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秋灯の下、文は実る

ー/ー



 その年の秋は、例年より早く気配を見せた。

 九月に入ると、朝の空気がすっと軽くなり、井戸から汲み上げる水の冷たさが手に心地よくなった。庭では萩が咲き、夕刻には虫の声がひときわよく通る。
 夏のあいだ簾に遮られていた光が、今度は障子越しにやわらかく部屋へ落ちてきて、畳の目に長い影を作った。

 文机のまわりには、以前より多くの女中たちが集まるようになっていた。帳面に自分の名を書けるようになった者、実家あての短い文をしたためられるようになった者、薬の包みに記された用法を読み取って年寄りの世話に役立てる者。ほんの小さな変化の積み重ねではあったが、それは確かに奥向きの空気を変えていた。

 さよは「秋」の字をずいぶん上手く書けるようになっていたし、およねは母のために自分で文を下書きするようになっていた。おりつは皆の手元を見て回りながら、時折、これが本当にあの伊勢の旅の先に続く道なのだろうかと思うことがあった。あのとき千代が祠に置いてきた一通の文は、たしかに過去へ別れを告げるものだった。だが同時に、今こうして誰かのために言葉を結ぶ未来の始まりでもあったのかもしれない。

 そんな折、千代のもとに一通の書状が届いた。

 差出人は、千代の生家の兄だった。父が病み、家の内向きがいささか立ちゆかぬゆえ、一度戻って相談に乗ってほしいという。表向きには穏やかな文面だったが、行間には、未亡人となって久しい娘をいまのまま義家に置いておくのが本当に良いのか、という親族の思惑も滲んでいた。

 この時代、若くして夫を亡くした女の行く末は、そう多くない。夫の家にとどまり、ひっそりと生涯を送るか、実家へ戻るか、あるいは事情によっては再縁を勧められることもある。千代はこれまで義家で静かに暮らしてきたが、年回りを重ねるにつれ、周囲がそのままでいることを“宙ぶらりん”と感じ始めても不思議ではなかった。

 書状を読んだあと、千代はしばらく何も言わなかった。

 おりつは、文を盆に載せて下がるべきか迷ったが、千代が「そこへ」と指したので、そのまま控えた。沈黙は長かった。
 風に揺れる萩の影が障子に映り、ゆらゆらと形を変えていく。

「おりつ」

「はい」

「もし、わたくしがここを離れることになったら、あなたはどうしますか」

 その問いは、思いがけず胸に突き刺さった。おりつはすぐには答えられなかった。侍女は主に従うものだ。移るなら移る。残るなら残る。理屈ではそうだ。だが理屈とは別のところで、自分の暮らしも心も、千代のそばに根を張ってしまっていることを、おりつは痛いほど知っていた。

「……奥様がお決めになることに従います」

 やっとそう言うと、千代はわずかに首を傾けた。

「従う、だけですか」

「それが務めにございます」

「務めでなく申せば」

 おりつは顔を上げた。千代の目は静かだったが、答えを恐れているようにも見えた。

「……私は、奥様のおそばにいたいです」

 言ってしまってから、自分の言葉の率直さに頬が熱くなった。けれど千代は咎めなかった。むしろその表情が、少しだけほどけた。

「ありがとう」

 それだけ言って、千代は再び文へ目を落とした。

 数日後、千代は生家へ出向くことになった。病気見舞いと相談のため、という名目で、一泊二日の小さな里帰りである。供をするのは当然おりつだった。

 千代の生家は、同じ藩内でもいくぶん格式の高い家で、門をくぐると、どこか空気までがよそゆきだった。
 病床の父は思ったより衰えていたが、意識はしっかりしており、娘の顔を見ると目を細めた。兄嫁や叔母たちは一見親しげだったが、その物言いの端々に、千代の今後を定めたいという考えが透けて見えた。

