表示設定
表示設定
目次 目次




てるてるぼうず〜千羽の鶴が羽ばたくとき

ー/ー



「もうすぐ、おまえに、妹と弟ができるぞ」
 突然の父親の言葉に、久(ひさし)は、思わず間抜けな顔で、腰を浮かせた。
「なにいってんだよ。父さん。母さんはもうずっと前に──死んだだろ」
 だが、父親はどこか浮かれた顔をしながら、さっさと居間を出て行ってしまった。
「なんだよ、あれ」

 翌日。ドアを開けた途端に飛び込んできた二人の子供の姿に、久は、口を尖らせた。小生意気にこちらを見上げる片われを無視し
、その後ろに隠れたもう一人の脇の(かさ)立てに一瞥(いちべつ)をくれる。玄関に父親の靴があることを確かめ、濡れた制服のまま家に上がり込むと、案の定、仕事が早く終わりでもしたのか、居間で父親がテレビに夢中になっていた。前髪からたれる水滴を、袖で乱暴に拭う
「お、久か。おかえり。なんだ、ずぶ濡れじゃないか」
 子供達が両腕にまとわりつくなか、久は少々苛立たしげに頭を掻いて、父親を睨んだ。
「なんなんだよ、こいつら! 父さんの知り合いか?」
 父親は、持ってきたタオルを、久に投げてよこしながら、笑顔で子供達に近づいた。
「ああ。母さんの親戚の、娘さんと息子さんで、名前は美珠(みたま)ちゃんと、穂高(ほたか)くん。今日からしばらく、うちで預かることになった」
 目を丸くする久の鼻先で、父親はふたりを居間に迎え入れる。子供達は甲高い声をあげて、遠慮なく万年こたつに潜った。黙ったまま突っ立つまでいると、父親が、久のそば──居間の入り口や、玄関付近の床を拭き始め、
「どういうことだよ」
「おまえを驚かそうと思って黙ってた。二人とも、とても可愛いだろう?」
「どこが」
 言うと、不思議そうに父親がこちらを見た。
「それより、おまえ、傘を持っていかなかったのか?
 まるで、濡れ(ねずみ)みたいだぞ」
 床を拭く手を一瞬止め、久は、口の端を引きつらせた。
「転んだ」言ってから、舌打ちした。「転んだ。そいつらが、急にやってきてまとわりついて、すべったんだ」
 学校も終わり、家へ帰る途中の脇道。住み慣れたアパートに、もう、五分となくつける距離だった。向かいから二人の子供達がやってきた。微笑ましげなその様子に、油断していた久は、次の瞬間、派手に転んで傘を落とした。なんだかよくわからないが、子供達がいきなり自分にタックルしてきたのだ。細いその道にちょうど車がやってきていた。水溜まりに足を取られながらも、道の内側寄りにいた子供達をかばおうとした久は、自動車のタイヤが巻き上げた水たまりの水を浴び、左手左膝から地面の──水たまりに突っ込んだ。その時はまだ片膝を立て、右手に傘を持っていた。たが、力を抜き、下ろした右手から傘をはなした。今度は、後ろにのけぞった。危うく──左手をついて踏みとどまる。顔を上げた久は、自分の傘を盗んで行く二人組を目撃した。しばし、口を開けて、そのままことのなりゆきを見守った。はたと、我に返った。子供用の傘を持ちながら、久の傘を危なっかしく持って走る子供達を追いかけたが、子供達が通ったすぐ後、久の鼻先で、信号が赤に変わった。車が通り過ぎ、青信号に戻ったころには──その先の細道を曲がったところまではわかるのだが──入り組んだ建物の影に隠れたのか、子供達の姿を見失ってしまった。青い大きめの傘だ。久にとっては、とても大切なものだった。母親が生前、結婚前に父親にプレゼントした物なのだ。諦め悪く、十分ほど探しまわったあげく、半ば泣くような気持ちで、自宅のアパートのドアを開ければ、なぜか例の子供二人が出迎えた次第である。
 父親はなぜだか予想通りに吹き出し、久は顔をしかめる。
「怒るな、怒るな。ちょっとしたいたずらだろう。美珠ちゃんも、穂高くんも、おまえと遊んでいたつもりなんだよ。美珠ちゃんも穂高くんも、自分から、おまえを迎えに行ってくれたんだぞ」
 お迎えご苦労さま、と子供達に笑う父親。久は、大きくため息をついた。そして、居間のこたつに入った父親と一緒になって笑う、美珠と穂高を見遣ってから、とりあえず着替えや後処理を済ませ、最後にやっと、温まるために、こたつに入った。
「この子達のお母さんが、入院していて、お父さんは何年も前に、亡くなっていらしてね。それで、父さんが預かることにはなとにしたんだ」
 その言葉に顔を上げた久は、どこか淋しげに笑う父親を見た。

 その日から、美珠と穂高との共同生活が始まった。美珠の通う小学校と、穂高の通う幼稚園は、久の家からは、徒歩で三十分はかかる。久の通う中学校までの倍くらいの距離だ。二人の住む家もここから行けない距離ではないが、親戚づきあいの良くない久は、いままでふたりのことなど知らなかった。そう言われて見れば、聞いたことがあるような気もしたが、確かな記憶ではない。朝は、父親が出勤時間を少しずらして、二人を車で送ることになった。父親はきちんと朝食を作ることも忘れなかった。美珠は小学二年生で、穂高はまだ幼稚園の年少である。穂高の迎えは、学校帰りの美珠を中心に、同じ幼稚園児を子供に持つお母さん方や、先生方が協力してくれたり、親切に弁当を作ってくれたりもした。しかし、久はなんだか心配で、学校が早く終わった日には、できるだけ自分で、二人を迎えに行った。夜は父親の帰りが遅いので、久が、夕食を作ったりもした。父親と二人暮らしの久は、ちょっとした料理くらいならできるが、面倒くさがって、すぐに簡単な料理や、既製品(きせいひん)で済ませてしまう。それが二人には不評のようで、
「まぁた目玉焼きー? ねぇぇ、出前とろうよー。出前ー」
「僕、カツ丼がいいー!」
 いつもいつも、甲高い声が容赦なく降ってくるのだった。
 
 美珠は、少し癖のある色の薄い髪に、ぱっちりとした瞳の、将来は美人になりそうな、なかなかにかわいい顔をしていた。穂高は、栗色の髪で、こざっぱりとした髪型をしている。いつも鼻の頭を赤くしていた。癖なのか、時々目を細めて遠くをじっと睨むような顔をする。二人とも、外だろうと家の中だろうとお構いなしに駆け回り、外に出る時は、大抵、久も同伴で、一緒になって遊んだ。
