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蒼い熱に焼かれて

ー/ー



今年も夏がやってきた。性懲りも無く。

アスファルトが吐き出す陽炎の向こうで、セミの鳴き声が耳に突き刺さる。空は暴力的なまでに青く、雲は命の限りに肥大している。去年の今頃、僕の隣を歩いていた熱気も、彼女の白いワンピースが風に孕んでいた微かな石鹸の匂いも、この季節は何もかもを塗りつぶして、無邪気に繰り返そうとする。


美大の物置部屋となっているここで、俺は一人佇んでいた。


冷房の効きが悪いこの部屋で、唯一涼しげな顔をしているのは、部屋の中央に鎮座する真っ白なオブジェだけだ。


彼女——蒼が、その短い生涯の最後に遺した卒業制作の習作。


高さは五十センチほど。全体的に有機的な曲線を持ちながら、どこか幾何学的な冷徹さを併せ持っている。石膏で塗り固められたそれは、まるで波打ち際で干からびた巨大な骨のようにも見えるし、あるいは何かの「抜け殻」のようにも見える。


「これ、誕生日に完成させるんだ」


一年前の今頃、蒼はそう言って笑っていた。少しだけペンキのついた指先で、まだ柔らかい石膏の肌を撫でながら。


もうすぐ、彼女の誕生日がやってくる。二十一歳になるはずだった、あの日。


僕は扇風機の首振りに合わせて、湿った空気が肌を撫でるのを感じていた。視界の端で、陽光がオブジェの表面を鋭く撫でていく。


そのあまりに純粋な「白」が、僕の網膜を刺す。


一年前、彼女の誕生日が近づいていたあの数日間。


僕たちは何を話し、何を見ていたか。


意識が、熱に浮かされるように、去年の夏へと沈んでいく。喉の奥が、焦げ付いたアスファルトのように乾いていた。






 


一年前のあの部屋も、今と同じように熱がこもっていた。


窓の外からは絶え間なくセミの声が降り注ぎ、ぬるい空気のなかで石膏の粉が微かに白く舞っていた。


「少し早いけど、誕生日おめでとう」


僕は、用意していた小さな箱を蒼に手渡した。


彼女は「え、いいの?」と目を丸くさせながら、丁寧に包装を解いた。中から現れたのは、深い群青色のシンプルなマグカップだ。


「これ、ただのカップじゃないんだ。ちょっと待って」


僕はキッチンで沸かしたばかりの熱い紅茶を、そのカップに注いだ。熱が磁器を伝わると同時に、深い青は魔法のように消え去り、雪のような純白へと変わっていく。


「わあ……綺麗」


蒼は感嘆の声を漏らし、温まったサーモカラーカップを両手で包み込んだ。


「白くなった。今の私に、うってつけだね」


「今の私? どういうこと?」


僕が問い返すと、彼女はいたずらっぽく笑って、白くなったカップの縁に唇を寄せた。


「内緒。でも、康介くんはやっぱり、私のことがよく分かっているんだね」


「……そうかな」


僕は適当に相槌を打ちながら、彼女の背後に置かれたあのオブジェを見た。


まだ一回り小さく、表面も荒削りだった頃の「骨」。


「卒業制作にしては、少し早すぎないか? まだ夏休みが始まったばかりなのに」


「早くないよ」


蒼は、白から青へと戻りつつあるカップの底を見つめながら、静かに言った。


「形があるものは、いつ壊れるか分からないでしょう? 私という形が、一番私らしいままでいられるうちに、完成させておきたいの」


彼女の言葉は、熱に浮かされた独り言のようにも聞こえた。僕はこの時、胸の奥に小さな、けれど消えない刺が刺さるのを感じていた。


蒼の才能は、僕のそれを遥かに追い越していた。彼女が作るものは、どれも生命力に溢れ、それでいてどこか「ここではないどこか」へ消えてしまいそうな危うさがある。


僕がどれだけ手を伸ばしても、彼女は光の速さで変質していく。


この美しく、純粋な「白」のままで、彼女を止めておけたら。完成した瞬間に、その命ごと冷凍保存してしまえたら。


僕は、彼女の細い首筋に流れる一筋の汗を見つめていた。それは、夏の光を反射して、残酷なほどに輝いていた。


「康介くん?」


蒼が僕の顔を覗き込む。僕は微笑みを作り、彼女の髪に触れた。指先には、彼女の体温が。そして、決して僕のものにはならない、彼女だけの時間が脈打っていた。






 


