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#11:日常に滲む影

ー/ー



 控え室を飛び出してからしばらくして、エレナは廊下の角を曲がったところでようやく足を緩めた。

「はぁ……はぁ……!」

 胸が苦しい。喉の奥が熱を帯び、肺が追いつかないと訴えるように上下している。距離にすれば大したことはない。それなのに、決闘の余韻をまだ引きずった身体には、たったこれだけの駆け足さえ想像以上に堪えた。

『どうした、エレナ。大した距離じゃないだろう?』

 身体の内側から響く声は、いつも通り涼しい顔をしていた。まるで今しがたの疾走など、散歩のついでだったとでも言いたげな口ぶりである。

「あ、あなたの走り方と、一緒にしないでぇ……!」

 息も絶え絶えに抗議すると、エレンはわずかに思案するような間を置いた。

『ふむ。呼吸だ、エレナ。意識的に息を整えろ』

「急にそんなこと言われてできるわけないでしょお!?」

 半ば涙声で言い返しながらも、エレナの脳裏には、どうしても先ほどの動きがちらついて離れなかった。

 同じ身体のはずなのに、エレンが主導権を握っている間の自分は、まるで別の生き物のようだった。しなやかで、鋭くて、疲労という概念を最初から知らないかのように戦い続ける。踏み込みの深さも、体重の移し方も、剣を振るう軌道のひとつひとつが、あまりに自然で、あまりに滑らかで──とても、自分の身体の出来事とは思えなかった。

 あれは本当に、自分と同じ器なのだろうか。

 疑いにも似た感覚が、今さらになって胸の奥へ滲んでくる。

『だが、汗が凄いぞ。このまま信者の前に出ては、聖女の面目丸つぶれだ』

(それはそう……っ! どこかで汗を拭かないと……)

 指摘はあまりにも的確だった。頬に張りついた前髪も、首筋を流れ落ちる汗の筋も、人前に立つには程遠い。エレナは乱れた呼吸のまま顔を上げ、廊下の先を見据えて進路を変えた。

 向かうのは、聖堂にほど近い自邸である。身支度を整える時間は、まだぎりぎり残されている。手早くシャワーを浴びるくらいの余裕なら、きっとある。

 そう算段がついた途端、重たかった足取りが、ほんの少しだけ軽くなった。

 ✦ ━━━━━━━━━━━━━━ ✦

「〜♫」

 湯を浴びた瞬間、身体の芯に残っていた緊張が、ようやくほろほろと解けていくのがわかった。

 熱い滴が火照った肌の上を滑り、首筋から鎖骨へ、そしてやわらかな胸のふくらみへとゆるやかに伝っていく。濡れた金髪は重みを増して肌に張りつき、ゆっくりと雫を落としていた。背を伝う水の筋は、細い腰のラインをなぞるようにして、太腿の内側へと流れ落ちていく。戦いの熱がまだ燻る素肌は、湯に触れるたびに淡く赤く色を変え、束の間の安らぎの中で静かに息をついていた。

 ほんの数分。されどその数分で、呼吸も鼓動も見違えるほど穏やかさを取り戻していく。

 鼻歌まじりに前髪を掻き上げる仕草にも、もう戦場の緊張は残っていなかった。

 ✦

 そしてエレナは、ほとんど予定通りの時刻に聖堂の前へと辿り着いた。

 大扉の向こうには、すでに人の気配が満ちている。信者たちは整然と並んで待っていたが、時折こぼれる衣擦れや、扉の方へちらりと向けられる視線の端々に、主役の到着を今か今かと待ちわびる空気が滲んでいた。

 駆け込んできた気配など、ひとかけらも悟らせてはいけない。エレナは胸に手を添え、ひとつだけ深く呼吸を整えた。

 それから、聖女見習いにふさわしい柔らかな微笑みを唇にのせ、静かに皆の前へと歩み出る。

「お待たせしました」

 その一言で、場の空気がふわりとほどけた。

「エレナ様、本日もよろしくお願い致します」

 深々と頭を下げる信者たちへ、エレナは一人ひとりの顔を見渡すようにしてうなずき返す。

「では、始めましょうか」

 この集会は、説法でも教導でもない。それぞれが抱える悩みを持ち寄り、集まった者たちで知恵を出し合う──言わば、ささやかなカウンセリングの場だった。

 エレナの言葉は、あくまで最後のひと押しとしてそっと添えられる。それ以上ではない。聖女見習いという立場の影響力は、彼女自身が思う以上に大きい。もしエレナが先に答えを示してしまえば、人々はその言葉だけを持ち帰り、胸の中にしまい込んでしまう。それはエレナの望むところではなかった。

