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水切り

ー/ー



「あー、腹減ったな、ちくしょう。いったいどこなんだよ、ここ」
 谷間の狭い空に、岡崎の悲痛な叫び声が吸い込まれていく。川原にあぐらをかいて見上げる空は、絶望的なまでに高い。両側の谷壁と急斜面。前後も山々にふさがれ、深いクレバスに落ち込んでしまったかのようだ。
「どっかに食い物売ってる店ねえかなあ……ってあるわけないか、こんな山奥に」
 あきらめ切った顔で、新樹が彩る急斜面に目を移す。うぐいす色の描点の奥、道を示すガードワイヤーのそばに、小林の車の一部が見える。谷川沿いの狭隘な道には、ところどころ対向車をやり過ごすための待避所が設けられているが、川原へ下りる小道の口が開けていたところに、小林は車を停めた。
「出前でも頼むか」
「シンさん携帯持ってないでしょ」
「……そういう問題かよ」
 和ませようと思って言ったのだが、じろりと睨み上げられてしまった。岡崎の空腹感は、すでに冗談の通じない域に突入している。普段から朝食を食べない岡崎は、腹に蓄えがないのだ。
 携帯といえば、真一はまだ携帯を持っていない。携帯電話やPHSは昨年あたりから爆発的に普及し始め、若い世代の間では、すでにポケベルに代わるツールとして定着した感がある。持たざる者がどんどん減っていく中、真一も年明けくらいには入手しようと思っていたのだが、バイトが替わったりして、ごたごたしている間にここまできてしまった。
「でも、最後に見た店まで戻るにしてもなあ……」
 ここまでの道のりを、頭の中で逆にたどってみる。
 道が山に入る少し前、やっているのかいないのかもよくわからない商店があった。年季の入った瓦屋根に雑草が生え、こげ茶色の板壁で大村崑が 「おいしいですよ!」 と笑っていた店だ。旧型の郵便ポストと満開の八重桜が寄り添っていたから、見過ごす心配はない。
 そこまで、だいたい三十分。ただ、長岡の体調を考えれば、あまり車を飛ばすわけにもいかない。運良く店がやっていたとしても、弁当などは置いていないだろう。腹持ちがいいものがあるとすれば、せいぜい菓子パンくらいか。あとは、お湯を沸かしてもらって、カップ麺をすするという手もあるが……。
「でも、まあ、ちゃんとしたメシが食いたきゃ、国道まで戻るしかないな」
 結局、そういう結論になってしまう。
「国道かあ……遠いっすね……」
 岡崎は天を仰いで、谷底まで降り注ぐ陽射しに目を細めた。それからポケットをまさぐり、自販機で補充した煙草を引っ張り出す。川原に突き立てたコーヒー缶は、小林が車の中で飲んでいたもの。
 岡崎が話しかけてこなかったので、真一は川瀬のほうに歩いていった。
 水際で平べったい石を拾う。
 子供の頃よくやった遊び、水切り。
 石のへりに指をかけ、流れの緩やかな場所に狙いをつける。大きく腕を引いて、低い体勢から振り抜くと、指先から飛び出した石は、浅葱色の水面を削って、対岸の湿っぽい崖に当たった。川面の上空に群がっていたカゲロウが、驚いて逃げていく。陽射しの下で再結集すると、ダンスをするように飛び始めた。透明な羽がガラスのようにキラキラ輝く。
 また石を拾おうとして身を屈めたら、ぐうー、と腹の虫が鳴いた。真一にしても、腹が減っていないわけではない。出発してから、かれこれ二時間以上経つ。本来なら、とっくに昼食にありついている時間だ。
 空き地を出発したときには、ラーメン屋の一軒くらいは見つかるだろうと高をくくっていたが、見事に期待は裏切られた。田舎の一本道にはラーメン屋はおろか、廃れた大衆食堂のような店さえ見当たらなかった。コンビニ、ファミレスは言うに及ばず。唯一見かけたのは、田んぼの真ん中にぽつんと立っていた居酒屋。「四時歌」 という看板が道端にあったが、常連だけで成り立っていそうな店だったし、そもそも日中に営業しているとも思えない。今さら言っても始まらないが、道が山に入った時点で引き返すべきだった。いずれどこかへ抜けるだろう、と安易に構えていたせいで、こんな秘境めいた場所に迷い込んでしまったのだ。
「おうっ……うえええっ」
 ふたつ目の石を投げようとしたとき、川下で激しい空えづきが聞こえた。振り返ると、小林がまた長岡の背中をさすっている。
「全部出しちまえ。そうすりゃ楽になる」
「うげええっ、おうえっ」
「がんばれ、あと少しだ」
 真一も経験があるが、背中をさすってもらうと、確かに吐きやすい。
「いいぞ、その調子。もうひと踏ん張り」
 小林の声に熱がこもる。
「あいつ、なんだか産婆みたいですねえ……」
 岡崎が他人事みたいに言った。
「生まれてくるのは、さっき食ったアイスと菓子だけどな」
「うわあ……想像しちまった」
 べーっと舌を出す岡崎。だが、すぐに表情を改め、
「今後どうします?」
 真一は手の中の石をもてあそびつつ、
「戻るにしても、山道が終わるまでけっこうかかるし……。かといって、このまま進んでもなあ……」
 悩ましい問題だ。山の中に入ってから、ずっと対向車を見かけなかったので、行き止まりの可能性もある。仮にどこかへ抜けられるにしても、あとどれくらい走ればいいのか……。
「ですねえ……」
 岡崎も頭を垂れる。
 結局、最終的な判断は、長岡に任せるしかなさそうだ。ちなみに、携帯は圏外。知り合いに頼んで、地図を見てもらうことはできない。



