空虫
ー/ー 8月の空は、どこまでも青かった。
風は稲穂の海を渡り、ひまわりの群れを揺らして、遠くの雲を押し流していく。
その夏、ぼくは〝空虫〟を追いかけた。
透明な羽根を持ち、空でひときわ明るく瞬く、不思議な虫。
毎年、お盆の時期になるとやってくる〝空虫〟を捕まえると、忘れていた〝何か〟が戻ってくる——そんな噂が、町には昔からあった。
毎年、町の子供たちの中から〝空虫捕獲係〟が選ばれる。それはまるで、神様に選ばれたみたいな、ちょっとだけ特別な役目だった。
そんな係に、今年はぼくが選ばれた。
虫取り網を片手に、誰もいない夏の道を歩く。
隣には、ミオがいた。
選ばれたのはぼくだけなのに、彼女は当然のような顔をしてついてくる。
「ねぇ、ユウ。今の風向き、いい感じだよ。早く行こ?」
ミオは軽く微笑み、空を見上げながら言った。
「……選ばれたのは、ぼくなんだけど。ミオも行くの?」
「うん、行く」
いつからかわからないが、気づけばぼくと行動を共にするようになったミオ。
彼女がどこに住んでいるのか、それすらもわからない。
けれど気づけば、隣にいることが当たり前のようになっていた。
ふたりで歩く夏の道。
右側には風に揺れるひまわり畑。左側には水がきらめく用水路。どこまでも青々とした稲穂。遠くからは、カラスの鳴き声が聞こえてくる。
何も変わらない、いつもと同じ夏だ。なのに、今年のぼくは〝空虫捕獲係〟になっているというだけで、とても特別に思えた。なんだか誇らしかった。
「〝空虫〟って、風の向きに逆らって飛ぶんだよ」
ふと、ミオがぽつりと呟いた。
「え、そうなの?」
「うん。空虫たちは、記憶を運ぶんだけどね。なぜか風に背いて進もうとするの。風向きが変わると、行く方向も変わるんだよ」
「……?」
ミオの言っている意味がわからなかった。
ぼくは首を傾げながら、空を見上げて歩く。
ミオはふわりと笑っていた。
その笑顔は、まるで〝何か〟を知っているのに、知らないふりをしているような。ほんとうのこと言えないけれど、その片鱗をあえて見せているような、そんな感じがした。
用水路の横を抜けていくと、視界が一気に狭まった。
風は稲穂の海を渡り、ひまわりの群れを揺らして、遠くの雲を押し流していく。
その夏、ぼくは〝空虫〟を追いかけた。
透明な羽根を持ち、空でひときわ明るく瞬く、不思議な虫。
毎年、お盆の時期になるとやってくる〝空虫〟を捕まえると、忘れていた〝何か〟が戻ってくる——そんな噂が、町には昔からあった。
毎年、町の子供たちの中から〝空虫捕獲係〟が選ばれる。それはまるで、神様に選ばれたみたいな、ちょっとだけ特別な役目だった。
そんな係に、今年はぼくが選ばれた。
虫取り網を片手に、誰もいない夏の道を歩く。
隣には、ミオがいた。
選ばれたのはぼくだけなのに、彼女は当然のような顔をしてついてくる。
「ねぇ、ユウ。今の風向き、いい感じだよ。早く行こ?」
ミオは軽く微笑み、空を見上げながら言った。
「……選ばれたのは、ぼくなんだけど。ミオも行くの?」
「うん、行く」
いつからかわからないが、気づけばぼくと行動を共にするようになったミオ。
彼女がどこに住んでいるのか、それすらもわからない。
けれど気づけば、隣にいることが当たり前のようになっていた。
ふたりで歩く夏の道。
右側には風に揺れるひまわり畑。左側には水がきらめく用水路。どこまでも青々とした稲穂。遠くからは、カラスの鳴き声が聞こえてくる。
何も変わらない、いつもと同じ夏だ。なのに、今年のぼくは〝空虫捕獲係〟になっているというだけで、とても特別に思えた。なんだか誇らしかった。
