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第5話

ー/ー



「走れ!」
 忠茂は叫び、彩花の手を強く引いた。
 バシャバシャと水を蹴る音。膝下まで上がった水は、もう「逃走の足枷」だった。背後から、機械の脚が水面を打つ音が、確実に近づいてくる。
 ヒュン——。
 頭上で、何かが空気を切る音。
 ドローンだ。彩花の二十枚賭け、その「常時監視」の死刑宣告が、今、現実になって追ってくる。
 「離れて歩く」と決めたルールは、もう機能しない。
 網膜に時間が走る。
『残り時間 06:21』
 彩花の足がもつれ、水面に倒れ込んだ。
「ひっ……」
「立て!」
 忠茂は彼女の腕を掴み、引き起こす。化粧の落ちた頬に、濡れた髪が貼り付いていた。エクステは、もう両方とも消えていた。
「ごめん、忠茂くん、あたし……」
「謝るな。喋るな。走れ」
 配管の隙間を抜け、貨物コンテナの間を縫う。リーパーの脚音は、二機分か、三機分か。スキャンの緑光が、左右の壁を撫で回している。
 水位は、もう腰の高さに迫っていた。
 ふと、忠茂は壁際の配電盤に目を留めた。
 錆びた金属の箱から、剥き出しの配線が垂れ下がり、水面に触れた瞬間——バチッ、と火花が散った。
 電気と、水。
 忠茂の脳裏に、火花の光が二度残った。
「……彩花」
「な、何」
「リーパーは、電子機器だ」
「……?」
「水だ。水に沈めれば、ショートする」
 彩花が忠茂を見上げた。空っぽな目に、初めて光のようなものが灯った。
「上に登るぞ。水位が上がるのを、待つ」
「で、でも、もし防水だったら……」
「考えるな」
 忠茂は自分にも言い聞かせるように呟いた。
「考えたら、動けなくなる」
 最も近い貨物コンテナによじ登る。錆が手の皮を裂いたが、構わなかった。彩花を引き上げ、二人で天井に伏せる。
 そこから見下ろした船底は、もはや小さな海だった。
 胸まで届きそうな水面。
 そして——その水面下で。
 ジジ、と火花が散った。
 リーパーの一機が、水中で痙攣している。多脚が滅茶苦茶に動き、関節から青白い火花を噴いて、ゆっくりと沈んでいった。
「……動かなく、なった」
 彩花の声が震えた。
 別の方角でも、同じ光景。二機目、三機目のリーパーが、自重と水圧に呑まれていく。クロムの脚が、最後にひと掻き水面を叩いて、沈黙した。
 忠茂は、息を吐いた。
 勝った。そう思った、瞬間。
 カツン。
 コンテナの側面で、金属を叩く音がした。
「……っ」
 忠茂が下を覗き込むと、最後の一機が、コンテナの側面を這い上がっていた。
 他のリーパーと違う。脚の関節が黒いシーリングで覆われ、胴体には『MIL-WP』の刻印。
 ——防水仕様。運営の保険か。
 ヒュン——。
 スキャンの緑光が、忠茂の顔を撫でた。
「来るな……来るなぁっ!」
 彩花が悲鳴を上げる。忠茂は咄嗟に、コンテナの天井に転がっていた錆びた鉄パイプを掴んだ。
 リーパーの脚が、天井に到達した。クロムの先端が、忠茂の頬を掠める。
 忠茂は鉄パイプを振り下ろす。
 ガキン!
