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桜とゴールデンウィーク

ー/ー



 
 全身を包むような暖かい風が、頬を撫でていく。冬は肌に突き刺すような冷たさに身体を縮こまらせていたが、今では立ち止まって、穏やかな日差しを味わいたい気持ちになっている。陽気さが身体の奥からぽかぽかと溢れ、職場へと向かう足取りも、自然と軽くなっていた。
 文仁(ふみひと)は施錠を解除し、職場へと入る。まずは始業前の立ち上げ業務として、窓やブラインドを開け、箒で床周りの掃き掃除を始めた。入社をして一年が経過し、初めのうちは早出(はやで)が求められ面倒だった掃除も、習慣として受け入れるようになっている。嫌な慣習も「そういうもの」として受け入れることが社会人として馴染む一歩なのかな、と文仁は思い始めていた。
 入口付近の棚を雑巾で水拭きしていると、文仁はそこに置かれている鉢植えの変化に気づいた。桜の苗木が、ぷっくりと蕾を開き、ピンク色の花を咲かせているのだ。文仁は綺麗だな、と思いつつ、苦笑した。昨年のこの時期は、桜が咲いていることに気づけなかったからである。
 文仁にとって初めての社会人生活と一人暮らしは混乱と多忙を極め、入口に置いてある鉢植えが桜の苗木ということに気づいたのは、ゴールデンウィークを終えた後だった。当然、その頃には花びらは(しお)れ、緑の葉が茂り始めていた。
 ピンクに色づいた花びらをうっとりとした思いで眺めていると、扉が開き、男性が声を上げた。「うおっ、びっくりした」
 中肉中背の男性は小田だ。文仁の上司にあたり、彼から業務について教わっていた。文仁は挨拶をし、鉢植えを指し示す。
「小田さん。桜、咲きましたねえ」
 文仁の手元に雑巾があるのを認めた小田は「朝からご苦労様」と労いつつ、穏やかに微笑んだ。
「そうだなあ。春は暖かくて陽気になるし、一番好きな季節だよ」
「僕も好きな季節です」と文仁は頷いた。実際、足早に職場に向かっていた冬に比べ、春はそのの足取りは軽くなっていた。
 デスクへ向かった小田はパソコンを立ち上げ、労わるようにゆっくりと椅子に座る。文仁はおや?と違和感を感じつつも話しかけた。
「去年は気づかなかったんですよ」
「何が?」
「この鉢植えに、桜が植えられていることに」
「ああ」と小田は合点し、相好を崩した。「そりゃそうか。去年は仕事を覚えるので精一杯だったからなあ」
「そうなんですよ。小田さんのお陰で、何とか基本業務はこなせるようになりました」文仁は大仰に頭を下げてみせる。
 電話応対に苦戦し、ミスをする度に落ち込む文仁に対し、小田は何度も励ましてくれたのだ。「大丈夫。一度目をかけた人間を、俺は絶対に見捨てないからな」と彼はよく口にした。寛容で穏やかな性格は頼もしく、文仁にとって憧れの存在となっていた。苦労しながらも一年間、仕事を続けられたのは、間違いなく彼のお陰である。
「満足しちゃダメだぞ。君はこれからなんだから」小田は笑いつつ、鉢植えの桜を一瞥する。「文仁君。変化に気付けるようにならないと。そんなんじゃ、女の子にモテないよ」
「そっ、そうですねえ」文仁にとっては痛いところを突かれたため、曖昧に笑うことしかできなかった。過去に交際していた女性から「どうして気づいてくれないの」と詰め寄られたことがあったのである。文仁は狼狽し「か……髪型?」と訊ねたが、その声は裏返っていたはずだ。恐る恐る彼女に目を向けると、魂が抜けたような表情をしており、あからさまなため息をついた。その日の彼女は常に不機嫌で、文仁が「あ、ネイルの色がいつもと違う」と気づいたのは一人で帰り電車に揺られてる時だった。その後、別れを切り出され、文仁にとって苦い記憶となっている。
「何、心当たりでもあるの」
 小田が問いかける。文仁は正直に話すと「あら、それはやってしまったねえ……大丈夫、まだ若いんだから」と肩を叩かれた。
「同じ過ちを繰り返さないよう、頑張ります」文仁は力なく微笑んだ。
「うちの女房なんてなあ」気がつくと小田の話題は女房との愚痴となっていた。彼は一度話し始めると話題が二転三転し、止まらなくなるのだ。文仁は相槌を打っていると、ふと声のトーンを変えて話し始めた。
「桜は一年に一度の風物詩だからこそ、思い出にしっかり残るってもんだ。『ああ、あの時に見たんだよな』ってな。一緒に見に行きたい人がいたら、しっかり誘っておくんだぞ」