「千代さんも、いつまでもあちらで一人身では」

「まだお若いのだから、よいご縁があれば」

「女が家に留まってばかりでは、先々心細うございましょう?」

 おりつは控えの間にいて、直接話に加わることはできない。けれど襖越しの声から、その場の気詰まりは十分伝わってきた。誰も露骨に千代を責めているわけではない。ただ『思いやり』の形をとって、千代自身の意思をどこかへ押しやろうとしている。

 そういう息苦しさだった。

 夜、与えられた客間でおりつが寝具を整えていると、千代がぽつりと言った。

「皆、善意なのです」

「はい」

「善意は、断りにくいものですね」

 おりつは手を止めた。あまりに静かな声だったので、かえって胸が詰まる。

「奥様は、どうなさりたいのですか」

 千代は少し驚いたようにこちらを見た。以前なら、おりつはこんなふうに真っ直ぐ問わなかっただろう。だが今は、黙って気持ちを推し量るだけでは足りない気がした。

「私は……」と千代は言いかけ、口を閉ざした。
 窓の外では、竹がかすかに鳴っている。

「昔のわたくしなら、家の申すままがいちばんよいと思ったでしょう。誰かの望みに従えば、それで波風は立ちませんから」

「今は違うのですか」

「違うのかもしれません。けれど、自分で選ぶというのは、思っていたより難しいものですね。選んだ後の責めも、自分で引き受けねばならない」

 おりつは、伊勢の林で文を置いた日の千代を思い出した。誰にも明かせなかった恋を、ようやく自分自身の手で弔った人。あのとき千代は、もう一度自分の人生へ責任を引き寄せたのだ。だからこそ今、他人の善意に押し流されることを、以前ほど簡単にはできなくなっている。

「恐れながら」

「ええ」

「選んだ後の責めを、一人でお受けになる必要はございません」

 千代は目を瞬いた。

「それは、どういうこと」

「奥様がどのようにお決めになっても、私はおそばにおります。皆の口は止められませんし、世の定めも変えられぬでしょう。けれど、奥様だけに背負わせることはいたしません」

 千代はしばらく黙っていた。やがて小さく息を吐き、ほんのわずかに笑った。

「あなたは、いつからそんなに頼もしくなったの」  

「奥様のせいでございます」

 そう答えると、千代は珍しく声を立てずに笑った。
 その笑いはほとんど吐息のようだったが、たしかに温かかった。

 翌日、父との対話ののち、千代は自分の考えを親族に伝えた。

 再縁の話があるなら感謝はするが、自分は今すぐどこかへ移る気はないこと。夫の家での勤めを途中で投げ出したくないこと。何より、いま自分には奥向きで果たしたい役目があること。

「役目」と聞いて、叔母の一人が怪訝そうに訊ねた。

「未亡人の役目とは、慎み深くあることではありませんか」

 千代は穏やかに答えたという。
「慎み深くあることと、何もしないことは、同じではございません」

 その場で全員を納得させたわけではない。
 けれど父だけは、しばらく娘の顔を見てから、静かに「おまえがそう決めたならよい」と言った。
 そのひと言で、表立った圧力はひとまず収まった。

 帰りの駕籠の中、千代はひどく疲れた様子だった。
 おりつが茶を差し出すと、ありがとうと受け取り、小さく口をつけた。

「怖うございました」

 不意に漏れたその言葉に、おりつははっとした。

「はい」

「皆に逆らうつもりはないのです。ただ、自分でも分からぬうちに、また誰かの望みの形へ戻ってしまいそうで……それが怖かった」

 おりつはそっと膝を寄せた。

「でも、奥様はお戻りになりませんでした」

「ええ。あなたがいたからかもしれません」

 その言葉を聞いたとき、おりつは胸の奥に、秋の陽だまりのような温かさが広がるのを感じた。自分は千代に仕えている。けれど同時に、確かに支えてもいるのだと、初めてはっきり分かった。