「ねぇ、久。遊ぼう」
 いつも通りに、勉強机に向かって宿題をしていた久の元に、穂高が笑顔でやってきた。両手にいろいろなカードゲームを抱えている。
「あのなあ、穂高」
 不満そうな久の顔を見て、穂高は首をかしげる。
「じゃあ、テレビゲームのほうがいい? それとも、電車のおもちゃ?」
 あくまで無邪気な穂高は、久のジーンズにすがりついて、指折りに思いつく限りの遊びを並べ上げる。もうそろそろ、夕暮れ時で外には出られないので、室内でできるものを、一生懸命に考えている。
「穂高。俺、早くこれを片づけて、かりだ。家が離れてしまったせいか、二人は、あまり友達のところに出かけては行かない。子供達は一日中騒いで、うるさくて仕方がないし、久だって、学校の友達とも、あまり遊んでいない。別に誰かに強制されたわけでもない。自分が好きでやっているようなところもある。だけど、以前のように自分の好きなことが自由にできなくて、久の心は焦っていた。宿題を再開した。しかし、穂高はいつまでたっても、そこから動かず、久はため息をついた。穂高を見る。
「穂高、あのさ」
 久の苛立った低い声に、穂高は一瞬怯えたように、肩を竦めた。
「悪いんだけどさ」
 そこまで言ったとき、こたつの上で絵をかいていた美珠が、こちらにやってきた。挑むように久を睨み上げる。
「なによ! 久のけち。遊んであげればいいじゃない! 穂高が、せっかく、遊んでほしいっていってるんだからっ!」
 美珠のいうことは間違ってはいない。大人げないのは多分、自分の方だ。久にだって、そんなことはわかっていた。だが、握った拳は、小刻みに机の上を叩き続けた。美珠が、まだ何か、言おうとした。その言葉をふさぐよう
「うるせえ!」
 そういってから、久は、少し後悔した。その思いが徐々に広がっていく。美珠が俯くのを見て、穂高は、掴んだままだった久のジーンズを放した。穂高も俯いて、そのまま美珠のほうに歩いて行った。まずいな、とは思ったが、なんだかどうにもできずに、久は居心地の悪いまま、宿題に手を伸ばした。もう、ほとんど片づいていて、残りは数問しかなかったが、それをやり終えるまでの時間が、やけに長く感じた。振り返ると、二人はまだ、静かにその場に立っていた。
「ごめん、その…もういいよ、一緒に、遊ぼう」
 久がそういうと、二人は顔を上げて、瞳を輝かせた。
「ごめん」
 謝る久の手を取って、二人は久をこたつに招いた。嬉しそうにカードを切り始めた穂高と、何事もなかったように、絵を描く美珠を見ながら、久はなんだか不思議な気持ちを覚えた。温かいような──不思議な気持ちだ。

 日曜日。美珠と穂高の母親のお見舞いに行くことになった。久の父親の車で病院の近くまで行き、そこで花束を買った。美珠が嬉しそうに花束を抱えて走り、穂高がそれを追いかける。美珠と穂高の母親は、案外元気で、面会室のソファーに座って笑っていた。温かそうなブルーの上着を着ている。机の上の色とりどりの折り紙で鶴を折っていた。彼女が入院することになった原因は、はっきりとはわからないらしい。精神的なものらしく、最初は結構暴れたりもしたらしいが、でも、入院してからは、だいぶ落ちついて、もうしばらくすれば退院できるらしい。美珠と穂高は、久の家に来る前にも、他の親戚の家に預かってもらっていたが、都合が悪くなって、久の家へ来ることになったのだ。
「本当に、お世話になっていると思っています。本当なら、私が誰よりもこの子達のそばにいなくてはいけないのに」
 彼女は、向かいに座った久と、久の父親に頭を下げ、挨拶を交わした。久は、黙ったままで、下を向いていた。
「久くん、手がかかるでしょうけど、どうか、この子達をよろしくお願いしますね」
 そういって目の前で笑っているのに、久にはどこか、彼女が酷く脆い存在に感じられた。
「あの」久が声をかけると、彼女は優しく微笑む。
 瞬間、久は、自分が彼女にかけようとしていた言葉を忘れた。
「あの。あの、早く、良くなって下さい。美珠も穂高も喜ぶから……」
 結局、月並みな言葉しかいえなかった。彼女は、笑顔のまま、礼をいった。それから、彼女は、立ったままその様子を見ていた美珠と穂高を、隣に招いた。美珠が、花束と、母親のために描いた絵を渡す。紙には、女の子が描かれているようだった。だが、その女の子は美珠が描いた母親なのかもしれない。横には、読みづらい文字で、メッセージが書かれていた。
『おかあさん、はやくよくなってね』。
「でねー、久ったらいつつも、目玉焼きばっかつくるんだー」
「そうそう。いまどき料理もろくにできない男なんて、結婚できないんだから!」
「こら。穂高。久お兄ちゃんって呼びなさい。美珠も。そういうことをいうんじゃないの」
 目を細め、眩しげに、それを見ていた久の耳に、彼女の呟きが届いた。
「今日も…雨ね。早く晴れたらいいのにね」

 それからだった。美珠と穂高が、家のなかでもレインコートを着るようになったのは。
「おまえら、なんで家んなかで、そんなん着てんだ?」
 訊ねると、二人は久を見上げて、満面に笑みを浮かべた。それから、両手を差しだす。
「白ーい布ちょうだい」と穂高。
「それと、紐とはさみと、マジックと、ティシュもね」美珠が、えらそうにつけくわえる。
「いいけど、なんに使うんだ?」
 不思議に思いつつも、それらを用意してやると、二人は腹ばいになって、何か始めだした。二人の横に腰を降ろして、久は、その様子を眺めることにした。どうやら、てるてるぼうずを作っているらしい。まず、はさみで、布を手ごろな大きさに切る。それを二つに折った所に、ティッシュをつめ、そのすぐ下を紐で縛る。最後に、油性のマジックで、顔を描けば、てるてるぼうずのできあがりだ。得意げに笑みを浮かべた美珠につづいて、穂高も同じようなものを作り上げた。ただし、美珠の方が漫画っぽく、赤いペンでリボンを描き込んだりして、可愛く仕上げ、穂高の方は、紐の結び方がおかしかったり、布の切り口が不揃いだったりもしたが、カ強い歪んだ線で、なかなかにユニークな顔を描いていた。
