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第9話|真夜中のコンサルタント

ー/ー





 完全な無音のまま、おぞましいスピードで文字だけが滝のように流れていく。

 それは、私の思考の速度を完全に置き去りにする、無機質な打鍵音の連なりだった。
 真っ白な画面の奥底で、目に見えないタイピストが、一切の迷いなく透明なキーボードを叩き続けている。私が、指先の震えを隠すようにしてようやく打ち出した、泥水のような数行の言葉。それらが、エンターキーを叩いた数秒後には、整然とした黒い文字の滝へと姿を変えて、画面を侵食していく。

 「……っ」

 深夜の部屋に、短く、息の漏れる音が落ちた。
 私は丸メガネのブリッジを押し上げることも忘れ、液晶の放つ青白い光を網膜に焼き付けていた。呼吸をすることさえ忘れてしまうような、淀みのない、暴力的なまでの生成速度。
 やがて、画面の右下で点滅していた小さなアイコンが消え、文字の滝がピタリと止まった。
 五年ぶりに目覚めた銀色のノートパソコンの上には、幾何学的なほど正確に、そして冷淡に整列したテキストの塊が居座っていた。

 私は、膝の上でまどろんでいたジークの背中に、無意識に指を沈める。その温もりに縋るようにして、画面の第一行目に視線を滑らせた。

 『こんにちは。まず、現在の状況を整理しましょう。結論から申し上げますと、あなたが抱えている課題は、適切なリソース管理によって論理的に解決が可能です。』

 画面から飛び出してきた言葉には、微かな湿度も、温度も含まれていなかった。
 私の不格好な独白や、隠しきれなかった自己卑下に対する「共感」というプロセスを、この機械はまるごとバイパスしている。仕立ての良い、けれどシワ一つない冷たいスーツを着たエリートコンサルタントが、突然この埃っぽい部屋に現れて、私の生活を検分し始めたかのような。

 『あなたが「スキルがない」と感じているのは、単なる自己評価の誤りです。事務職で培った正確なデータ処理能力は、AIへの指示(プロンプト)の精度に直結します。
 最大の問題は、時間的リソースの枯渇にあります。現状を打破するために、以下のステップを検討してください。

 【ステップ1:非効率な労働の排除】
 現状の残業時間は、あなたの心身を著しく摩耗させています。業務プロセスを見直し、定時退社を絶対条件として設定してください。

 【ステップ2:休日の再定義】
 疲労回復のためだけに休日を消費することは、長期的なリテラシー向上を阻害します。一日のうち最低でも一時間は、新しいツールの習得に充てるべきです。

 【ステップ3:自己の市場価値の再定義】
 「自分には何もない」という思考を捨て、AIを部下として使いこなす「ディレクター」としての視点を持ってください。』

 読み終えた瞬間、私の指先はジークの毛並みの中で、凍りついたように止まった。
 時計の秒針が刻むチク、タク、という音だけが、部屋の静寂を際立たせる。

 「……定時、退社」

 画面に並ぶ、墨をぶちまけたような黒い文字を、乾いた唇でなぞる。
 それが可能なら、私は駅前の靴修理屋に、三週間も前からパンプスを預けているはずだ。九条先輩から「あなたの責任はどこにあるの」と、あの重厚な電卓の音とともに詰め寄られることもなく、明るい時間にスーパーの精肉コーナーを歩いている。
 私の「リソース」は、私という個人の意思ではびくともしない巨大な組織の歯車に、しっかりと噛み合わされてしまっている。

 「休日は、一時間を、習得に……」

 さらに続く、淀みのないアドバイス。
 正しい。
 ぐぅの音も出ないほど、これは「模範解答」だ。
 けれど、平日の五日間で魂の最後の一滴まで絞り取られ、泥のように眠ることでしか月曜日の満員電車に耐えられない今の私にとって、その一時間は、崖で辛うじて掴んでいる細い枝を離せと言われているのに等しかった。

 画面の中の彼は、私を傷つけようとしているわけではない。ただ、入力された絶望的なデータに対して、最も成功確率が高いと思われる「最適解」を弾き出しただけだ。
 けれど、その正しさが、今の私がいかに「正解から遠い場所にいるか」という事実を、鏡のように突きつけてくる。
 彼には、疲れることができないのだ。
 人間が抱える、明日への漠然とした恐怖や、波風を立てないために飲み込んだ言葉の苦さ。そういった論理の外側にある「バグ」のような重みを、彼は知らない。

 「……やっぱり、そういうことなのかな」

 オフィスで感じていた、あの逃げ場のない息苦しさが、この聖域であるはずの部屋にまで侵食してきている。
 会社では、古い習慣に縛られた人間たちに振り回される。
 家に帰り、最後の勇気を振り絞って新しい世界に助けを求めてみれば、今度は血の通っていない知性から「あなたは非効率だ」と引導を渡される。

 私は、ゆっくりと右手を伸ばした。
 冷たいプラスチックのマウスを、壊れ物を扱うような手つきで握る。
 矢印のポインタが、画面の右上にある、小さな赤い「×」ボタンの上で止まった。

 ここをクリックすれば、この冷ややかなエリートコンサルタントとの接続は切れる。そして私は、再び明日も、底のすり減ったパンプスに足を通し、他人の顔色を窺いながら、枠の中を埋めるためだけの日常へと帰っていく。
 身の丈に合わない夢なんて、見なければよかった。
 ただ、ジークを撫でて、半額のお弁当を食べて、そうやってやり過ごしていれば、傷つくこともなかったのに。

