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牧草ロールのある夏

ー/ー



 六月の道東は、東京の六月とはまるで別の気候を持っていた。
 湿気がない。その一点だけで、これほど空気の触り心地が違うのかと、紗英は荷物を解きながら思った。段ボール箱の中から順に取り出す皿や鍋の感触が、なぜかいつもより清潔に感じられた。指先に余分なものが残らない。東京でずっと体に貼りついていた薄い膜のようなものが、ここにはなかった。
 家は築四十年を超えた平屋で、玄関を入るとすぐ廊下があり、右手に六畳の和室がふたつ続いていた。台所は南向きで、窓の外には小さな庭と、その向こうに誰かの畑が広がっていた。畑の端には防風林があって、カシワの木が五月の芽吹きをまだわずかに残していた。
「悪くないじゃないか」
と悠真は言った。
 彼は荷物を置くより先にサンダルのまま庭に出て、土を踏んだ。そういうところが悠真らしかった。腰を屈めて土を一掴みし、指の間からこぼすように落としながら、
「ここに何か植えられる」
とつぶやいた。
 紗英は、その背中を台所の窓から見ていた。
 結婚して五年が過ぎていた。
 悠真と出会ったのは都内のIT企業で、同じプロジェクトに入ったのが始まりだった。悠真はその頃から北海道への移住を口にしていた。半分冗談のように、半分は本気の語気で。紗英はそれを聞きながら、自分にとっての「いつか」がそこに重なっていくのを感じていた。特定の場所への愛着というより、今いる場所から離れたいという感覚だった。それを認めるのは少し恥ずかしいことのように思えたが、移住の準備を始めたとき、それが自分の正直なところだと気づいていた。
 夕方になって、外の光が斜めに長くなった。牧草地の向こうに大きな丸い影がいくつか見えた。牧草ロールだった。直径一メートルを超えるほどの円筒形が、夕暮れの橙色の光の中に静かに並んでいた。
 紗英は台所の窓枠に両手をついて、しばらくそれを見ていた。
 美しかった。
 そこに美しさがあると思った瞬間、涙が出そうになったが、なぜ涙が出そうになるのかはわからなかった。ただ、「ここでならやり直せる」と思った。その言葉は自分の中から来たはずなのに、外から聞こえてきたように感じた。

 最初の一週間は、暮らしを整えることで精一杯だった。
 水道の元栓の場所を確認し、薪ストーブの煙突掃除の業者に電話し、近くのホームセンターまで車で四十分かけて買い出しに行った。悠真は張り切っていた。道具を揃えることが好きな人間で、土を耕すための鍬や、種まきのための細い棒、マルチフィルム、支柱、防虫ネット。どれも丁寧に選んで、帰宅するたびに広げて確認した。
 紗英も同じように動いた。ただ彼女の仕事は、すぐに体の疲れとして来た。
 東京では事務職だった。毎日椅子に座り、パソコンを叩き、昼は決まったランチを食べ、夜は駅の近くのスーパーで惣菜を買った。体を使う習慣が、気づかないうちに失われていた。
 畑仕事は、その失われた何かを一気に要求してきた。
 土は重かった。ただ重いというより、素直ではなかった。スコップを入れると石に当たり、根に当たり、粘土質の固まりに当たった。耕耘機を借りて一度均したはずなのに、二日後にはもう表面が固くなっていた。教科書で読んだ「土を育てる」という言葉の意味が、実際に手を動かしてみて初めて抽象的だったとわかった。
 六月の終わりに、隣の畑との境界で一度、その家の人を見かけた。
 七十代だろうか。腰は低く曲がっているが、動きは無駄がなかった。鍬の使い方が違った。刃の入れ方、体重のかけ方、引き戻すタイミング。何十年もかけて身体に刻まれた動きだとわかった。
 紗英は会釈したが、相手は一瞥しただけで、また自分の畑に向き直った。
 それがサトとの最初の接触だった。

 七月に入って雨が続いた。
 三日間降り続いた後、畑を見に行くと、土が完全に沈んでいた。ぬかるみに足が沈み、マルチフィルムの端が浮き上がり、根際の土が流れていた。トマトの苗が三本、根元から倒れていた。
 紗英はしゃがんで苗を起こそうとしたが、土が緩すぎてうまくいかなかった。雨が上がった朝の空気の中で、畑はまだ雨の匂いを抱いていた。
「支柱が足らんべ」
 後ろから声がした。
 振り返ると、サトが自分の畑との境に立っていた。ゴム長靴を履き、手に鍬を持っていた。
「雨降る前に支えがねぇば、なんねべや」
 それだけ言って、自分の畑へ戻った。
 紗英はしばらくその場に立ったまま、言葉が追いつかなかった。怒られたわけではない。批難されたわけでもない。ただ、事実を言われただけだった。それがかえって胸に刺さった。
 翌日、ホームセンターで支柱を大量に買ってきて、すべての苗に立てた。倒れていた三本の苗のうち、一本は根が完全に切れていた。
 七月の半ば、雨が上がった翌朝、紗英が畑に出ると、サトがいつの間にか境の向こうに立っていた。
「水はけの悪いとこがあるんだわ。見てみるべ」
 一言そう言って、自分の畑の中を歩き始めた。紗英は少し遅れてついていった。
 サトが指さしたのは、境界に近い低い場所だった。
「ここに水が来るんだわ。雨上がったら、まずはここから見ていくべ」
 それだけだった。答えを求めるでもなく、感想を待つでもなく、ただ事実の所在を示して、またもとの作業に戻っていった。
 紗英はその場に立って、少しの間、土の表面を見ていた。言われた通り、その一角だけがわずかに湿っていた。
 教えてもらった、という感覚ではなかった。土地の一部を指さされた、という感覚だった。

