表示設定
表示設定
目次 目次




第二話 人生で最悪の日

ー/ー



「ニーナ!大変だ!大変なんだ!」

 イヴはそう言って、ずかずかとニーナに近付き、彼女の左腕を掴んで半ば無理矢理に玄関に連れて行こうとする。
 彼の血の気の失せたような青ざめた顔色に、ニーナはすぐに村で何かが由々しき事態が起きたことを察した。しかし、何が起きたことかを聞くことよりも先に、彼女は反射的に腕を振り解こうともがいた。

「痛い!イヴ、やめて!痛いから!」

 彼女の悲鳴のような叫びを聞いて、イヴは我に返って手を離し、ニーナに勢いよく何度も頭を下げる。

「ごめん!ニーナ。でも、村が大変なんだ!僕と一緒に逃げよう!」

 まるで恐ろしいものを見たかのような形相で、イヴはニーナを外に連れ出そうとしているのを見て、ニーナの母が家の奥から現れた。
 母は落ち着くように言い聞かせる声で、イヴに語りかける。

「イヴくん、落ち着きなさい。無理に人の腕を引っ張ってはいけないわ。そんなに慌てて何があったの? 教えてもらえるかしら」

 親しくしている幼馴染の母親が淡々と尋ねると、イヴは俯いてぽつりぽつりと、ゆっくり言葉を紡いでいった。

「実は…グナーテ王国…首都のリヒトから……プロイと名乗る…騎士団の『大将軍』と称して武装した騎士と…多分部下の人たちがやってきたんだ……」

 彼は頬に手を当てる。

「右頬に黒い痣のある娘を連れて来いと…村の人たちを人質にとって……ニーナのことだと思って来たけど……」

 彼の声が揺らいでいく。

「ダメだ!あんな怖い人たちの元へニーナを連れては行けないよ!逃げよう!時間がない、早く逃げよう!」

 イヴは話している内にまたニーナに手を差し出した。今度は恐れではなく、彼女を騎士と名乗る者たちから守ろうと躍起になっているように見える。
 
 ニーナと母は武装した人間が複数、アムール村まで来たと聞くと、目を丸くして顔を見合わせた。辺鄙な村に、それも一介の村娘に何の用事があるのか、ニーナは右頬をさすりながら考え込んでいた。
 
 緊迫した場の中、沈黙の時を経て、ニーナが口を開く。

「イヴ、時間が無いんだよね。首都からやって来た騎士様が私を連れて来るように言ってたみたいだけど、理由はどうしてか説明してた?」

 彼女がイヴを見上げて聞いた。

「ううん、何も」

 ニーナに問いかけられたイヴは、先ほどより落ち着いたのか、頭を振って答えた。

「何も言わないから、村の人たちが理由を聞いたんだ。僕もその中にいた。だって、明らかに異様な雰囲気だったから……」

 彼は続ける。

「ただ、『お前たちに話す理由はない』の一点張りで、業を煮やした兵士の一人が村長さんに刃を向けて、『この者の首が落とされたくなければ、痣の娘を連れて来い』と。皆、すぐにニーナのことだって分かった。でも、僕たちグナーテの国民に剣を突きつけるような野蛮な奴らの元へ、ニーナを連れては行けないよ。だから、バレないように急いでここまで来たんだ」

 イヴの語る一言一言に、ニーナは目を見開き、口元を手で覆った。時が止まったような空気が流れる。
 そして、その言葉を受け入れたのか険しい顔をしながら唾を飲み込み、口を開いた。

「イヴ……。その人たちは本当に村の人たちを殺そうとしているの?」

「うん。恐らくニーナが来なかったら、村の誰かが切られると思う。でも、そんなの人間がやっていいことじゃないよ……」

 イヴが言っていることは、にわかに信じ難かった。

「ありがとう、イヴ。でも、私には何が起こっているかさっぱり分からないから、話を聞きに行ってくる」

 そういってニーナは玄関に近付き、振り返って言った。

「行ってきます、お母さん。すぐに帰ってくるから」

 彼女はイヴが止めるのも聞かずに走り出した。
 母は手で顔を押さえて震えていた。

 外は静寂が広がり、道端に人が一人もいなかった。只事ではない村の異変を感じたニーナは足を早めた。

「早く痣のある娘を連れて来ないか!」

 村の中央で痺れを切らした騎士が大声で怒鳴りかける。
 騎士の後ろにはぞろぞろと銀色の鎧兜を身に付けた騎士たちが控えていた。村人たちは威圧感に押し切られそうな勢いであった。
 ニーナは息を切らして村人たちの背中に辿り着く。
 