 人は、互いに支え合って生きていくもの。

 だからこそ彼女は、明かせる範囲でそれぞれが悩みを打ち明け、語り合い、答えを探していく──そんな場を自らの手で作り上げたのだった。

 最初に口を開いたのは、前の方に座っていた信仰深そうな青年だった。きっちりと切り揃えたおかっぱ頭を少し俯かせ、指を膝の上で何度も組み直している。

「あの……私の悩みは、その……恋なのですが」

 一度言葉を切り、それでも勇気を振り絞るように続ける。

「どうすれば、彼女と近づけるのでしょうか……。どうしても、距離を感じてしまって。……プレゼントを送れば、少しは近づけるでしょうか?」

 真剣な問いが落ちた直後、斜め後ろの席から、からりと明るい声が飛んだ。

「うーん。プレゼントもいいとは思うけどぉ──あなたその髪型を、先にどうにかした方がよくない?」

 遠慮のない物言いをしたのは、いかにも軽やかな装いの女信者だった。青年がびくりと肩を震わせるより早く、今度は反対側から、野太い声が割り込んでくる。

「プレゼントに頼るなど、心にやましさがある証拠ではないか。そんなことでどうする。きっと君には、神がいま試練を──」

 腕を組んで唸るのは、いかつい顔立ちの老信者だった。話が説教の方向へ傾きかけたその時、穏やかな笑い声がやわらかく場を引き戻す。

「なにいってんだい。プレゼントってのはねぇ、真心だよ。坊やの気持ちは、きっとちゃんと届くはずさ」

 微笑みながら口を挟んだのは、しわの深い手を膝の上で重ねた老婆信者だった。

 場の視線が自然とエレナへと集まる。

 彼女は一度、青年に向かって静かに微笑んでみせた。答えを押しつけるのではなく、すでに交わされた言葉たちを、そっと束ね直すような微笑みだった。

「そうですね」

 穏やかに切り出した声は、争うことなく、けれど確かに場の空気を柔らかくまとめていく。

「プレゼントを、下心から送るのはあまりよくないと思います。でも──思いやりを込めた、真心のこもった贈り物なら、きっと素敵ですよ」

 そこで一度言葉を置いてから、エレナは青年の方へ改めて視線を向けた。

「それに、見た目も立派な個性ですから。……こちらは好みが出るところなので、一概には言えないのですけれど」

 ふわりと、困ったように眉尻を下げる。けれどその眼差しには、迷いのない温かさが宿っていた。

「私は、素敵だと思いますよ」​​​​​​​​​​​​​​​​

 集会は、そうしてゆるやかに進んでいった。

 一人の悩みに、幾つもの声が寄り添い、時にからかい、時に諭し、最後にエレナの一言がそっと寄り添って締めくくられる──その繰り返しが、誰かの胸の結び目をひとつずつほどいていく。笑い声がこぼれ、ため息が抜け、頷きが伝播していく。

