第2話 誰に相談?

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 千葉県全体でそんな状況なら、自分がその巨大な数字の一部に過ぎないとわかった。しかし、同時に「私みたいな人が、この街にたくさん溢れているんだ」という事実に、美代子は現実の重みで息が詰まった。

 保健所の女性はさらに続けた。

「誰か信頼できる大人に相談するのも大事かもしれません。それから、付け加えておきますが、梅毒は治療して完治した後でも陽性反応が残ることがあります。もちろん、それは『梅毒の既往歴(過去にかかったことがあるか)』を調べる特定の検査を受ければ、という話です。それ以外で検査結果に出ることはありませんから、安心して下さい」

 美代子は膝に顔を埋め、嗚咽を漏らしていたが、ふと顔を上げた。涙で濡れた目で女性を見つめる。治療しても陽性が残るという言葉と、梅毒の急増が頭に引っかかり、新たな不安が湧き上がった。

(ずっと陽性なら……一生バレる危険があるの?一生、ビクビクして過ごすの?)そう思うと、目の前が暗くなった。

 彼女は震える声で、意を決して尋ねた。「あの……治療って、匿名で受けられるんですか?病院に行っても名前とか出さなくていいんですか?」

 女性は優しく頷きながら答えた。「うん、匿名での治療は少し難しいところがあるのね。病院やクリニックだと、基本的には保険証を使うか自費になるから、名前を登録する必要が出てくることが多いわ。でも、性感染症を専門に扱うクリニックなら、プライバシーに配慮して匿名性を保つ工夫をしてくれるところもあるの。例えば、船橋駅近くの『〇〇診療所ふなばし』みたいな場所なら、相談すれば柔軟に対応してくれるかもしれない。ただ、完全に匿名っていうのは難しい場合もあるから、事前に電話で確認するのが安心ね」

 美代子は目を丸くして、慌てて言った。「保険証……使ったら親にバレますよね?保険って使えるんですか?お金もあんまりなくて……」

 女性は穏やかに説明した。「保険証を使えば、梅毒の治療は健康保険が適用されるわ。抗生物質の注射や飲み薬が主な治療で、保険を使えば1回数千円くらいで済むことが多いの。ただ、保険証を使うと、数ヶ月後に親御さんの元へ届く『医療費のお知らせ』の明細を見れば、何か治療を受けたことは分かるかもしれない。でもね、そこに『梅毒』と具体的に書かれるわけじゃないから、気づかれる可能性は低いと思うわ。もしどうしても心配なら自費で払う方法もあるの。自費だと初診や検査、お薬代を合わせて1回1万5千円から2万円くらいかかることもあるけれど、クリニックによっては分割払いや相談に乗ってくれるところもあるよ」

 美代子は唇を噛み、涙を拭いながら呟いた。

「自費なら……バイト代を貯めて何とかするしかないですよね。でも、病院で名前を出すのが怖くて……。陽性がずっと残るなら、将来、結婚する時とかにバレるかもしれないじゃないですか……」

 女性は優しく手を差し伸べ、柔らかい声で言った。

「その気持ち、すごく分かるわ。確かに抗体は残るけれど、それは治療が終わった証拠でしかないから、将来誰かに責められるようなものじゃないよ。病院でもプライバシーは守られるし、私からの提案だけど、治療は絶対に必要だから、まず信頼できるクリニックを探して電話で聞いてみたらどうかな?『保険証なしで治療したい』って相談すれば、親に知られず進められる方法を一緒に考えてくれるはず。私たち保健所でも、治療先を紹介できるから、一人で抱え込まないでね」

 そう言って、女性は美代子に治療先リストを印刷したA4用紙一枚を渡した。美代子はそれを、どこか気持ち悪そうに、汚れたものを見るような手つきで、指先だけで受け取った。

 美代子は目を伏せ、震える肩を抑えながら小さく頷いた。すると女性は一呼吸置いて、静かに付け加えた。

「それとね、私の担当範囲外だから聞きません、どう感染したのかは問いませんが……あなたが無治療のまま性行為をすれば、相手に二次感染するということを留意してください。それからもう一つ。感染してからすぐだと検査ですり抜ける『ウインドウピリオド(空白期間)』というのがあるの。もし、最近も心当たりがあるなら、その相手は『検査では陰性でも、実は感染している』可能性がある。以前の性行為の相手を知っているなら、彼か彼女かわかりませんが、相手にも検査を勧めてみてほしいんです。治療すればあなたも周りも守れるから、その点は考えてみてね」

 美代子はその言葉に凍りついた。頭の中で、複数のパパ活相手の顔が浮かび、胸が締め付けられた。

(私が……誰かにうつす?もう、うつしちゃったかもしれないの?)