 悠真はよく笑っていた。
 それが、七月の紗英にはなんとなく遠く見えた。
 二人で収穫したズッキーニを近くの直売所に持っていくと、一袋百五十円で値をつけてもらえた。
 悠真は帰り道に、
「これが全部売れたらいくらになる」
と計算して、
「まあ最初はこんなもんだよな」
と笑った。
 笑うことは正しかった。最初はこんなものだということも、正しかった。
 悠真が計算しているのは「売り上げ」だったが、紗英が気になっていたのはそれ以前のことだった。この土地は今年だけ借りているのではない。来年も、再来年も、ここに住み続けるつもりでいる。そもそも、生活を続けることができるのか、そちらのほうが心配だった。
 農協に相談に行ったのは、七月も後半になってからだった。
 窓口に座っていた高野という職員は、四十代前半のがっしりした男で、紗英と悠真の話を一通り聞いた後、メモ帳を開いて数字を並べた。
「販売収入だけで生活費を賄うのは、最低でも三年はかかると思った方がいい」
 事務的な口調だった。
「移住支援の補助金は、今年度分は締め切ってます。来年度分の申請時期は十月から十一月。農業での収入証明が必要になります」
 悠真が、
「規模を大きくするためには何が必要ですか」
と聞くと、高野は少し間を置いてから答えた。
「機械ですね。トラクターだけで中古でも百万円以上します。それから、土地の改良には時間がかかる。この辺の土は重いですから、改良材を入れながら毎年少しずつ育てる必要がありますね。長いスパンで考えた方がいいです」
 帰りの車の中で、悠真は
「まあ、最初からわかってたことだけどさ」
と言った。
 紗英は頷いた。
 ただ、「わかってた」という言葉が少し気になった。わかっていた、というのはどのくらいの深さのことを指して言っているのだろう。数字として知っていることと、体で引き受けることのあいだには、かなりの距離があるように思った。
 その夜、悠真は早く眠った。紗英は台所で麦茶を飲みながら、窓の外の暗い牧草地を見ていた。牧草ロールの丸い影が、月の光の中にぼんやりと浮かんでいた。

 七月の終わりに、サトの孫だという拓也がやって来た。
 仙台の国立大学を出て、東北の建設会社に勤めているという話を以前から聞いていた。サトの自慢の孫らしい。「夏だけ手伝いに来る」と言っていたが、今年は少し来るのが遅れたとのこと。
 紗英が初めて拓也を見たのは、朝早く、サトの庭でロープか何かを解いている姿だった。背が高く、日焼けしていて、動きが無駄なく、サトとよく似た手の使い方をしていた。
 会釈すると、会釈が返ってきた。それだけだった。
 数日後、紗英が支柱の一本を折ってしまって途方に暮れているとき、拓也が声をかけてきた。
「番線、余ってますよ。応急処置くらいならできる」
 持ってきた金属線で支柱を繋いで、五分ほどで直した。
「農業は慣れているんですか?」
と紗英は聞いた。
「子供のころから手伝ってましたからね」
「内地に出てみて、どうでしたか」
 少し考えてから、拓也は答えた。
「まあ、いざ出てみると、北海道(ここ)がよく見えてきますね。出てみて、見えたこと、わかったこととかあるんで、それはよかったと思ってます。戻る場所があるって、いいものですよ」
 それだけ言って、何かを付け足すわけでもなく、サトの家の方へ戻っていった。
 紗英はその背中を見ながら、「戻る場所」という言葉について考えていた。拓也には戻る場所がここにあった。自分にとっての北海道(ここ)は、「来た場所」だ。「戻る場所」は内地だ。北海道(ここ)を「戻る場所」だと思えるようになるには、どのくらいの時間がかかるのか。いや、そもそも、この地は、そういう場所になり得るのか。そんなことを考えていた。