 秋が深まるにつれ、文机の役目はさらに広がった。

 もともと奥向きの内輪だけで始まった読み書きの稽古だったが、裏方を務める下男の妻や、近習の母親などからも、「名前だけでも書けるようになりたい」「寺への願い文を自分で持ちたい」といった声が届くようになったのである。

 もちろん御殿の規矩を考えれば、無制限に人を招き入れるわけにはいかない。そこで千代は、月に二度だけ、裏門脇の小さな離れを使い、女たちが交代で読み書きを習えるよう取り計らった。表向きは帳付けの手伝いを覚えさせるため、とされたが、誰もがそれだけではないと知っていた。

 おりつは、その場で教える役を引き受けることになった。

 最初の日、おりつはひどく緊張した。相手は奥向きの女中ばかりではない。年長の女もいれば、幼子を背負って来る若妻もいる。自分より人生を知っている相手に、何をどう教えればよいのか、手が冷たくなるほど不安だった。

 だが、いざ始めてみると、不思議と筆は進んだ。

「まずは、ご自分の名を」「次に、家の者の名を」「難しい字は、無理に急がなくてよろしいのです」

 相手が『できない』のではなく『まだ慣れていない』だけだと分かると、言葉も自然に出てきた。誰かの指が震えれば、自分も最初はそうだったと思い出せる。失敗した紙を見て肩を落とす者には、千代がさよに言った言葉をそのまま渡せばよい。

 ――よく見れば、どれも違います。少しずつ違い、少しずつ進んでいるのです。

 その日、帰り際に三十を越えた女が、おりつへ深く頭を下げた。

「自分の名を、自分の手で書けたのは初めてでございます」

「ようございました」

「名というものは、人から呼ばれるばかりで、自分で書く日が来るとは思いませんでした」

 その言葉は、おりつの胸に深く残った。名を書くことは、自分をこの世に置くことなのかもしれない。そう思うと、筆を教えるということが、以前よりもさらに重く、そして尊く感じられた。

 十月の終わり、庭の木々が色づき始めたころ、思いがけない客が訪れた。伊勢の町から来た紙商の娘だという女で、こちらの藩に縁づく商いのついでに、千代へ届けたいものがあると名乗ったのである。

 年の頃は二十を少し過ぎたくらい、質素だが清潔な身なりの娘だった。おりつは応対の場に控えたが、娘は千代の顔を見てすぐに畳へ額づいた。

「突然の無礼をお許しくださいまし。父が亡くなる折、どうしてもこれを、と申しておりました」

 差し出されたのは、小さな紙包みだった。開くと、中には色褪せた一枚の懐紙があった。そこには短い和歌が記されていた。

“待つ人は 来ぬと知りても 伊勢の風
 胸に残りて 秋の夕暮”

 千代の指が、かすかに震えた。おりつには、それが誰の手によるものか、すぐに分かった。あの伊勢の林で弔った、若き日の恋の相手。その人が最後まで持っていたのだろう。

 娘は言った。

「父の兄にあたる者が、亡き兄上の遺した紙を整理していた折、これが出てきたのです。名も宛名もなく、ずっとしまわれておりました。ただ『もしあの方がまだご無事なら、返したい』と父は申して……」

 千代は懐紙から目を離せないまま、長く黙っていた。やがて、深く一礼した。

「わざわざ、ありがとうございます」

 娘が去ったあと、部屋にはひどく静かな時間が流れた。秋の日は短く、障子の向こうで光が少しずつ薄れていく。おりつは声をかけるべきか迷ったが、千代は自ら口を開いた。

「まだ、残っていたのですね」

 その声には驚きも悲しみもあったが、不思議と取り乱した様子はなかった。長い年月を経て、ようやく届いたものを、正面から受け取ろうとしているように見えた。

「奥様」

「ええ」

 千代は懐紙を丁寧に畳み直した。

「昔のわたくしなら、この歌にすがって、また過去へ戻ったかもしれません。けれど今は違います。あの方が確かに生きて、待って、そして風のように去っていったことを、ただ受け取れます」