 彼女は目を大きく見開き、新たな罪悪感が心を刺した。千葉県での梅毒急増と自分の状況が重なり、「私もその数字を増やしてるのかも」と震えた。涙が止まらず、膝に顔を埋めて嗚咽を漏らす。

 保健所の小さな部屋に彼女のすすり泣きが響き、女性は静かにティッシュを差し出し、肩にそっと手を置いた。匿名での治療や保険の壁、陽性の痕跡、そして二次感染への責任感が、17歳の少女をじわじわと追い詰めていた。

 保健所を出た後、美代子はバス停のベンチに座り、ぼんやりと空を見上げた。頭の中はぐちゃぐちゃで、誰かに話したい衝動と、誰にも知られたくない恐怖がせめぎ合っていた。

 彼女にはこんなことを相談できる友達などいなかった。学校では陽キャのグループに入れてもらっていたが、それは上っ面の付き合いに過ぎなかった。笑顔で取り繕うだけで、本音を打ち明けたことなんて一度もない。「こんな話、誰にすればいいんだろう……」

 ふと、頭に浮かんだのは「あ!カブトガニ先生!」だった。

 生物の教師で、カブトガニが大好きな美咲先生。生徒たちからはその愛称で呼ばれ、ちょっと変わり者だけど優しいと評判だった。美代子は授業で彼女の話を聞くたび、どこか安心感を覚えていた。

(彼女だったら……まとめて解決してくれるかも?)いやいや、と彼女は首を振った。(信用できそうって言っても、教師だし。美咲先生の人の良さに付け込んで、迷惑かけるだけじゃない?)

 頭の中で自問自答が続く。美咲先生なら親身になって聞いてくれるかもしれない。でも、もし学校に報告されたら?パパ活のことがバレたら?

 想像するだけで息が苦しくなる。それでも、一人で抱え込むよりはマシかもしれない。保健所の女性が言った「信頼できる大人に相談する」という言葉が、頭の片隅に残っていた。

(美咲先生なら……?)

 美代子は迷いに迷ったが、意を決してスマホを取り出した。美咲先生の個人の連絡先は知らないが、学校の職員室に電話すればつながるはずだ。震える指で番号を押す前に、彼女は大きく深呼吸した。「もう、後戻りできない……」美咲に相談することに決めた。

 バスに揺られながら、美代子は財布の中を確認した。貯金は3万2千円しかない。もうパパ活はできない。梅毒と分かった今、誰かを傷つけるリスクを負う気にはなれなかった。治療費のことを考えると、胸が締め付けられる。

(保険なら1回数千円で済むけど、親にバレる……。自費なら検査やお薬代で数万円かかることもあるって。3万2千円じゃ、完治するまで通い続けられないよ。足りなくなったら、どうしよう?)

 職員室に電話をかけると、事務員が「崎山先生なら、まだ学校にいるよ」と教えてくれた。美代子は震える声で「二年B組の伊達美代子です……先生に会いたいんです」と告げてアポを取った。

 午後に学校へ向かった。放課後遅い校舎は静まり返り、生物準備室のドアをノックする手が冷たかった。

「入っていいよっちゃ」明るい声が返り、崎山美咲が顔を出した。

 ときたま出身地の長崎弁が出ることがあったが、最近は、瀬戸大翔先生と何かあったらしく(なんでも方言を話す女性が好き、とか彼女に言ったらしい)、タガが外れたのか、いつも方言で話す。同じ出身の長尾遥香先生や、福岡出身の福永彩花先生三人が集まって話すと九州弁が飛び交う。そんな彼女たちは生徒にかなり人気があった。おまけに、美人、美少女、可愛いというカテゴリーなので、男子生徒の熱が上がっている。

 美咲は、眼鏡をかけた24歳の女性で、ショートカットにピアスが揺れ、机にはカブトガニの模型が置かれている。

 そのピアスは職員室では問題になったらしい。教頭、校長にさんざん説教されたが、美咲は頑としてピアスを外さなかった。教頭が間に入って「校長、生物の偏差値がグンと上がったじゃないですか?崎山先生も学校の行事やPTA、教育委員会の前では外してくれますよ」ととりなした。美咲も「まあ、たまには外します」と妥協して、それから黙認になった。