 八月、紗英たちの畑の一区画に被害が出た。
 長雨で根が傷んだ区画に、晴れ間を縫って植え継いだキュウリの苗が、今度は強い日差しで葉焼けを起こしたのだった。移植が遅かった。土の回復を待ちすぎた。その判断の遅れが、苗の体力を奪ってしまった。
 指導書に書いてあったことは正しかった。しかし、書いてあることを実際の畑に適用するのはタイミングが難しかった。
 失敗は紗英の心をえぐった。
 東京では、北海道に移住して農業をやると公言していた。羨ましいと言われた。すごいと言われた。その人たちが、現状をどこかで聞いていて、「うまくいっていない」ことが伝わったら恥だと思った。悠真にこの感情を話すことはできなかった。
 悠真はまだ張り切っていた。収穫できたものを丁寧に写真に撮り、SNSに投稿した。コメントが来ると嬉しそうにした。それが悪いことだとは思わなかった。ただ、自分の感じている何かと、悠真の感じている何かが、少しずつずれていくような気がした。そのずれは、最初からあった。ただ、言葉にしてこなかった。
 ある夕方、紗英はサトの家を訪れた。これといった理由がなかったので、借りていた農具を返すついで、と自分に言い訳した。
 サトは縁側に座って、お茶を飲んでいた。
「なんも、立ってないで座ればいいべさ」
と言われて、紗英は縁側の端に腰を下ろした。
 二人でしばらく、牧草地の方を見ていた。
 夕暮れの中に、牧草ロールが並んでいる。
「あれは、どうやって作るんですか」
と紗英は聞いた。
 サトはしばらく黙っていた。
「まず刈る。刈った草を並べて、乾かす。乾いたら集めて、機械で丸める」
「乾かすのなら、天気が大事ですね」
「全部大事だ。天気と、機械と、人手と、時間。一つでも狂えばうまくいかんもな」
 紗英はそれを聞いて、あの牧草ロールの丸い形が、いくつかの条件の産物であることを実感した。景色としてそこにある前に、たくさんの判断と労働と運があることを知った。
「今年は、拓也さんが来るのが遅れたんですね」
「忙しい子だからさ」
 サトは言った。
「来れない年もある」
「それは困りますね」
「困る。でも仕方ないべさ。うちは昔から人手が足らんから、機械に助けてもらってる。機械でできないことは自分でやるしかないっしょ」
 嘆いているのではない。それはすべて、日常になっているといった言い方だった。
 紗英は「すごいですね」と言いかけて、やめた。それは違う反応だと思った。すごいのではなく、おそらくはそういうものなのだ。

 お盆の前の週に、大雨が来た。
 予報では「数日後に前線が近づく」とあったが、その前日の夜から雨足が強まった。翌朝には、刈り取りを待つ牧草地の草が倒れていた。
 集落の数軒が、早朝から動いていた。
 紗英が気づいたのは、七時ごろだった。サトの家の方からエンジン音が聞こえていた。悠真はまだ眠っていた。起こすことは考えなかった。
 外に出ると、雨は上がっていた。サトが長靴を履いて、拓也と何か話していた。
 もう一軒の農家の人も来ていた。四十代の男で、名前は中川といった。この集落の中では比較的若い農業者だった。
「手伝ってもらえますか?」
 拓也が紗英に声をかけた。
「牧草を動かす仕事なので、力仕事になりますが」
 紗英は頷いた。
 それからの三時間は、体が先に動く時間だった。
 刈り倒された草の状態を確認し、水浸しになった場所の排水溝を整え、重くなったシートを引っ張り、道具を運んだ。考えている時間はなかった。次に何をするかは誰かが言い、紗英はそれに従って体を動かした。
 間違えたことが一度あった。排水の方向を誤って、水を別の場所に流してしまった。
 中川がすぐに、
「こっちだ」
と言って、スコップで向きを変えた。
 咎めるわけではなかった。ただ直した。それだけだった。
 昼に、中川の奥さんがおにぎりを持ってきた。みんなでブルーシートの上に座って食べた。
 サトは空を見上げて、
「午後、また降る」
と言った。中川も空を見て頷いた。
 紗英もつられて空を見た。雲の色が確かに変わっていた。そうかもしれない、と感じた。なぜそう感じるのかはわからなかったが、確かにそう思えた。
 それが何かの小さな変化だとは、そのときはまだ気づいていなかった。

 雨が一段落した夕方、紗英はサトと二人になった。
 拓也と中川は別の場所の確認に行っていた。
 二人でぬかるんだ畦道を歩きながら、サトは急にこんなことを言った。
「昔、この集落でも人が出ていった年があった」
 紗英は黙って聞いた。
「牛舎が空いた。畑をやめた家もあった。続けるかどうか、みんなが迷った年があった。うちも迷った」
「でも、続けたんですね」
「やめたあとどうなるか、いっぱい見てきたからさ」
 サトは立ち止まり、遠くを見た。
「美しい景色が残ると思うか。草が伸びて、荒れ地が残る。それだけだ」
 サトはまた、歩き始めた。
「好きだから続けてるわけでもない。やめたあとを知ってるから続けてる」
 紗英はその背中を見ながら、自分が移住を「始まり」としか考えていなかったことに気づいた。
 ここに来ることが始まり。農業を始めることが始まり。新しい暮らしの始まり。
 でも、「続ける」ことの意味は、始まりとは違う場所にある。始めた後に何が来るかを体で知っている人間だけが引き受けられる重さが、この土地にはある。
 自分はまだ、始めたばかり。それは恥ずかしいことではない。ただの事実だ。
 始めたばかりの人間が「ここでやっていける」と感じているとしたら、それは土地への信頼ではなく、自分への楽観に過ぎない。
 紗英は、抱えていた恥ずかしさの正体が少しだけわかった気がした。失敗を恥じていたのではなかった。知らないまま「できる」と思っていたことを恥じていたのだ。

