第4話:闇の同伴者
ー/ー 落下は、臓器が反転するかと思うほどに長かった。
人工重力の制御が効かない船底の暗黒へ、質量が叩きつけられる。次の瞬間――凄まじい金属の衝突音とともに、有賀忠茂の身体は、錆びついた旧式強化外骨格『アイアン・レスキュー』の密閉コックピットの中で激しくバウンドしていた。
衝撃吸収ゲルが悲鳴を上げ、古い人工筋肉(サーボ)の駆動系がギュウウインと高周波の不協和音を立てる。
「……っ、ハ、クソ……生きてるな」
肺から無理やり空気を絞り出し、忠茂はハッチの内壁を叩いた。
コックピット内に流れ込んでくるのは、重油と剥き出しの配管、そして腐った海水が混ざり合った、この監獄船の底に溜まった最悪の澱みだ。
網膜の視覚デバイス(サイバー・アイ)に、血のように赤い数字が点滅を開始する。
『残り時間 09:32 / 警告:あなたの位置情報は【常時リアルタイム公開】されています』
ドック迷宮の全域に、自分の座標を示す電子ビーコンがバラ撒かれている。リーパーに対して「ここに美味い獲物がいるぞ」と叫び続けているようなものだ。
だが、忠茂は怯まない。ホログラムの操縦桿を握る両手には、かつてプロ候補生としてアリーナを支配していた頃の、冷徹なまでのコントロール感覚が戻っていた。外部カメラを夜間モードに切り替えると、剥き出しの液体配管、錆びついた多国籍貨物コンテナ、用途不明のH鋼が乱雑に組まれた、巨大な廃墟の迷宮が緑色の輪郭線となって浮かび上がった。
遠くで、誰かの生体反応が消失する電脳痛(ペイン)の絶叫。
そして、水面を激しく打つ規則的な金属音が、こちらの網膜ソナーに引っかかった。
――カツン。カツン。カツン。
「チッ、もう来やがったか……!」
忠茂は『アイアン・レスキュー』の出力を最小限に抑え、鉄骨の影に巨体を滑り込ませた。この機体は元々、湾岸のコンテナ事故用の救助重機だ。戦闘用のようなステルス機能もなければ、最新の光学兵器もない。あるのは、肉厚の圧延鋼板と、過剰なまでの超高トルクの油圧シリンダーだけだ。
突如、迷宮を辛うじて照らしていた非常橙灯が一斉に暗転した。
完全なゼロ・ルクス。世界からすべての光が喪失し、網膜のデジタルタイマーだけが虚空に浮かび上がる。
『残り時間 08:51』
システムによる、さらなる「間引き」の停電。だが、死神の歩みは止まらない。
暗闇の奥から、ヒュン、ヒュンと空気を裂く電子音が響く。三筋の鮮烈な緑色レーザー――リーパーが夜間戦闘用のアクティブ・スキャンに切り替えたのだ。この暗黒は、人間にしか牙を剥かない。
忠茂は機体のパッシブ・センサーを頼りに、音もなく壁伝いに移動を開始した。重機の足元で、ピチャリと奇妙な水音が響く。その時、外部オーディオが、重金属の軋みとは異なる「か細い生身の生理呼吸」を拾った。
「ひっ……! こ、来ないで……!」
ハッチを開けずともわかる、恐怖に引き攣った女の声だ。
忠茂は機体の外部音声スピーカーのボリュームを絞り、低く硬質な声を出した。
「静かにしろ。人間に吠える機械はいない」
機体の胸部ハッチを跳ね上げ、忠茂は生身の顔を暗闇に晒した。胸ポケットから取り出したのは、2130年では骨董品(アンティーク)の部類に入る、真港の露店で手に入れた真鍮製のオイルライターだ。
カキン、と硬質な金属音を立てて親指でフリントを擦ると、小さな、しかし温かい橙色の炎が闇をわずかに押し返した。
そこにいたのは、場違いな夜の歓楽街の格好をした女だった。
派手な化粧は涙と汗で黒く流れ、剥げかけたネイルが施された指先で、自分の細い肩を抱いて震えている。
「あんた……なんで強化外骨格(それ)に乗ってんのに、生身の雑魚(あたし)なんか助けるのよ……」
