、僕は困惑していた。やがて、涙目になってきた。そんな僕の手を、母さんは優しく握ってくれて、園内を一緒に歩いてくれた。閉園時間が迫る夕刻の動物園は、朱に染まり、人影がまばらで、物悲しい雰囲気だった。でも、母さんの手が温かく、僕は安らかな気分に浸っていた。
「それが僕の憶えている、幸せな思い出」
 長々と話して、僕は、お茶をくいと飲み干した。蛇の姫は、僕を静かに見つめていた。
 にわかに、月が雲に隠れ、あたりは暗くなった。突風が巻き起こり、桜の木が斜めに傾きだす。
「ああ、万次郎と万三郎がいらっしゃったのですね」
 蛇の姫は空を見上げたあと、顔を上に向けたまま、
「今日はもうお帰りになったほうがよろしいですね。彼らが風を巻いてくるときは、必ず機嫌が悪いのです……」
 そこで、僕の記憶は途絶えた。目を覚ましたときには、またベッドの上で寝ていた。
 *
 池にやってきてから、一週間経った。夕飯後、涼子さんがやって来て、
「しあさって、一緒に盆踊りに行こうよ」
 と誘ってきてくれた。三日後の夜、別荘地の広場で盆踊りをやるそうだ。池に来た日、涼子さんからチラシを貰っている。
「気が向いたら、いつでも声かけてね」
 涼子さんが部屋から出たあと、妙にいらいらしながら、僕はゲームで遊んでいた。
 外から車のエンジン音が聞こえてきた。伯父さんの家のガレージからだ。昨日、伯父さんの車が直ったばかりだ。しばらくして、涼子さんが部屋のドアを叩いてきた。
「伊東の花火大会が大室山から見られるけど、一緒に行かない?」
 僕は躊躇する。外に出るよりも、部屋に篭もっていたい気もする。
「早く決めないと、置いてくぞ」
 涼子さんは、からかうようにヒラヒラと手を振り、部屋から出ていった。迷った末に、僕はゲーム機の電源を切った。
 車には、父さんも乗っていた。
「父さんも?」
 花火に行くのか、と僕が訪ねると、父は黙って頷いた。なんだか、少しだけ、やつれていた。今日の父さんは、朝ごはんのあと、慌ただしくどこかへ出かけて、夕飯前までずっと戻ってこなかった。
「父さん、今日、何してた?」
「生涯学習センターに行っていた」
「伯父さんの家の近くにある、あそこ? 何しに行ったの」
「ちょっとしたお願い事があってな。まだ決定していないから、話がまとまったら、晃一にも教えてあげるよ」
 父は口を閉ざし、それ以上何も話さなくなった。涼子さんは伯父さんと話しているので、所在なく、僕は窓の外を見た。電灯のない山中の田舎道は、夜になると文字通り一寸先も闇だ。見てはいけないものを見てしまいそうで、怖くなって、車内に目を戻した。
 リフト乗り場では、また、涼子さんと僕が一緒にすわった。
「毎年、この時期になると、大室山のリフトは夜でも動いているよ」
「ああ、花火大会が見られるから」
「初日の出のときも、元旦の早朝から動いているの。でも、雲に隠れたり、大島の陰から出たり、毎年まともに日の出を見られないんだ」
 涼子さんは、リフトに乗っているあいだ、ずっと喋り通しだった。
 山頂部に着くと、すでに多くの人達が、山の北側に集まっている。そこから、伊東の町の夜景が見える。黒ずんだ海に面して、港町の灯が、チカチカと白く輝いている。
 音もなく、炎の玉が夜空へと昇っていく。ドン、と爆発音がし、花火が弾けた。伊東の按針祭をしめくくる、一万三千発の大花火大会の始まりである。ひゅるひゅる、ひゅるひゅると、花火は打ち上げられ、ひらいては散っていく。炎の玉が豆のように小さく見える。広大な伊豆の夜景の一部として、空に咲き乱れる花火を山上から見るのは、新鮮なおもむきがあった。
 涼子さんは、音楽プレーヤーを片手に、何かの曲を聴きながら、花火を鑑賞している。微かに笑ってはいるが、目は寂しそうだった。不意に、胸を締めつけられるような感覚に襲われ、衝動的に、僕は声をかけようとした。伯父さんが僕の腕を引き、首を振った。
「涼子もいろいろあったんだ、独りにしてやってくれ」
 涼子さんに、何があったのか。僕はそのことを想像して、気持ちが落ち着かなかった。