 小田の声色には湿っぽさと切実さを感じられ、文仁は神妙な表情で頷いた。小田は小学生へ上がる頃には両親を病気で亡くしているらしい。以前飲み会で、そのように話していたのだ。だからこそ、人の(はかな)さを知っているのだろう。文仁は壁にかけられたカレンダーに目を向けた。現在は四月中旬だが、五月に入る頃には桜は散り始めていることだろう。ゴールデンウィークに帰省した時には両親との時間をしっかりつくらないとな、と思った。
 小田は椅子を引き、立ち上がろうとすると「痛てて……」と片手を付き、腰を抑えた。心配になり声をかけると彼は「ちょっと最近、身体の調子が悪くてな」と苦笑している。
「無理しないでください。コーヒーですよね?僕、淹れてきますから」
「文仁君、ありがとうねえ」
 文仁は給湯室に向かう。ガラス戸を引き、小田からマグカップを手に取った。花柄のイラストが描かれている。誕生日に娘から貰ったらしく、以前、嬉しそうに話していた。マグカップを置き、コーヒーメーカーのスイッチを押す。ガラガラと機械音が鳴り、豆が削られていく音に耳を傾ける。コーヒーの匂いが漂い、鼻腔をくすぐった。腕を組み、考えごとにふける時間が文仁は好きだった。先程の、小田の言葉について考えていた。自分にとって一緒に行きたい人は誰だろう、と。
 小田の元へ戻り、マグカップを渡す。彼は「ありがとう」と頭を下げ、受け取った。
「小田さん。無理しないでくださいね。何かあったら、遠慮なく頼ってください」
「ああ。その時には頼らせてもらうよ」
 開け放った窓から、勢いよく風が流れ込んできた。書類がたなびき、鉢植えの桜が揺れている。花弁が散り、文仁の足元にひらひらと舞い降りた。屈んで拾ったのち、「小田さん」と口を開く。
「小田さん、一緒に桜、見に行きませんか」
 小田はきょとんとした顔で見ていたため、文仁は慌てて付け加えた。「ああ、ほら僕はまだこの地域のこと、何も知らないので、教えて欲しいなあと思って」
 まるで、気になる女の子をデートに誘う時みたいじゃないか、と文仁は自身に呆れた。小田は目を細め、にっこりと微笑んだ。
「いいよ。文仁君に地域のこと教えてあげようじゃないか」
「はい。よろしくお願いします」文仁は勢いよく返事をし、腕を回した。「さて、今日も頑張るぞ」
 ドアが開き、事務員の女性が入ってきた。彼女は挨拶を言い終わる前に、盛大なくしゃみを放った。そして恨めしげに吐き捨てた。「春なんてクソ喰らえだ」
 文仁は小田は顔を見合わせ、笑い合った。
 


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 全身を包むような暖かい風が、頬を撫でていく。冬は肌に突き刺すような冷たさに身体を縮こまらせていたが、今では立ち止まって、穏やかな日差しを味わいたい気持ちになっている。陽気さが身体の奥からぽかぽかと溢れ、職場へと向かう足取りも、自然と軽くなっていた。
 文仁《ふみひと》は施錠を解除し、職場へと入る。まずは始業前の立ち上げ業務として、窓やブラインドを開け、箒で床周りの掃き掃除を始めた。入社をして一年が経過し、初めのうちは早出《はやで》が求められ面倒だった掃除も、習慣として受け入れるようになっている。嫌な慣習も「そういうもの」として受け入れることが社会人として馴染む一歩なのかな、と文仁は思い始めていた。
 入口付近の棚を雑巾で水拭きしていると、文仁はそこに置かれている鉢植えの変化に気づいた。桜の苗木が、ぷっくりと蕾を開き、ピンク色の花を咲かせているのだ。文仁は綺麗だな、と思いつつ、苦笑した。昨年のこの時期は、桜が咲いていることに気づけなかったからである。
 文仁にとって初めての社会人生活と一人暮らしは混乱と多忙を極め、入口に置いてある鉢植えが桜の苗木ということに気づいたのは、ゴールデンウィークを終えた後だった。当然、その頃には花びらは萎《しお》れ、緑の葉が茂り始めていた。
 ピンクに色づいた花びらをうっとりとした思いで眺めていると、扉が開き、男性が声を上げた。「うおっ、びっくりした」
 中肉中背の男性は小田だ。文仁の上司にあたり、彼から業務について教わっていた。文仁は挨拶をし、鉢植えを指し示す。
「小田さん。桜、咲きましたねえ」
 文仁の手元に雑巾があるのを認めた小田は「朝からご苦労様」と労いつつ、穏やかに微笑んだ。
「そうだなあ。春は暖かくて陽気になるし、一番好きな季節だよ」
「僕も好きな季節です」と文仁は頷いた。実際、足早に職場に向かっていた冬に比べ、春はそのの足取りは軽くなっていた。
 デスクへ向かった小田はパソコンを立ち上げ、労わるようにゆっくりと椅子に座る。文仁はおや?と違和感を感じつつも話しかけた。
「去年は気づかなかったんですよ」
「何が?」
「この鉢植えに、桜が植えられていることに」