 お盆が過ぎた。
 悠真に電話が来た。
 元の会社の知り合いから、「東京に戻る気があるなら、仕事を紹介してやる」という話だった。
 悠真は紗英にそれを話した。
「すぐ決めることじゃないけど、選択肢として考えておこうかと思って」
 紗英は頷いた。
「紗英はどう思う?」
と悠真は聞いた。
 珍しかった。悠真はいつも自分の考えばかりを言っていたからだ。
「わからない」
 紗英は言った。
 悠真は少し驚いたような顔をした。
「正直に言うと、わからないんだよね。ここで何かが掴めかけているような気もするし、全然わかってないような気もする。どっちが本当かも、まだわからない。悠真は?」
「……俺も、正直わからない。思ってたより農業は難しかった。それはわかってたつもりだったんだよな」
「わかってたつもり、ね」
「そう。つもり、だった」
 二人とも、しばらく黙った。
 それは、険悪な沈黙というわけではなかった。そこには、お互いが別々の場所に立っていることを認めた、静かな空気があった。
 紗英は、移住してからずっと「うまくいっている」ように見せようとしていた。それは、悠真も同じだった。
 相手を欺いていたわけではなく、相手が不安で揺れると、自分も揺れてしまうと思っていたからだった。
 でも、揺れることは悪いことではなかった。

 翌日の夕方、紗英は牧草地に出た。
 空は澄んでいた。お盆を過ぎると、夏の光の角度が少しずつ変わっていく。光は低くなり、長くなる。牧草ロールが、その長い影の中に並んでいた。
 六月の最初に見たとき、紗英は牧草ロールが並ぶ光景を「美しい」と思った。その美しさは本物だったが、それは表面の話だった。今、同じ景色を見て、紗英が感じていることは違っていた。
 あれだけの労働があった。天気との戦いがあった。機械の問題があった。人手の問題があった。サトの何十年がそこにあった。拓也が戻ってくるときの言葉にならない何かがあった。
 それでも、あの丸い形はここにある。
 景色として美しい。そして、今は成果として存在している。

 後ろから、サトの声がした。
「明日も晴れだ」
 振り返ると、サトが畑の端に立って、空を見ていた。
 それだけだった。励ましではなかった。慰めでも、助言でもなかった。ただ、明日の天気を告げていた。
 紗英は、
「そうですね」
と答えた。
 サトはそれに応えるでもなく、自分の家の方へ戻っていった。
 紗英はもう少し、牧草ロールが並ぶ景色を見ていた。
 夕暮れの光の中で、あの丸い形は影を長く引いていた。その影は、大地に刻まれた時間のように見えた。

 夏が終わる前に、紗英は一つだけ決めた。
 ──来年もここで暮らす。
 それだけを決めた。成功するかどうかはまでは決めなかった。そもそも、成功の定義が何かも、わかっていなかった。収入が増えることなのか、土地に馴染むことなのか、暮らしが安定することなのか。それぞれが別の問いのような気がして、一度に答えを出すことはできなかった。
 ただ、来年もここで冬を越して、春に土を耕して、夏にまた天気と格闘するということを選ぶことはできた。
 悠真も残ることにした。
 東京に戻る話は断った。
 ただ、悠真と紗英の関係は、お盆の夜の会話以来、少し変わった。うまくいかないことでも、ちゃんと話すようになった。お互いに、少なくとも嘘はついていないことを実感していた。

 秋が近づいた。サトから声がかかるようになった。
 最初は、農具の手入れを手伝ってほしいという話だった。次に、来年の種の整理を一緒にやってほしいと言われた。それから、秋の牧草の刈り取り後の確認作業に呼ばれた。
 仕事を任される、というより、そこにいることを前提にされるようになった。
 紗英はサトに、
「なぜ声をかけてくれるんですか」
と聞いた。
 サトは少し間を置いてから言った。
「あんたは逃げなかった」
 それだけだった。
 逃げなかった、という言葉の意味を、紗英はしばらく考えた。
 失敗しても逃げなかった。知らなくて恥ずかしくても逃げなかった。そういうことを、サトは見ていたのだろう。
 見られていることは知っていた。でもそれが、こういう形で言葉になるとは思っていなかった。

 牧草ロールを保存するために、ビニールフィルムで覆っていく。あの大きな丸い形が、繭のような外皮に包まれる。冬の間、発酵してサイレージになる。そして、牛の冬の食料になる。
 紗英はその作業を離れたところから見ていた。
 手伝えることはあまりなかったが、見ていた。
 機械が一つのロールを回転させながらフィルムを巻いていく。規則的な音が、静かな畑の中に響いた。
 景色が変わっていく。夏の牧草地を埋め尽くしていた青い草は、刈られ、丸められ、今は包まれた塊として整列していた。
 それは終わりではなかった。
 冬を越すための形だった。
 春になればまた草が萌え、夏にまた刈られ、またロールになる。
 紗英は、まだ循環の外にいるような気がしていた。
 それでも、その循環の内側に少し近づけたような気もしていた。どのくらい近づけたかは、まだわからなかった。ただ、初夏に初めてこの景色を見たときとは、見え方が変わっていた。

 紗英は東京の友人に短いメッセージを送った。
「元気にしてます。来年もここにいます」
 それだけだった。
 悠真が台所でコーヒーを淹れていた。豆の匂いがした。
 紗英は窓から外を見ていた。
 明日の天気を確認しようとスマートフォンを取り出したが、少し考えてから、窓の外の空を見た。
 雲が西から来ていた。明日は雨かもしれない。
 それでも、ここで暮らす。
 それが、今の答えだった。


