冬暁に、春を結ぶ
ー/ー 冬は、ある朝いきなりやって来たように思えた。
前日まで残っていた庭木の色が、夜のあいだに一段褪せ、翌朝には吐く息が白くなっていた。井戸の水は骨まで冷たく、廊下板は足袋越しにもひやりとする。空は高く晴れているのに、光の色はどこか薄く、庭石の影まで硬く見えた。
奥向きでは火鉢の数が増え、女中たちは朝から炭の具合を見て回る。干し柿や干し大根が軒先に吊るされ、膳の上には根菜の煮物が増えた。年の瀬を控え、帳面の整理や贈答の支度も忙しくなる。静かなようでいて、冬の屋敷は案外と慌ただしい。
おりつは相変わらず千代のそばで働きながら、月に二度の離れの稽古も続けていた。
秋のあいだに通い始めた女たちは、寒さにも負けず顔を見せた。実家へ送る歳暮の添え書きを自分でしたためたい者、寺への年始の願文を覚えたい者、幼い子の名を書けるようになりたい者。皆それぞれに理由があり、その理由がある限り、寒さは通う足を止めなかった。
ある日、離れの稽古が終わったあと、年配の女が帰り際におりつへ言った。
「私は若いころ、自分が何かを覚えるなど思いませんでしたよ。女は嫁ぎ、働き、年を取るだけだと思っていた」
「はい」
「けれど今こうして字を覚えると、まだ少し先へ行ける気がしますね」
おりつはその言葉を聞きながら、胸の奥が静かに熱くなるのを感じた。先へ行ける。たったそれだけのことが、どれほど人を支えるのだろう。
だが、冬の物語は、たいてい喜びだけでは進まない。
十二月に入ってまもなく、千代が風邪をこじらせた。
最初は軽い咳だった。寒さのせいだろうと誰もが思ったし、千代自身も「少し喉が荒れただけです」と気にする様子を見せなかった。
だが二、三日のうちに熱が出て、夜には咳込みが長く続くようになった。医師を呼び、薬を煎じ、部屋を温めても、すぐには快方へ向かわない。
おりつは昼も夜もつききりで世話をした。湯を替え、汗を拭き、薬の時間を見ては起こし、眠れぬ夜には背をさする。伊勢へ旅立つ前、夫を看病していたころのことが、いやでも思い出された。あのとき千代は、病床の夫のそばでどんな思いをしていたのだろう。失うかもしれぬ恐れを抱えながら、毎日をただ必死に整えるしかなかったのではないか。
「おりつ」
熱の高い夜、千代がかすれた声で呼んだ。
「はい、奥様」
「そんなに怖い顔をしないで」
おりつははっとした。自分では平静を装っていたつもりだったのに、見抜かれていたのだ。
「申し訳ございません」
「謝ることではありません」
千代は苦しげに息をつきながら、かすかに笑った。
「あなたは、わたくしがいなくなることを考えているのでしょう」
その言葉はあまりに直截で、おりつは一瞬返事を失った。
「……考えとうございません」
「でも、考えてしまうのですね」
「……はい」
千代は目を閉じたまま言った。
「人は、失うかもしれないときほど、その先を考えてしまうものです。わたくしもそうでした」
その『そうでした』に、亡き夫の看病の記憶が滲んでいるのを、おりつは感じた。千代は、かつて自分が通った恐れの道を、今度はおりつの顔の中に見ているのだ。
「ですが、おりつ」
「はい」
「もし本当にそうなったとしても、あなたは生きなければなりません」
おりつは顔を伏せた。
「そのようなこと、今は」
「今だから申すのです」
病の熱に浮かされているからではない。千代はきわめてはっきりした眼差しで、おりつを見ていた。
「あなたは、もう誰かを見届けるだけのために生きる人ではありません。文を教え、人の思いを言葉にし、自分の道を少しずつ歩き始めている。わたくしはそれを、途中で止めたくありません」
おりつは唇を噛んだ。涙が出そうになるのを、必死でこらえる。
「私はいつまでも奥様をお慕い申し上げています」
気づけば、あの言葉が口をついていた。
「ええ」
「ですから、奥様のおられぬ先など考えられませぬ」
「慕うことと、止まることは同じではありませんよ」
