【番外編】石の中から見ていた 前編
ー/ーおばあのところから帰って三日が経っていた。
クガニ弔いまで、あと四日。
蒼はフィールドノートを開いていた。向き合う。逃げない。名前を呼ぶ。調べてきたことを全部話す。詫びる。線香を焚く。ウチカビを燃やす。何度も読み返した言葉が並んでいた。
リュックの中のウチカビと線香は、もう何度も確認していた。ヒラウコーの本数も確認した。じいちゃんへの電話も済ませた。やるべきことは全部やった。
それでも、一つだけ引っかかっていることがあった。
「ナビ」
リビングでテレビを見ていたナビが振り返った。
「ん?」
「聞いていいか」
「何ね」
蒼はノートを閉じて問いかけた。
「クガニは忘れられて腐った。何百年も誰も来なくて、声も届かなくて、それで腐った」
「うん」
「お前も何百年も封印されてた。なんで腐らなかったんだ」
ナビがテレビを消した。
珍しかった。ナビが自分でテレビを消すのは、珍しかった。
しばらく黙っていた。膝の上に手を置いて、少し遠くを見ていた。
「……今日、その話をする気分じゃなかったんだけど」
「言いたくなければいい」
「否」ナビが言った。「する。蒼が聞くなら、する」
* * *
ミカが台所からさんぴん茶を二つ持ってきた。
何も言わなかった。テーブルに置いて、台所に戻った。気配を消すような戻り方だった。キジムナーたちも静かだった。三体とも、窓の外のガジュマルの方を向いて丸くなっていた。鳴かなかった。
ナビがさんぴん茶を一口飲んだ。
「ノロだった頃の話から、する?」
「聞きたい」
「長いよ」
「時間はある」
ナビが少し笑った。声に出さない笑い方だった。
「じゃあ、最初から」
「ノロは集落の祭祀を仕切る。御嶽の神様に祈って、神様の言葉を人に伝える。季節の祭りを執り行う。集落の人間が困った時に、神様に問いかける。それがノロの仕事だった」
ナビが話し始めた時、声が少し変わった。いつもの現代語と古語が混じる話し方ではなかった。どこか遠いところから来る声だった。
「私がノロになったのは十三の時。その頃は普通だと思ってた。ノロは代々決まってたから。私の家の仕事だから、私がなるものだと思ってた」
「でも普通じゃなかった……普通じゃなかった」ナビが繰り返した。
「御嶽に入ると、神様の声が聞こえた。他のノロには聞こえないものが、私には聞こえた。見えないものが見えた。感じないものが感じられた」
「それは……良いことじゃないのか」
「良いことではあった。でも」ナビが少し間を置いた。「怖かった」
蒼は何も言わなかった。
「他のノロや、集落の人たちが感じないものを、私だけが感じてた。誰かと話してる時に、その人の周りにいるものが見えてしまう。御嶽に近づくだけで、神様の気配が体に入ってくる。それが、最初はどうしていいか分からなかった」
「慣れたのか?」
「慣れた」ナビが言った。「慣れてから、楽しくなった。御嶽の神様と話せた。自然の気の流れが分かった。集落の人たちの頼みに応えられた。それが嬉しかった」
ナビがさんぴん茶を置いた。
「でも、同じノロの仲間とは少しずつ離れていった。力が強すぎると、怖がられる。それは今も昔も同じだと思う」
蒼は少し考えた。
「孤独だったのか」
「孤独だったというより」ナビが言葉を選んだ。「居場所は御嶽だった。人の中より、御嶽の神様の方が、よく分かってくれた」
「ユタになったのは、いつのことだ」
「17の時。ノロをやりながら、力が強くなり続けた。ノロの枠に収まらなくなった。私が御嶽に入ると、周りの気が乱れ始めた。結界が揺れた。それは……私のせいだった」
「制御できなかったのか」
「できなかった」ナビが静かに言った。「力が大きすぎて、自分でも扱いきれなかった。御嶽に入るたびに、何かが変わった。良い変わり方じゃなかった」
蒼はナビを見た。
今のナビは、いつもと少し違う顔をしていた。戦闘の時でも、神がかりの時でもない。もっと素の、ただの少女みたいな顔だった。
「それでユタに」