 おりつは静かに聞いていた。

「人を忘れないことと、その人のもとへ留まり続けることは、同じではないのですね」

 そのひと言に、おりつは胸を衝かれた。千代がようやくそこへ辿り着いたのだと分かったからだ。忘れない。だが、留まり続けない。過去を抱いたまま、今を生きる。その難しさと尊さを、おりつもまた学んでいる途中だった。

「奥様は、前へ進んでおられます」

「おりつ」

「はい」

「あなたも、そうであってほしい」

 その言葉は、思いがけずおりつ自身へ返ってきた。千代を見守り、支えることに夢中で、自分の歩みをまだおまけのように扱っているところがある、と見抜かれた気がした。

 夜になると、虫の声はいよいよ澄み、庭の冷えが障子を通して伝わってきた。灯火のそばで、おりつはその日教えに来た者たちの紙を一枚ずつ整理し、端に名を書き添えていった。拙い字も、ぎこちない線も、それぞれに懸命さが宿っている。見ているだけで胸が温かくなった。

 ふいに、千代が向かいから言った。

「おりつ」

「はい」

「あなたは、いずれこの家の外でも文を教えられるようになるでしょうね」

 おりつは思わず顔を上げた。

「まさか、そのようなことはあり得ません」

「なぜまさかと申すのです」

「私は、ただ奥様に教えていただいたことを……」

「その『ただ』が難しいのです。人は、自分が得たものを、そのまま美しく渡すことが意外とできません。人に教えるということは非常に難しいのです。けれど、あなたにはそれができます」

 言われて、おりつは返す言葉を失った。嬉しさよりも先に、恐れに似たものが来た。そんな大それたことが自分にできるのか。けれど同時に、胸のどこか深いところが静かに震えた。もし本当に、文字を通じて誰かの心を軽くできるなら。それは、自分の人生にも意味を与える道なのではないか。

 秋が終わりへ向かうころ、離れでの稽古の帰りに、さよがぽつりと言った。

「おりつ様は、文字を書いているとき、なんだか嬉しそうです」

「そう見えますか」

「はい。奥様をお慕いしておいでなのは皆知っていますけれど、それとはまた違うお顔です」

 おりつは少し驚き、そして照れた。

「違う顔、でございますか」

「はい。なんと申しますか……自分の道を歩いている人のお顔です」

 その言葉を聞いたとき、おりつは立ち止まりたくなった。自分の道。そんなものを、自分が持ってよいのだろうか。だが秋の空は高く、迷いも躊躇いも、すべて見透かすように澄んでいた。

 その夜、千代の部屋へ灯を運ぶ前に、おりつはひとり文机に向かった。白い紙の上へ、ゆっくりと筆を置く。そして、これまで何度も書いてきた名ではなく、別の言葉を書いた。

 ――ことばの道

 拙いながら、まっすぐな字だった。

 千代はそれを見て、何も笑わず、ただ優しく頷いた。

「よい字です」
 流石あなたです、と加えて千代は言った。

「まだ、形にもなっておりません」

「形はこれから整えばよろしい。大切なのは、そこへ向かいたいと、おまえが初めて自分で書いたことです」

 秋の夜は、春や夏よりも静かだった。だがその静けさは、何かが終わる音ではなく、実りが深まる音のように思えた。

 外では木の葉が一枚、また一枚と落ちてゆく。失われるように見えて、土の下では次の季節の支度が始まっている。人の心も同じなのかもしれない、とおりつは思った。去るものがあり、残るものがあり、そのどちらもが次の季節の糧になる。