「〝空虫〟って、風の向きに逆らって飛ぶんだよ」
ふと、ミオがぽつりと呟いた。
「え、そうなの?」
「うん。空虫たちは、記憶を運ぶんだけどね。なぜか風に背いて進もうとするの。風向きが変わると、行く方向も変わるんだよ」
「……?」
ミオの言っている意味がわからなかった。
ぼくは首を傾げながら、空を見上げて歩く。
ミオはふわりと笑っていた。
その笑顔は、まるで〝何か〟を知っているのに、知らないふりをしているような。ほんとうのこと言えないけれど、その片鱗をあえて見せているような、そんな感じがした。
用水路の横を抜けていくと、視界が一気に狭まった。
空を覆うように咲き乱れるひまわりが、まるでこちらを見下ろしているように思える。
ぼくよりも背丈が高いひまわりが空の色すら隠そうとする。
ミオもいるのに、なんだか自分だけが、異世界に取り残されたみたいな気持ちになるから不思議だった。
「ねぇユウ。ここ、覚えてる?」
「え?」
「ほら、前に一緒に来たじゃん。ここで迷って、泣いていたユウを、わたしが助けたんだよね~」
ミオの話に、ぼくは眉をひそめる。
「そんなこと……あったっけ?」
「え、忘れちゃったの? あんなに大号泣してたのに~」
くすくすと小さく肩をすくめて笑う。
必死に思い出そうと頭を回転させる。でも、ぼくにはその記憶がいっさいない。当然思い出すことなどできない。
迷ったことも、泣いたことも、そもそも——この場所に来たことすらも覚えていない。このひまわり畑には、初めて来た気がするんだ。
「……夢でも見てたんじゃないの?」
「ううん、ちゃんと現実。ユウが覚えてないだけ」
ミオはそう言いながら、目の前にあるひまわりに手を伸ばす。
花びらに触れる指先がやけに白くて細くて、すこしだけ透けてみえた気がした。
見間違いかと思って、何度か瞬きを繰り返してもう一度ミオを見る。
彼女はもう、歩き出していた。
ひまわり畑を抜けた頃、空の色がほんのすこしだけ変わった。
夕暮れにはまだ早いけれど、太陽が沈みかけているせいか、空気がすこしだけ冷たくなる。
虫の声が止まり、風の音だけが耳に残った。
——その時だった。
空の奥の方から、何かが剥がれるような音がした。
音というより〝気配〟のような、でも間違いなく世界が一瞬だけひるんだような……なんとも言えない空気感に体が震えた。
ミオが、ふいに立ち止まる。
「……来た」
「え?」
「ユウ、走って! 来た! 東の橋の方!」
そう言って、ミオはぼくの手を強く握った。
「わっ、ちょ、ちょっと待っ——」
言い終えるより早く、彼女はぼくを引っ張って走り出した。
麦わら帽子が風に飛ばされそうになって、片手で押さえる。
ミオの手は不思議なくらい力が強かった。
「待って、待って!! ミオはどうして〝空虫〟の場所がわかるの!?」
息を切らしながら、ぼくが尋ねると、ミオはすこしだけ笑う。
「さぁ~なんでだろうね。でもなんか、〝空虫〟に呼ばれた気がしたんだ」
「……え?」
その声は、風にかき消されそうなくらい小さかった。ミオの表情は見えないけれど、声色だけで何か察するものがある。
しばらく走り続けると、ミオは橋の付近で立ち止まった。
ミオが静かに指差した空の先。
それは、まるで夕暮れの空にぽつり、ぽつりと浮かんだ星のようだった。
ゆら、ゆら、と。
風に逆らうようにして、ひとつの光が漂っている。
羽ばたいているのかどうかもわからないほど静かで、けれど〝生きている〟気配だけは間違いなくあった。
「……あれが、〝空虫〟?」
初めて見るその姿に、ぼくは言葉を失った。