「ああ」と小田は合点し、相好を崩した。「そりゃそうか。去年は仕事を覚えるので精一杯だったからなあ」
「そうなんですよ。小田さんのお陰で、何とか基本業務はこなせるようになりました」文仁は大仰に頭を下げてみせる。
 電話応対に苦戦し、ミスをする度に落ち込む文仁に対し、小田は何度も励ましてくれたのだ。「大丈夫。一度目をかけた人間を、俺は絶対に見捨てないからな」と彼はよく口にした。寛容で穏やかな性格は頼もしく、文仁にとって憧れの存在となっていた。苦労しながらも一年間、仕事を続けられたのは、間違いなく彼のお陰である。
「満足しちゃダメだぞ。君はこれからなんだから」小田は笑いつつ、鉢植えの桜を一瞥する。「文仁君。変化に気付けるようにならないと。そんなんじゃ、女の子にモテないよ」
「そっ、そうですねえ」文仁にとっては痛いところを突かれたため、曖昧に笑うことしかできなかった。過去に交際していた女性から「どうして気づいてくれないの」と詰め寄られたことがあったのである。文仁は狼狽し「か……髪型?」と訊ねたが、その声は裏返っていたはずだ。恐る恐る彼女に目を向けると、魂が抜けたような表情をしており、あからさまなため息をついた。その日の彼女は常に不機嫌で、文仁が「あ、ネイルの色がいつもと違う」と気づいたのは一人で帰り電車に揺られてる時だった。その後、別れを切り出され、文仁にとって苦い記憶となっている。
「何、心当たりでもあるの」
 小田が問いかける。文仁は正直に話すと「あら、それはやってしまったねえ……大丈夫、まだ若いんだから」と肩を叩かれた。
「同じ過ちを繰り返さないよう、頑張ります」文仁は力なく微笑んだ。
「うちの女房なんてなあ」気がつくと小田の話題は女房との愚痴となっていた。彼は一度話し始めると話題が二転三転し、止まらなくなるのだ。文仁は相槌を打っていると、ふと声のトーンを変えて話し始めた。
「桜は一年に一度の風物詩だからこそ、思い出にしっかり残るってもんだ。『ああ、あの時に見たんだよな』ってな。一緒に見に行きたい人がいたら、しっかり誘っておくんだぞ」
 小田の声色には湿っぽさと切実さを感じられ、文仁は神妙な表情で頷いた。小田は小学生へ上がる頃には両親を病気で亡くしているらしい。以前飲み会で、そのように話していたのだ。だからこそ、人の儚《はかな》さを知っているのだろう。文仁は壁にかけられたカレンダーに目を向けた。現在は四月中旬だが、五月に入る頃には桜は散り始めていることだろう。ゴールデンウィークに帰省した時には両親との時間をしっかりつくらないとな、と思った。
 小田は椅子を引き、立ち上がろうとすると「痛てて……」と片手を付き、腰を抑えた。心配になり声をかけると彼は「ちょっと最近、身体の調子が悪くてな」と苦笑している。
「無理しないでください。コーヒーですよね?僕、淹れてきますから」
「文仁君、ありがとうねえ」
 文仁は給湯室に向かう。ガラス戸を引き、小田からマグカップを手に取った。花柄のイラストが描かれている。誕生日に娘から貰ったらしく、以前、嬉しそうに話していた。マグカップを置き、コーヒーメーカーのスイッチを押す。ガラガラと機械音が鳴り、豆が削られていく音に耳を傾ける。コーヒーの匂いが漂い、鼻腔をくすぐった。腕を組み、考えごとにふける時間が文仁は好きだった。先程の、小田の言葉について考えていた。自分にとって一緒に行きたい人は誰だろう、と。
 小田の元へ戻り、マグカップを渡す。彼は「ありがとう」と頭を下げ、受け取った。
「小田さん。無理しないでくださいね。何かあったら、遠慮なく頼ってください」
「ああ。その時には頼らせてもらうよ」
 開け放った窓から、勢いよく風が流れ込んできた。書類がたなびき、鉢植えの桜が揺れている。花弁が散り、文仁の足元にひらひらと舞い降りた。屈んで拾ったのち、「小田さん」と口を開く。
「小田さん、一緒に桜、見に行きませんか」
 小田はきょとんとした顔で見ていたため、文仁は慌てて付け加えた。「ああ、ほら僕はまだこの地域のこと、何も知らないので、教えて欲しいなあと思って」
 まるで、気になる女の子をデートに誘う時みたいじゃないか、と文仁は自身に呆れた。小田は目を細め、にっこりと微笑んだ。
「いいよ。文仁君に地域のこと教えてあげようじゃないか」
「はい。よろしくお願いします」文仁は勢いよく返事をし、腕を回した。「さて、今日も頑張るぞ」
 ドアが開き、事務員の女性が入ってきた。彼女は挨拶を言い終わる前に、盛大なくしゃみを放った。そして恨めしげに吐き捨てた。「春なんてクソ喰らえだ」
 文仁は小田は顔を見合わせ、笑い合った。