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第4話

ー/ー



落下は、思っていたより長かった。
 胃が浮き、視界が真っ暗になり、次の瞬間、忠茂の足は冷たい鉄板を打った。膝がぐしゃりと折れ、肩から錆びた配管に叩きつけられる。
「……っ、く」
 息が詰まる。湿気と機械油と、何か腐った海水のような臭いが、鼻の奥にねじ込まれた。
 ここが、エルドラドの船底か。
 網膜に赤い文字が点る。
『残り時間 09:32 / 監視レベル:位置情報リアルタイム公開』
 ——俺の居場所は、もうリーパーに筒抜けだ。
 忠茂は身を起こし、暗がりに目を凝らす。剥き出しの配管、錆びた貨物コンテナ、用途不明の鉄骨が乱雑に組まれた廃墟のような空間が、点在する非常灯の橙色だけで浮かび上がっていた。天井は低く、迷路は奥へ奥へと続いている。
 遠く——どこか上の階層で、悲鳴。
 別の方角で、何かが潰れる音。
 そして。
 カツン。カツン。カツン。
 金属の脚が、鉄板を叩いて近づいてくる。
 心臓が跳ねた。忠茂は息を殺し、最寄りの配管の隙間に身体をねじ込む。背中に錆が刺さるが、構っていられない。
 カツン——カツン——。
 足音は、配管の向こうを通り過ぎ、奥の暗闇に消えていった。
 息を吐きかけた、その時だった。
 ブツン。
 非常灯が、一斉に消えた。
 完全な、暗闇。
 網膜の時間表示だけが、世界に残された唯一の光になる。
『残り時間 08:51』
 遠くで、機械音が止まった。リーパーも、停電の影響を受けたらしい。
 ——が、それは数秒で終わった。
 ヒュン、と空気を裂く音。
 暗闇の奥に、緑色の細い光が走った。一筋、二筋、三筋——左右に振れる赤外線スキャン。
 ——奴ら、夜目に切り替えやがった。
 この暗闇は、もう人間にしか不利だ。
 忠茂は壁伝いに移動を始めた。手探りで進む。冷たい鉄、ベタつく配管、そしてふいに——柔らかいもの。
「ひっ」
 甲高い悲鳴。女の声だった。
 忠茂も声を上げそうになり、慌てて口を塞ぐ。
「……人間、か」
「あんた、人間? 機械じゃないよね?」
 声は震えていた。荒い息、香水と汗の入り混じった匂い。
 忠茂は懐から百円ライターを取り出し、親指で押し潰す。か細い炎が灯った。
 女だった。
 派手な化粧、片方だけ残ったエクステ、剥げかけたネイル。豪華客船には場違いな、繁華街そのままの格好。年は二十代半ばくらいか。化粧の下の頬が、涙で黒く濡れていた。
「……あんた、何枚賭けた?」
 忠茂が小声で尋ねると、女は鼻を啜ってから、ふっと力なく笑った。
「二十。全部」
 忠茂は息を呑んだ。
 ——ドローン常時監視。逃走ルート封鎖。広間で及川が「死刑宣告」と言ったレベルだ。
 組めば、こいつのドローンが俺の頭上にも飛んでくる。
 離れろ。今すぐ離れろ。
 頭の冷静な部分がそう叫ぶ。
 だが——。
 暗闇の中、女の震える肩を見た瞬間、忠茂の足は動かなかった。
 ——一人の方が、怖い。
 その本能が、計算を上回った。
「……一緒に行くか」
「いいの?」
「ただし俺は十枚だ。あんたの監視に巻き込まれたくない。離れて歩く。声だけで合図する」
「……うん」
 二人は壁伝いに、奥へと進んだ。ライターはすぐに消した。光はリーパーを呼ぶ。
「あたし、彩花」
 女が、囁き声で言った。聞いてもいないのに。
「……忠茂」
「ねえ、忠茂くんって、なんでここにいるの?」
 軽い声だった。世間話のような響き。場違いに明るい。
 忠茂は、山口の名前を口に出そうとして、やめた。
「……保証人にされた。友達に」
「ふうん。あたしはホスト。蓮ってヤツに貢いじゃってさ。気づいたら五百万。馬鹿でしょ?」
 ふふ、と彼女は笑った。本当に他人事のような声で。
「明日、ソープに沈められる予定だったの。だから来た。体売るくらいなら、ここで死んだ方がマシかなって。……あ、これ重い話? ごめん」
 忠茂は、何も言えなかった。
 返済を逆算して十枚を選んだ自分と、考えなしに二十枚を全張りしたこの女。
 ——同じ場所に立っているのに、立ち方がまるで違う。
 ふと、彩花が黙った。
「……忠茂くん」
「ん」
「足、冷たくない?」
 忠茂は視線を落とした。
 暗闇では何も見えない。だが、革靴の中に、確かに冷たい感触が滲み込んでいる。
 ライターをもう一度灯す。
 炎の橙色に、鉄板を這う黒い水面が映った。
 水。
 くるぶしまで、もう来ている。
「……船、沈むの?」
 彩花の声が、初めて素になった。震えていた。
 忠茂は答えられなかった。網膜に時間が走る。
『残り時間 06:48』
 遠くから、轟音。水が、どこか別の隔壁から噴き出す音だ。
 そして、その水音に紛れて。
 ヒュン——。
 緑色の赤外線が、暗い水面を撫でた。
 反射した光が、二人の顔を、はっきりと照らし出した。