 脚の関節が、嫌な音を立てた。
 網膜の時間表示。
『残り時間 00:48』
 もう一度。リーパーの別の脚が忠茂の腕を絡め取ろうとした、その瞬間——。
「忠茂くん!」
 彩花が、横から鉄パイプを一緒に握った。か細い力。だが、二人分の重みが、リーパーの脚の付け根を粉砕した。
 バチッ、と火花。
 リーパーは均衡を失い、コンテナの側面を滑り落ち、水中に没した。
 ジジジ……と、最後の電光が水面を震わせ、そして、消えた。
『残り時間 00:00』
 ブオーン——。
 船全体に、けたたましいサイレンが鳴り響いた。
 水位の上昇が、突然止まった。どこかで排水ポンプが起動する音がする。運営は、生存者を「回収」するつもりらしい。
 忠茂と彩花は、コンテナの天井で崩れるように倒れ込んだ。互いの荒い息遣いだけが、暗闇に残った。
 網膜に金色の文字が踊る。
『有賀忠茂:生還 / 賞金回収 20枚』
『松本彩花:生還 / 賞金回収 40枚』
 彩花は震える指で、自分の網膜表示を見つめていた。
「……四十枚。あたしの、借金が……」
「……いくらだ」
「二千万」
 忠茂は息を呑んだ。
 四十枚=四千万。完済どころか、二千万のお釣りが来る。
 彼女の横顔を見た。空っぽな目に、安堵でも喜びでもない、奇妙な感情が浮かんでいた。
 ——本当に、終わったの?
 そう問いかけているような目だった。
 忠茂は黙って、自分の手のひらを開いた。
 チップが、二十枚。
 借金完済には、まだ、届かない。
 天井のスピーカーから、聞き覚えのある声が降ってきた。
「諸君、生還おめでとう」
 及川の声は、悪魔のように朗らかだった。
「八割が脱落した。なかなかの成績じゃ。生き残った者には、明日もう一つチャンスをやる。第二遊戯——『負債の連鎖』。今日は、ゆっくり休むがええ」
 スピーカーが、ぷつりと切れた。
 彩花が、忠茂の肩にゆっくりと頭を預けた。化粧と汗と、わずかな血の臭いがした。
「忠茂くん」
「……ん」
「あたし、もう一回、付き合っていい?」
 それは、依存の始まりの声だった。
 忠茂は、答えなかった。
 ただ、自分の手のひらの中で、二十枚のチップが、鈍く光っているのを見つめていた。


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「走れ!」 忠茂は叫び、彩花の手を強く引いた。
 バシャバシャと水を蹴る音。膝下まで上がった水は、もう「逃走の足枷」だった。背後から、機械の脚が水面を打つ音が、確実に近づいてくる。
 ヒュン——。
 頭上で、何かが空気を切る音。
 ドローンだ。彩花の二十枚賭け、その「常時監視」の死刑宣告が、今、現実になって追ってくる。
 「離れて歩く」と決めたルールは、もう機能しない。
 網膜に時間が走る。
『残り時間 06:21』
 彩花の足がもつれ、水面に倒れ込んだ。
「ひっ……」
「立て!」
 忠茂は彼女の腕を掴み、引き起こす。化粧の落ちた頬に、濡れた髪が貼り付いていた。エクステは、もう両方とも消えていた。
「ごめん、忠茂くん、あたし……」
「謝るな。喋るな。走れ」
 配管の隙間を抜け、貨物コンテナの間を縫う。リーパーの脚音は、二機分か、三機分か。スキャンの緑光が、左右の壁を撫で回している。
 水位は、もう腰の高さに迫っていた。
 ふと、忠茂は壁際の配電盤に目を留めた。
 錆びた金属の箱から、剥き出しの配線が垂れ下がり、水面に触れた瞬間——バチッ、と火花が散った。
 電気と、水。
 忠茂の脳裏に、火花の光が二度残った。
「……彩花」
「な、何」
「リーパーは、電子機器だ」
「……?」
「水だ。水に沈めれば、ショートする」
 彩花が忠茂を見上げた。空っぽな目に、初めて光のようなものが灯った。