不意に、部屋の扉が叩かれた。


現実に引き戻された僕の肌を、容赦ない熱気がなぞる。


「康介、入るぞ」


入ってきたのは、大学の友人たちだった。彼らは一年前と変わらず、日焼けした肌にTシャツを張り付かせ、夏休みの喧騒をそのまま連れてきたような顔をしていた。


「教授に許可をもらってきた。しばらくの間、大学の展示広場に蒼のオブジェも出さないかってさ。遺作展ってわけじゃないけど、あいつの作品、あそこに置くのが一番似合うだろ?」


友人たちの一人が、部屋の中央にある「白」を指差した。僕は何も言えず、ただ頷いた。


彼らは手慣れた様子で、オブジェを運び出し始める。厚い梱包材に包まれてもなお、その独特な曲線は隠しきれない存在感を放っていた。


「よいしょ……これ、見た目より重いな」


友人たちの荒い息遣いと共に、蒼の遺作が部屋の外へと運び出されていく。僕はその後を追うようにして、アトリエを出た。


外は、眩暈がするほどの光に満ちていた。広場へと続く道。蒼が、しきりに「あそこに出したい」と言っていた場所だ。


「あそこの広場、この大学で一番日当たりが良いから」


一年前の夏、彼女は目を輝かせてそう語っていた。まるでその広場が、自分を浄化してくれる聖域であるかのように。


「日当たりが良すぎたら作品が劣化しないか?」


「私のはいいの」


 そんな会話をしたのを思い出す。


友人たちがオブジェを台座に据える。広場のアスファルトは熱を孕み、周囲の空気はゆらゆらと歪んでいる。蒼がいなくなった後、僕の手元で守り続けてきた彼女の欠片が、今、彼女が焦がれた陽光の下に晒された。


「……康介、大丈夫か? 顔色が悪いぞ。熱中症か?」


友人が心配そうに僕の肩を叩く。


僕は「ああ、暑いからな」と短く答えた。


視界の端で、広場の時計の針が正午に近づいていく。彼女が望んだ通り、太陽が真上に昇る。すべてを照らし出し、隠し場所を奪い去るための光が、刻一刻と強まっていく。


僕は、逃げ場のない光の下で、白く輝くオブジェを見つめていた。彼女がそこに何を込めたのか、そして僕がそこに何を閉じ込めたのか。






 


一年前の、誕生日の数日後のことだ。


アトリエの空気は、熱した石膏の匂いと、さらに鼻を突く鋭い化学薬品の匂いで満たされていた。


蒼は、オブジェに向き合っていた。石膏ですでに白く固まっているはずのその表面に、彼女は刷毛でさらに「白いペンキ」を塗り重ねていた。


「何をしているんだ?」


僕の問いに、彼女は振り返りもせず、規則正しいリズムで刷毛を動かした。


「見ればわかるでしょう。色を塗っているのよ」


「でも、それはもう十分に白いじゃないか」


「……康介くんには、まだこれが見えていないんだね。これはただの白じゃない。特別な白なの。熱を帯びた時にだけ、本当の姿を見せるための、秘密のドレス」


刷毛が石膏の肌をなぞる、湿った音だけが響く。


蒼の背中は、窓から差し込む強烈な日差しに縁取られ、今にも溶けて消えてしまいそうに輝いていた。


その才能も、僕には理解できない感性も、そして僕の隣からいつか去っていくであろうその未来も。


すべてを、この白さの中に閉じ込めてしまいたかった。彼女の時間が変質し、僕の手の届かない場所へ行く前に、完成させてしまいたかった。


僕が彼女の細い首に手をかけた時、蒼は驚くほどに無抵抗だった。まるで、最初からこうなることを知っていたかのように、あるいはこの瞬間こそが彼女の求めていた「完成」であったかのように。
指先に伝わる脈動が、夏の熱に溶けて消えていくのを、僕はただ静かに見つめていた。