それは、千代自身が手にした答えの言い換えだった。忘れないことと留まり続けることは同じではない。慕うことと止まることも、きっと同じではない。
おりつは、涙をこぼさぬよう俯いたまま、小さく頷いた。
幸い、数日を境に熱は少しずつ下がり始めた。咳もすぐには治まらなかったが、峠は越えたと医師が言ったとき、おりつはその場で力が抜けそうになった。千代は寝床でまだ青白かったが、目にはもういつもの落ち着きが戻っていた。
「ひどくご心配をおかけしましたね」
回復の兆しが見えた日、千代はそう言った。
「心配など、いくらでもいたします」
「そうでしょうとも」
そのやり取りだけで、おりつは泣きたくなった。だが今度は、恐れからではなく、戻ってきた日常のぬくもりからだった。
千代の病が癒えるまでのあいだ、離れの稽古は一時休みとなった。すると、通っていた者たちから見舞いの品や言伝がいくつも届いた。大根や干し柿、寒気に良いという生姜、そして何より、「お早い快癒を」と書かれた拙い文の数々である。
おりつはそれらを一つひとつ読み上げた。字の形はまだ不揃いで、仮名の綴りも危うい。けれど、そこに宿る心は真っ直ぐだった。千代は寝床の上でそれを聞き、何度も目を閉じた。
「嬉しいですね」
「はい」
「文机を置いてよかった」
そして、しばらくしてから静かに付け加えた。
「これで終わらせたくありませんね」
その言葉を聞いたとき、おりつの胸の奥で、これまでばらばらだったものがひとつに結ばれる気がした。千代の思い。自分の願い。離れに集まる女たちの小さな勇気。それらをもっと確かな形にできないだろうか。
年の瀬が迫るころ、千代はようやく起きていられる時間が増えた。まだ長くは座れないが、文机へ向かうこともできるようになった。ある雪の朝、庭にうっすらと白いものが積もったのを見ながら、千代はおりつへ言った。
「春になったら、父の許しを得て、城下の寺子屋へ少し力を貸してもらえぬか相談しようと思います」
「寺子屋、でございますか」
「ええ。子どもだけでなく、女たちも習える日を設けられればと。屋敷の内だけでは限りがありますから」
「それは……」
おりつは声を失った。
思いもしなかったほど大きな話だった。
「無論、すぐに思い通りにはならぬでしょう。家の事情も、寺の都合もあります。けれど、病床で考えたのです。もし人はいつかいなくなるのなら、残るものは、誰かに渡したものだけかもしれないと」
おりつはゆっくり息を吸った。
「奥様」
「なんでしょう」
「私にできることであれば、何でもいたします」
「そう言うと思いました」
千代は雪明かりの中で微笑んだ。その顔は病み上がりでまだ痩せていたが、かえってその意志の強さが際立って見えた。
年が改まり、冬の寒さが最も深まるころ、千代は父へ長い書状を書いた。そこには自分の近況や病のことだけでなく、奥向きで行ってきた読み書きの稽古のこと、女たちの暮らしにそれがどう役立っているか、そして城下でささやかな学びの場を広げたいという考えが、丁寧に記されていた。
書き終えた後、千代はその文をおりつへ差し出した。
「読んでごらんなさい」
おりつは驚いた。
「私が、でございますか」
「あなたに聞かせたいのです」
おりつは文を受け取り、読み上げた。そこには、若くして夫を失った未亡人の慎ましい嘆きはなかった。
代わりにあったのは、自分が見てきたこと、得たこと、これから残したいことを、静かにしかし確かな熱をもって語る一人の人の声だった。
読み終えるころには、おりつの胸はいっぱいになっていた。
「見事な文にございます」
「そうでしょうか」
「はい。奥様の歩んでこられた季節が、すべてここにございます」
千代は少し黙り、それから言った。
「ならば、あなたも書きなさい」
「……え」
「父への追伸ではありません。あなた自身の文を。これから何をしたいのか、何を願うのか」
「私が……」