< 了 >




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 湿気がない。その一点だけで、これほど空気の触り心地が違うのかと、紗英は荷物を解きながら思った。段ボール箱の中から順に取り出す皿や鍋の感触が、なぜかいつもより清潔に感じられた。指先に余分なものが残らない。東京でずっと体に貼りついていた薄い膜のようなものが、ここにはなかった。
 家は築四十年を超えた平屋で、玄関を入るとすぐ廊下があり、右手に六畳の和室がふたつ続いていた。台所は南向きで、窓の外には小さな庭と、その向こうに誰かの畑が広がっていた。畑の端には防風林があって、カシワの木が五月の芽吹きをまだわずかに残していた。
「悪くないじゃないか」
と悠真は言った。
 彼は荷物を置くより先にサンダルのまま庭に出て、土を踏んだ。そういうところが悠真らしかった。腰を屈めて土を一掴みし、指の間からこぼすように落としながら、
「ここに何か植えられる」
とつぶやいた。
 紗英は、その背中を台所の窓から見ていた。
 結婚して五年が過ぎていた。
 悠真と出会ったのは都内のIT企業で、同じプロジェクトに入ったのが始まりだった。悠真はその頃から北海道への移住を口にしていた。半分冗談のように、半分は本気の語気で。紗英はそれを聞きながら、自分にとっての「いつか」がそこに重なっていくのを感じていた。特定の場所への愛着というより、今いる場所から離れたいという感覚だった。それを認めるのは少し恥ずかしいことのように思えたが、移住の準備を始めたとき、それが自分の正直なところだと気づいていた。
 夕方になって、外の光が斜めに長くなった。牧草地の向こうに大きな丸い影がいくつか見えた。牧草ロールだった。直径一メートルを超えるほどの円筒形が、夕暮れの橙色の光の中に静かに並んでいた。
 紗英は台所の窓枠に両手をついて、しばらくそれを見ていた。
 美しかった。
 そこに美しさがあると思った瞬間、涙が出そうになったが、なぜ涙が出そうになるのかはわからなかった。ただ、「ここでならやり直せる」と思った。その言葉は自分の中から来たはずなのに、外から聞こえてきたように感じた。
 最初の一週間は、暮らしを整えることで精一杯だった。
 水道の元栓の場所を確認し、薪ストーブの煙突掃除の業者に電話し、近くのホームセンターまで車で四十分かけて買い出しに行った。悠真は張り切っていた。道具を揃えることが好きな人間で、土を耕すための鍬や、種まきのための細い棒、マルチフィルム、支柱、防虫ネット。どれも丁寧に選んで、帰宅するたびに広げて確認した。
 紗英も同じように動いた。ただ彼女の仕事は、すぐに体の疲れとして来た。
 東京では事務職だった。毎日椅子に座り、パソコンを叩き、昼は決まったランチを食べ、夜は駅の近くのスーパーで惣菜を買った。体を使う習慣が、気づかないうちに失われていた。
 畑仕事は、その失われた何かを一気に要求してきた。
 土は重かった。ただ重いというより、素直ではなかった。スコップを入れると石に当たり、根に当たり、粘土質の固まりに当たった。耕耘機を借りて一度均したはずなのに、二日後にはもう表面が固くなっていた。教科書で読んだ「土を育てる」という言葉の意味が、実際に手を動かしてみて初めて抽象的だったとわかった。
 六月の終わりに、隣の畑との境界で一度、その家の人を見かけた。
 七十代だろうか。腰は低く曲がっているが、動きは無駄がなかった。鍬の使い方が違った。刃の入れ方、体重のかけ方、引き戻すタイミング。何十年もかけて身体に刻まれた動きだとわかった。
 紗英は会釈したが、相手は一瞥しただけで、また自分の畑に向き直った。
 それがサトとの最初の接触だった。
 七月に入って雨が続いた。
 三日間降り続いた後、畑を見に行くと、土が完全に沈んでいた。ぬかるみに足が沈み、マルチフィルムの端が浮き上がり、根際の土が流れていた。トマトの苗が三本、根元から倒れていた。
 紗英はしゃがんで苗を起こそうとしたが、土が緩すぎてうまくいかなかった。雨が上がった朝の空気の中で、畑はまだ雨の匂いを抱いていた。
「支柱が足らんべ」
 後ろから声がした。
 振り返ると、サトが自分の畑との境に立っていた。ゴム長靴を履き、手に鍬を持っていた。
「雨降る前に支えがねぇば、なんねべや」
 それだけ言って、自分の畑へ戻った。
 紗英はしばらくその場に立ったまま、言葉が追いつかなかった。怒られたわけではない。批難されたわけでもない。ただ、事実を言われただけだった。それがかえって胸に刺さった。
 翌日、ホームセンターで支柱を大量に買ってきて、すべての苗に立てた。倒れていた三本の苗のうち、一本は根が完全に切れていた。
 七月の半ば、雨が上がった翌朝、紗英が畑に出ると、サトがいつの間にか境の向こうに立っていた。
「水はけの悪いとこがあるんだわ。見てみるべ」
 一言そう言って、自分の畑の中を歩き始めた。紗英は少し遅れてついていった。
 サトが指さしたのは、境界に近い低い場所だった。
「ここに水が来るんだわ。雨上がったら、まずはここから見ていくべ」