「連れて来ないなら、村長から……」と、青いマントにグナーテ国騎士団を表す金のエンブレムを付けた騎士団の長らしき人物が、村長に得物を振り下ろさんとしていた。

「お待ちください。村人に危害を加えるのは早計かと存じます」と、騎士団長の側にいる鎧兵が声をかける。

 その兵士の兜からは青い長髪が覗いているのが見えた。

 村長は後ろ手に腕を縛られ、人質に取られている。彼は後頭部に槍斧を突き付けられていた。
 このままニーナが進み出なければ、間違いなく村長は殺されてしまう。ニーナはこの恐ろしい光景に唖然とした。
 しかしすぐに、ニーナ自身と人の命と取引をしようとする騎士団の卑劣なやり方に肩を震わせ、歯軋りしていた。

「いや、ここで時間を食う訳にはいかない。早く娘を出すんだ!」

 これ以上、醜い有様を見せ付けられるのはニーナには耐え難かった。

 ニーナは腹の底から、「待ってください!その武器を下ろしてください!」と叫んだ。

「何者だ?!」

 村長を見下ろしていた騎士団長が顔を上げる。

「あなた方が探している娘は私です!」とニーナはもう一度叫んだ。

 振り向いた村人たちは、絶望しているかのような、安堵したかのような顔をしていた。

「大将軍、あの娘の頬をご覧ください。闇の子の証です」

 大将軍と呼ばれた騎士団長は、ニーナを見て言った。

「闇の子というのは貴女か」

 ニーナは、大将軍を精一杯睨み付ける。

「何を言っているのかよく分かりませんが、頬に痣があるのは村で私だけです。だから、村の人たちを傷付けるのをやめてください……」

 ニーナの声は震えていた。

「村人の無事は約束しよう」と、語りかけたニーナに彼は頷いた。

 それから、「この娘を拘束しろ」と大将軍は指示を出す。
 部下と見られる者たちはニーナの目に布を巻き、両手を縛って連れて行こうとする。
 
 そのままニーナは馬車に乗せられた。予想外の出来事にニーナは愕然とした。
 ニーナは騎士たちと話をすれば、直ぐにでも帰ってもらえると思っていたのだ。
 これでは、まるで罪を犯した人間のように、自分が連れて行かれようとする状況に身を任せるしかない。既に彼女の口から言葉は失われていた。

「待ってください!どうしてニーナを連れて行くんですか!」

 遅れて来たイヴが後ろの方で叫んでいるのが聞こえる。
 ニーナは声の聞こえた方向へ振り返ろうとして、足元のバランスを崩した。

「ニーナ!ニーナ!おかしいよ!待ってよ!」

 騎士たちに取り押さえられても、イヴは呼びかけるのを止めなかった。その声も遠くなっていく。
 ニーナの体の震えはずっと止まることはなかった。

 馬車に乗ってからどれくらい経ったのか。車輪が音を立て、悪路に揺れる。
 ニーナは慣れない感覚に吐き気を覚える。
 目を布で覆われている為、何も見えず、人の声も何も聞こえない為、外の状況を知ることさえ彼女には許されなかった。

 馬車が止まった。騎士たちの声が聞こえて来る。
 どうやら目的地に着いたようだ。
 ニーナは抵抗も出来ず体を抱き上げられて運ばれる。沈黙を以て、ただされるがままでいた。

 目から布が外され、初めて外の景色が見えた。
 そこは牢獄であった。
 暗闇に目が慣れて、鉄格子に隔てられた小部屋がいくつも並んでいるのが見える。
 牢獄を見張る番兵たちが部屋の一つの鍵を開けて、ニーナをそこに押し込んだ。
 振り返る間もなく鍵が冷たい音を立てて閉められる。
 ニーナが両手をついて扉の方を見ると、番兵は既にそこを去っていた。