 そんな美咲が、不安に震える美代子を見て、少しだけ眼鏡の縁を上げた。

「どがんしたと?そんな顔して。座らんね」


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 千葉県全体でそんな状況なら、自分がその巨大な数字の一部に過ぎないとわかった。しかし、同時に「私みたいな人が、この街にたくさん溢れているんだ」という事実に、美代子は現実の重みで息が詰まった。
 保健所の女性はさらに続けた。
「誰か信頼できる大人に相談するのも大事かもしれません。それから、付け加えておきますが、梅毒は治療して完治した後でも陽性反応が残ることがあります。もちろん、それは『梅毒の既往歴(過去にかかったことがあるか)』を調べる特定の検査を受ければ、という話です。それ以外で検査結果に出ることはありませんから、安心して下さい」
 美代子は膝に顔を埋め、嗚咽を漏らしていたが、ふと顔を上げた。涙で濡れた目で女性を見つめる。治療しても陽性が残るという言葉と、梅毒の急増が頭に引っかかり、新たな不安が湧き上がった。
(ずっと陽性なら……一生バレる危険があるの?一生、ビクビクして過ごすの?)そう思うと、目の前が暗くなった。
 彼女は震える声で、意を決して尋ねた。「あの……治療って、匿名で受けられるんですか?病院に行っても名前とか出さなくていいんですか?」
 女性は優しく頷きながら答えた。「うん、匿名での治療は少し難しいところがあるのね。病院やクリニックだと、基本的には保険証を使うか自費になるから、名前を登録する必要が出てくることが多いわ。でも、性感染症を専門に扱うクリニックなら、プライバシーに配慮して匿名性を保つ工夫をしてくれるところもあるの。例えば、船橋駅近くの『〇〇診療所ふなばし』みたいな場所なら、相談すれば柔軟に対応してくれるかもしれない。ただ、完全に匿名っていうのは難しい場合もあるから、事前に電話で確認するのが安心ね」
 美代子は目を丸くして、慌てて言った。「保険証……使ったら親にバレますよね?保険って使えるんですか?お金もあんまりなくて……」
 女性は穏やかに説明した。「保険証を使えば、梅毒の治療は健康保険が適用されるわ。抗生物質の注射や飲み薬が主な治療で、保険を使えば1回数千円くらいで済むことが多いの。ただ、保険証を使うと、数ヶ月後に親御さんの元へ届く『医療費のお知らせ』の明細を見れば、何か治療を受けたことは分かるかもしれない。でもね、そこに『梅毒』と具体的に書かれるわけじゃないから、気づかれる可能性は低いと思うわ。もしどうしても心配なら自費で払う方法もあるの。自費だと初診や検査、お薬代を合わせて1回1万5千円から2万円くらいかかることもあるけれど、クリニックによっては分割払いや相談に乗ってくれるところもあるよ」
 美代子は唇を噛み、涙を拭いながら呟いた。
「自費なら……バイト代を貯めて何とかするしかないですよね。でも、病院で名前を出すのが怖くて……。陽性がずっと残るなら、将来、結婚する時とかにバレるかもしれないじゃないですか……」
 女性は優しく手を差し伸べ、柔らかい声で言った。
「その気持ち、すごく分かるわ。確かに抗体は残るけれど、それは治療が終わった証拠でしかないから、将来誰かに責められるようなものじゃないよ。病院でもプライバシーは守られるし、私からの提案だけど、治療は絶対に必要だから、まず信頼できるクリニックを探して電話で聞いてみたらどうかな?『保険証なしで治療したい』って相談すれば、親に知られず進められる方法を一緒に考えてくれるはず。私たち保健所でも、治療先を紹介できるから、一人で抱え込まないでね」
 そう言って、女性は美代子に治療先リストを印刷したA4用紙一枚を渡した。美代子はそれを、どこか気持ち悪そうに、汚れたものを見るような手つきで、指先だけで受け取った。
 美代子は目を伏せ、震える肩を抑えながら小さく頷いた。すると女性は一呼吸置いて、静かに付け加えた。
「それとね、私の担当範囲外だから聞きません、どう感染したのかは問いませんが……あなたが無治療のまま性行為をすれば、相手に二次感染するということを留意してください。それからもう一つ。感染してからすぐだと検査ですり抜ける『ウインドウピリオド(空白期間)』というのがあるの。もし、最近も心当たりがあるなら、その相手は『検査では陰性でも、実は感染している』可能性がある。以前の性行為の相手を知っているなら、彼か彼女かわかりませんが、相手にも検査を勧めてみてほしいんです。治療すればあなたも周りも守れるから、その点は考えてみてね」