 伊勢から持ち帰ったもの、夏に守り抜いたもの、秋に受け取ったもの。そのすべてが、おりつと千代のあいだで、静かに形を成しつつあった。


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 その年の秋は、例年より早く気配を見せた。
 九月に入ると、朝の空気がすっと軽くなり、井戸から汲み上げる水の冷たさが手に心地よくなった。庭では萩が咲き、夕刻には虫の声がひときわよく通る。
 夏のあいだ簾に遮られていた光が、今度は障子越しにやわらかく部屋へ落ちてきて、畳の目に長い影を作った。
 文机のまわりには、以前より多くの女中たちが集まるようになっていた。帳面に自分の名を書けるようになった者、実家あての短い文をしたためられるようになった者、薬の包みに記された用法を読み取って年寄りの世話に役立てる者。ほんの小さな変化の積み重ねではあったが、それは確かに奥向きの空気を変えていた。
 さよは「秋」の字をずいぶん上手く書けるようになっていたし、およねは母のために自分で文を下書きするようになっていた。おりつは皆の手元を見て回りながら、時折、これが本当にあの伊勢の旅の先に続く道なのだろうかと思うことがあった。あのとき千代が祠に置いてきた一通の文は、たしかに過去へ別れを告げるものだった。だが同時に、今こうして誰かのために言葉を結ぶ未来の始まりでもあったのかもしれない。
 そんな折、千代のもとに一通の書状が届いた。
 差出人は、千代の生家の兄だった。父が病み、家の内向きがいささか立ちゆかぬゆえ、一度戻って相談に乗ってほしいという。表向きには穏やかな文面だったが、行間には、未亡人となって久しい娘をいまのまま義家に置いておくのが本当に良いのか、という親族の思惑も滲んでいた。
 この時代、若くして夫を亡くした女の行く末は、そう多くない。夫の家にとどまり、ひっそりと生涯を送るか、実家へ戻るか、あるいは事情によっては再縁を勧められることもある。千代はこれまで義家で静かに暮らしてきたが、年回りを重ねるにつれ、周囲がそのままでいることを“宙ぶらりん”と感じ始めても不思議ではなかった。
 書状を読んだあと、千代はしばらく何も言わなかった。
 おりつは、文を盆に載せて下がるべきか迷ったが、千代が「そこへ」と指したので、そのまま控えた。沈黙は長かった。
 風に揺れる萩の影が障子に映り、ゆらゆらと形を変えていく。
「おりつ」
「はい」
「もし、わたくしがここを離れることになったら、あなたはどうしますか」
 その問いは、思いがけず胸に突き刺さった。おりつはすぐには答えられなかった。侍女は主に従うものだ。移るなら移る。残るなら残る。理屈ではそうだ。だが理屈とは別のところで、自分の暮らしも心も、千代のそばに根を張ってしまっていることを、おりつは痛いほど知っていた。
「……奥様がお決めになることに従います」
 やっとそう言うと、千代はわずかに首を傾けた。
「従う、だけですか」
「それが務めにございます」
「務めでなく申せば」
 おりつは顔を上げた。千代の目は静かだったが、答えを恐れているようにも見えた。
「……私は、奥様のおそばにいたいです」
 言ってしまってから、自分の言葉の率直さに頬が熱くなった。けれど千代は咎めなかった。むしろその表情が、少しだけほどけた。
「ありがとう」
 それだけ言って、千代は再び文へ目を落とした。
 数日後、千代は生家へ出向くことになった。病気見舞いと相談のため、という名目で、一泊二日の小さな里帰りである。供をするのは当然おりつだった。
 千代の生家は、同じ藩内でもいくぶん格式の高い家で、門をくぐると、どこか空気までがよそゆきだった。