 ただ、孤独だけがニーナと共にあった。
 ニーナはうずくまり、ただ時が過ぎるのを待った。
 寒さが心を凍らせていく。ニーナは一人前を祝福された時の格好のまま、牢獄に入っていた。

 母やイヴや村の人間はどうしているだろうか。村人を守る約束は果たされるだろうか。村に来た騎士たちの姿、槍斧を村長に振り下ろさんとする姿を思い出す。
 
 村人たちの絶望した顔とどこか安堵したかのような顔が浮かび上がっては消え、あの時、母を連れてイヴと逃げれば良かったと、後悔さえも(よぎ)った。

 目から流れる涙を拭くこともせず、彼女はただ牢の中で横になっていた。

 どれくらいの時間が経ったのだろう。陽の明るさが見えないから時間の感覚も狂いそうな程であった。まるで、一日が一年のように感じられる。
 
 ニーナは目を開けて体を起こすが、変わり映えのしない不気味な風景が写っているだけだ。
 鉄格子を両手で握って、視界の両端に目を凝らす。右側の遠い場所に少し灯りが見えるだけで、それ以外は暗闇が広がっていた。

 逃げ道を探すように、地面の土を掘ってみる。とてもではないが手で掘ることは出来ない。指と爪の間に入った土は暗くて落とせなかった。

 そうして無為な時間だけが過ぎていく。すると、右の方から人の声が短く聞こえた。内容まではよく聞こえないが、足音が近付いてきている。ニーナは牢の隅奥(ぐうおう)に体を寄せて、息を潜めた。

 足音は時々止まって、また進み出す。
 その度にニーナの動悸が激しくなり、灯りが隣の牢の辺りから漏れた時には心臓が口から飛び出そうなほどまで高鳴っていた。

 そして、足音はニーナの部屋の扉の前で止まった。彼女は目を見開いて足音の主であろう人間を見上げた。

 その者は、手に持ったカンテラを掲げ、ニーナを見下ろす。

 白銀の髪に深く碧い目を持った美丈夫の顔が照らし上げられる。

「遅くなった」

 彼は小さくそう呟いた。


スタンプを贈って作者を応援しよう!