「久ー。これ、ベランダに飾って」
「僕のも、僕のもー」
 久の家はアパートの一階で、玄関とバスルームとトイレと台所があり、他に二つ部屋がある。玄関寄りの方を居間、奥の方を半分ずつ久と父親の部屋とし、久の勉強机やタンスなどもこちらにある。押し入れの中には布団が畳んであり、夜はここが寝室となる。勿論、今は美珠たちの物なども置いてあり、寝るときは美珠たちも一緒だ。居間の広さは四畳半くらいで、奥の部屋が六畳だ。今いるのは奥の部屋で、久はそこからベランダの窓を開けた。途端に、聞こえていた雨音が大きくなり、寒気がしてきた。ベランダに出ると、美珠たちのために、後ろ手に窓をしめた。ベランダというには少し狭いような張り出しだが、一応洗濯物を干すこともでき、小さめの物干し台と竿が置かれている。外側についた手すりも利用すれば、布団二枚くらいは干せる。上手い具合に紐でも張れば、もっといけるかもしれない。ベランダはそのまま居間の方に続いている。とりあえず、梅雨時のために出番のない物干し竿に紐を結び、ふたりのつくったてるてるぼうずを吊るした。振り返ると、美珠と穂高がこちらを見つめていた。窓をあけて、部屋の中に入り、しっかりとまた窓を閉めると、二人はもう次のてるてるぼうずを作っていた。吊るして来た。二人は、窓の外のてるてるぼうずに向かって、明日は天気にしてくれるよう、歌いながらお願いしている。
「どうして急にてるてるぼうずなんだ? 学校とかで教わったのか?」
 レインコートを着たまま、浮かれたように部屋のなかを走り回り、二人は、居間へ向かった。途中、穂高が振り返っていう。
「お母さん、晴れた空が好きなんだ!」
 居間と奥の部屋の間の障子は、開かれていて、久にも、二人がこたつに入るのが見えた。テレビをつけたのだろう、子供番組らしい陽気な歌が流れだす。
 勉強机に向かって、宿題をしていたことを思いだした久は、どうしようかと一瞬考えて──机の右手側の、一番上の引き出しをひいた。それを眺めて、なにかを手さぐりしようとして、だが、引き出しを戻す。久も、居間へと向かい、こたつに入った。赤いこたつ布団を見ながらぼんやりと思う。この頃、いつもこんな感じだ。美珠と穂高のそばにばかりいて、なのに、それが前ほど嫌ではなくなった。久の父親はふざけて、美珠と穂高が、久の本当の妹と弟みたいだといっていた。そんなことを思いながら、自然と笑顔で二人を眺め、久は尋ねてみた。
「なあ、なんでレインコートなんか着てるんだ? 寒いのか? だったら」
 いうと、美珠がテレビを観たまま、ふくれっつらをした。
「ちがうもん」
「僕たち、てるてるばーずなんだもんね」
 瞳を輝かせながら、穂高がこちらを見ている。すごいでしょ? とその瞳がいっている。
「てるてるぼうず?」
 聞き返しながら、久はベランダの方を見た。そこに吊るしたふたりの手製のてるてるばうず達が、こちらを向いていた。美珠が、リモコンでテレビのチャンネルを替えた。様々な画面や音が切り替わり、最後には、元通りにチャンネルを戻した。見飽きたCMが流れ続ける。
「そーだよー。この格好、てるてるぼうずに似てるからって、美珠がー」 
 穂高の言葉に美珠を見ると、美珠は気恥ずかしげに目をそらした。こたつの上に置いたお絵描き帳や、ぬりえ、折り紙などに手を伸ばし、それから、美珠は、折り紙を折り始めた。美珠と穂高の着ているレインコートは、押し入れから出してやった久のお下がりなので、二人──特に穂高には、かなり大きく、フードまでちゃんと被った姿はなるほど、てるてるぼうずをイメージできないこともない。ただし、色は二人とも黄色なのだが。
「お母さん、晴れたら、絶対元気になるんだから」
 折り紙を折る手をとめず、美珠が相変わらず勝ち気にいう。オレンジ色の折り紙は、美珠の手の中で鶴へと折られていく。病院で親に鶴の折り方を教わってからは、美珠は鶴ばかりを折っていた。
「僕ねー、お母さん元気になったら、いっぱいいっぱいお手伝いしてあげるんだー」
 まだこちらを見て笑っている穂高に、久も笑い返し、
「ちぇっ。だったら、少しは俺の手伝いもしてくれよな。おまえらの夕飯作ったりすんのも結構大変なんだぜ?」
 腰を浮かせて、美珠の近くに置いてある折り紙を適当に二、三枚掴んだ。そして、また元の位置に腰をおろす。美珠が悲鳴に近い声を上げて、久を睨んだ。久は、少しいたずらっぽく微笑んで、手にした折り紙を前後に軽く振った。
「千羽鶴だろ? 俺も手伝うよ。美珠の考えそうなことだな」
 色とりどりの折り鶴を作りながら、久は幼いころの自分を思いだしていた。自分も何かを願って、鶴を折っていたことがあった。一日一つ、毎日一ずつ、折っていた鶴。どれも、ひとつひとつ、すべて同じ願いごとを書き込んで、折っていた。結局、一週間と続かなかった。多分、ばかばかしくなった。
「久のお父さんって、優しいね」
「そうか?」
 こたつで横になって、鶴を折りながら、穂高が久を見上げる。袖を何度も折って短くした、レインコートから覗く手は、驚くくらいに小さい。今日も外は雨だ。束の間、降り止んでも、気づくとすぐにまた雨は降りだす。三人で鶴を折り続けるものの、千羽という数は、強大で、なかなか終わりそうにない。久の父親も、休日や手のあいた時には、少し手伝ってくれている。
「ねぇ…今度はいつお見舞いに行くの?」
 穂高が訊いた。同じ質問を、穂高は何度も繰り返していた。わかっていても、訊かずにはいられないのだろう。久が答える度に、穂高は嬉しそうに微笑む。
「穂高は、お母さんのこと、好きか?」
「うん! 大好き」
「そっか」
「うん。僕、大きくなったら、お母さんを守ってあげるんだ」