おりつはたじろいだ。これまで誰かのための文は書いてきた。およねの母のため、離れへ通う者たちのため、千代の供養のため。だが、自分自身のための文となると、途端に筆が重くなる。
けれど千代は、急かさず待っていた。
「すぐにうまく書けなくてもよろしいのです。あなたの願いは、もうあなたの中にあるのでしょう」
その夜、おりつは一人で文机に向かった。外はしんと冷え、時おり竹が鳴る。灯火の明かりだけが半紙を照らしていた。
筆を取っては置き、置いてはまた取り直す。何を書けばよいのか分からない。だが、分からないままでも、最初の一字を置かなければ何も始まらない。
やがておりつは、ゆっくりと書き始めた。
自分は幼いころから人に従い、言われたことをこなすことで生きてきたこと。
千代に仕える日々の中で、慕うことの深さと、見守ることの切なさを知ったこと。
伊勢の旅で、誰にも言えぬ思いを抱えた奥方の姿を見て、文字が人の心を支えることを知ったこと。夏に言葉を必要とする者たちに出会い、秋に自分にも道があるかもしれぬと知り、冬に、渡したものこそが残るのだと教えられたこと。
そして最後に、こう書いた。
“私は、ことばを習い、ことばを渡し、心の置き場を持てぬ人に、ひとつでも多く紙の白さを差し出したく存じます”
書き終えたとき、おりつはしばらく動けなかった。拙い。飾りもない。けれど、それはたしかに自分の文だった。
翌朝、千代はその文を読み、何も直さなかった。少しだけ目を潤ませ、それから静かに言った。
「よく書けましたね」
「まだまだでございます」
「ええ、まだまだ。だからよいのです。これから続いてゆく文ですから」
冬の終わりが近づくころ、千代の父から返書が届いた。内容は簡潔だったが、思いのほか温かかった。千代の考えを認め、必要ならば寺子屋の主へ口添えもしよう、とある。すぐに大きく道が開けるわけではない。それでも、初めて外へ向かう扉が少しだけ動いたのだった。
その知らせを聞いた離れの女たちは、自分のことのように喜んだ。さよなどは「では私ももっときれいな字を書けるようになります」とはしゃぎ、およねは「母にも知らせます」と目を赤くした。
千代はそんな皆の様子を見て、穏やかに笑っていた。かつて伊勢の林で一通の文を置いた女が、いまは誰かの未来のために文を開こうとしている。その姿を、おりつは眩しいものを見るように見つめた。
二月のある朝、庭の隅の梅がひとつだけ咲いた。
まだ風は冷たい。池の面も朝方は薄く凍る。けれど、梅の蕾は確かに綻んでいた。おりつはそれを見つけると、思わず足を止めた。春はまだ遠い、とかつて思った。だが遠いと思っていた春は、気づかぬうちに冬の奥で支度をしていたのだ。
その日の夕刻、千代はおりつと並んで廊下に座り、庭の梅を眺めた。
「咲きましたね」
「はい」
「去年なら、ただ綺麗だと思って終わったでしょう」
「今は違うのですか」
「ええ。咲くまでの寒さを、少し知りましたから」
おりつはそっと微笑んだ。
「私もでございます」
しばらく沈黙が続いた。けれど、その沈黙は少しも寂しくなかった。
積み重ねてきた季節が、そのまま二人のあいだに座っているような静けさだった。
やがて千代が言った。
「おりつ」
「はい」
「これから先、わたくしはあなたをずっと侍女として縛りつけるつもりはありません」
「奥様」
「もちろん、今すぐ離れろということではありませんよ。ただ、あなたにはあなたの歩む道がある。それをわたくしのそばだけに閉じ込めたくないのです」
おりつは胸が熱くなるのを感じた。
「ですが私は」
「分かっています。あなたは優しいから、慕う心を枷にしてしまうことがある。でもね」
千代は梅を見たまま、静かに続けた。
「私はいつまでも奥様をお慕い申し上げています――あのときのあなたの言葉は、わたくしの支えでした。けれど今は、それを“だから私のそばでしか生きません”という意味にしてほしくないのです。自分の道へ行ってほしいのです」