 美代子はその言葉に凍りついた。頭の中で、複数のパパ活相手の顔が浮かび、胸が締め付けられた。
(私が……誰かにうつす?もう、うつしちゃったかもしれないの?)
 彼女は目を大きく見開き、新たな罪悪感が心を刺した。千葉県での梅毒急増と自分の状況が重なり、「私もその数字を増やしてるのかも」と震えた。涙が止まらず、膝に顔を埋めて嗚咽を漏らす。
 保健所の小さな部屋に彼女のすすり泣きが響き、女性は静かにティッシュを差し出し、肩にそっと手を置いた。匿名での治療や保険の壁、陽性の痕跡、そして二次感染への責任感が、17歳の少女をじわじわと追い詰めていた。
 保健所を出た後、美代子はバス停のベンチに座り、ぼんやりと空を見上げた。頭の中はぐちゃぐちゃで、誰かに話したい衝動と、誰にも知られたくない恐怖がせめぎ合っていた。
 彼女にはこんなことを相談できる友達などいなかった。学校では陽キャのグループに入れてもらっていたが、それは上っ面の付き合いに過ぎなかった。笑顔で取り繕うだけで、本音を打ち明けたことなんて一度もない。「こんな話、誰にすればいいんだろう……」
 ふと、頭に浮かんだのは「あ!カブトガニ先生!」だった。
 生物の教師で、カブトガニが大好きな美咲先生。生徒たちからはその愛称で呼ばれ、ちょっと変わり者だけど優しいと評判だった。美代子は授業で彼女の話を聞くたび、どこか安心感を覚えていた。
(彼女だったら……まとめて解決してくれるかも?)いやいや、と彼女は首を振った。(信用できそうって言っても、教師だし。美咲先生の人の良さに付け込んで、迷惑かけるだけじゃない?)
 頭の中で自問自答が続く。美咲先生なら親身になって聞いてくれるかもしれない。でも、もし学校に報告されたら?パパ活のことがバレたら?
 想像するだけで息が苦しくなる。それでも、一人で抱え込むよりはマシかもしれない。保健所の女性が言った「信頼できる大人に相談する」という言葉が、頭の片隅に残っていた。
(美咲先生なら……?)
 美代子は迷いに迷ったが、意を決してスマホを取り出した。美咲先生の個人の連絡先は知らないが、学校の職員室に電話すればつながるはずだ。震える指で番号を押す前に、彼女は大きく深呼吸した。「もう、後戻りできない……」美咲に相談することに決めた。
 バスに揺られながら、美代子は財布の中を確認した。貯金は3万2千円しかない。もうパパ活はできない。梅毒と分かった今、誰かを傷つけるリスクを負う気にはなれなかった。治療費のことを考えると、胸が締め付けられる。
(保険なら1回数千円で済むけど、親にバレる……。自費なら検査やお薬代で数万円かかることもあるって。3万2千円じゃ、完治するまで通い続けられないよ。足りなくなったら、どうしよう?)
 職員室に電話をかけると、事務員が「崎山先生なら、まだ学校にいるよ」と教えてくれた。美代子は震える声で「二年B組の伊達美代子です……先生に会いたいんです」と告げてアポを取った。
 午後に学校へ向かった。放課後遅い校舎は静まり返り、生物準備室のドアをノックする手が冷たかった。
「入っていいよっちゃ」明るい声が返り、崎山美咲が顔を出した。
 ときたま出身地の長崎弁が出ることがあったが、最近は、瀬戸大翔先生と何かあったらしく(なんでも方言を話す女性が好き、とか彼女に言ったらしい)、タガが外れたのか、いつも方言で話す。同じ出身の長尾遥香先生や、福岡出身の福永彩花先生三人が集まって話すと九州弁が飛び交う。そんな彼女たちは生徒にかなり人気があった。おまけに、美人、美少女、可愛いというカテゴリーなので、男子生徒の熱が上がっている。
 美咲は、眼鏡をかけた24歳の女性で、ショートカットにピアスが揺れ、机にはカブトガニの模型が置かれている。
 そのピアスは職員室では問題になったらしい。教頭、校長にさんざん説教されたが、美咲は頑としてピアスを外さなかった。教頭が間に入って「校長、生物の偏差値がグンと上がったじゃないですか?崎山先生も学校の行事やPTA、教育委員会の前では外してくれますよ」ととりなした。美咲も「まあ、たまには外します」と妥協して、それから黙認になった。
 そんな美咲が、不安に震える美代子を見て、少しだけ眼鏡の縁を上げた。
「どがんしたと?そんな顔して。座らんね」