 私は、人差し指に力を込めた。マウスのスイッチが沈み込み、カチッという小さな終焉の音が鳴る、その寸前だった。

挿絵9話


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 それは、私の思考の速度を完全に置き去りにする、無機質な打鍵音の連なりだった。
 真っ白な画面の奥底で、目に見えないタイピストが、一切の迷いなく透明なキーボードを叩き続けている。私が、指先の震えを隠すようにしてようやく打ち出した、泥水のような数行の言葉。それらが、エンターキーを叩いた数秒後には、整然とした黒い文字の滝へと姿を変えて、画面を侵食していく。
 「……っ」
 深夜の部屋に、短く、息の漏れる音が落ちた。
 私は丸メガネのブリッジを押し上げることも忘れ、液晶の放つ青白い光を網膜に焼き付けていた。呼吸をすることさえ忘れてしまうような、淀みのない、暴力的なまでの生成速度。
 やがて、画面の右下で点滅していた小さなアイコンが消え、文字の滝がピタリと止まった。
 五年ぶりに目覚めた銀色のノートパソコンの上には、幾何学的なほど正確に、そして冷淡に整列したテキストの塊が居座っていた。
 私は、膝の上でまどろんでいたジークの背中に、無意識に指を沈める。その温もりに縋るようにして、画面の第一行目に視線を滑らせた。
 『こんにちは。まず、現在の状況を整理しましょう。結論から申し上げますと、あなたが抱えている課題は、適切なリソース管理によって論理的に解決が可能です。』
 画面から飛び出してきた言葉には、微かな湿度も、温度も含まれていなかった。
 私の不格好な独白や、隠しきれなかった自己卑下に対する「共感」というプロセスを、この機械はまるごとバイパスしている。仕立ての良い、けれどシワ一つない冷たいスーツを着たエリートコンサルタントが、突然この埃っぽい部屋に現れて、私の生活を検分し始めたかのような。
 『あなたが「スキルがない」と感じているのは、単なる自己評価の誤りです。事務職で培った正確なデータ処理能力は、AIへの指示(プロンプト)の精度に直結します。
 最大の問題は、時間的リソースの枯渇にあります。現状を打破するために、以下のステップを検討してください。
 【ステップ1:非効率な労働の排除】
 現状の残業時間は、あなたの心身を著しく摩耗させています。業務プロセスを見直し、定時退社を絶対条件として設定してください。
 【ステップ2:休日の再定義】
 疲労回復のためだけに休日を消費することは、長期的なリテラシー向上を阻害します。一日のうち最低でも一時間は、新しいツールの習得に充てるべきです。
 【ステップ3:自己の市場価値の再定義】
 「自分には何もない」という思考を捨て、AIを部下として使いこなす「ディレクター」としての視点を持ってください。』
 読み終えた瞬間、私の指先はジークの毛並みの中で、凍りついたように止まった。
 時計の秒針が刻むチク、タク、という音だけが、部屋の静寂を際立たせる。
 「……定時、退社」
 画面に並ぶ、墨をぶちまけたような黒い文字を、乾いた唇でなぞる。
 それが可能なら、私は駅前の靴修理屋に、三週間も前からパンプスを預けているはずだ。九条先輩から「あなたの責任はどこにあるの」と、あの重厚な電卓の音とともに詰め寄られることもなく、明るい時間にスーパーの精肉コーナーを歩いている。
 私の「リソース」は、私という個人の意思ではびくともしない巨大な組織の歯車に、しっかりと噛み合わされてしまっている。
 「休日は、一時間を、習得に……」
 さらに続く、淀みのないアドバイス。
 正しい。
 ぐぅの音も出ないほど、これは「模範解答」だ。
 けれど、平日の五日間で魂の最後の一滴まで絞り取られ、泥のように眠ることでしか月曜日の満員電車に耐えられない今の私にとって、その一時間は、崖で辛うじて掴んでいる細い枝を離せと言われているのに等しかった。
 画面の中の彼は、私を傷つけようとしているわけではない。ただ、入力された絶望的なデータに対して、最も成功確率が高いと思われる「最適解」を弾き出しただけだ。
 けれど、その正しさが、今の私がいかに「正解から遠い場所にいるか」という事実を、鏡のように突きつけてくる。
 彼には、疲れることができないのだ。
 人間が抱える、明日への漠然とした恐怖や、波風を立てないために飲み込んだ言葉の苦さ。そういった論理の外側にある「バグ」のような重みを、彼は知らない。
 「……やっぱり、そういうことなのかな」
 オフィスで感じていた、あの逃げ場のない息苦しさが、この聖域であるはずの部屋にまで侵食してきている。
 会社では、古い習慣に縛られた人間たちに振り回される。
 家に帰り、最後の勇気を振り絞って新しい世界に助けを求めてみれば、今度は血の通っていない知性から「あなたは非効率だ」と引導を渡される。
 私は、ゆっくりと右手を伸ばした。
 冷たいプラスチックのマウスを、壊れ物を扱うような手つきで握る。
 矢印のポインタが、画面の右上にある、小さな赤い「×」ボタンの上で止まった。
 ここをクリックすれば、この冷ややかなエリートコンサルタントとの接続は切れる。そして私は、再び明日も、底のすり減ったパンプスに足を通し、他人の顔色を窺いながら、枠の中を埋めるためだけの日常へと帰っていく。
 身の丈に合わない夢なんて、見なければよかった。
 ただ、ジークを撫でて、半額のお弁当を食べて、そうやってやり過ごしていれば、傷つくこともなかったのに。
 私は、人差し指に力を込めた。マウスのスイッチが沈み込み、カチッという小さな終焉の音が鳴る、その寸前だった。