「気まぐれだ。それより、お前、網膜のベット数(枚数)は何枚だ?」
忠茂の問いに、女は自嘲気味に、ふっと力なく笑った。
「20枚。全部よ。……ホストのツケが500万。明日ソープに沈められる予定だったから、一発逆転を狙って全張りしてやったわ。馬鹿でしょ?」
忠茂の背筋に、冷たいアドレナリンが走った。
20枚――及川が言った最悪の難易度。ドローン常時監視、逃走ルート強制封鎖。
(関わるな。今すぐハッチを閉めて、この女を置いていけ)
脳内の冷徹なストライカーが、瞬時に損得勘定を弾き出す。こいつと一緒にいれば、どれだけ機体の出力を隠そうが、上空から帝国金融の監視衛星の目が降ってくる。
だが、その瞬間。
バササササササッ! と頭上の通気ダクトが激しく風を孕んで回転した。
ダクトの隙間から滑り込んできたのは、赤く発光する帝国金融の「監視ドローン」だった。その超高輝度サーチライトが、スポットライトのように女の身体と、そして忠茂の『アイアン・レスキュー』の無骨な鋼鉄の肉体を、容赦なく純白の光の中に炙り出した。
「――チッ、最悪だ!」
「キャアアアアッ!」
「乗れ! 死にたくなければ、俺の操縦席(後ろ)に潜り込め!」
忠茂は計算をドブに捨て、女の細い腕を掴んでコックピットの予備スペースへ引きずり込んだ。ハッチがガコンと音を立てて閉鎖され、完全な密閉空間となる。
「あたしは彩花……! あんた、名前は!?」
「忠茂だ。喋ると舌を噛むぞ、彩花!」
ふと、忠茂は操作ペダルの感触に違和感を覚えた。
外部カメラの映像が、異様な情景を映し出す。いつの間にか、ドックの床一面に、黒く澱んだ海水が激しい勢いで流れ込んでいた。すでに水位は重機のくるぶしを越え、膝の駆動系にまで達しようとしている。
「忠茂くん……これ、船が沈んでるの……!?」
「いや、違う。及川のジジイが、逃げ場を無くすために意図的にバラストタンクの海水を逆流させてやがるんだ。時間を稼ぐ『ドブネズミ』を、物理的に溺死させるために!」
『残り時間 06:48』
ゴゴゴゴゴ……! と隔壁の向こうから津波のような質量が押し寄せる音が響く。
そして、その激しい水音を切り裂いて、正面の暗黒から、一筋、二筋、三筋の「緑色の赤外線」が、波立つ水面を滑るようにして二人のコックピットの装甲板を捉えた。
ギギギギギギギギギッ!!!
狂気的な駆動音とともに、暗闇から姿を現したのは、浸水などお構いなしに水面を滑走する、3機の『リーパー』だった。そのクロムの多脚が水飛沫を上げ、鋭利なカッターアームが赤色灯の中でギラリと狂い輝く。
上空からはドロンのサーチライト。足元からは押し寄せる海水。正面からは3機の殺人機械。
完全なる、絶体絶命。
だが、有賀忠茂の網膜(目)から、光は消えていなかった。
彼は操縦桿を限界まで引き絞り、古い水素エンジンの出力を、過負荷(オーバーロード)を示す限界領域(レッドゾーン)まで一気に叩き込んだ。ガガガガガと機体が激しく震動し、背面の排気バルブから超高圧の蒸気が噴き出す。
「位置情報がバレてて、ルートが塞がれてて、おまけに水浸しだ。……ハッ、上等じゃねえか。だったら、隠れる必要もねえな!」
忠茂は獰猛に歯を剥き出し、右足の進撃ペダルを床が抜けるほどに踏み抜いた。
「彩花、掴まってな! 時速百五十キロの世界(アリーナ)へ連れてってやる!」
ドバアアアアアン――!!
海水を爆発させ、旧式重機『アイアン・レスキュー』が、死神の群れが待つ正面の暗黒へと、弾丸のごとき超加速で突撃(ドライブ)を敢行した。その激突の瞬間で、世界が白く弾けた。
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