 それだけだった。答えを求めるでもなく、感想を待つでもなく、ただ事実の所在を示して、またもとの作業に戻っていった。
 紗英はその場に立って、少しの間、土の表面を見ていた。言われた通り、その一角だけがわずかに湿っていた。
 教えてもらった、という感覚ではなかった。土地の一部を指さされた、という感覚だった。
 悠真はよく笑っていた。
 それが、七月の紗英にはなんとなく遠く見えた。
 二人で収穫したズッキーニを近くの直売所に持っていくと、一袋百五十円で値をつけてもらえた。
 悠真は帰り道に、
「これが全部売れたらいくらになる」
と計算して、
「まあ最初はこんなもんだよな」
と笑った。
 笑うことは正しかった。最初はこんなものだということも、正しかった。
 悠真が計算しているのは「売り上げ」だったが、紗英が気になっていたのはそれ以前のことだった。この土地は今年だけ借りているのではない。来年も、再来年も、ここに住み続けるつもりでいる。そもそも、生活を続けることができるのか、そちらのほうが心配だった。
 農協に相談に行ったのは、七月も後半になってからだった。
 窓口に座っていた高野という職員は、四十代前半のがっしりした男で、紗英と悠真の話を一通り聞いた後、メモ帳を開いて数字を並べた。
「販売収入だけで生活費を賄うのは、最低でも三年はかかると思った方がいい」
 事務的な口調だった。
「移住支援の補助金は、今年度分は締め切ってます。来年度分の申請時期は十月から十一月。農業での収入証明が必要になります」
 悠真が、
「規模を大きくするためには何が必要ですか」
と聞くと、高野は少し間を置いてから答えた。
「機械ですね。トラクターだけで中古でも百万円以上します。それから、土地の改良には時間がかかる。この辺の土は重いですから、改良材を入れながら毎年少しずつ育てる必要がありますね。長いスパンで考えた方がいいです」
 帰りの車の中で、悠真は
「まあ、最初からわかってたことだけどさ」
と言った。
 紗英は頷いた。
 ただ、「わかってた」という言葉が少し気になった。わかっていた、というのはどのくらいの深さのことを指して言っているのだろう。数字として知っていることと、体で引き受けることのあいだには、かなりの距離があるように思った。
 その夜、悠真は早く眠った。紗英は台所で麦茶を飲みながら、窓の外の暗い牧草地を見ていた。牧草ロールの丸い影が、月の光の中にぼんやりと浮かんでいた。
 七月の終わりに、サトの孫だという拓也がやって来た。
 仙台の国立大学を出て、東北の建設会社に勤めているという話を以前から聞いていた。サトの自慢の孫らしい。「夏だけ手伝いに来る」と言っていたが、今年は少し来るのが遅れたとのこと。
 紗英が初めて拓也を見たのは、朝早く、サトの庭でロープか何かを解いている姿だった。背が高く、日焼けしていて、動きが無駄なく、サトとよく似た手の使い方をしていた。
 会釈すると、会釈が返ってきた。それだけだった。
 数日後、紗英が支柱の一本を折ってしまって途方に暮れているとき、拓也が声をかけてきた。
「番線、余ってますよ。応急処置くらいならできる」
 持ってきた金属線で支柱を繋いで、五分ほどで直した。
「農業は慣れているんですか?」
と紗英は聞いた。
「子供のころから手伝ってましたからね」
「内地に出てみて、どうでしたか」
 少し考えてから、拓也は答えた。
「まあ、いざ出てみると、|北海道《ここ》がよく見えてきますね。出てみて、見えたこと、わかったこととかあるんで、それはよかったと思ってます。戻る場所があるって、いいものですよ」
 それだけ言って、何かを付け足すわけでもなく、サトの家の方へ戻っていった。
 紗英はその背中を見ながら、「戻る場所」という言葉について考えていた。拓也には戻る場所がここにあった。自分にとっての|北海道《ここ》は、「来た場所」だ。「戻る場所」は内地だ。|北海道《ここ》を「戻る場所」だと思えるようになるには、どのくらいの時間がかかるのか。いや、そもそも、この地は、そういう場所になり得るのか。そんなことを考えていた。
 八月、紗英たちの畑の一区画に被害が出た。
 長雨で根が傷んだ区画に、晴れ間を縫って植え継いだキュウリの苗が、今度は強い日差しで葉焼けを起こしたのだった。移植が遅かった。土の回復を待ちすぎた。その判断の遅れが、苗の体力を奪ってしまった。
 指導書に書いてあったことは正しかった。しかし、書いてあることを実際の畑に適用するのはタイミングが難しかった。
 失敗は紗英の心をえぐった。
 東京では、北海道に移住して農業をやると公言していた。羨ましいと言われた。すごいと言われた。その人たちが、現状をどこかで聞いていて、「うまくいっていない」ことが伝わったら恥だと思った。悠真にこの感情を話すことはできなかった。
 悠真はまだ張り切っていた。収穫できたものを丁寧に写真に撮り、SNSに投稿した。コメントが来ると嬉しそうにした。それが悪いことだとは思わなかった。ただ、自分の感じている何かと、悠真の感じている何かが、少しずつずれていくような気がした。そのずれは、最初からあった。ただ、言葉にしてこなかった。