大きさはぼくの親指ほど。羽は透き通っていて、色を持たない。
だけど、内側から淡い光が滲んでいて、どこか蛍にも蝶にも似ている。
虫と呼ぶには美しすぎて、とにかく息を飲むほど静かだった。
「ほら、捕まえてみて」
ミオが囁くように言った。
ぼくは、息を止めるようにして網を構える。
そして——すくうように、そっと網を振る。
カサ、と微かな音がして、光が網の中に落ちた。
その瞬間だった。
……シャラン
耳元で、何かが鳴る。
風鈴のようでもあり、ガラスが触れ合う音のようでもある気がする。
『ねぇ、ユウ。今日はどこにも行かないで』
——知らない声。けれど、どこか懐かしい声が脳内に響き渡る。
音は空気を伝って、ぼくの胸の奥にゆっくりと沁み込んでくる。
気づけば、ぼくが持つ網の端で、小さな光が浮かび上がっていた。その光は〝空虫〟よりも大きく、街灯よりは小さい。
空想上でしか見たことがないけれど、それはまるで魂のようだと率直に思った。
人のかたちにも、星のようにも見えるそれは、網の中からふわりと立ち上がり、ひとつの軌道を描いて空へ昇っていく。
「……これは、誰の記憶? 知らない声が、脳内に響く……」
ふいにぼくがつぶやくと、隣のミオがそっと答えた。
「誰かの、昔の記憶。でも——その声、例えば……ユウの妹とか?」
「……え?」
思わず、聞き返す。
ミオの言葉が、胸の奥で鈍く響いた。
「妹、なんて……ぼくに、いたっけ?」
ミオは何も言わなかった。
その代わり、視線だけをそっとぼくから外し、空へと向ける。
さっきの光は、もう見えない。
〝空虫〟は、いつのまにか音だけを残して消え、辺りにはまた元の静けさが戻っていた。
だけど、胸の奥だけがざわついている。
さっきの声。あの細くて、すこしかすれた声。
どこかで聞いたことがある気がして、それなのに思い出せない。
……妹?
家族の顔を思い出そうとしても、まるでぼやけた絵のように、端から輪郭が崩れていく。
幼い頃の記憶は、確かにある。
けれどその中に、〝もうひとりの誰か〟がいたかどうか、そこだけがわからない。ぽっかりと穴が開いたかのように空白だった。
「……ぼく、ほんとうに妹がいたのかな?」
そう問いかけると、ミオは小さくうなずいた。
「いたよ、きっと。優しくて、泣き虫で、でも……ユウのことが大好きだった、的な?」
「……」
どうして、ミオがそんなに断言できるんだろう。
そんな疑問で頭がいっぱいになったその瞬間、ミオの表情がふと変化した。
笑っていたはずなのに、ほんのすこしだけ、まぶしそうに目を細める。
ぼくよりも背丈が高いひまわりが空の色すら隠そうとする。
ミオもいるのに、なんだか自分だけが、異世界に取り残されたみたいな気持ちになるから不思議だった。
「ねぇユウ。ここ、覚えてる?」
「え?」
「ほら、前に一緒に来たじゃん。ここで迷って、泣いていたユウを、わたしが助けたんだよね~」
ミオの話に、ぼくは眉をひそめる。
「そんなこと……あったっけ?」
「え、忘れちゃったの? あんなに大号泣してたのに~」
くすくすと小さく肩をすくめて笑う。
必死に思い出そうと頭を回転させる。でも、ぼくにはその記憶がいっさいない。当然思い出すことなどできない。
迷ったことも、泣いたことも、そもそも——この場所に来たことすらも覚えていない。このひまわり畑には、初めて来た気がするんだ。
「……夢でも見てたんじゃないの?」
「ううん、ちゃんと現実。ユウが覚えてないだけ」
ミオはそう言いながら、目の前にあるひまわりに手を伸ばす。
花びらに触れる指先がやけに白くて細くて、すこしだけ透けてみえた気がした。
