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14話 私が保育士を目指した理由(2)

ー/ー



「すみません、単なる世間話です。それでは、お疲れ様でした」 またぼんやりとしてしまった私が顔を上げると、目の前は十字路。ここで小林先生は左に、私は駅前に家があるから真っ直ぐに歩いていく。


「あ、お疲れ様です……」
私の消えそうな声に、ニコッと穏やかに笑いかけてくれた小林先生は小さく手を振って正面を向いて歩いて行く。


一人で歩くと夕暮れ時の風はいつの間にか冷たくなり、先ほどまでの暖かさはない。
夕日に背向けて歩くこと三分、見えてきたのは二階建てのアパート。共用階段を登るとあちこちに錆が見え、経年劣化していないかと不安を抱きながら登っていくと、次は電車が頻りに通り過ぎていき、振動で揺れて不安はより増していく。
そんな階段を登り切ると玄関ドアは二つあり、手前側のドアを慣れた手付きで開けようとする。


部屋の窓より漏れる蛍光灯の光。クルクルと回る換気扇の音。
私は一人ではない。だけど。


伸ばした手を引っ込め玄関ドアに背を向けると、より濃く茜色に染まった空は全体に広がり、遠くに見える無数の建物に隠れるように夕日はその姿を小さくしていく。


家に帰りたくないな……。
日暮れの時間になると周囲はどんどんと暗くなり、私の心まで影を落とす。
いつから、そう思うようになったんだっけ?
家族のことで泣く母に、不登校の弟。それに。


『あかりは「良い子」だから』
その言葉を聞く度に、私は酸欠を起こすのではないかと思うぐらいに息苦しかった。


『私は、その言葉が嫌いです。結局それは優しい子をその言葉で縛り付けて言いなりにさせ、「周りにとって都合の良い子」にしただけです』


『……佐伯先生は、どうしてこのお仕事を?』
色々な言葉が脳内で何度も何度も繰り返され、私に答えを求めてくる。
私は子供が好きだったわけじゃない。
保育士になりたいなんて、考えたこともなかった。
だけど、私は。


気付けば私は古い共用階段を駆け降り、走っていた。さっきまで歩いていた道を、より暗くなっていた道を。
今じゃないと言えない。そんな気持ちで。


「小林先生!」
「佐伯先生?」
血相を変えて走って来た私に表情一つ変えない小林先生は、私の息遣いが戻るのをただ待っていてくれる。
家も知らない先生を追いかけるなんて無謀。そう思いながら先程別れた道を辿っていったら、思いのほか近くを歩いていて見つけることが出来た。


「どうしました?」
その問いに、私は言葉を詰まらせてしまう。
言いたいことはたくさんある。聞いて欲しいことたくさんある。
だけど、この気持ちをどのように言葉にしたら良いのか分からなくて。何から話していいのか分からなくて。
こんなこと、前に指導係として関わっていただけの私に言われても困るだけだと分かっていて。


だから私は、また言葉が出てこない。


「……一つ、詰まらない小言を言わせてください」
何も口にしない私を見かねて、また助け船を出してくれる。私はそれに、何度助けられてきたのだろうか。


「はい」
小林先生が、何かを伝えようとしてくれている。だけど察しが悪い私には、それが何なのか皆目検討もつかない。
昔からこんな性格で、周りをイラつかせてきた。


それぐらい自分で考えてよ。
普通、それぐらい分かるし。
あんたと話すとイライラする。
「良い子」と言われる反面、鈍臭く要領の悪い私が相手の思う通りに行動出来なかった時に放たれる言葉だった。
だから私は、余計に良い子をなろうとして……。


「佐伯先生」
「はい」
「佐伯先生はきっと何か志しを持って、困惑する親子の力になりたいと思ったはずです。今、それは出来ていますか?」
揺るぎない瞳を真っ直ぐに向けてくる姿に、私は目を逸らしてしまう。
今、一番問われたくなかったこと。
だって私は、「支援をしなければならないもう一人」から背向けてしまったのだから。
その理由は分かっている。
自分の意見をぶつけることが怖いから。
周りが表情を変えるのが怖いから。
否定されることが怖いから。
物事を変えることが怖いから。


だけどこのまま、事なかれ主義で支援を進めていたら、私は何の為に療育園の保育士になったのか分からなくなる。
あの思いも、なくなってしまう。
自分を余計に卑下して、前に進めなくなってしまう。
だから。