 これが、エレナの日課だった。

 聖女見習いとして与えられた務めは、決してこれだけでは終わらない。それでもこの時間は、彼女にとって一日の大切な支柱のひとつだった。

 ──と。

 ふいに、大扉の軋む音が場の空気を裂いた。

 全員の視線が、自然とそちらへ向かう。

「エレナ様、集会中に失礼します」

 遠慮がちに、しかしはっきりとした声でそう告げたのは、修道女のマリアンだった。扉の隙間から半身をのぞかせ、深く頭を下げている。

 その傍らには、もう一人──背を丸めた老人が、静かに佇んでいた。

 皺の刻まれた頬はどこか影を帯び、伏せがちな目元には明らかな疲れと、隠しきれない陰りが滲んでいる。皺だらけの手が、所在なげに杖の頭を握り直していた。

 言葉を交わすまでもない。

 何かがあったのだと、エレナにはすぐに伝わった。​​​​​​​​​​​​​​​​



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 控え室を飛び出してからしばらくして、エレナは廊下の角を曲がったところでようやく足を緩めた。
「はぁ……はぁ……!」
 胸が苦しい。喉の奥が熱を帯び、肺が追いつかないと訴えるように上下している。距離にすれば大したことはない。それなのに、決闘の余韻をまだ引きずった身体には、たったこれだけの駆け足さえ想像以上に堪えた。
『どうした、エレナ。大した距離じゃないだろう?』
 身体の内側から響く声は、いつも通り涼しい顔をしていた。まるで今しがたの疾走など、散歩のついでだったとでも言いたげな口ぶりである。
「あ、あなたの走り方と、一緒にしないでぇ……!」
 息も絶え絶えに抗議すると、エレンはわずかに思案するような間を置いた。
『ふむ。呼吸だ、エレナ。意識的に息を整えろ』
「急にそんなこと言われてできるわけないでしょお!?」
 半ば涙声で言い返しながらも、エレナの脳裏には、どうしても先ほどの動きがちらついて離れなかった。
 同じ身体のはずなのに、エレンが主導権を握っている間の自分は、まるで別の生き物のようだった。しなやかで、鋭くて、疲労という概念を最初から知らないかのように戦い続ける。踏み込みの深さも、体重の移し方も、剣を振るう軌道のひとつひとつが、あまりに自然で、あまりに滑らかで──とても、自分の身体の出来事とは思えなかった。
 あれは本当に、自分と同じ器なのだろうか。
 疑いにも似た感覚が、今さらになって胸の奥へ滲んでくる。
『だが、汗が凄いぞ。このまま信者の前に出ては、聖女の面目丸つぶれだ』
(それはそう……っ! どこかで汗を拭かないと……)
 指摘はあまりにも的確だった。頬に張りついた前髪も、首筋を流れ落ちる汗の筋も、人前に立つには程遠い。エレナは乱れた呼吸のまま顔を上げ、廊下の先を見据えて進路を変えた。
 向かうのは、聖堂にほど近い自邸である。身支度を整える時間は、まだぎりぎり残されている。手早くシャワーを浴びるくらいの余裕なら、きっとある。
 そう算段がついた途端、重たかった足取りが、ほんの少しだけ軽くなった。
 ✦ ━━━━━━━━━━━━━━ ✦
「〜♫」
 湯を浴びた瞬間、身体の芯に残っていた緊張が、ようやくほろほろと解けていくのがわかった。
 熱い滴が火照った肌の上を滑り、首筋から鎖骨へ、そしてやわらかな胸のふくらみへとゆるやかに伝っていく。濡れた金髪は重みを増して肌に張りつき、ゆっくりと雫を落としていた。背を伝う水の筋は、細い腰のラインをなぞるようにして、太腿の内側へと流れ落ちていく。戦いの熱がまだ燻る素肌は、湯に触れるたびに淡く赤く色を変え、束の間の安らぎの中で静かに息をついていた。
 ほんの数分。されどその数分で、呼吸も鼓動も見違えるほど穏やかさを取り戻していく。
 鼻歌まじりに前髪を掻き上げる仕草にも、もう戦場の緊張は残っていなかった。
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 そしてエレナは、ほとんど予定通りの時刻に聖堂の前へと辿り着いた。
 大扉の向こうには、すでに人の気配が満ちている。信者たちは整然と並んで待っていたが、時折こぼれる衣擦れや、扉の方へちらりと向けられる視線の端々に、主役の到着を今か今かと待ちわびる空気が滲んでいた。
 駆け込んできた気配など、ひとかけらも悟らせてはいけない。エレナは胸に手を添え、ひとつだけ深く呼吸を整えた。