 無邪気に微笑みながらも、真剣な穂高は、少しだけいつもとは別人に思えた。なぜだか、幼いころの自分に見えた。
「あーあぁ…早くお母さん、元気にならないかなぁ」
「なに、言ってんの、穂高! 空が晴れて、千羽鶴をお母さんに渡したら、お母さん、すぐに元気になるんだからねっ!」
 美珠の着ていたレインコートががさがさと揺れた。穂高と同じように、こたつでそべりながら鶴を折っていた美珠は、起きあがって、眉を吊りあげた。
「わかってるよ」
 穂高は、赤い鼻をこすった。不機嫌そうに目を細め、口をへの字にまげる。もうすぐ退院できると、大人達に聞かされていても、子供達には、それが長すぎるのだろう。

 次のお見舞いの日には、二人の願いが通じたのか、久しぶりに雨が上がり、澄んだ青い空を見ることができた。溢れんばかりの日の光が、眩しいほどだ。車から降りると、美珠が重たそうな千羽鶴を抱えて走り、いつものように、穂高がそれを追う。千羽鶴は、どうにかちょうど千羽、鶴を束ねて、それらしいものになっていた。最後の方は、久の学校のクラスメート達に協力してもらったり、束ね方がわからず、その辺は、女生徒たちに任せっぱなしだったりで、申し訳なかったが、みんな快く引き受けてくれた。病院の人に訊くと、美珠たちの母親は、病院のまわりの庭を、散歩中だということだった。待っていることもできたが、美珠と穂高がどうしてもというので、父親を残し、久は、二人と共に迎えに行くことにした。病院の建物を右手に、病院の裏手に向かって進んだ。美珠は、赤いトレーナーに、青色のミニスカート。穂高は緑色のパーカーに紺の半ズボンという格好だった。まわりにはちょっとした草花や木があり、左手には、病院の庭と外を隔てる壁がある。久は、植物の名前にはくわしくないが、紫陽花だけは見てわかった。紫のような、青のような、赤のような──紫陽花のあるところだけ、何か他とは違って、とても綺麗に見えた。美珠と穂高がはしゃいで駆けるので、
「転ぶなよ」と声をかけながら、それを追う。
 雨でどろどろになった地面にできた水たまりに、太陽の光が反射する。そのうちに、美珠たちの母親を見つけた。後ろを向いたその姿に声をかけて、母親を見上げながら走った美珠は、泥だらけの地面に足を取られて転んだ。
「あっ!」
 その胸に抱えていた千羽鶴が、美珠の少し前──水たまりに、落ちた。水たまりに浸かった部分が水に濡れ、泥までついてしまっていた。途端に、美珠が声を上げて泣き出してしまった。
「美珠? どうしたの? どこか痛いの?」
 母親が駆け寄って、美珠の汚れた膝やスカートの裾をはたく。久のジーンズを、穂高が掴んだ。すがるような目で久を見上げる。久は、穂高が安心するように、頷いてみせ、水たまりに近づくと、千羽鶴を拾った。ハンカチで軽く拭くと、美珠の側に近づいた。
「美珠。大丈夫だよ」言うと、美珠は涙目を少し上げて、首を横に振る。その髪が、勢いよく揺れた。
「うそ! だって、濡れてるもん。汚れて、こんなになって──せっかくつくったのに、せっかくお母さんが良くなるようにってお願いしたのに……」
「美珠」
 久は、美珠の目の高さと合うように屈んで、千羽鶴を持ち上げた。
「大丈夫。濡れたところはいずれ乾くし、泥だって取ればいいんだ。そりゃあ、元通り綺麗にはならないかもしれないけど、消えてしまったわけじゃないだろ?」
 疑わしそうな美珠に千羽鶴を渡した。まだ雨水や泥水が伝ったりもしていたが、美珠は汚れないように気をつけてそれを受け取った。
「お母さんは、きっと喜んでくれるよ。──ね、おばさん。美珠が一生懸命つくったんだ」
 美珠に微笑んで、腰を上げながら、彼女の母親を見上げた。邪魔にならないように、彼女達から間を置く。瞳を潤ませながら、母親を見上げ、美珠は、汚れたままの千羽鶴を差しだした。
「お母さんの病気が良くなるように、わたし、むたんだけど…。こんなふうになっちやって、ごめんね」
 美珠の母親がそれを受け取る。その瞬間──まるで、たくさんの鶴たちが、美珠から母親に向けて、一斉に羽ばたいたようだった。
「ありがとう。美珠。ありがとう」
 久は、その千羽鶴に、最後に二羽、引き出しの奥から出した、鶴を加えていた。丸まったくしゃくしゃなもので、所々破れて、紙くずのようだった。紙も、ただの藁半紙だった。それでもまだいい方で、もっとひどいものは、とっくに捨ててしまっていた。引き出しのなかで眠っていた二羽は、他の鶴たちに加えてやると、喜んで鳴いたみたいに思えた。藁半紙を透かせば、へたくそな文字が読みとれた。
『かあさんに、あいたい』
 昔の自分は、そんなことばかりを考えていた。今ならもう笑ってて話せる。久は、穂高に近寄って、その背中を押した。
「ほら。穂高。おばさん、それ、穂高も手伝ったんですよ」
 母親は、穂高を見て、とても和らいだ顔で微笑んだ。母親に駆け寄っていく穂高を見ながら、久は、一人、空を仰いだ。

 梅雨も過ぎ去った夏の日。美珠と穂高が家に帰ることになった。美珠と穂高の母親が退院することになったのだ。やはり、自分の家に帰れることは嬉しいらしく、美珠も穂高も、始終笑顔だった。まとめた荷物を手にした二人は、黄色いレインコートを久に差しだした。久は、それを受け取らず、逆に、二人の手にそれを戻した。久と、久の父親は、美珠達を近くの駅まで見送りにいくことにした。駅につくまで、二人は久の両わきを歩いて、みんなで、たわいもない話をした。母親に手を引かれていったふたりは、雨も降っていないのに、まだあのレインコートを着ていた。梅雨のなごりだろうか、よく晴れた空に虹が架かっていた。
「父さん」
 その虹を見上げながら、自分達の家へと向かう、帰り道。久は、笑顔で父親を見上げた。
「帰ったら、久しぶりの親子団らんだね」
「…ばーか」
 笑いながら自分を小突く父親を、久は、目を細めたまま、眺めつづけた。久の家のベランダには、いまでも四つ、てるてるぼうずが揺れている。



スタンプを贈って作者を応援しよう!