みんなのリアクション



おすすめ作品を読み込み中です…



「ニーナ!大変だ!大変なんだ!」
 イヴはそう言って、ずかずかとニーナに近付き、彼女の左腕を掴んで半ば無理矢理に玄関に連れて行こうとする。
 彼の血の気の失せたような青ざめた顔色に、ニーナはすぐに村で何かが由々しき事態が起きたことを察した。しかし、何が起きたことかを聞くことよりも先に、彼女は反射的に腕を振り解こうともがいた。
「痛い!イヴ、やめて!痛いから!」
 彼女の悲鳴のような叫びを聞いて、イヴは我に返って手を離し、ニーナに勢いよく何度も頭を下げる。
「ごめん!ニーナ。でも、村が大変なんだ!僕と一緒に逃げよう!」
 まるで恐ろしいものを見たかのような形相で、イヴはニーナを外に連れ出そうとしているのを見て、ニーナの母が家の奥から現れた。
 母は落ち着くように言い聞かせる声で、イヴに語りかける。
「イヴくん、落ち着きなさい。無理に人の腕を引っ張ってはいけないわ。そんなに慌てて何があったの? 教えてもらえるかしら」
 親しくしている幼馴染の母親が淡々と尋ねると、イヴは俯いてぽつりぽつりと、ゆっくり言葉を紡いでいった。
「実は…グナーテ王国…首都のリヒトから……プロイと名乗る…騎士団の『大将軍』と称して武装した騎士と…多分部下の人たちがやってきたんだ……」
 彼は頬に手を当てる。
「右頬に黒い痣のある娘を連れて来いと…村の人たちを人質にとって……ニーナのことだと思って来たけど……」
 彼の声が揺らいでいく。
「ダメだ!あんな怖い人たちの元へニーナを連れては行けないよ!逃げよう!時間がない、早く逃げよう!」
 イヴは話している内にまたニーナに手を差し出した。今度は恐れではなく、彼女を騎士と名乗る者たちから守ろうと躍起になっているように見える。
 ニーナと母は武装した人間が複数、アムール村まで来たと聞くと、目を丸くして顔を見合わせた。辺鄙な村に、それも一介の村娘に何の用事があるのか、ニーナは右頬をさすりながら考え込んでいた。
 緊迫した場の中、沈黙の時を経て、ニーナが口を開く。
「イヴ、時間が無いんだよね。首都からやって来た騎士様が私を連れて来るように言ってたみたいだけど、理由はどうしてか説明してた?」
 彼女がイヴを見上げて聞いた。
「ううん、何も」
 ニーナに問いかけられたイヴは、先ほどより落ち着いたのか、頭を振って答えた。
「何も言わないから、村の人たちが理由を聞いたんだ。僕もその中にいた。だって、明らかに異様な雰囲気だったから……」
 彼は続ける。
「ただ、『お前たちに話す理由はない』の一点張りで、業を煮やした兵士の一人が村長さんに刃を向けて、『この者の首が落とされたくなければ、痣の娘を連れて来い』と。皆、すぐにニーナのことだって分かった。でも、僕たちグナーテの国民に剣を突きつけるような野蛮な奴らの元へ、ニーナを連れては行けないよ。だから、バレないように急いでここまで来たんだ」
 イヴの語る一言一言に、ニーナは目を見開き、口元を手で覆った。時が止まったような空気が流れる。
 そして、その言葉を受け入れたのか険しい顔をしながら唾を飲み込み、口を開いた。
「イヴ……。その人たちは本当に村の人たちを殺そうとしているの?」
「うん。恐らくニーナが来なかったら、村の誰かが切られると思う。でも、そんなの人間がやっていいことじゃないよ……」
 イヴが言っていることは、にわかに信じ難かった。
「ありがとう、イヴ。でも、私には何が起こっているかさっぱり分からないから、話を聞きに行ってくる」
 そういってニーナは玄関に近付き、振り返って言った。
「行ってきます、お母さん。すぐに帰ってくるから」
 彼女はイヴが止めるのも聞かずに走り出した。
 母は手で顔を押さえて震えていた。
 外は静寂が広がり、道端に人が一人もいなかった。只事ではない村の異変を感じたニーナは足を早めた。
「早く痣のある娘を連れて来ないか!」
 村の中央で痺れを切らした騎士が大声で怒鳴りかける。
 騎士の後ろにはぞろぞろと銀色の鎧兜を身に付けた騎士たちが控えていた。村人たちは威圧感に押し切られそうな勢いであった。
 ニーナは息を切らして村人たちの背中に辿り着く。
「連れて来ないなら、村長から……」と、青いマントにグナーテ国騎士団を表す金のエンブレムを付けた騎士団の長らしき人物が、村長に得物を振り下ろさんとしていた。
「お待ちください。村人に危害を加えるのは早計かと存じます」と、騎士団長の側にいる鎧兵が声をかける。
 その兵士の兜からは青い長髪が覗いているのが見えた。
 村長は後ろ手に腕を縛られ、人質に取られている。彼は後頭部に槍斧を突き付けられていた。
 このままニーナが進み出なければ、間違いなく村長は殺されてしまう。ニーナはこの恐ろしい光景に唖然とした。