おりつは、こらえきれず涙をこぼした。悲しいのではない。むしろ、長く胸の中にあったものが、ようやく正しい名を持ったような気がしたからだ。
「はい」
それしか言えなかった。
「はい、奥様。私は、奥様をお慕い申し上げながら、自分の道へ参ります」
千代はその答えに満足したように、ゆっくり頷いた。
空はまだ冬の色をしていたが、梅の香はたしかに流れていた。かすかな、けれど疑いようのない春の匂いだった。
その後、寺子屋の話は少しずつ具体になっていった。まずは月に一度、女たちのための読み書きの日を設けること。おりつはそこで手伝いをすること。千代は表立って教壇に立つわけではないが、必要な紙や筆の用意、人のつながり、家々への配慮を整えること。すべてが一足飛びには進まない。けれど、冬の土の下で根が伸びるように、確かに形になり始めていた。
おりつはもう知っていた。人生は、大きな出来事でのみ変わるのではない。文机を置くこと。誰かの代わりに一通の文を書くこと。怖れながらも自分の望みを口にすること。そういう小さな選びの積み重ねが、いつのまにか季節を変えるのだと。
伊勢の春、屋敷の夏、実りの秋、そして厳しい冬。どれだけ年を取ったかもう分からないほど、夢中になっていた。けれど、四つの季節を越えて、おりつはようやく、自分の生を“誰かの影”としてだけではなく、一本の道として見つめることができるようになっていた。だがその道の始まりには、いつも千代がいる。慕う心は消えない。消えないまま、それを光として先へ進むことができる。それが、二人が季節をかけて見つけた答えだった。
梅の花がもう一輪ひらいた。
おりつはその白さを見つめながら、まだ真新しい筆を両手で包むように持った。これから先、この筆でどれほどの文を書くだろう。どれほどの名を記し、どれほどの胸の内を運ぶだろう。分からない。けれど分からぬままでも、もう恐れすぎずにいられる。
冬暁の空は淡く、東の端からわずかな明るみが差し始めていた。
春は、もう遠くなかった。
前日まで残っていた庭木の色が、夜のあいだに一段褪せ、翌朝には吐く息が白くなっていた。井戸の水は骨まで冷たく、廊下板は足袋越しにもひやりとする。空は高く晴れているのに、光の色はどこか薄く、庭石の影まで硬く見えた。
奥向きでは火鉢の数が増え、女中たちは朝から炭の具合を見て回る。干し柿や干し大根が軒先に吊るされ、膳の上には根菜の煮物が増えた。年の瀬を控え、帳面の整理や贈答の支度も忙しくなる。静かなようでいて、冬の屋敷は案外と慌ただしい。
おりつは相変わらず千代のそばで働きながら、月に二度の離れの稽古も続けていた。
秋のあいだに通い始めた女たちは、寒さにも負けず顔を見せた。実家へ送る歳暮の添え書きを自分でしたためたい者、寺への年始の願文を覚えたい者、幼い子の名を書けるようになりたい者。皆それぞれに理由があり、その理由がある限り、寒さは通う足を止めなかった。
ある日、離れの稽古が終わったあと、年配の女が帰り際におりつへ言った。
「私は若いころ、自分が何かを覚えるなど思いませんでしたよ。女は嫁ぎ、働き、年を取るだけだと思っていた」
「はい」
「けれど今こうして字を覚えると、まだ少し先へ行ける気がしますね」
おりつはその言葉を聞きながら、胸の奥が静かに熱くなるのを感じた。先へ行ける。たったそれだけのことが、どれほど人を支えるのだろう。
だが、冬の物語は、たいてい喜びだけでは進まない。
十二月に入ってまもなく、千代が風邪をこじらせた。
最初は軽い咳だった。寒さのせいだろうと誰もが思ったし、千代自身も「少し喉が荒れただけです」と気にする様子を見せなかった。
だが二、三日のうちに熱が出て、夜には咳込みが長く続くようになった。医師を呼び、薬を煎じ、部屋を温めても、すぐには快方へ向かわない。