みんなのリアクション



おすすめ作品を読み込み中です…



「もうすぐ、おまえに、妹と弟ができるぞ」
 突然の父親の言葉に、久《ひさし》は、思わず間抜けな顔で、腰を浮かせた。
「なにいってんだよ。父さん。母さんはもうずっと前に──死んだだろ」
 だが、父親はどこか浮かれた顔をしながら、さっさと居間を出て行ってしまった。
「なんだよ、あれ」
 翌日。ドアを開けた途端に飛び込んできた二人の子供の姿に、久は、口を尖らせた。小生意気にこちらを見上げる片われを無視し
、その後ろに隠れたもう一人の脇の傘《かさ》立てに一瞥《いちべつ》をくれる。玄関に父親の靴があることを確かめ、濡れた制服のまま家に上がり込むと、案の定、仕事が早く終わりでもしたのか、居間で父親がテレビに夢中になっていた。前髪からたれる水滴を、袖で乱暴に拭う
「お、久か。おかえり。なんだ、ずぶ濡れじゃないか」
 子供達が両腕にまとわりつくなか、久は少々苛立たしげに頭を掻いて、父親を睨んだ。
「なんなんだよ、こいつら! 父さんの知り合いか?」
 父親は、持ってきたタオルを、久に投げてよこしながら、笑顔で子供達に近づいた。
「ああ。母さんの親戚の、娘さんと息子さんで、名前は美珠《みたま》ちゃんと、穂高《ほたか》くん。今日からしばらく、うちで預かることになった」
 目を丸くする久の鼻先で、父親はふたりを居間に迎え入れる。子供達は甲高い声をあげて、遠慮なく万年こたつに潜った。黙ったまま突っ立つまでいると、父親が、久のそば──居間の入り口や、玄関付近の床を拭き始め、
「どういうことだよ」
「おまえを驚かそうと思って黙ってた。二人とも、とても可愛いだろう?」
「どこが」
 言うと、不思議そうに父親がこちらを見た。
「それより、おまえ、傘を持っていかなかったのか?
 まるで、濡れ鼠《ねずみ》みたいだぞ」
 床を拭く手を一瞬止め、久は、口の端を引きつらせた。
「転んだ」言ってから、舌打ちした。「転んだ。そいつらが、急にやってきてまとわりついて、すべったんだ」
 学校も終わり、家へ帰る途中の脇道。住み慣れたアパートに、もう、五分となくつける距離だった。向かいから二人の子供達がやってきた。微笑ましげなその様子に、油断していた久は、次の瞬間、派手に転んで傘を落とした。なんだかよくわからないが、子供達がいきなり自分にタックルしてきたのだ。細いその道にちょうど車がやってきていた。水溜まりに足を取られながらも、道の内側寄りにいた子供達をかばおうとした久は、自動車のタイヤが巻き上げた水たまりの水を浴び、左手左膝から地面の──水たまりに突っ込んだ。その時はまだ片膝を立て、右手に傘を持っていた。たが、力を抜き、下ろした右手から傘をはなした。今度は、後ろにのけぞった。危うく──左手をついて踏みとどまる。顔を上げた久は、自分の傘を盗んで行く二人組を目撃した。しばし、口を開けて、そのままことのなりゆきを見守った。はたと、我に返った。子供用の傘を持ちながら、久の傘を危なっかしく持って走る子供達を追いかけたが、子供達が通ったすぐ後、久の鼻先で、信号が赤に変わった。車が通り過ぎ、青信号に戻ったころには──その先の細道を曲がったところまではわかるのだが──入り組んだ建物の影に隠れたのか、子供達の姿を見失ってしまった。青い大きめの傘だ。久にとっては、とても大切なものだった。母親が生前、結婚前に父親にプレゼントした物なのだ。諦め悪く、十分ほど探しまわったあげく、半ば泣くような気持ちで、自宅のアパートのドアを開ければ、なぜか例の子供二人が出迎えた次第である。
 父親はなぜだか予想通りに吹き出し、久は顔をしかめる。
「怒るな、怒るな。ちょっとしたいたずらだろう。美珠ちゃんも、穂高くんも、おまえと遊んでいたつもりなんだよ。美珠ちゃんも穂高くんも、自分から、おまえを迎えに行ってくれたんだぞ」
 お迎えご苦労さま、と子供達に笑う父親。久は、大きくため息をついた。そして、居間のこたつに入った父親と一緒になって笑う、美珠と穂高を見遣ってから、とりあえず着替えや後処理を済ませ、最後にやっと、温まるために、こたつに入った。
「この子達のお母さんが、入院していて、お父さんは何年も前に、亡くなっていらしてね。それで、父さんが預かることにはなとにしたんだ」
 その言葉に顔を上げた久は、どこか淋しげに笑う父親を見た。
 その日から、美珠と穂高との共同生活が始まった。美珠の通う小学校と、穂高の通う幼稚園は、久の家からは、徒歩で三十分はかかる。久の通う中学校までの倍くらいの距離だ。二人の住む家もここから行けない距離ではないが、親戚づきあいの良くない久は、いままでふたりのことなど知らなかった。そう言われて見れば、聞いたことがあるような気もしたが、確かな記憶ではない。朝は、父親が出勤時間を少しずらして、二人を車で送ることになった。父親はきちんと朝食を作ることも忘れなかった。美珠は小学二年生で、穂高はまだ幼稚園の年少である。穂高の迎えは、学校帰りの美珠を中心に、同じ幼稚園児を子供に持つお母さん方や、先生方が協力してくれたり、親切に弁当を作ってくれたりもした。しかし、久はなんだか心配で、学校が早く終わった日には、できるだけ自分で、二人を迎えに行った。夜は父親の帰りが遅いので、久が、夕食を作ったりもした。父親と二人暮らしの久は、ちょっとした料理くらいならできるが、面倒くさがって、すぐに簡単な料理や、既製品《きせいひん》で済ませてしまう。それが二人には不評のようで、
「まぁた目玉焼きー? ねぇぇ、出前とろうよー。出前ー」
「僕、カツ丼がいいー!」
 いつもいつも、甲高い声が容赦なく降ってくるのだった。
 美珠は、少し癖のある色の薄い髪に、ぱっちりとした瞳の、将来は美人になりそうな、なかなかにかわいい顔をしていた。穂高は、栗色の髪で、こざっぱりとした髪型をしている。いつも鼻の頭を赤くしていた。癖なのか、時々目を細めて遠くをじっと睨むような顔をする。二人とも、外だろうと家の中だろうとお構いなしに駆け回り、外に出る時は、大抵、久も同伴で、一緒になって遊んだ。