見間違いかと思って、何度か瞬きを繰り返してもう一度ミオを見る。
彼女はもう、歩き出していた。
ひまわり畑を抜けた頃、空の色がほんのすこしだけ変わった。
夕暮れにはまだ早いけれど、太陽が沈みかけているせいか、空気がすこしだけ冷たくなる。
虫の声が止まり、風の音だけが耳に残った。
——その時だった。
空の奥の方から、何かが剥がれるような音がした。
音というより〝気配〟のような、でも間違いなく世界が一瞬だけひるんだような……なんとも言えない空気感に体が震えた。
ミオが、ふいに立ち止まる。
「……来た」
「え?」
「ユウ、走って! 来た! 東の橋の方!」
そう言って、ミオはぼくの手を強く握った。
「わっ、ちょ、ちょっと待っ——」
言い終えるより早く、彼女はぼくを引っ張って走り出した。
麦わら帽子が風に飛ばされそうになって、片手で押さえる。
ミオの手は不思議なくらい力が強かった。
「待って、待って!! ミオはどうして〝空虫〟の場所がわかるの!?」
息を切らしながら、ぼくが尋ねると、ミオはすこしだけ笑う。
「さぁ~なんでだろうね。でもなんか、〝空虫〟に呼ばれた気がしたんだ」
「……え?」
その声は、風にかき消されそうなくらい小さかった。ミオの表情は見えないけれど、声色だけで何か察するものがある。
しばらく走り続けると、ミオは橋の付近で立ち止まった。
ミオが静かに指差した空の先。
それは、まるで夕暮れの空にぽつり、ぽつりと浮かんだ星のようだった。
ゆら、ゆら、と。
風に逆らうようにして、ひとつの光が漂っている。
羽ばたいているのかどうかもわからないほど静かで、けれど〝生きている〟気配だけは間違いなくあった。
「……あれが、〝空虫〟?」
初めて見るその姿に、ぼくは言葉を失った。
大きさはぼくの親指ほど。羽は透き通っていて、色を持たない。
だけど、内側から淡い光が滲んでいて、どこか蛍にも蝶にも似ている。
虫と呼ぶには美しすぎて、とにかく息を飲むほど静かだった。
「ほら、捕まえてみて」
ミオが囁くように言った。
ぼくは、息を止めるようにして網を構える。
そして——すくうように、そっと網を振る。
カサ、と微かな音がして、光が網の中に落ちた。
その瞬間だった。
……シャラン
耳元で、何かが鳴る。
風鈴のようでもあり、ガラスが触れ合う音のようでもある気がする。
『ねぇ、ユウ。今日はどこにも行かないで』
——知らない声。けれど、どこか懐かしい声が脳内に響き渡る。
音は空気を伝って、ぼくの胸の奥にゆっくりと沁み込んでくる。
気づけば、ぼくが持つ網の端で、小さな光が浮かび上がっていた。その光は〝空虫〟よりも大きく、街灯よりは小さい。
空想上でしか見たことがないけれど、それはまるで魂のようだと率直に思った。
人のかたちにも、星のようにも見えるそれは、網の中からふわりと立ち上がり、ひとつの軌道を描いて空へ昇っていく。
「……これは、誰の記憶? 知らない声が、脳内に響く……」
ふいにぼくがつぶやくと、隣のミオがそっと答えた。
「誰かの、昔の記憶。でも——その声、例えば……ユウの妹とか?」
「……え?」
思わず、聞き返す。
ミオの言葉が、胸の奥で鈍く響いた。
「妹、なんて……ぼくに、いたっけ?」
ミオは何も言わなかった。
その代わり、視線だけをそっとぼくから外し、空へと向ける。
さっきの光は、もう見えない。
〝空虫〟は、いつのまにか音だけを残して消え、辺りにはまた元の静けさが戻っていた。
だけど、胸の奥だけがざわついている。
さっきの声。あの細くて、すこしかすれた声。
どこかで聞いたことがある気がして、それなのに思い出せない。
……妹?