「ユタになれば、神様と直接繋がれる。神様の力を借りて、自分の力を制御できると教わった。実際、なってみたら少し落ち着いた」
「でも」
「でも、ユタは一人だった」ナビが言った。「ノロには仲間がいた。一緒に祭祀をやる仲間が。ユタには誰もいない。依頼してくる人間はいる。でも一緒にいる人間は、いなかった」
蒼の手が、少し動いた。
テーブルの上に置いていた手が、わずかに動いた。でも何も言わなかった。
「孤独なのに、力は強くなり続けた。依頼は来る。解決できる。でも終わったら、また一人に戻る。それが……何度も続いた」
「封印は、自分で決めたのか」
ナビが少し黙った。
「自分で決めた」
「なんで」
「力が、また制御できなくなってきた頃のことだ」ナビが言った。「私が近くにいるだけで、周りの気が乱れ始めた。御嶽の神様が落ち着かなくなった。集落の人たちに影響が出た。子どもが怖い夢を見るようになったとか、家畜が急に暴れるようになったとか」
「お前のせいで?」
「私がいるせいで、気が乱れてたから。直接的な原因じゃなくても、間接的には私のせいだった」
蒼はしばらく黙った。
「封印を提案したのは、王国の神官だった」ナビが続けた。「御嶽の霊石に封じれば、力が外に漏れなくなる。集落に影響しなくなる。眠っている間に、力も落ち着く。目が覚めた時に、制御できるようになっているかもしれない」
「それを信じたのか」
「信じたというより」ナビが少し考えた。「他に方法がなかった。私がいる限り、周りに影響し続ける。それが嫌だった」
「自分のためじゃなくて、周りのために封印を選んだのか」
ナビは答えなかった。でも否定もしなかった。
「眠れば楽になると思った部分もあったかもしれない」ナビがようやく言った。「ずっと一人だったから。眠れば、一人じゃなくなると思ったのかもしれない」
「眠れば一人じゃなくなる、か」
「眠ってる間は、何も感じないから」ナビが言った。「孤独も感じない。疲れも感じない。眠れば、何も感じなくていいから」
クガニ弔いまで、あと四日。
蒼はフィールドノートを開いていた。向き合う。逃げない。名前を呼ぶ。調べてきたことを全部話す。詫びる。線香を焚く。ウチカビを燃やす。何度も読み返した言葉が並んでいた。
リュックの中のウチカビと線香は、もう何度も確認していた。ヒラウコーの本数も確認した。じいちゃんへの電話も済ませた。やるべきことは全部やった。
それでも、一つだけ引っかかっていることがあった。
「ナビ」
リビングでテレビを見ていたナビが振り返った。
「ん?」
「聞いていいか」
「何ね」
蒼はノートを閉じて問いかけた。
「クガニは忘れられて腐った。何百年も誰も来なくて、声も届かなくて、それで腐った」
「うん」
「お前も何百年も封印されてた。なんで腐らなかったんだ」
ナビがテレビを消した。
珍しかった。ナビが自分でテレビを消すのは、珍しかった。
しばらく黙っていた。膝の上に手を置いて、少し遠くを見ていた。
「……今日、その話をする気分じゃなかったんだけど」
「言いたくなければいい」
「否」ナビが言った。「する。蒼が聞くなら、する」
* * *
ミカが台所からさんぴん茶を二つ持ってきた。
何も言わなかった。テーブルに置いて、台所に戻った。気配を消すような戻り方だった。キジムナーたちも静かだった。三体とも、窓の外のガジュマルの方を向いて丸くなっていた。鳴かなかった。
ナビがさんぴん茶を一口飲んだ。
「ノロだった頃の話から、する?」
「聞きたい」
「長いよ」
「時間はある」
ナビが少し笑った。声に出さない笑い方だった。
「じゃあ、最初から」
「ノロは集落の祭祀を仕切る。御嶽の神様に祈って、神様の言葉を人に伝える。季節の祭りを執り行う。集落の人間が困った時に、神様に問いかける。それがノロの仕事だった」
ナビが話し始めた時、声が少し変わった。いつもの現代語と古語が混じる話し方ではなかった。どこか遠いところから来る声だった。
「私がノロになったのは十三の時。その頃は普通だと思ってた。ノロは代々決まってたから。私の家の仕事だから、私がなるものだと思ってた」