「ねぇ、久。遊ぼう」
 いつも通りに、勉強机に向かって宿題をしていた久の元に、穂高が笑顔でやってきた。両手にいろいろなカードゲームを抱えている。
「あのなあ、穂高」
 不満そうな久の顔を見て、穂高は首をかしげる。
「じゃあ、テレビゲームのほうがいい? それとも、電車のおもちゃ?」
 あくまで無邪気な穂高は、久のジーンズにすがりついて、指折りに思いつく限りの遊びを並べ上げる。もうそろそろ、夕暮れ時で外には出られないので、室内でできるものを、一生懸命に考えている。
「穂高。俺、早くこれを片づけて、かりだ。家が離れてしまったせいか、二人は、あまり友達のところに出かけては行かない。子供達は一日中騒いで、うるさくて仕方がないし、久だって、学校の友達とも、あまり遊んでいない。別に誰かに強制されたわけでもない。自分が好きでやっているようなところもある。だけど、以前のように自分の好きなことが自由にできなくて、久の心は焦っていた。宿題を再開した。しかし、穂高はいつまでたっても、そこから動かず、久はため息をついた。穂高を見る。
「穂高、あのさ」
 久の苛立った低い声に、穂高は一瞬怯えたように、肩を竦めた。
「悪いんだけどさ」
 そこまで言ったとき、こたつの上で絵をかいていた美珠が、こちらにやってきた。挑むように久を睨み上げる。
「なによ! 久のけち。遊んであげればいいじゃない! 穂高が、せっかく、遊んでほしいっていってるんだからっ!」
 美珠のいうことは間違ってはいない。大人げないのは多分、自分の方だ。久にだって、そんなことはわかっていた。だが、握った拳は、小刻みに机の上を叩き続けた。美珠が、まだ何か、言おうとした。その言葉をふさぐよう
「うるせえ!」
 そういってから、久は、少し後悔した。その思いが徐々に広がっていく。美珠が俯くのを見て、穂高は、掴んだままだった久のジーンズを放した。穂高も俯いて、そのまま美珠のほうに歩いて行った。まずいな、とは思ったが、なんだかどうにもできずに、久は居心地の悪いまま、宿題に手を伸ばした。もう、ほとんど片づいていて、残りは数問しかなかったが、それをやり終えるまでの時間が、やけに長く感じた。振り返ると、二人はまだ、静かにその場に立っていた。
「ごめん、その…もういいよ、一緒に、遊ぼう」
 久がそういうと、二人は顔を上げて、瞳を輝かせた。
「ごめん」
 謝る久の手を取って、二人は久をこたつに招いた。嬉しそうにカードを切り始めた穂高と、何事もなかったように、絵を描く美珠を見ながら、久はなんだか不思議な気持ちを覚えた。温かいような──不思議な気持ちだ。
 日曜日。美珠と穂高の母親のお見舞いに行くことになった。久の父親の車で病院の近くまで行き、そこで花束を買った。美珠が嬉しそうに花束を抱えて走り、穂高がそれを追いかける。美珠と穂高の母親は、案外元気で、面会室のソファーに座って笑っていた。温かそうなブルーの上着を着ている。机の上の色とりどりの折り紙で鶴を折っていた。彼女が入院することになった原因は、はっきりとはわからないらしい。精神的なものらしく、最初は結構暴れたりもしたらしいが、でも、入院してからは、だいぶ落ちついて、もうしばらくすれば退院できるらしい。美珠と穂高は、久の家に来る前にも、他の親戚の家に預かってもらっていたが、都合が悪くなって、久の家へ来ることになったのだ。
「本当に、お世話になっていると思っています。本当なら、私が誰よりもこの子達のそばにいなくてはいけないのに」
 彼女は、向かいに座った久と、久の父親に頭を下げ、挨拶を交わした。久は、黙ったままで、下を向いていた。
「久くん、手がかかるでしょうけど、どうか、この子達をよろしくお願いしますね」
 そういって目の前で笑っているのに、久にはどこか、彼女が酷く脆い存在に感じられた。
「あの」久が声をかけると、彼女は優しく微笑む。
 瞬間、久は、自分が彼女にかけようとしていた言葉を忘れた。
「あの。あの、早く、良くなって下さい。美珠も穂高も喜ぶから……」
 結局、月並みな言葉しかいえなかった。彼女は、笑顔のまま、礼をいった。それから、彼女は、立ったままその様子を見ていた美珠と穂高を、隣に招いた。美珠が、花束と、母親のために描いた絵を渡す。紙には、女の子が描かれているようだった。だが、その女の子は美珠が描いた母親なのかもしれない。横には、読みづらい文字で、メッセージが書かれていた。
『おかあさん、はやくよくなってね』。
「でねー、久ったらいつつも、目玉焼きばっかつくるんだー」
「そうそう。いまどき料理もろくにできない男なんて、結婚できないんだから!」
「こら。穂高。久お兄ちゃんって呼びなさい。美珠も。そういうことをいうんじゃないの」
 目を細め、眩しげに、それを見ていた久の耳に、彼女の呟きが届いた。
「今日も…雨ね。早く晴れたらいいのにね」
 それからだった。美珠と穂高が、家のなかでもレインコートを着るようになったのは。
「おまえら、なんで家んなかで、そんなん着てんだ?」
 訊ねると、二人は久を見上げて、満面に笑みを浮かべた。それから、両手を差しだす。
「白ーい布ちょうだい」と穂高。
「それと、紐とはさみと、マジックと、ティシュもね」美珠が、えらそうにつけくわえる。
「いいけど、なんに使うんだ?」
 不思議に思いつつも、それらを用意してやると、二人は腹ばいになって、何か始めだした。二人の横に腰を降ろして、久は、その様子を眺めることにした。どうやら、てるてるぼうずを作っているらしい。まず、はさみで、布を手ごろな大きさに切る。それを二つに折った所に、ティッシュをつめ、そのすぐ下を紐で縛る。最後に、油性のマジックで、顔を描けば、てるてるぼうずのできあがりだ。得意げに笑みを浮かべた美珠につづいて、穂高も同じようなものを作り上げた。ただし、美珠の方が漫画っぽく、赤いペンでリボンを描き込んだりして、可愛く仕上げ、穂高の方は、紐の結び方がおかしかったり、布の切り口が不揃いだったりもしたが、カ強い歪んだ線で、なかなかにユニークな顔を描いていた。