 病床の父は思ったより衰えていたが、意識はしっかりしており、娘の顔を見ると目を細めた。兄嫁や叔母たちは一見親しげだったが、その物言いの端々に、千代の今後を定めたいという考えが透けて見えた。
「千代さんも、いつまでもあちらで一人身では」
「まだお若いのだから、よいご縁があれば」
「女が家に留まってばかりでは、先々心細うございましょう?」
 おりつは控えの間にいて、直接話に加わることはできない。けれど襖越しの声から、その場の気詰まりは十分伝わってきた。誰も露骨に千代を責めているわけではない。ただ『思いやり』の形をとって、千代自身の意思をどこかへ押しやろうとしている。
 そういう息苦しさだった。
 夜、与えられた客間でおりつが寝具を整えていると、千代がぽつりと言った。
「皆、善意なのです」
「はい」
「善意は、断りにくいものですね」
 おりつは手を止めた。あまりに静かな声だったので、かえって胸が詰まる。
「奥様は、どうなさりたいのですか」
 千代は少し驚いたようにこちらを見た。以前なら、おりつはこんなふうに真っ直ぐ問わなかっただろう。だが今は、黙って気持ちを推し量るだけでは足りない気がした。
「私は……」と千代は言いかけ、口を閉ざした。
 窓の外では、竹がかすかに鳴っている。
「昔のわたくしなら、家の申すままがいちばんよいと思ったでしょう。誰かの望みに従えば、それで波風は立ちませんから」
「今は違うのですか」
「違うのかもしれません。けれど、自分で選ぶというのは、思っていたより難しいものですね。選んだ後の責めも、自分で引き受けねばならない」
 おりつは、伊勢の林で文を置いた日の千代を思い出した。誰にも明かせなかった恋を、ようやく自分自身の手で弔った人。あのとき千代は、もう一度自分の人生へ責任を引き寄せたのだ。だからこそ今、他人の善意に押し流されることを、以前ほど簡単にはできなくなっている。
「恐れながら」
「ええ」
「選んだ後の責めを、一人でお受けになる必要はございません」
 千代は目を瞬いた。
「それは、どういうこと」
「奥様がどのようにお決めになっても、私はおそばにおります。皆の口は止められませんし、世の定めも変えられぬでしょう。けれど、奥様だけに背負わせることはいたしません」
 千代はしばらく黙っていた。やがて小さく息を吐き、ほんのわずかに笑った。
「あなたは、いつからそんなに頼もしくなったの」  
「奥様のせいでございます」
 そう答えると、千代は珍しく声を立てずに笑った。
 その笑いはほとんど吐息のようだったが、たしかに温かかった。
 翌日、父との対話ののち、千代は自分の考えを親族に伝えた。
 再縁の話があるなら感謝はするが、自分は今すぐどこかへ移る気はないこと。夫の家での勤めを途中で投げ出したくないこと。何より、いま自分には奥向きで果たしたい役目があること。
「役目」と聞いて、叔母の一人が怪訝そうに訊ねた。
「未亡人の役目とは、慎み深くあることではありませんか」
 千代は穏やかに答えたという。
「慎み深くあることと、何もしないことは、同じではございません」
 その場で全員を納得させたわけではない。
 けれど父だけは、しばらく娘の顔を見てから、静かに「おまえがそう決めたならよい」と言った。
 そのひと言で、表立った圧力はひとまず収まった。
 帰りの駕籠の中、千代はひどく疲れた様子だった。
 おりつが茶を差し出すと、ありがとうと受け取り、小さく口をつけた。
「怖うございました」
 不意に漏れたその言葉に、おりつははっとした。
「はい」
「皆に逆らうつもりはないのです。ただ、自分でも分からぬうちに、また誰かの望みの形へ戻ってしまいそうで……それが怖かった」
 おりつはそっと膝を寄せた。
「でも、奥様はお戻りになりませんでした」
「ええ。あなたがいたからかもしれません」