 ある夕方、紗英はサトの家を訪れた。これといった理由がなかったので、借りていた農具を返すついで、と自分に言い訳した。
 サトは縁側に座って、お茶を飲んでいた。
「なんも、立ってないで座ればいいべさ」
と言われて、紗英は縁側の端に腰を下ろした。
 二人でしばらく、牧草地の方を見ていた。
 夕暮れの中に、牧草ロールが並んでいる。
「あれは、どうやって作るんですか」
と紗英は聞いた。
 サトはしばらく黙っていた。
「まず刈る。刈った草を並べて、乾かす。乾いたら集めて、機械で丸める」
「乾かすのなら、天気が大事ですね」
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「今年は、拓也さんが来るのが遅れたんですね」
「忙しい子だからさ」
 サトは言った。
「来れない年もある」
「それは困りますね」
「困る。でも仕方ないべさ。うちは昔から人手が足らんから、機械に助けてもらってる。機械でできないことは自分でやるしかないっしょ」
 嘆いているのではない。それはすべて、日常になっているといった言い方だった。
 紗英は「すごいですね」と言いかけて、やめた。それは違う反応だと思った。すごいのではなく、おそらくはそういうものなのだ。
 お盆の前の週に、大雨が来た。
 予報では「数日後に前線が近づく」とあったが、その前日の夜から雨足が強まった。翌朝には、刈り取りを待つ牧草地の草が倒れていた。
 集落の数軒が、早朝から動いていた。
 紗英が気づいたのは、七時ごろだった。サトの家の方からエンジン音が聞こえていた。悠真はまだ眠っていた。起こすことは考えなかった。
 外に出ると、雨は上がっていた。サトが長靴を履いて、拓也と何か話していた。
 もう一軒の農家の人も来ていた。四十代の男で、名前は中川といった。この集落の中では比較的若い農業者だった。
「手伝ってもらえますか?」
 拓也が紗英に声をかけた。
「牧草を動かす仕事なので、力仕事になりますが」
 紗英は頷いた。
 それからの三時間は、体が先に動く時間だった。
 刈り倒された草の状態を確認し、水浸しになった場所の排水溝を整え、重くなったシートを引っ張り、道具を運んだ。考えている時間はなかった。次に何をするかは誰かが言い、紗英はそれに従って体を動かした。
 間違えたことが一度あった。排水の方向を誤って、水を別の場所に流してしまった。
 中川がすぐに、
「こっちだ」
と言って、スコップで向きを変えた。
 咎めるわけではなかった。ただ直した。それだけだった。
 昼に、中川の奥さんがおにぎりを持ってきた。みんなでブルーシートの上に座って食べた。
 サトは空を見上げて、
「午後、また降る」
と言った。中川も空を見て頷いた。
 紗英もつられて空を見た。雲の色が確かに変わっていた。そうかもしれない、と感じた。なぜそう感じるのかはわからなかったが、確かにそう思えた。
 それが何かの小さな変化だとは、そのときはまだ気づいていなかった。
 雨が一段落した夕方、紗英はサトと二人になった。
 拓也と中川は別の場所の確認に行っていた。
 二人でぬかるんだ畦道を歩きながら、サトは急にこんなことを言った。
「昔、この集落でも人が出ていった年があった」
 紗英は黙って聞いた。
「牛舎が空いた。畑をやめた家もあった。続けるかどうか、みんなが迷った年があった。うちも迷った」
「でも、続けたんですね」
「やめたあとどうなるか、いっぱい見てきたからさ」
 サトは立ち止まり、遠くを見た。
「美しい景色が残ると思うか。草が伸びて、荒れ地が残る。それだけだ」
 サトはまた、歩き始めた。
「好きだから続けてるわけでもない。やめたあとを知ってるから続けてる」
 紗英はその背中を見ながら、自分が移住を「始まり」としか考えていなかったことに気づいた。
 ここに来ることが始まり。農業を始めることが始まり。新しい暮らしの始まり。
 でも、「続ける」ことの意味は、始まりとは違う場所にある。始めた後に何が来るかを体で知っている人間だけが引き受けられる重さが、この土地にはある。
 自分はまだ、始めたばかり。それは恥ずかしいことではない。ただの事実だ。
 始めたばかりの人間が「ここでやっていける」と感じているとしたら、それは土地への信頼ではなく、自分への楽観に過ぎない。
 紗英は、抱えていた恥ずかしさの正体が少しだけわかった気がした。失敗を恥じていたのではなかった。知らないまま「できる」と思っていたことを恥じていたのだ。
 お盆が過ぎた。
 悠真に電話が来た。
 元の会社の知り合いから、「東京に戻る気があるなら、仕事を紹介してやる」という話だった。
 悠真は紗英にそれを話した。
「すぐ決めることじゃないけど、選択肢として考えておこうかと思って」
 紗英は頷いた。
「紗英はどう思う?」
と悠真は聞いた。
 珍しかった。悠真はいつも自分の考えばかりを言っていたからだ。
「わからない」
 紗英は言った。
 悠真は少し驚いたような顔をした。