「久ー。これ、ベランダに飾って」
「僕のも、僕のもー」
 久の家はアパートの一階で、玄関とバスルームとトイレと台所があり、他に二つ部屋がある。玄関寄りの方を居間、奥の方を半分ずつ久と父親の部屋とし、久の勉強机やタンスなどもこちらにある。押し入れの中には布団が畳んであり、夜はここが寝室となる。勿論、今は美珠たちの物なども置いてあり、寝るときは美珠たちも一緒だ。居間の広さは四畳半くらいで、奥の部屋が六畳だ。今いるのは奥の部屋で、久はそこからベランダの窓を開けた。途端に、聞こえていた雨音が大きくなり、寒気がしてきた。ベランダに出ると、美珠たちのために、後ろ手に窓をしめた。ベランダというには少し狭いような張り出しだが、一応洗濯物を干すこともでき、小さめの物干し台と竿が置かれている。外側についた手すりも利用すれば、布団二枚くらいは干せる。上手い具合に紐でも張れば、もっといけるかもしれない。ベランダはそのまま居間の方に続いている。とりあえず、梅雨時のために出番のない物干し竿に紐を結び、ふたりのつくったてるてるぼうずを吊るした。振り返ると、美珠と穂高がこちらを見つめていた。窓をあけて、部屋の中に入り、しっかりとまた窓を閉めると、二人はもう次のてるてるぼうずを作っていた。吊るして来た。二人は、窓の外のてるてるぼうずに向かって、明日は天気にしてくれるよう、歌いながらお願いしている。
「どうして急にてるてるぼうずなんだ? 学校とかで教わったのか?」
 レインコートを着たまま、浮かれたように部屋のなかを走り回り、二人は、居間へ向かった。途中、穂高が振り返っていう。
「お母さん、晴れた空が好きなんだ!」
 居間と奥の部屋の間の障子は、開かれていて、久にも、二人がこたつに入るのが見えた。テレビをつけたのだろう、子供番組らしい陽気な歌が流れだす。
 勉強机に向かって、宿題をしていたことを思いだした久は、どうしようかと一瞬考えて──机の右手側の、一番上の引き出しをひいた。それを眺めて、なにかを手さぐりしようとして、だが、引き出しを戻す。久も、居間へと向かい、こたつに入った。赤いこたつ布団を見ながらぼんやりと思う。この頃、いつもこんな感じだ。美珠と穂高のそばにばかりいて、なのに、それが前ほど嫌ではなくなった。久の父親はふざけて、美珠と穂高が、久の本当の妹と弟みたいだといっていた。そんなことを思いながら、自然と笑顔で二人を眺め、久は尋ねてみた。
「なあ、なんでレインコートなんか着てるんだ? 寒いのか? だったら」
 いうと、美珠がテレビを観たまま、ふくれっつらをした。
「ちがうもん」
「僕たち、てるてるばーずなんだもんね」
 瞳を輝かせながら、穂高がこちらを見ている。すごいでしょ? とその瞳がいっている。
「てるてるぼうず?」
 聞き返しながら、久はベランダの方を見た。そこに吊るしたふたりの手製のてるてるばうず達が、こちらを向いていた。美珠が、リモコンでテレビのチャンネルを替えた。様々な画面や音が切り替わり、最後には、元通りにチャンネルを戻した。見飽きたCMが流れ続ける。
「そーだよー。この格好、てるてるぼうずに似てるからって、美珠がー」 
 穂高の言葉に美珠を見ると、美珠は気恥ずかしげに目をそらした。こたつの上に置いたお絵描き帳や、ぬりえ、折り紙などに手を伸ばし、それから、美珠は、折り紙を折り始めた。美珠と穂高の着ているレインコートは、押し入れから出してやった久のお下がりなので、二人──特に穂高には、かなり大きく、フードまでちゃんと被った姿はなるほど、てるてるぼうずをイメージできないこともない。ただし、色は二人とも黄色なのだが。
「お母さん、晴れたら、絶対元気になるんだから」
 折り紙を折る手をとめず、美珠が相変わらず勝ち気にいう。オレンジ色の折り紙は、美珠の手の中で鶴へと折られていく。病院で親に鶴の折り方を教わってからは、美珠は鶴ばかりを折っていた。
「僕ねー、お母さん元気になったら、いっぱいいっぱいお手伝いしてあげるんだー」
 まだこちらを見て笑っている穂高に、久も笑い返し、
「ちぇっ。だったら、少しは俺の手伝いもしてくれよな。おまえらの夕飯作ったりすんのも結構大変なんだぜ?」
 腰を浮かせて、美珠の近くに置いてある折り紙を適当に二、三枚掴んだ。そして、また元の位置に腰をおろす。美珠が悲鳴に近い声を上げて、久を睨んだ。久は、少しいたずらっぽく微笑んで、手にした折り紙を前後に軽く振った。
「千羽鶴だろ? 俺も手伝うよ。美珠の考えそうなことだな」
 色とりどりの折り鶴を作りながら、久は幼いころの自分を思いだしていた。自分も何かを願って、鶴を折っていたことがあった。一日一つ、毎日一ずつ、折っていた鶴。どれも、ひとつひとつ、すべて同じ願いごとを書き込んで、折っていた。結局、一週間と続かなかった。多分、ばかばかしくなった。
「久のお父さんって、優しいね」
「そうか?」
 こたつで横になって、鶴を折りながら、穂高が久を見上げる。袖を何度も折って短くした、レインコートから覗く手は、驚くくらいに小さい。今日も外は雨だ。束の間、降り止んでも、気づくとすぐにまた雨は降りだす。三人で鶴を折り続けるものの、千羽という数は、強大で、なかなか終わりそうにない。久の父親も、休日や手のあいた時には、少し手伝ってくれている。
「ねぇ…今度はいつお見舞いに行くの?」
 穂高が訊いた。同じ質問を、穂高は何度も繰り返していた。わかっていても、訊かずにはいられないのだろう。久が答える度に、穂高は嬉しそうに微笑む。
「穂高は、お母さんのこと、好きか?」
「うん! 大好き」
「そっか」
「うん。僕、大きくなったら、お母さんを守ってあげるんだ」