「でも普通じゃなかった……普通じゃなかった」ナビが繰り返した。
「御嶽に入ると、神様の声が聞こえた。他のノロには聞こえないものが、私には聞こえた。見えないものが見えた。感じないものが感じられた」
「それは……良いことじゃないのか」
「良いことではあった。でも」ナビが少し間を置いた。「怖かった」
蒼は何も言わなかった。
「他のノロや、集落の人たちが感じないものを、私だけが感じてた。誰かと話してる時に、その人の周りにいるものが見えてしまう。御嶽に近づくだけで、神様の気配が体に入ってくる。それが、最初はどうしていいか分からなかった」
「慣れたのか?」
「慣れた」ナビが言った。「慣れてから、楽しくなった。御嶽の神様と話せた。自然の気の流れが分かった。集落の人たちの頼みに応えられた。それが嬉しかった」
ナビがさんぴん茶を置いた。
「でも、同じノロの仲間とは少しずつ離れていった。力が強すぎると、怖がられる。それは今も昔も同じだと思う」
蒼は少し考えた。
「孤独だったのか」
「孤独だったというより」ナビが言葉を選んだ。「居場所は御嶽だった。人の中より、御嶽の神様の方が、よく分かってくれた」
「ユタになったのは、いつのことだ」
「17の時。ノロをやりながら、力が強くなり続けた。ノロの枠に収まらなくなった。私が御嶽に入ると、周りの気が乱れ始めた。結界が揺れた。それは……私のせいだった」
「制御できなかったのか」
「できなかった」ナビが静かに言った。「力が大きすぎて、自分でも扱いきれなかった。御嶽に入るたびに、何かが変わった。良い変わり方じゃなかった」
蒼はナビを見た。
今のナビは、いつもと少し違う顔をしていた。戦闘の時でも、神がかりの時でもない。もっと素の、ただの少女みたいな顔だった。
「それでユタに」
「ユタになれば、神様と直接繋がれる。神様の力を借りて、自分の力を制御できると教わった。実際、なってみたら少し落ち着いた」
「でも」
「でも、ユタは一人だった」ナビが言った。「ノロには仲間がいた。一緒に祭祀をやる仲間が。ユタには誰もいない。依頼してくる人間はいる。でも一緒にいる人間は、いなかった」
蒼の手が、少し動いた。
テーブルの上に置いていた手が、わずかに動いた。でも何も言わなかった。
「孤独なのに、力は強くなり続けた。依頼は来る。解決できる。でも終わったら、また一人に戻る。それが……何度も続いた」
「封印は、自分で決めたのか」
ナビが少し黙った。
「自分で決めた」
「なんで」
「力が、また制御できなくなってきた頃のことだ」ナビが言った。「私が近くにいるだけで、周りの気が乱れ始めた。御嶽の神様が落ち着かなくなった。集落の人たちに影響が出た。子どもが怖い夢を見るようになったとか、家畜が急に暴れるようになったとか」
「お前のせいで?」
「私がいるせいで、気が乱れてたから。直接的な原因じゃなくても、間接的には私のせいだった」
蒼はしばらく黙った。
「封印を提案したのは、王国の神官だった」ナビが続けた。「御嶽の霊石に封じれば、力が外に漏れなくなる。集落に影響しなくなる。眠っている間に、力も落ち着く。目が覚めた時に、制御できるようになっているかもしれない」
「それを信じたのか」
「信じたというより」ナビが少し考えた。「他に方法がなかった。私がいる限り、周りに影響し続ける。それが嫌だった」
「自分のためじゃなくて、周りのために封印を選んだのか」
ナビは答えなかった。でも否定もしなかった。
「眠れば楽になると思った部分もあったかもしれない」ナビがようやく言った。「ずっと一人だったから。眠れば、一人じゃなくなると思ったのかもしれない」
「眠れば一人じゃなくなる、か」
「眠ってる間は、何も感じないから」ナビが言った。「孤独も感じない。疲れも感じない。眠れば、何も感じなくていいから」
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