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落下は、思っていたより長かった。 胃が浮き、視界が真っ暗になり、次の瞬間、忠茂の足は冷たい鉄板を打った。膝がぐしゃりと折れ、肩から錆びた配管に叩きつけられる。
「……っ、く」
 息が詰まる。湿気と機械油と、何か腐った海水のような臭いが、鼻の奥にねじ込まれた。
 ここが、エルドラドの船底か。
 網膜に赤い文字が点る。
『残り時間 09:32 / 監視レベル:位置情報リアルタイム公開』
 ——俺の居場所は、もうリーパーに筒抜けだ。
 忠茂は身を起こし、暗がりに目を凝らす。剥き出しの配管、錆びた貨物コンテナ、用途不明の鉄骨が乱雑に組まれた廃墟のような空間が、点在する非常灯の橙色だけで浮かび上がっていた。天井は低く、迷路は奥へ奥へと続いている。
 遠く——どこか上の階層で、悲鳴。
 別の方角で、何かが潰れる音。
 そして。
 カツン。カツン。カツン。
 金属の脚が、鉄板を叩いて近づいてくる。
 心臓が跳ねた。忠茂は息を殺し、最寄りの配管の隙間に身体をねじ込む。背中に錆が刺さるが、構っていられない。
 カツン——カツン——。
 足音は、配管の向こうを通り過ぎ、奥の暗闇に消えていった。
 息を吐きかけた、その時だった。
 ブツン。
 非常灯が、一斉に消えた。
 完全な、暗闇。
 網膜の時間表示だけが、世界に残された唯一の光になる。
『残り時間 08:51』
 遠くで、機械音が止まった。リーパーも、停電の影響を受けたらしい。
 ——が、それは数秒で終わった。
 ヒュン、と空気を裂く音。
 暗闇の奥に、緑色の細い光が走った。一筋、二筋、三筋——左右に振れる赤外線スキャン。
 ——奴ら、夜目に切り替えやがった。
 この暗闇は、もう人間にしか不利だ。
 忠茂は壁伝いに移動を始めた。手探りで進む。冷たい鉄、ベタつく配管、そしてふいに——柔らかいもの。
「ひっ」
 甲高い悲鳴。女の声だった。
 忠茂も声を上げそうになり、慌てて口を塞ぐ。
「……人間、か」
「あんた、人間? 機械じゃないよね?」
 声は震えていた。荒い息、香水と汗の入り混じった匂い。
 忠茂は懐から百円ライターを取り出し、親指で押し潰す。か細い炎が灯った。
 女だった。
 派手な化粧、片方だけ残ったエクステ、剥げかけたネイル。豪華客船には場違いな、繁華街そのままの格好。年は二十代半ばくらいか。化粧の下の頬が、涙で黒く濡れていた。
「……あんた、何枚賭けた?」
 忠茂が小声で尋ねると、女は鼻を啜ってから、ふっと力なく笑った。
「二十。全部」
 忠茂は息を呑んだ。
 ——ドローン常時監視。逃走ルート封鎖。広間で及川が「死刑宣告」と言ったレベルだ。
 組めば、こいつのドローンが俺の頭上にも飛んでくる。
 離れろ。今すぐ離れろ。
 頭の冷静な部分がそう叫ぶ。
 だが——。
 暗闇の中、女の震える肩を見た瞬間、忠茂の足は動かなかった。
 ——一人の方が、怖い。
 その本能が、計算を上回った。
「……一緒に行くか」
「いいの?」
「ただし俺は十枚だ。あんたの監視に巻き込まれたくない。離れて歩く。声だけで合図する」
「……うん」
 二人は壁伝いに、奥へと進んだ。ライターはすぐに消した。光はリーパーを呼ぶ。
「あたし、彩花」
 女が、囁き声で言った。聞いてもいないのに。
「……忠茂」
「ねえ、忠茂くんって、なんでここにいるの?」
 軽い声だった。世間話のような響き。場違いに明るい。
 忠茂は、山口の名前を口に出そうとして、やめた。
「……保証人にされた。友達に」
「ふうん。あたしはホスト。蓮ってヤツに貢いじゃってさ。気づいたら五百万。馬鹿でしょ?」
 ふふ、と彼女は笑った。本当に他人事のような声で。
「明日、ソープに沈められる予定だったの。だから来た。体売るくらいなら、ここで死んだ方がマシかなって。……あ、これ重い話? ごめん」
 忠茂は、何も言えなかった。
 返済を逆算して十枚を選んだ自分と、考えなしに二十枚を全張りしたこの女。
 ——同じ場所に立っているのに、立ち方がまるで違う。
 ふと、彩花が黙った。
「……忠茂くん」
「ん」
「足、冷たくない?」
 忠茂は視線を落とした。
 暗闇では何も見えない。だが、革靴の中に、確かに冷たい感触が滲み込んでいる。
 ライターをもう一度灯す。
 炎の橙色に、鉄板を這う黒い水面が映った。
 水。
 くるぶしまで、もう来ている。
「……船、沈むの?」
 彩花の声が、初めて素になった。震えていた。
 忠茂は答えられなかった。網膜に時間が走る。
『残り時間 06:48』
 遠くから、轟音。水が、どこか別の隔壁から噴き出す音だ。
 そして、その水音に紛れて。
 ヒュン——。
 緑色の赤外線が、暗い水面を撫でた。
 反射した光が、二人の顔を、はっきりと照らし出した。