「小林先生……。もう一度、カンファレンスを開くことは出来ないでしょうか?」


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「すみません、単なる世間話です。それでは、お疲れ様でした」 またぼんやりとしてしまった私が顔を上げると、目の前は十字路。ここで小林先生は左に、私は駅前に家があるから真っ直ぐに歩いていく。
「あ、お疲れ様です……」
私の消えそうな声に、ニコッと穏やかに笑いかけてくれた小林先生は小さく手を振って正面を向いて歩いて行く。
一人で歩くと夕暮れ時の風はいつの間にか冷たくなり、先ほどまでの暖かさはない。
夕日に背向けて歩くこと三分、見えてきたのは二階建てのアパート。共用階段を登るとあちこちに錆が見え、経年劣化していないかと不安を抱きながら登っていくと、次は電車が頻りに通り過ぎていき、振動で揺れて不安はより増していく。
そんな階段を登り切ると玄関ドアは二つあり、手前側のドアを慣れた手付きで開けようとする。
部屋の窓より漏れる蛍光灯の光。クルクルと回る換気扇の音。
私は一人ではない。だけど。
伸ばした手を引っ込め玄関ドアに背を向けると、より濃く茜色に染まった空は全体に広がり、遠くに見える無数の建物に隠れるように夕日はその姿を小さくしていく。
家に帰りたくないな……。
日暮れの時間になると周囲はどんどんと暗くなり、私の心まで影を落とす。
いつから、そう思うようになったんだっけ?
家族のことで泣く母に、不登校の弟。それに。
『あかりは「良い子」だから』
その言葉を聞く度に、私は酸欠を起こすのではないかと思うぐらいに息苦しかった。
『私は、その言葉が嫌いです。結局それは優しい子をその言葉で縛り付けて言いなりにさせ、「周りにとって都合の良い子」にしただけです』
『……佐伯先生は、どうしてこのお仕事を?』
色々な言葉が脳内で何度も何度も繰り返され、私に答えを求めてくる。
私は子供が好きだったわけじゃない。
保育士になりたいなんて、考えたこともなかった。
だけど、私は。
気付けば私は古い共用階段を駆け降り、走っていた。さっきまで歩いていた道を、より暗くなっていた道を。
今じゃないと言えない。そんな気持ちで。
「小林先生!」
「佐伯先生?」
血相を変えて走って来た私に表情一つ変えない小林先生は、私の息遣いが戻るのをただ待っていてくれる。
家も知らない先生を追いかけるなんて無謀。そう思いながら先程別れた道を辿っていったら、思いのほか近くを歩いていて見つけることが出来た。
「どうしました?」
その問いに、私は言葉を詰まらせてしまう。
言いたいことはたくさんある。聞いて欲しいことたくさんある。
だけど、この気持ちをどのように言葉にしたら良いのか分からなくて。何から話していいのか分からなくて。
こんなこと、前に指導係として関わっていただけの私に言われても困るだけだと分かっていて。
だから私は、また言葉が出てこない。
「……一つ、詰まらない小言を言わせてください」
何も口にしない私を見かねて、また助け船を出してくれる。私はそれに、何度助けられてきたのだろうか。
「はい」
小林先生が、何かを伝えようとしてくれている。だけど察しが悪い私には、それが何なのか皆目検討もつかない。
昔からこんな性格で、周りをイラつかせてきた。
それぐらい自分で考えてよ。
普通、それぐらい分かるし。
あんたと話すとイライラする。
「良い子」と言われる反面、鈍臭く要領の悪い私が相手の思う通りに行動出来なかった時に放たれる言葉だった。
だから私は、余計に良い子をなろうとして……。
「佐伯先生」
「はい」
「佐伯先生はきっと何か志しを持って、困惑する親子の力になりたいと思ったはずです。今、それは出来ていますか?」
揺るぎない瞳を真っ直ぐに向けてくる姿に、私は目を逸らしてしまう。
今、一番問われたくなかったこと。
だって私は、「支援をしなければならないもう一人」から背向けてしまったのだから。
その理由は分かっている。
自分の意見をぶつけることが怖いから。
周りが表情を変えるのが怖いから。
否定されることが怖いから。
物事を変えることが怖いから。
だけどこのまま、事なかれ主義で支援を進めていたら、私は何の為に療育園の保育士になったのか分からなくなる。
あの思いも、なくなってしまう。
自分を余計に卑下して、前に進めなくなってしまう。
だから。
「小林先生……。もう一度、カンファレンスを開くことは出来ないでしょうか?」