おりつは昼も夜もつききりで世話をした。湯を替え、汗を拭き、薬の時間を見ては起こし、眠れぬ夜には背をさする。伊勢へ旅立つ前、夫を看病していたころのことが、いやでも思い出された。あのとき千代は、病床の夫のそばでどんな思いをしていたのだろう。失うかもしれぬ恐れを抱えながら、毎日をただ必死に整えるしかなかったのではないか。
「おりつ」
熱の高い夜、千代がかすれた声で呼んだ。
「はい、奥様」
「そんなに怖い顔をしないで」
おりつははっとした。自分では平静を装っていたつもりだったのに、見抜かれていたのだ。
「申し訳ございません」
「謝ることではありません」
千代は苦しげに息をつきながら、かすかに笑った。
「あなたは、わたくしがいなくなることを考えているのでしょう」
その言葉はあまりに直截で、おりつは一瞬返事を失った。
「……考えとうございません」
「でも、考えてしまうのですね」
「……はい」
千代は目を閉じたまま言った。
「人は、失うかもしれないときほど、その先を考えてしまうものです。わたくしもそうでした」
その『そうでした』に、亡き夫の看病の記憶が滲んでいるのを、おりつは感じた。千代は、かつて自分が通った恐れの道を、今度はおりつの顔の中に見ているのだ。
「ですが、おりつ」
「はい」
「もし本当にそうなったとしても、あなたは生きなければなりません」
おりつは顔を伏せた。
「そのようなこと、今は」
「今だから申すのです」
病の熱に浮かされているからではない。千代はきわめてはっきりした眼差しで、おりつを見ていた。
「あなたは、もう誰かを見届けるだけのために生きる人ではありません。文を教え、人の思いを言葉にし、自分の道を少しずつ歩き始めている。わたくしはそれを、途中で止めたくありません」
おりつは唇を噛んだ。涙が出そうになるのを、必死でこらえる。
「私はいつまでも奥様をお慕い申し上げています」
気づけば、あの言葉が口をついていた。
「ええ」
「ですから、奥様のおられぬ先など考えられませぬ」
「慕うことと、止まることは同じではありませんよ」
それは、千代自身が手にした答えの言い換えだった。忘れないことと留まり続けることは同じではない。慕うことと止まることも、きっと同じではない。
おりつは、涙をこぼさぬよう俯いたまま、小さく頷いた。
幸い、数日を境に熱は少しずつ下がり始めた。咳もすぐには治まらなかったが、峠は越えたと医師が言ったとき、おりつはその場で力が抜けそうになった。千代は寝床でまだ青白かったが、目にはもういつもの落ち着きが戻っていた。
「ひどくご心配をおかけしましたね」
回復の兆しが見えた日、千代はそう言った。
「心配など、いくらでもいたします」
「そうでしょうとも」
そのやり取りだけで、おりつは泣きたくなった。だが今度は、恐れからではなく、戻ってきた日常のぬくもりからだった。
千代の病が癒えるまでのあいだ、離れの稽古は一時休みとなった。すると、通っていた者たちから見舞いの品や言伝がいくつも届いた。大根や干し柿、寒気に良いという生姜、そして何より、「お早い快癒を」と書かれた拙い文の数々である。
おりつはそれらを一つひとつ読み上げた。字の形はまだ不揃いで、仮名の綴りも危うい。けれど、そこに宿る心は真っ直ぐだった。千代は寝床の上でそれを聞き、何度も目を閉じた。
「嬉しいですね」
「はい」
「文机を置いてよかった」
そして、しばらくしてから静かに付け加えた。
「これで終わらせたくありませんね」
その言葉を聞いたとき、おりつの胸の奥で、これまでばらばらだったものがひとつに結ばれる気がした。千代の思い。自分の願い。離れに集まる女たちの小さな勇気。それらをもっと確かな形にできないだろうか。
年の瀬が迫るころ、千代はようやく起きていられる時間が増えた。まだ長くは座れないが、文机へ向かうこともできるようになった。ある雪の朝、庭にうっすらと白いものが積もったのを見ながら、千代はおりつへ言った。
「春になったら、父の許しを得て、城下の寺子屋へ少し力を貸してもらえぬか相談しようと思います」
「寺子屋、でございますか」