警察の調べは、拍子抜けするほどあっさりと終わった。目撃者もなければ、争った形跡もない。彼女が誕生日の直前から周囲に「もうすぐ完成する」「形があるうちに遺しておきたい」と、死を予感させるような言葉を漏らしていたことも、僕には有利に働いた。


他殺であることは間違いないが、なぜか自殺説まで出たのだ。


殺したのではない。僕は彼女を、永遠に定着させたのだ。この白いオブジェという、冷徹な抜け殻の中に。


あの日以来、僕は一度もこの作品を外に出さなかった。アトリエの影の中で、僕だけが知る「白」として守り続けてきた。だが今、友人たちの手によって、それは白日の下に晒されている。


広場の時計が、正午を告げる鐘を鳴らした。垂直に降り注ぐ太陽の光が、オブジェの表面を舐めるように熱していく。


その時。 眩しいほどの純白だったオブジェの表面に、異変が起きた。まるで皮膚が剥がれ落ちるように、あるいはあの日注いだ紅茶のカップのように。


じわり、と。


白い膜の奥から、禍々しい「別の色」が浮かび上がってきた。


時計の針が正午を刻み、太陽光が垂直に降り注ぐ。オブジェの石膏表面が、触れれば火傷しそうなほどの熱を帯びていく。


あの日、蒼が塗り重ねていた「特別な白」。熱が限界に達した瞬間、純白の皮膚が溶けるように退き、下から禍々しい「別の色」がじわりと浮かび上がってきた。


サーモカラーペンキ。一定の温度を超えると、下層の色を透過させる化学の魔法。あの日、紅茶を注いだマグカップと同じトリックが、この巨大な遺作にも仕掛けられていたのだ。


現れたのは、黒い色素だった。それは、途中まで描かれた幾何学模様。彼女の作風らしい、精緻で冷徹な線。だが、その模様の途切れた、オブジェの下方に、カタカナで四文字、はっきりと刻まれていた。


「コウスケ」


僕の名前だ。


広場が、ざわめき出した。


「……康介? 康介って、あいつの彼氏だよな」


「何これ? メッセージ?」


「蒼、康介のこと本当に好きだったんだな。見えないところに名前書いてさ……お遊びにしては凝ってるけど」


友人たちの声が、遠く聞こえる。彼らは、これを蒼の「愛の悪戯」だと解釈しようとしている。亡くなった恋人の名前を、自分の作品の奥底に秘める。それは、悲劇的な純愛の証として、彼らの目に映っていた。


だが、僕は知っている。模様は、途中で終わっている。その先に、この名前が書かれている。あの日、僕が彼女の首に手をかけた時。彼女は、まだ柔らかい石膏の肌に、ペンキを塗り重ねていた。


これは、死の間際に、最後の力を振り絞って刷毛を動かした、ダイイングメッセージではないのか。


愛ゆえの定着などではない。彼女は、僕という「犯人」の名を、この作品と共に白日の下に晒すために、一年という時間をかけて、夏の熱を待っていたのだ。


「私という形が、一番私らしいままでいられるうちに、完成させておきたいの」


あの日、彼女が言った言葉が、熱風と共に脳裏を掠める。彼女は、完成させていたのだ。僕を、このオブジェの中に閉じ込めることで。


陽光は、容赦なく「コウスケ」の文字を熱し続ける。逃げ場のない光の下で、白く輝くはずだった遺作は、僕の名を刻んだ黒い呪いへと変貌を遂げていた。周囲のざわめきが、セミの声と混じり合い、巨大な耳鳴りとなって僕を包み込む。