「正直に言うと、わからないんだよね。ここで何かが掴めかけているような気もするし、全然わかってないような気もする。どっちが本当かも、まだわからない。悠真は?」
「……俺も、正直わからない。思ってたより農業は難しかった。それはわかってたつもりだったんだよな」
「わかってたつもり、ね」
「そう。つもり、だった」
 二人とも、しばらく黙った。
 それは、険悪な沈黙というわけではなかった。そこには、お互いが別々の場所に立っていることを認めた、静かな空気があった。
 紗英は、移住してからずっと「うまくいっている」ように見せようとしていた。それは、悠真も同じだった。
 相手を欺いていたわけではなく、相手が不安で揺れると、自分も揺れてしまうと思っていたからだった。
 でも、揺れることは悪いことではなかった。
 翌日の夕方、紗英は牧草地に出た。
 空は澄んでいた。お盆を過ぎると、夏の光の角度が少しずつ変わっていく。光は低くなり、長くなる。牧草ロールが、その長い影の中に並んでいた。
 六月の最初に見たとき、紗英は牧草ロールが並ぶ光景を「美しい」と思った。その美しさは本物だったが、それは表面の話だった。今、同じ景色を見て、紗英が感じていることは違っていた。
 あれだけの労働があった。天気との戦いがあった。機械の問題があった。人手の問題があった。サトの何十年がそこにあった。拓也が戻ってくるときの言葉にならない何かがあった。
 それでも、あの丸い形はここにある。
 景色として美しい。そして、今は成果として存在している。
 後ろから、サトの声がした。
「明日も晴れだ」
 振り返ると、サトが畑の端に立って、空を見ていた。
 それだけだった。励ましではなかった。慰めでも、助言でもなかった。ただ、明日の天気を告げていた。
 紗英は、
「そうですね」
と答えた。
 サトはそれに応えるでもなく、自分の家の方へ戻っていった。
 紗英はもう少し、牧草ロールが並ぶ景色を見ていた。
 夕暮れの光の中で、あの丸い形は影を長く引いていた。その影は、大地に刻まれた時間のように見えた。
 夏が終わる前に、紗英は一つだけ決めた。
 ──来年もここで暮らす。
 それだけを決めた。成功するかどうかはまでは決めなかった。そもそも、成功の定義が何かも、わかっていなかった。収入が増えることなのか、土地に馴染むことなのか、暮らしが安定することなのか。それぞれが別の問いのような気がして、一度に答えを出すことはできなかった。
 ただ、来年もここで冬を越して、春に土を耕して、夏にまた天気と格闘するということを選ぶことはできた。
 悠真も残ることにした。
 東京に戻る話は断った。
 ただ、悠真と紗英の関係は、お盆の夜の会話以来、少し変わった。うまくいかないことでも、ちゃんと話すようになった。お互いに、少なくとも嘘はついていないことを実感していた。
 秋が近づいた。サトから声がかかるようになった。
 最初は、農具の手入れを手伝ってほしいという話だった。次に、来年の種の整理を一緒にやってほしいと言われた。それから、秋の牧草の刈り取り後の確認作業に呼ばれた。
 仕事を任される、というより、そこにいることを前提にされるようになった。
 紗英はサトに、
「なぜ声をかけてくれるんですか」
と聞いた。
 サトは少し間を置いてから言った。
「あんたは逃げなかった」
 それだけだった。
 逃げなかった、という言葉の意味を、紗英はしばらく考えた。
 失敗しても逃げなかった。知らなくて恥ずかしくても逃げなかった。そういうことを、サトは見ていたのだろう。
 見られていることは知っていた。でもそれが、こういう形で言葉になるとは思っていなかった。
 牧草ロールを保存するために、ビニールフィルムで覆っていく。あの大きな丸い形が、繭のような外皮に包まれる。冬の間、発酵してサイレージになる。そして、牛の冬の食料になる。
 紗英はその作業を離れたところから見ていた。
 手伝えることはあまりなかったが、見ていた。
 機械が一つのロールを回転させながらフィルムを巻いていく。規則的な音が、静かな畑の中に響いた。
 景色が変わっていく。夏の牧草地を埋め尽くしていた青い草は、刈られ、丸められ、今は包まれた塊として整列していた。
 それは終わりではなかった。
 冬を越すための形だった。
 春になればまた草が萌え、夏にまた刈られ、またロールになる。
 紗英は、まだ循環の外にいるような気がしていた。
 それでも、その循環の内側に少し近づけたような気もしていた。どのくらい近づけたかは、まだわからなかった。ただ、初夏に初めてこの景色を見たときとは、見え方が変わっていた。
 紗英は東京の友人に短いメッセージを送った。
「元気にしてます。来年もここにいます」
 それだけだった。
 悠真が台所でコーヒーを淹れていた。豆の匂いがした。
 紗英は窓から外を見ていた。
 明日の天気を確認しようとスマートフォンを取り出したが、少し考えてから、窓の外の空を見た。
 雲が西から来ていた。明日は雨かもしれない。
 それでも、ここで暮らす。
 それが、今の答えだった。
< 了 >