「ええ。子どもだけでなく、女たちも習える日を設けられればと。屋敷の内だけでは限りがありますから」
「それは……」
おりつは声を失った。
思いもしなかったほど大きな話だった。
「無論、すぐに思い通りにはならぬでしょう。家の事情も、寺の都合もあります。けれど、病床で考えたのです。もし人はいつかいなくなるのなら、残るものは、誰かに渡したものだけかもしれないと」
おりつはゆっくり息を吸った。
「奥様」
「なんでしょう」
「私にできることであれば、何でもいたします」
「そう言うと思いました」
千代は雪明かりの中で微笑んだ。その顔は病み上がりでまだ痩せていたが、かえってその意志の強さが際立って見えた。
年が改まり、冬の寒さが最も深まるころ、千代は父へ長い書状を書いた。そこには自分の近況や病のことだけでなく、奥向きで行ってきた読み書きの稽古のこと、女たちの暮らしにそれがどう役立っているか、そして城下でささやかな学びの場を広げたいという考えが、丁寧に記されていた。
書き終えた後、千代はその文をおりつへ差し出した。
「読んでごらんなさい」
おりつは驚いた。
「私が、でございますか」
「あなたに聞かせたいのです」
おりつは文を受け取り、読み上げた。そこには、若くして夫を失った未亡人の慎ましい嘆きはなかった。
代わりにあったのは、自分が見てきたこと、得たこと、これから残したいことを、静かにしかし確かな熱をもって語る一人の人の声だった。
読み終えるころには、おりつの胸はいっぱいになっていた。
「見事な文にございます」
「そうでしょうか」
「はい。奥様の歩んでこられた季節が、すべてここにございます」
千代は少し黙り、それから言った。
「ならば、あなたも書きなさい」
「……え」
「父への追伸ではありません。あなた自身の文を。これから何をしたいのか、何を願うのか」
「私が……」
おりつはたじろいだ。これまで誰かのための文は書いてきた。およねの母のため、離れへ通う者たちのため、千代の供養のため。だが、自分自身のための文となると、途端に筆が重くなる。
けれど千代は、急かさず待っていた。
「すぐにうまく書けなくてもよろしいのです。あなたの願いは、もうあなたの中にあるのでしょう」
その夜、おりつは一人で文机に向かった。外はしんと冷え、時おり竹が鳴る。灯火の明かりだけが半紙を照らしていた。
筆を取っては置き、置いてはまた取り直す。何を書けばよいのか分からない。だが、分からないままでも、最初の一字を置かなければ何も始まらない。
やがておりつは、ゆっくりと書き始めた。
自分は幼いころから人に従い、言われたことをこなすことで生きてきたこと。
千代に仕える日々の中で、慕うことの深さと、見守ることの切なさを知ったこと。
伊勢の旅で、誰にも言えぬ思いを抱えた奥方の姿を見て、文字が人の心を支えることを知ったこと。夏に言葉を必要とする者たちに出会い、秋に自分にも道があるかもしれぬと知り、冬に、渡したものこそが残るのだと教えられたこと。
そして最後に、こう書いた。
“私は、ことばを習い、ことばを渡し、心の置き場を持てぬ人に、ひとつでも多く紙の白さを差し出したく存じます”
書き終えたとき、おりつはしばらく動けなかった。拙い。飾りもない。けれど、それはたしかに自分の文だった。
翌朝、千代はその文を読み、何も直さなかった。少しだけ目を潤ませ、それから静かに言った。
「よく書けましたね」
「まだまだでございます」
「ええ、まだまだ。だからよいのです。これから続いてゆく文ですから」
冬の終わりが近づくころ、千代の父から返書が届いた。内容は簡潔だったが、思いのほか温かかった。千代の考えを認め、必要ならば寺子屋の主へ口添えもしよう、とある。すぐに大きく道が開けるわけではない。それでも、初めて外へ向かう扉が少しだけ動いたのだった。
その知らせを聞いた離れの女たちは、自分のことのように喜んだ。さよなどは「では私ももっときれいな字を書けるようになります」とはしゃぎ、およねは「母にも知らせます」と目を赤くした。