喉の奥が、焦げ付いたアスファルトのように乾いていた。


今年も夏がやってきた。性懲りもなく。





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今年も夏がやってきた。性懲りも無く。
アスファルトが吐き出す陽炎の向こうで、セミの鳴き声が耳に突き刺さる。空は暴力的なまでに青く、雲は命の限りに肥大している。去年の今頃、僕の隣を歩いていた熱気も、彼女の白いワンピースが風に孕んでいた微かな石鹸の匂いも、この季節は何もかもを塗りつぶして、無邪気に繰り返そうとする。
美大の物置部屋となっているここで、俺は一人佇んでいた。
冷房の効きが悪いこの部屋で、唯一涼しげな顔をしているのは、部屋の中央に鎮座する真っ白なオブジェだけだ。
彼女——蒼が、その短い生涯の最後に遺した卒業制作の習作。
高さは五十センチほど。全体的に有機的な曲線を持ちながら、どこか幾何学的な冷徹さを併せ持っている。石膏で塗り固められたそれは、まるで波打ち際で干からびた巨大な骨のようにも見えるし、あるいは何かの「抜け殻」のようにも見える。
「これ、誕生日に完成させるんだ」
一年前の今頃、蒼はそう言って笑っていた。少しだけペンキのついた指先で、まだ柔らかい石膏の肌を撫でながら。
もうすぐ、彼女の誕生日がやってくる。二十一歳になるはずだった、あの日。
僕は扇風機の首振りに合わせて、湿った空気が肌を撫でるのを感じていた。視界の端で、陽光がオブジェの表面を鋭く撫でていく。
そのあまりに純粋な「白」が、僕の網膜を刺す。
一年前、彼女の誕生日が近づいていたあの数日間。
僕たちは何を話し、何を見ていたか。
意識が、熱に浮かされるように、去年の夏へと沈んでいく。喉の奥が、焦げ付いたアスファルトのように乾いていた。
一年前のあの部屋も、今と同じように熱がこもっていた。
窓の外からは絶え間なくセミの声が降り注ぎ、ぬるい空気のなかで石膏の粉が微かに白く舞っていた。
「少し早いけど、誕生日おめでとう」
僕は、用意していた小さな箱を蒼に手渡した。
彼女は「え、いいの?」と目を丸くさせながら、丁寧に包装を解いた。中から現れたのは、深い群青色のシンプルなマグカップだ。
「これ、ただのカップじゃないんだ。ちょっと待って」
僕はキッチンで沸かしたばかりの熱い紅茶を、そのカップに注いだ。熱が磁器を伝わると同時に、深い青は魔法のように消え去り、雪のような純白へと変わっていく。
「わあ……綺麗」
蒼は感嘆の声を漏らし、温まったサーモカラーカップを両手で包み込んだ。
「白くなった。今の私に、うってつけだね」
「今の私? どういうこと?」
僕が問い返すと、彼女はいたずらっぽく笑って、白くなったカップの縁に唇を寄せた。
「内緒。でも、康介くんはやっぱり、私のことがよく分かっているんだね」
「……そうかな」
僕は適当に相槌を打ちながら、彼女の背後に置かれたあのオブジェを見た。
まだ一回り小さく、表面も荒削りだった頃の「骨」。
「卒業制作にしては、少し早すぎないか? まだ夏休みが始まったばかりなのに」
「早くないよ」
蒼は、白から青へと戻りつつあるカップの底を見つめながら、静かに言った。
「形があるものは、いつ壊れるか分からないでしょう? 私という形が、一番私らしいままでいられるうちに、完成させておきたいの」
彼女の言葉は、熱に浮かされた独り言のようにも聞こえた。僕はこの時、胸の奥に小さな、けれど消えない刺が刺さるのを感じていた。
蒼の才能は、僕のそれを遥かに追い越していた。彼女が作るものは、どれも生命力に溢れ、それでいてどこか「ここではないどこか」へ消えてしまいそうな危うさがある。