 その言葉を聞いたとき、おりつは胸の奥に、秋の陽だまりのような温かさが広がるのを感じた。自分は千代に仕えている。けれど同時に、確かに支えてもいるのだと、初めてはっきり分かった。
 秋が深まるにつれ、文机の役目はさらに広がった。
 もともと奥向きの内輪だけで始まった読み書きの稽古だったが、裏方を務める下男の妻や、近習の母親などからも、「名前だけでも書けるようになりたい」「寺への願い文を自分で持ちたい」といった声が届くようになったのである。
 もちろん御殿の規矩を考えれば、無制限に人を招き入れるわけにはいかない。そこで千代は、月に二度だけ、裏門脇の小さな離れを使い、女たちが交代で読み書きを習えるよう取り計らった。表向きは帳付けの手伝いを覚えさせるため、とされたが、誰もがそれだけではないと知っていた。
 おりつは、その場で教える役を引き受けることになった。
 最初の日、おりつはひどく緊張した。相手は奥向きの女中ばかりではない。年長の女もいれば、幼子を背負って来る若妻もいる。自分より人生を知っている相手に、何をどう教えればよいのか、手が冷たくなるほど不安だった。
 だが、いざ始めてみると、不思議と筆は進んだ。
「まずは、ご自分の名を」「次に、家の者の名を」「難しい字は、無理に急がなくてよろしいのです」
 相手が『できない』のではなく『まだ慣れていない』だけだと分かると、言葉も自然に出てきた。誰かの指が震えれば、自分も最初はそうだったと思い出せる。失敗した紙を見て肩を落とす者には、千代がさよに言った言葉をそのまま渡せばよい。
 ――よく見れば、どれも違います。少しずつ違い、少しずつ進んでいるのです。
 その日、帰り際に三十を越えた女が、おりつへ深く頭を下げた。
「自分の名を、自分の手で書けたのは初めてでございます」
「ようございました」
「名というものは、人から呼ばれるばかりで、自分で書く日が来るとは思いませんでした」
 その言葉は、おりつの胸に深く残った。名を書くことは、自分をこの世に置くことなのかもしれない。そう思うと、筆を教えるということが、以前よりもさらに重く、そして尊く感じられた。
 十月の終わり、庭の木々が色づき始めたころ、思いがけない客が訪れた。伊勢の町から来た紙商の娘だという女で、こちらの藩に縁づく商いのついでに、千代へ届けたいものがあると名乗ったのである。
 年の頃は二十を少し過ぎたくらい、質素だが清潔な身なりの娘だった。おりつは応対の場に控えたが、娘は千代の顔を見てすぐに畳へ額づいた。
「突然の無礼をお許しくださいまし。父が亡くなる折、どうしてもこれを、と申しておりました」
 差し出されたのは、小さな紙包みだった。開くと、中には色褪せた一枚の懐紙があった。そこには短い和歌が記されていた。
“待つ人は 来ぬと知りても 伊勢の風
 胸に残りて 秋の夕暮”
 千代の指が、かすかに震えた。おりつには、それが誰の手によるものか、すぐに分かった。あの伊勢の林で弔った、若き日の恋の相手。その人が最後まで持っていたのだろう。
 娘は言った。
「父の兄にあたる者が、亡き兄上の遺した紙を整理していた折、これが出てきたのです。名も宛名もなく、ずっとしまわれておりました。ただ『もしあの方がまだご無事なら、返したい』と父は申して……」
 千代は懐紙から目を離せないまま、長く黙っていた。やがて、深く一礼した。
「わざわざ、ありがとうございます」
 娘が去ったあと、部屋にはひどく静かな時間が流れた。秋の日は短く、障子の向こうで光が少しずつ薄れていく。おりつは声をかけるべきか迷ったが、千代は自ら口を開いた。
「まだ、残っていたのですね」
 その声には驚きも悲しみもあったが、不思議と取り乱した様子はなかった。長い年月を経て、ようやく届いたものを、正面から受け取ろうとしているように見えた。
「奥様」
「ええ」