 それから、聖女見習いにふさわしい柔らかな微笑みを唇にのせ、静かに皆の前へと歩み出る。
「お待たせしました」
 その一言で、場の空気がふわりとほどけた。
「エレナ様、本日もよろしくお願い致します」
 深々と頭を下げる信者たちへ、エレナは一人ひとりの顔を見渡すようにしてうなずき返す。
「では、始めましょうか」
 この集会は、説法でも教導でもない。それぞれが抱える悩みを持ち寄り、集まった者たちで知恵を出し合う──言わば、ささやかなカウンセリングの場だった。
 エレナの言葉は、あくまで最後のひと押しとしてそっと添えられる。それ以上ではない。聖女見習いという立場の影響力は、彼女自身が思う以上に大きい。もしエレナが先に答えを示してしまえば、人々はその言葉だけを持ち帰り、胸の中にしまい込んでしまう。それはエレナの望むところではなかった。
 人は、互いに支え合って生きていくもの。
 だからこそ彼女は、明かせる範囲でそれぞれが悩みを打ち明け、語り合い、答えを探していく──そんな場を自らの手で作り上げたのだった。
 最初に口を開いたのは、前の方に座っていた信仰深そうな青年だった。きっちりと切り揃えたおかっぱ頭を少し俯かせ、指を膝の上で何度も組み直している。
「あの……私の悩みは、その……恋なのですが」
 一度言葉を切り、それでも勇気を振り絞るように続ける。
「どうすれば、彼女と近づけるのでしょうか……。どうしても、距離を感じてしまって。……プレゼントを送れば、少しは近づけるでしょうか?」
 真剣な問いが落ちた直後、斜め後ろの席から、からりと明るい声が飛んだ。
「うーん。プレゼントもいいとは思うけどぉ──あなたその髪型を、先にどうにかした方がよくない?」
 遠慮のない物言いをしたのは、いかにも軽やかな装いの女信者だった。青年がびくりと肩を震わせるより早く、今度は反対側から、野太い声が割り込んでくる。
「プレゼントに頼るなど、心にやましさがある証拠ではないか。そんなことでどうする。きっと君には、神がいま試練を──」
 腕を組んで唸るのは、いかつい顔立ちの老信者だった。話が説教の方向へ傾きかけたその時、穏やかな笑い声がやわらかく場を引き戻す。
「なにいってんだい。プレゼントってのはねぇ、真心だよ。坊やの気持ちは、きっとちゃんと届くはずさ」
 微笑みながら口を挟んだのは、しわの深い手を膝の上で重ねた老婆信者だった。
 場の視線が自然とエレナへと集まる。
 彼女は一度、青年に向かって静かに微笑んでみせた。答えを押しつけるのではなく、すでに交わされた言葉たちを、そっと束ね直すような微笑みだった。
「そうですね」
 穏やかに切り出した声は、争うことなく、けれど確かに場の空気を柔らかくまとめていく。
「プレゼントを、下心から送るのはあまりよくないと思います。でも──思いやりを込めた、真心のこもった贈り物なら、きっと素敵ですよ」
 そこで一度言葉を置いてから、エレナは青年の方へ改めて視線を向けた。
「それに、見た目も立派な個性ですから。……こちらは好みが出るところなので、一概には言えないのですけれど」
 ふわりと、困ったように眉尻を下げる。けれどその眼差しには、迷いのない温かさが宿っていた。
「私は、素敵だと思いますよ」​​​​​​​​​​​​​​​​
 集会は、そうしてゆるやかに進んでいった。
 一人の悩みに、幾つもの声が寄り添い、時にからかい、時に諭し、最後にエレナの一言がそっと寄り添って締めくくられる──その繰り返しが、誰かの胸の結び目をひとつずつほどいていく。笑い声がこぼれ、ため息が抜け、頷きが伝播していく。
 これが、エレナの日課だった。
 聖女見習いとして与えられた務めは、決してこれだけでは終わらない。それでもこの時間は、彼女にとって一日の大切な支柱のひとつだった。
 ──と。
 ふいに、大扉の軋む音が場の空気を裂いた。
 全員の視線が、自然とそちらへ向かう。
「エレナ様、集会中に失礼します」
 遠慮がちに、しかしはっきりとした声でそう告げたのは、修道女のマリアンだった。扉の隙間から半身をのぞかせ、深く頭を下げている。
 その傍らには、もう一人──背を丸めた老人が、静かに佇んでいた。
 皺の刻まれた頬はどこか影を帯び、伏せがちな目元には明らかな疲れと、隠しきれない陰りが滲んでいる。皺だらけの手が、所在なげに杖の頭を握り直していた。
 言葉を交わすまでもない。
 何かがあったのだと、エレナにはすぐに伝わった。​​​​​​​​​​​​​​​​