僕がどれだけ手を伸ばしても、彼女は光の速さで変質していく。
この美しく、純粋な「白」のままで、彼女を止めておけたら。完成した瞬間に、その命ごと冷凍保存してしまえたら。
僕は、彼女の細い首筋に流れる一筋の汗を見つめていた。それは、夏の光を反射して、残酷なほどに輝いていた。
「康介くん?」
蒼が僕の顔を覗き込む。僕は微笑みを作り、彼女の髪に触れた。指先には、彼女の体温が。そして、決して僕のものにはならない、彼女だけの時間が脈打っていた。
不意に、部屋の扉が叩かれた。
現実に引き戻された僕の肌を、容赦ない熱気がなぞる。
「康介、入るぞ」
入ってきたのは、大学の友人たちだった。彼らは一年前と変わらず、日焼けした肌にTシャツを張り付かせ、夏休みの喧騒をそのまま連れてきたような顔をしていた。
「教授に許可をもらってきた。しばらくの間、大学の展示広場に蒼のオブジェも出さないかってさ。遺作展ってわけじゃないけど、あいつの作品、あそこに置くのが一番似合うだろ?」
友人たちの一人が、部屋の中央にある「白」を指差した。僕は何も言えず、ただ頷いた。
彼らは手慣れた様子で、オブジェを運び出し始める。厚い梱包材に包まれてもなお、その独特な曲線は隠しきれない存在感を放っていた。
「よいしょ……これ、見た目より重いな」
友人たちの荒い息遣いと共に、蒼の遺作が部屋の外へと運び出されていく。僕はその後を追うようにして、アトリエを出た。
外は、眩暈がするほどの光に満ちていた。広場へと続く道。蒼が、しきりに「あそこに出したい」と言っていた場所だ。
「あそこの広場、この大学で一番日当たりが良いから」
一年前の夏、彼女は目を輝かせてそう語っていた。まるでその広場が、自分を浄化してくれる聖域であるかのように。
「日当たりが良すぎたら作品が劣化しないか?」
「私のはいいの」
 そんな会話をしたのを思い出す。
友人たちがオブジェを台座に据える。広場のアスファルトは熱を孕み、周囲の空気はゆらゆらと歪んでいる。蒼がいなくなった後、僕の手元で守り続けてきた彼女の欠片が、今、彼女が焦がれた陽光の下に晒された。
「……康介、大丈夫か? 顔色が悪いぞ。熱中症か?」
友人が心配そうに僕の肩を叩く。
僕は「ああ、暑いからな」と短く答えた。
視界の端で、広場の時計の針が正午に近づいていく。彼女が望んだ通り、太陽が真上に昇る。すべてを照らし出し、隠し場所を奪い去るための光が、刻一刻と強まっていく。
僕は、逃げ場のない光の下で、白く輝くオブジェを見つめていた。彼女がそこに何を込めたのか、そして僕がそこに何を閉じ込めたのか。
一年前の、誕生日の数日後のことだ。
アトリエの空気は、熱した石膏の匂いと、さらに鼻を突く鋭い化学薬品の匂いで満たされていた。
蒼は、オブジェに向き合っていた。石膏ですでに白く固まっているはずのその表面に、彼女は刷毛でさらに「白いペンキ」を塗り重ねていた。
「何をしているんだ?」
僕の問いに、彼女は振り返りもせず、規則正しいリズムで刷毛を動かした。
「見ればわかるでしょう。色を塗っているのよ」
「でも、それはもう十分に白いじゃないか」
「……康介くんには、まだこれが見えていないんだね。これはただの白じゃない。特別な白なの。熱を帯びた時にだけ、本当の姿を見せるための、秘密のドレス」
刷毛が石膏の肌をなぞる、湿った音だけが響く。
蒼の背中は、窓から差し込む強烈な日差しに縁取られ、今にも溶けて消えてしまいそうに輝いていた。
その才能も、僕には理解できない感性も、そして僕の隣からいつか去っていくであろうその未来も。
すべてを、この白さの中に閉じ込めてしまいたかった。彼女の時間が変質し、僕の手の届かない場所へ行く前に、完成させてしまいたかった。