 しかしすぐに、ニーナ自身と人の命と取引をしようとする騎士団の卑劣なやり方に肩を震わせ、歯軋りしていた。
「いや、ここで時間を食う訳にはいかない。早く娘を出すんだ!」
 これ以上、醜い有様を見せ付けられるのはニーナには耐え難かった。
 ニーナは腹の底から、「待ってください!その武器を下ろしてください!」と叫んだ。
「何者だ?!」
 村長を見下ろしていた騎士団長が顔を上げる。
「あなた方が探している娘は私です!」とニーナはもう一度叫んだ。
 振り向いた村人たちは、絶望しているかのような、安堵したかのような顔をしていた。
「大将軍、あの娘の頬をご覧ください。闇の子の証です」
 大将軍と呼ばれた騎士団長は、ニーナを見て言った。
「闇の子というのは貴女か」
 ニーナは、大将軍を精一杯睨み付ける。
「何を言っているのかよく分かりませんが、頬に痣があるのは村で私だけです。だから、村の人たちを傷付けるのをやめてください……」
 ニーナの声は震えていた。
「村人の無事は約束しよう」と、語りかけたニーナに彼は頷いた。
 それから、「この娘を拘束しろ」と大将軍は指示を出す。
 部下と見られる者たちはニーナの目に布を巻き、両手を縛って連れて行こうとする。
 そのままニーナは馬車に乗せられた。予想外の出来事にニーナは愕然とした。
 ニーナは騎士たちと話をすれば、直ぐにでも帰ってもらえると思っていたのだ。
 これでは、まるで罪を犯した人間のように、自分が連れて行かれようとする状況に身を任せるしかない。既に彼女の口から言葉は失われていた。
「待ってください!どうしてニーナを連れて行くんですか!」
 遅れて来たイヴが後ろの方で叫んでいるのが聞こえる。
 ニーナは声の聞こえた方向へ振り返ろうとして、足元のバランスを崩した。
「ニーナ!ニーナ!おかしいよ!待ってよ!」
 騎士たちに取り押さえられても、イヴは呼びかけるのを止めなかった。その声も遠くなっていく。
 ニーナの体の震えはずっと止まることはなかった。
 馬車に乗ってからどれくらい経ったのか。車輪が音を立て、悪路に揺れる。
 ニーナは慣れない感覚に吐き気を覚える。
 目を布で覆われている為、何も見えず、人の声も何も聞こえない為、外の状況を知ることさえ彼女には許されなかった。
 馬車が止まった。騎士たちの声が聞こえて来る。
 どうやら目的地に着いたようだ。
 ニーナは抵抗も出来ず体を抱き上げられて運ばれる。沈黙を以て、ただされるがままでいた。
 目から布が外され、初めて外の景色が見えた。
 そこは牢獄であった。
 暗闇に目が慣れて、鉄格子に隔てられた小部屋がいくつも並んでいるのが見える。
 牢獄を見張る番兵たちが部屋の一つの鍵を開けて、ニーナをそこに押し込んだ。
 振り返る間もなく鍵が冷たい音を立てて閉められる。
 ニーナが両手をついて扉の方を見ると、番兵は既にそこを去っていた。
 ただ、孤独だけがニーナと共にあった。
 ニーナはうずくまり、ただ時が過ぎるのを待った。
 寒さが心を凍らせていく。ニーナは一人前を祝福された時の格好のまま、牢獄に入っていた。
 母やイヴや村の人間はどうしているだろうか。村人を守る約束は果たされるだろうか。村に来た騎士たちの姿、槍斧を村長に振り下ろさんとする姿を思い出す。
 村人たちの絶望した顔とどこか安堵したかのような顔が浮かび上がっては消え、あの時、母を連れてイヴと逃げれば良かったと、後悔さえも|過《よぎ》った。
 目から流れる涙を拭くこともせず、彼女はただ牢の中で横になっていた。
 どれくらいの時間が経ったのだろう。陽の明るさが見えないから時間の感覚も狂いそうな程であった。まるで、一日が一年のように感じられる。
 ニーナは目を開けて体を起こすが、変わり映えのしない不気味な風景が写っているだけだ。
 鉄格子を両手で握って、視界の両端に目を凝らす。右側の遠い場所に少し灯りが見えるだけで、それ以外は暗闇が広がっていた。
 逃げ道を探すように、地面の土を掘ってみる。とてもではないが手で掘ることは出来ない。指と爪の間に入った土は暗くて落とせなかった。
 そうして無為な時間だけが過ぎていく。すると、右の方から人の声が短く聞こえた。内容まではよく聞こえないが、足音が近付いてきている。ニーナは牢の|隅奥《ぐうおう》に体を寄せて、息を潜めた。
 足音は時々止まって、また進み出す。
 その度にニーナの動悸が激しくなり、灯りが隣の牢の辺りから漏れた時には心臓が口から飛び出そうなほどまで高鳴っていた。
 そして、足音はニーナの部屋の扉の前で止まった。彼女は目を見開いて足音の主であろう人間を見上げた。
 その者は、手に持ったカンテラを掲げ、ニーナを見下ろす。
 白銀の髪に深く碧い目を持った美丈夫の顔が照らし上げられる。
「遅くなった」
 彼は小さくそう呟いた。