千代はそんな皆の様子を見て、穏やかに笑っていた。かつて伊勢の林で一通の文を置いた女が、いまは誰かの未来のために文を開こうとしている。その姿を、おりつは眩しいものを見るように見つめた。
二月のある朝、庭の隅の梅がひとつだけ咲いた。
まだ風は冷たい。池の面も朝方は薄く凍る。けれど、梅の蕾は確かに綻んでいた。おりつはそれを見つけると、思わず足を止めた。春はまだ遠い、とかつて思った。だが遠いと思っていた春は、気づかぬうちに冬の奥で支度をしていたのだ。
その日の夕刻、千代はおりつと並んで廊下に座り、庭の梅を眺めた。
「咲きましたね」
「はい」
「去年なら、ただ綺麗だと思って終わったでしょう」
「今は違うのですか」
「ええ。咲くまでの寒さを、少し知りましたから」
おりつはそっと微笑んだ。
「私もでございます」
しばらく沈黙が続いた。けれど、その沈黙は少しも寂しくなかった。
積み重ねてきた季節が、そのまま二人のあいだに座っているような静けさだった。
やがて千代が言った。
「おりつ」
「はい」
「これから先、わたくしはあなたをずっと侍女として縛りつけるつもりはありません」
「奥様」
「もちろん、今すぐ離れろということではありませんよ。ただ、あなたにはあなたの歩む道がある。それをわたくしのそばだけに閉じ込めたくないのです」
おりつは胸が熱くなるのを感じた。
「ですが私は」
「分かっています。あなたは優しいから、慕う心を枷にしてしまうことがある。でもね」
千代は梅を見たまま、静かに続けた。
「私はいつまでも奥様をお慕い申し上げています――あのときのあなたの言葉は、わたくしの支えでした。けれど今は、それを“だから私のそばでしか生きません”という意味にしてほしくないのです。自分の道へ行ってほしいのです」
おりつは、こらえきれず涙をこぼした。悲しいのではない。むしろ、長く胸の中にあったものが、ようやく正しい名を持ったような気がしたからだ。
「はい」
それしか言えなかった。
「はい、奥様。私は、奥様をお慕い申し上げながら、自分の道へ参ります」
千代はその答えに満足したように、ゆっくり頷いた。
空はまだ冬の色をしていたが、梅の香はたしかに流れていた。かすかな、けれど疑いようのない春の匂いだった。
その後、寺子屋の話は少しずつ具体になっていった。まずは月に一度、女たちのための読み書きの日を設けること。おりつはそこで手伝いをすること。千代は表立って教壇に立つわけではないが、必要な紙や筆の用意、人のつながり、家々への配慮を整えること。すべてが一足飛びには進まない。けれど、冬の土の下で根が伸びるように、確かに形になり始めていた。
おりつはもう知っていた。人生は、大きな出来事でのみ変わるのではない。文机を置くこと。誰かの代わりに一通の文を書くこと。怖れながらも自分の望みを口にすること。そういう小さな選びの積み重ねが、いつのまにか季節を変えるのだと。
伊勢の春、屋敷の夏、実りの秋、そして厳しい冬。どれだけ年を取ったかもう分からないほど、夢中になっていた。けれど、四つの季節を越えて、おりつはようやく、自分の生を“誰かの影”としてだけではなく、一本の道として見つめることができるようになっていた。だがその道の始まりには、いつも千代がいる。慕う心は消えない。消えないまま、それを光として先へ進むことができる。それが、二人が季節をかけて見つけた答えだった。
梅の花がもう一輪ひらいた。
おりつはその白さを見つめながら、まだ真新しい筆を両手で包むように持った。これから先、この筆でどれほどの文を書くだろう。どれほどの名を記し、どれほどの胸の内を運ぶだろう。分からない。けれど分からぬままでも、もう恐れすぎずにいられる。
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