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「あー、腹減ったな、ちくしょう。いったいどこなんだよ、ここ」
 谷間の狭い空に、岡崎の悲痛な叫び声が吸い込まれていく。川原にあぐらをかいて見上げる空は、絶望的なまでに高い。両側の谷壁と急斜面。前後も山々にふさがれ、深いクレバスに落ち込んでしまったかのようだ。
「どっかに食い物売ってる店ねえかなあ……ってあるわけないか、こんな山奥に」
 あきらめ切った顔で、新樹が彩る急斜面に目を移す。うぐいす色の描点の奥、道を示すガードワイヤーのそばに、小林の車の一部が見える。谷川沿いの狭隘な道には、ところどころ対向車をやり過ごすための待避所が設けられているが、川原へ下りる小道の口が開けていたところに、小林は車を停めた。
「出前でも頼むか」
「シンさん携帯持ってないでしょ」
「……そういう問題かよ」
 和ませようと思って言ったのだが、じろりと睨み上げられてしまった。岡崎の空腹感は、すでに冗談の通じない域に突入している。普段から朝食を食べない岡崎は、腹に蓄えがないのだ。
 携帯といえば、真一はまだ携帯を持っていない。携帯電話やPHSは昨年あたりから爆発的に普及し始め、若い世代の間では、すでにポケベルに代わるツールとして定着した感がある。持たざる者がどんどん減っていく中、真一も年明けくらいには入手しようと思っていたのだが、バイトが替わったりして、ごたごたしている間にここまできてしまった。
「でも、最後に見た店まで戻るにしてもなあ……」
 ここまでの道のりを、頭の中で逆にたどってみる。
 道が山に入る少し前、やっているのかいないのかもよくわからない商店があった。年季の入った瓦屋根に雑草が生え、こげ茶色の板壁で大村崑が 「おいしいですよ!」 と笑っていた店だ。旧型の郵便ポストと満開の八重桜が寄り添っていたから、見過ごす心配はない。
 そこまで、だいたい三十分。ただ、長岡の体調を考えれば、あまり車を飛ばすわけにもいかない。運良く店がやっていたとしても、弁当などは置いていないだろう。腹持ちがいいものがあるとすれば、せいぜい菓子パンくらいか。あとは、お湯を沸かしてもらって、カップ麺をすするという手もあるが……。
「でも、まあ、ちゃんとしたメシが食いたきゃ、国道まで戻るしかないな」
 結局、そういう結論になってしまう。
「国道かあ……遠いっすね……」
 岡崎は天を仰いで、谷底まで降り注ぐ陽射しに目を細めた。それからポケットをまさぐり、自販機で補充した煙草を引っ張り出す。川原に突き立てたコーヒー缶は、小林が車の中で飲んでいたもの。
 岡崎が話しかけてこなかったので、真一は川瀬のほうに歩いていった。
 水際で平べったい石を拾う。
 子供の頃よくやった遊び、水切り。
 石のへりに指をかけ、流れの緩やかな場所に狙いをつける。大きく腕を引いて、低い体勢から振り抜くと、指先から飛び出した石は、浅葱色の水面を削って、対岸の湿っぽい崖に当たった。川面の上空に群がっていたカゲロウが、驚いて逃げていく。陽射しの下で再結集すると、ダンスをするように飛び始めた。透明な羽がガラスのようにキラキラ輝く。
 また石を拾おうとして身を屈めたら、ぐうー、と腹の虫が鳴いた。真一にしても、腹が減っていないわけではない。出発してから、かれこれ二時間以上経つ。本来なら、とっくに昼食にありついている時間だ。
 空き地を出発したときには、ラーメン屋の一軒くらいは見つかるだろうと高をくくっていたが、見事に期待は裏切られた。田舎の一本道にはラーメン屋はおろか、廃れた大衆食堂のような店さえ見当たらなかった。コンビニ、ファミレスは言うに及ばず。唯一見かけたのは、田んぼの真ん中にぽつんと立っていた居酒屋。「四時歌」 という看板が道端にあったが、常連だけで成り立っていそうな店だったし、そもそも日中に営業しているとも思えない。今さら言っても始まらないが、道が山に入った時点で引き返すべきだった。いずれどこかへ抜けるだろう、と安易に構えていたせいで、こんな秘境めいた場所に迷い込んでしまったのだ。
「おうっ……うえええっ」
 ふたつ目の石を投げようとしたとき、川下で激しい空えづきが聞こえた。振り返ると、小林がまた長岡の背中をさすっている。
「全部出しちまえ。そうすりゃ楽になる」
「うげええっ、おうえっ」
「がんばれ、あと少しだ」
 真一も経験があるが、背中をさすってもらうと、確かに吐きやすい。
「いいぞ、その調子。もうひと踏ん張り」
 小林の声に熱がこもる。
「あいつ、なんだか産婆みたいですねえ……」
 岡崎が他人事みたいに言った。
「生まれてくるのは、さっき食ったアイスと菓子だけどな」
「うわあ……想像しちまった」
 べーっと舌を出す岡崎。だが、すぐに表情を改め、
「今後どうします?」
 真一は手の中の石をもてあそびつつ、
「戻るにしても、山道が終わるまでけっこうかかるし……。かといって、このまま進んでもなあ……」
 悩ましい問題だ。山の中に入ってから、ずっと対向車を見かけなかったので、行き止まりの可能性もある。仮にどこかへ抜けられるにしても、あとどれくらい走ればいいのか……。
「ですねえ……」
 岡崎も頭を垂れる。
 結局、最終的な判断は、長岡に任せるしかなさそうだ。ちなみに、携帯は圏外。知り合いに頼んで、地図を見てもらうことはできない。