「上に登るぞ。水位が上がるのを、待つ」
「で、でも、もし防水だったら……」
「考えるな」
 忠茂は自分にも言い聞かせるように呟いた。
「考えたら、動けなくなる」
 最も近い貨物コンテナによじ登る。錆が手の皮を裂いたが、構わなかった。彩花を引き上げ、二人で天井に伏せる。
 そこから見下ろした船底は、もはや小さな海だった。
 胸まで届きそうな水面。
 そして——その水面下で。
 ジジ、と火花が散った。
 リーパーの一機が、水中で痙攣している。多脚が滅茶苦茶に動き、関節から青白い火花を噴いて、ゆっくりと沈んでいった。
「……動かなく、なった」
 彩花の声が震えた。
 別の方角でも、同じ光景。二機目、三機目のリーパーが、自重と水圧に呑まれていく。クロムの脚が、最後にひと掻き水面を叩いて、沈黙した。
 忠茂は、息を吐いた。
 勝った。そう思った、瞬間。
 カツン。
 コンテナの側面で、金属を叩く音がした。
「……っ」
 忠茂が下を覗き込むと、最後の一機が、コンテナの側面を這い上がっていた。
 他のリーパーと違う。脚の関節が黒いシーリングで覆われ、胴体には『MIL-WP』の刻印。
 ——防水仕様。運営の保険か。
 ヒュン——。
 スキャンの緑光が、忠茂の顔を撫でた。
「来るな……来るなぁっ!」
 彩花が悲鳴を上げる。忠茂は咄嗟に、コンテナの天井に転がっていた錆びた鉄パイプを掴んだ。
 リーパーの脚が、天井に到達した。クロムの先端が、忠茂の頬を掠める。
 忠茂は鉄パイプを振り下ろす。
 ガキン!
 脚の関節が、嫌な音を立てた。
 網膜の時間表示。
『残り時間 00:48』
 もう一度。リーパーの別の脚が忠茂の腕を絡め取ろうとした、その瞬間——。
「忠茂くん!」
 彩花が、横から鉄パイプを一緒に握った。か細い力。だが、二人分の重みが、リーパーの脚の付け根を粉砕した。
 バチッ、と火花。
 リーパーは均衡を失い、コンテナの側面を滑り落ち、水中に没した。
 ジジジ……と、最後の電光が水面を震わせ、そして、消えた。
『残り時間 00:00』
 ブオーン——。
 船全体に、けたたましいサイレンが鳴り響いた。
 水位の上昇が、突然止まった。どこかで排水ポンプが起動する音がする。運営は、生存者を「回収」するつもりらしい。
 忠茂と彩花は、コンテナの天井で崩れるように倒れ込んだ。互いの荒い息遣いだけが、暗闇に残った。
 網膜に金色の文字が踊る。
『有賀忠茂:生還 / 賞金回収 20枚』
『松本彩花:生還 / 賞金回収 40枚』
 彩花は震える指で、自分の網膜表示を見つめていた。
「……四十枚。あたしの、借金が……」
「……いくらだ」
「二千万」
 忠茂は息を呑んだ。
 四十枚=四千万。完済どころか、二千万のお釣りが来る。
 彼女の横顔を見た。空っぽな目に、安堵でも喜びでもない、奇妙な感情が浮かんでいた。
 ——本当に、終わったの?
 そう問いかけているような目だった。
 忠茂は黙って、自分の手のひらを開いた。
 チップが、二十枚。
 借金完済には、まだ、届かない。
 天井のスピーカーから、聞き覚えのある声が降ってきた。
「諸君、生還おめでとう」
 及川の声は、悪魔のように朗らかだった。
「八割が脱落した。なかなかの成績じゃ。生き残った者には、明日もう一つチャンスをやる。第二遊戯——『負債の連鎖』。今日は、ゆっくり休むがええ」
 スピーカーが、ぷつりと切れた。
 彩花が、忠茂の肩にゆっくりと頭を預けた。化粧と汗と、わずかな血の臭いがした。
「忠茂くん」
「……ん」
「あたし、もう一回、付き合っていい?」
 それは、依存の始まりの声だった。
 忠茂は、答えなかった。
 ただ、自分の手のひらの中で、二十枚のチップが、鈍く光っているのを見つめていた。