僕が彼女の細い首に手をかけた時、蒼は驚くほどに無抵抗だった。まるで、最初からこうなることを知っていたかのように、あるいはこの瞬間こそが彼女の求めていた「完成」であったかのように。
指先に伝わる脈動が、夏の熱に溶けて消えていくのを、僕はただ静かに見つめていた。
警察の調べは、拍子抜けするほどあっさりと終わった。目撃者もなければ、争った形跡もない。彼女が誕生日の直前から周囲に「もうすぐ完成する」「形があるうちに遺しておきたい」と、死を予感させるような言葉を漏らしていたことも、僕には有利に働いた。
他殺であることは間違いないが、なぜか自殺説まで出たのだ。
殺したのではない。僕は彼女を、永遠に定着させたのだ。この白いオブジェという、冷徹な抜け殻の中に。
あの日以来、僕は一度もこの作品を外に出さなかった。アトリエの影の中で、僕だけが知る「白」として守り続けてきた。だが今、友人たちの手によって、それは白日の下に晒されている。
広場の時計が、正午を告げる鐘を鳴らした。垂直に降り注ぐ太陽の光が、オブジェの表面を舐めるように熱していく。
その時。 眩しいほどの純白だったオブジェの表面に、異変が起きた。まるで皮膚が剥がれ落ちるように、あるいはあの日注いだ紅茶のカップのように。
じわり、と。
白い膜の奥から、禍々しい「別の色」が浮かび上がってきた。
時計の針が正午を刻み、太陽光が垂直に降り注ぐ。オブジェの石膏表面が、触れれば火傷しそうなほどの熱を帯びていく。
あの日、蒼が塗り重ねていた「特別な白」。熱が限界に達した瞬間、純白の皮膚が溶けるように退き、下から禍々しい「別の色」がじわりと浮かび上がってきた。
サーモカラーペンキ。一定の温度を超えると、下層の色を透過させる化学の魔法。あの日、紅茶を注いだマグカップと同じトリックが、この巨大な遺作にも仕掛けられていたのだ。
現れたのは、黒い色素だった。それは、途中まで描かれた幾何学模様。彼女の作風らしい、精緻で冷徹な線。だが、その模様の途切れた、オブジェの下方に、カタカナで四文字、はっきりと刻まれていた。
「コウスケ」
僕の名前だ。
広場が、ざわめき出した。
「……康介? 康介って、あいつの彼氏だよな」
「何これ? メッセージ?」
「蒼、康介のこと本当に好きだったんだな。見えないところに名前書いてさ……お遊びにしては凝ってるけど」
友人たちの声が、遠く聞こえる。彼らは、これを蒼の「愛の悪戯」だと解釈しようとしている。亡くなった恋人の名前を、自分の作品の奥底に秘める。それは、悲劇的な純愛の証として、彼らの目に映っていた。
だが、僕は知っている。模様は、途中で終わっている。その先に、この名前が書かれている。あの日、僕が彼女の首に手をかけた時。彼女は、まだ柔らかい石膏の肌に、ペンキを塗り重ねていた。
これは、死の間際に、最後の力を振り絞って刷毛を動かした、ダイイングメッセージではないのか。
愛ゆえの定着などではない。彼女は、僕という「犯人」の名を、この作品と共に白日の下に晒すために、一年という時間をかけて、夏の熱を待っていたのだ。
「私という形が、一番私らしいままでいられるうちに、完成させておきたいの」
あの日、彼女が言った言葉が、熱風と共に脳裏を掠める。彼女は、完成させていたのだ。僕を、このオブジェの中に閉じ込めることで。
陽光は、容赦なく「コウスケ」の文字を熱し続ける。逃げ場のない光の下で、白く輝くはずだった遺作は、僕の名を刻んだ黒い呪いへと変貌を遂げていた。周囲のざわめきが、セミの声と混じり合い、巨大な耳鳴りとなって僕を包み込む。
喉の奥が、焦げ付いたアスファルトのように乾いていた。
今年も夏がやってきた。性懲りもなく。