 無邪気に微笑みながらも、真剣な穂高は、少しだけいつもとは別人に思えた。なぜだか、幼いころの自分に見えた。
「あーあぁ…早くお母さん、元気にならないかなぁ」
「なに、言ってんの、穂高! 空が晴れて、千羽鶴をお母さんに渡したら、お母さん、すぐに元気になるんだからねっ!」
 美珠の着ていたレインコートががさがさと揺れた。穂高と同じように、こたつでそべりながら鶴を折っていた美珠は、起きあがって、眉を吊りあげた。
「わかってるよ」
 穂高は、赤い鼻をこすった。不機嫌そうに目を細め、口をへの字にまげる。もうすぐ退院できると、大人達に聞かされていても、子供達には、それが長すぎるのだろう。
 次のお見舞いの日には、二人の願いが通じたのか、久しぶりに雨が上がり、澄んだ青い空を見ることができた。溢れんばかりの日の光が、眩しいほどだ。車から降りると、美珠が重たそうな千羽鶴を抱えて走り、いつものように、穂高がそれを追う。千羽鶴は、どうにかちょうど千羽、鶴を束ねて、それらしいものになっていた。最後の方は、久の学校のクラスメート達に協力してもらったり、束ね方がわからず、その辺は、女生徒たちに任せっぱなしだったりで、申し訳なかったが、みんな快く引き受けてくれた。病院の人に訊くと、美珠たちの母親は、病院のまわりの庭を、散歩中だということだった。待っていることもできたが、美珠と穂高がどうしてもというので、父親を残し、久は、二人と共に迎えに行くことにした。病院の建物を右手に、病院の裏手に向かって進んだ。美珠は、赤いトレーナーに、青色のミニスカート。穂高は緑色のパーカーに紺の半ズボンという格好だった。まわりにはちょっとした草花や木があり、左手には、病院の庭と外を隔てる壁がある。久は、植物の名前にはくわしくないが、紫陽花だけは見てわかった。紫のような、青のような、赤のような──紫陽花のあるところだけ、何か他とは違って、とても綺麗に見えた。美珠と穂高がはしゃいで駆けるので、
「転ぶなよ」と声をかけながら、それを追う。
 雨でどろどろになった地面にできた水たまりに、太陽の光が反射する。そのうちに、美珠たちの母親を見つけた。後ろを向いたその姿に声をかけて、母親を見上げながら走った美珠は、泥だらけの地面に足を取られて転んだ。
「あっ!」
 その胸に抱えていた千羽鶴が、美珠の少し前──水たまりに、落ちた。水たまりに浸かった部分が水に濡れ、泥までついてしまっていた。途端に、美珠が声を上げて泣き出してしまった。
「美珠? どうしたの? どこか痛いの?」
 母親が駆け寄って、美珠の汚れた膝やスカートの裾をはたく。久のジーンズを、穂高が掴んだ。すがるような目で久を見上げる。久は、穂高が安心するように、頷いてみせ、水たまりに近づくと、千羽鶴を拾った。ハンカチで軽く拭くと、美珠の側に近づいた。
「美珠。大丈夫だよ」言うと、美珠は涙目を少し上げて、首を横に振る。その髪が、勢いよく揺れた。
「うそ! だって、濡れてるもん。汚れて、こんなになって──せっかくつくったのに、せっかくお母さんが良くなるようにってお願いしたのに……」
「美珠」
 久は、美珠の目の高さと合うように屈んで、千羽鶴を持ち上げた。
「大丈夫。濡れたところはいずれ乾くし、泥だって取ればいいんだ。そりゃあ、元通り綺麗にはならないかもしれないけど、消えてしまったわけじゃないだろ?」
 疑わしそうな美珠に千羽鶴を渡した。まだ雨水や泥水が伝ったりもしていたが、美珠は汚れないように気をつけてそれを受け取った。
「お母さんは、きっと喜んでくれるよ。──ね、おばさん。美珠が一生懸命つくったんだ」
 美珠に微笑んで、腰を上げながら、彼女の母親を見上げた。邪魔にならないように、彼女達から間を置く。瞳を潤ませながら、母親を見上げ、美珠は、汚れたままの千羽鶴を差しだした。
「お母さんの病気が良くなるように、わたし、むたんだけど…。こんなふうになっちやって、ごめんね」
 美珠の母親がそれを受け取る。その瞬間──まるで、たくさんの鶴たちが、美珠から母親に向けて、一斉に羽ばたいたようだった。
「ありがとう。美珠。ありがとう」
 久は、その千羽鶴に、最後に二羽、引き出しの奥から出した、鶴を加えていた。丸まったくしゃくしゃなもので、所々破れて、紙くずのようだった。紙も、ただの藁半紙だった。それでもまだいい方で、もっとひどいものは、とっくに捨ててしまっていた。引き出しのなかで眠っていた二羽は、他の鶴たちに加えてやると、喜んで鳴いたみたいに思えた。藁半紙を透かせば、へたくそな文字が読みとれた。
『かあさんに、あいたい』
 昔の自分は、そんなことばかりを考えていた。今ならもう笑ってて話せる。久は、穂高に近寄って、その背中を押した。
「ほら。穂高。おばさん、それ、穂高も手伝ったんですよ」
 母親は、穂高を見て、とても和らいだ顔で微笑んだ。母親に駆け寄っていく穂高を見ながら、久は、一人、空を仰いだ。
 梅雨も過ぎ去った夏の日。美珠と穂高が家に帰ることになった。美珠と穂高の母親が退院することになったのだ。やはり、自分の家に帰れることは嬉しいらしく、美珠も穂高も、始終笑顔だった。まとめた荷物を手にした二人は、黄色いレインコートを久に差しだした。久は、それを受け取らず、逆に、二人の手にそれを戻した。久と、久の父親は、美珠達を近くの駅まで見送りにいくことにした。駅につくまで、二人は久の両わきを歩いて、みんなで、たわいもない話をした。母親に手を引かれていったふたりは、雨も降っていないのに、まだあのレインコートを着ていた。梅雨のなごりだろうか、よく晴れた空に虹が架かっていた。
「父さん」
 その虹を見上げながら、自分達の家へと向かう、帰り道。久は、笑顔で父親を見上げた。
「帰ったら、久しぶりの親子団らんだね」
「…ばーか」
 笑いながら自分を小突く父親を、久は、目を細めたまま、眺めつづけた。久の家のベランダには、いまでも四つ、てるてるぼうずが揺れている。