家族の顔を思い出そうとしても、まるでぼやけた絵のように、端から輪郭が崩れていく。
幼い頃の記憶は、確かにある。
けれどその中に、〝もうひとりの誰か〟がいたかどうか、そこだけがわからない。ぽっかりと穴が開いたかのように空白だった。
「……ぼく、ほんとうに妹がいたのかな?」
そう問いかけると、ミオは小さくうなずいた。
「いたよ、きっと。優しくて、泣き虫で、でも……ユウのことが大好きだった、的な?」
「……」
どうして、ミオがそんなに断言できるんだろう。
そんな疑問で頭がいっぱいになったその瞬間、ミオの表情がふと変化した。
笑っていたはずなのに、ほんのすこしだけ、まぶしそうに目を細める。
「〝お兄ちゃん〟と同じことをしたかった。そんな年頃だったんだよねぇ、きっと」
「……どうして。なんで、ぼくが知らないこと、ミオが……」
そう聞きかけたところで、ミオの顔には先ほどまでと同じ笑顔が戻った。
そして、まるで話を遮るかのように、違和感を覚えるほどの明るい声を出す。
「ねぇ、ユウ!! 次の〝空虫〟、探そっか。今夜はまだ、終わってないよ?」
ミオは「ふふんっ」と笑いながら身を翻し、ひまわり畑の方へ駆け出していく。
麦わら帽子のリボンが、風に揺れている。
ぼくはその背中を見つめながら、言いようのない不安を覚えていた。
ミオの声も、手の温度も、まるで〝夢の中でだけ出会える誰か〟みたいに思えて。なんだか心が、落ち着かなかった。
再び、空のどこかで光が揺れた。
ひとつ、またひとつと、星のような粒が夜に滲む。
さっきよりもずっとはっきりとした光。
それは風の流れに抗うように、東の空を泳いでいた。
「……あれも、〝空虫〟?」
ミオは黙ってうなずく。
その目はじっと光を見つめたまま、動かない。
さっきまでの明るい調子はどこかへ消えた。代わりに、何かを見守るような静けさだけがあった。
「ユウ、今度は——自分の名前を、心の中で唱えて」
「え?」
「〝空虫〟は、記憶の持ち主を探してるの。唱えれば、自然と見つかるからさ」
「……」
言われるままに、ぼくは胸の内で名前を繰り返す。
5回くらい繰り返した、その時だった。
光がふわりとこちらへ近づき、ゆっくりと、ぼくの網の中に吸い込まれていく。
「……どうして。なんで、ぼくが知らないこと、ミオが……」
そう聞きかけたところで、ミオの顔には先ほどまでと同じ笑顔が戻った。
そして、まるで話を遮るかのように、違和感を覚えるほどの明るい声を出す。
「ねぇ、ユウ!! 次の〝空虫〟、探そっか。今夜はまだ、終わってないよ?」
ミオは「ふふんっ」と笑いながら身を翻し、ひまわり畑の方へ駆け出していく。
麦わら帽子のリボンが、風に揺れている。
ぼくはその背中を見つめながら、言いようのない不安を覚えていた。
ミオの声も、手の温度も、まるで〝夢の中でだけ出会える誰か〟みたいに思えて。なんだか心が、落ち着かなかった。
再び、空のどこかで光が揺れた。
ひとつ、またひとつと、星のような粒が夜に滲む。
さっきよりもずっとはっきりとした光。
それは風の流れに抗うように、東の空を泳いでいた。
「……あれも、〝空虫〟?」
ミオは黙ってうなずく。
その目はじっと光を見つめたまま、動かない。
さっきまでの明るい調子はどこかへ消えた。代わりに、何かを見守るような静けさだけがあった。
「ユウ、今度は——自分の名前を、心の中で唱えて」
「え?」
「〝空虫〟は、記憶の持ち主を探してるの。唱えれば、自然と見つかるからさ」
「……」
言われるままに、ぼくは胸の内で名前を繰り返す。
5回くらい繰り返した、その時だった。
光がふわりとこちらへ近づき、ゆっくりと、ぼくの網の中に吸い込まれていく。
「え!?」
網を振らずとも、〝空虫〟の方からやってきたのだ。
そしてまた、音が鳴る。
……シャラン
金属のような、でも柔らかくて優しくてあたたかい音。
耳元ではない、どこかもっと深い場所から響いてくる音。
その音に乗って、今度は映像が〝音〟と共に流れ出す。
『ねぇ、お兄ちゃん! 早く行かないと、置いてっちゃうから!』
『迷子になったら、ちゃんと手を振ってね! わたし、絶対見つけるから!』
子どもの声。女の子の声。
その声の主が、振り返った。
そこにいたのは、麦わら帽子をかぶった、小さな女の子だった。
顔は見えなかった。でも、姿を見ただけでわかった。今度こそ、ぼくはぼく自身の頭で理解することができた。