 千代は懐紙を丁寧に畳み直した。
「昔のわたくしなら、この歌にすがって、また過去へ戻ったかもしれません。けれど今は違います。あの方が確かに生きて、待って、そして風のように去っていったことを、ただ受け取れます」
 おりつは静かに聞いていた。
「人を忘れないことと、その人のもとへ留まり続けることは、同じではないのですね」
 そのひと言に、おりつは胸を衝かれた。千代がようやくそこへ辿り着いたのだと分かったからだ。忘れない。だが、留まり続けない。過去を抱いたまま、今を生きる。その難しさと尊さを、おりつもまた学んでいる途中だった。
「奥様は、前へ進んでおられます」
「おりつ」
「はい」
「あなたも、そうであってほしい」
 その言葉は、思いがけずおりつ自身へ返ってきた。千代を見守り、支えることに夢中で、自分の歩みをまだおまけのように扱っているところがある、と見抜かれた気がした。
 夜になると、虫の声はいよいよ澄み、庭の冷えが障子を通して伝わってきた。灯火のそばで、おりつはその日教えに来た者たちの紙を一枚ずつ整理し、端に名を書き添えていった。拙い字も、ぎこちない線も、それぞれに懸命さが宿っている。見ているだけで胸が温かくなった。
 ふいに、千代が向かいから言った。
「おりつ」
「はい」
「あなたは、いずれこの家の外でも文を教えられるようになるでしょうね」
 おりつは思わず顔を上げた。
「まさか、そのようなことはあり得ません」
「なぜまさかと申すのです」
「私は、ただ奥様に教えていただいたことを……」
「その『ただ』が難しいのです。人は、自分が得たものを、そのまま美しく渡すことが意外とできません。人に教えるということは非常に難しいのです。けれど、あなたにはそれができます」
 言われて、おりつは返す言葉を失った。嬉しさよりも先に、恐れに似たものが来た。そんな大それたことが自分にできるのか。けれど同時に、胸のどこか深いところが静かに震えた。もし本当に、文字を通じて誰かの心を軽くできるなら。それは、自分の人生にも意味を与える道なのではないか。
 秋が終わりへ向かうころ、離れでの稽古の帰りに、さよがぽつりと言った。
「おりつ様は、文字を書いているとき、なんだか嬉しそうです」
「そう見えますか」
「はい。奥様をお慕いしておいでなのは皆知っていますけれど、それとはまた違うお顔です」
 おりつは少し驚き、そして照れた。
「違う顔、でございますか」
「はい。なんと申しますか……自分の道を歩いている人のお顔です」
 その言葉を聞いたとき、おりつは立ち止まりたくなった。自分の道。そんなものを、自分が持ってよいのだろうか。だが秋の空は高く、迷いも躊躇いも、すべて見透かすように澄んでいた。
 その夜、千代の部屋へ灯を運ぶ前に、おりつはひとり文机に向かった。白い紙の上へ、ゆっくりと筆を置く。そして、これまで何度も書いてきた名ではなく、別の言葉を書いた。
 ――ことばの道
 拙いながら、まっすぐな字だった。
 千代はそれを見て、何も笑わず、ただ優しく頷いた。
「よい字です」
 流石あなたです、と加えて千代は言った。
「まだ、形にもなっておりません」
「形はこれから整えばよろしい。大切なのは、そこへ向かいたいと、おまえが初めて自分で書いたことです」
 秋の夜は、春や夏よりも静かだった。だがその静けさは、何かが終わる音ではなく、実りが深まる音のように思えた。
 外では木の葉が一枚、また一枚と落ちてゆく。失われるように見えて、土の下では次の季節の支度が始まっている。人の心も同じなのかもしれない、とおりつは思った。去るものがあり、残るものがあり、そのどちらもが次の季節の糧になる。
 伊勢から持ち帰ったもの、夏に守り抜いたもの、秋に受け取ったもの。そのすべてが、おりつと千代のあいだで、静かに形を成しつつあった。