「……知ってる」
感情を言葉に出せば、勝手に手が震え始める。
開けたことのなかった心の奥の扉が開き、何かが急に動いた気がした。
誰かと、約束をした。
誰かに、「ちゃんと帰ってくるね」って言った。
でも、その〝誰か〟が、どうしても思い出せない。
だけど——その姿は、あまりにもミオに似ていた。
網を振らずとも、〝空虫〟の方からやってきたのだ。
そしてまた、音が鳴る。
……シャラン
金属のような、でも柔らかくて優しくてあたたかい音。
耳元ではない、どこかもっと深い場所から響いてくる音。
その音に乗って、今度は映像が〝音〟と共に流れ出す。
『ねぇ、お兄ちゃん! 早く行かないと、置いてっちゃうから!』
『迷子になったら、ちゃんと手を振ってね! わたし、絶対見つけるから!』
子どもの声。女の子の声。
その声の主が、振り返った。
そこにいたのは、麦わら帽子をかぶった、小さな女の子だった。
顔は見えなかった。でも、姿を見ただけでわかった。今度こそ、ぼくはぼく自身の頭で理解することができた。
「……知ってる」
感情を言葉に出せば、勝手に手が震え始める。
開けたことのなかった心の奥の扉が開き、何かが急に動いた気がした。
誰かと、約束をした。
誰かに、「ちゃんと帰ってくるね」って言った。
でも、その〝誰か〟が、どうしても思い出せない。
だけど——その姿は、あまりにもミオに似ていた。
しばらく呆然と過ごした時間。
空には、もう〝空虫〟の姿はなかった。
代わりに、魂のような小さな光だけが、いくつも空を渡っていく。
ふたりで並んで見上げた空は、群青に沈みかけていた。
「ねぇ、ミオ」
「ん?」
「さっき戻った記憶の中の子……ぼくの、妹だった気がする」
「うん、そうだよ。てか、気がするじゃなくて、そうなんだって」
やっぱり、とぼくは思った。
あの声。あの帽子。あの小さな背中。
それらすべてが、なぜか忘れていた懐かしいものだった。
「……ねぇ、ユウ」
ミオが、ぽつりと呟く。
「そろそろ、時間かもね」
「時間?」
「ほら。〝空虫〟は、お盆にだけ現れるでしょ。帰ってきた人たちが、元いた場所へ帰るための道しるべ。記憶を運んで、心を照らして、それでまた……帰っていく」
ミオの声がすこしだけ震える。
それを聞いて、ぼくはようやく気づいた。
ぼくはここに〝帰ってきていた〟のだ。
ひと夏の一コマみたいに、何気なく始まったこの時間が、実は何回目かの〝再会〟だった。その事実を、今の今まで忘れていた。
「ミオ、ぼく……」
「うん。ユウは、今年もちゃんと帰ってきた。去年も〝空虫〟の捕獲、頑張ったから。だから今年も帰ってこれた!」
彼女は、そっと笑った。
泣きそうな目をしている。でも最後まで、全力で笑っていた。
ぼくの手を握るミオの手が離れていく。
光が、空へ吸い込まれていく。
ぼくの輪郭も、風に溶けていくようだった。
「〝空虫捕獲係〟はわたしだったんだよ。帰ってきた人が、ちゃんと〝空虫〟を捕獲して、また来年も帰ってこれるように導く。この町の習わし、忘れちゃったかな。お兄ちゃん」
ニコッと優しい笑顔を浮かべた姿は、昔から見覚えのあるものだった。
その現実を、ほんとうに今の今まで忘れていた。
そしてきっと、来年また帰ってきても、いくつかの記憶がなくなっているのだろう。
今この瞬間、思い出したことがある。
昔、ひまわり畑で迷子になって、ミオに助けられた。
でもその帰り道、車にはねられて——ぼくは、死んだということ。
ぼくはこれを……もう何回繰り返しているのだろう。どうして毎回、忘れてしまっているのだろう。
「……」
「……じゃあ、ユウ。もう時間だよ。また来年だね」
ミオは微笑んで、そう言った。
〝空虫〟を捕獲して、やっと記憶が戻ってきたのに、ぼくはもう帰る時間になっている。
複雑な感情に駆られながらも、ぼくはしっかりとミオに手を振った。
久しぶりに会えた妹に、全力で手を振り続ける。
「また……帰るから」
大きくうなずくミオ。その手に持つ網が、夜の風に揺れていた。
どこまでも静かで、優しい、夏の終わりの音がした。
「また……帰るから」
大きくうなずくミオ。その手に持つ網が、夜の風に揺れていた。
どこまでも静かで、優しい、夏の終わりの音がした。
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