第1話 初期症状
ー/ー 伊達美代子は、最近、太ももの内側に赤い発疹が広がっていることに気づいた。
最初は「汗疹かな」と軽く考えていた。部活で汗をかいたわけでもないのに、おかしいなとは思ったけれど、まさかそれが自分の人生を脅かす烙印だなんて想像もしなかった。しかし、日に日に消えないその跡に、得体の知れない不安が胸の奥で黒く渦巻き始めた。
彼女には、決定的な心当たりがあったのだ。
自室の鏡の前でスカートを捲り上げるたび、心臓が物理的に握り潰されるような鈍い痛みが走る。
誰にも言えない。言えるはずがない。
夜遅く、家族が寝静まったのを確認してからベッドでスマホを手に取った。指先が小刻みに震え、フリック入力がいつものように上手くいかない。何度も打ち間違えながら検索バーに入力したのは「発疹 性病」の四文字。
画面に映し出された画像検索の結果に、美代子は息を呑んだ。「梅毒」――その検索結果に並ぶ赤いバラ疹の写真は、今、自分の白い肌を侵食しているものと残酷なほど酷似していた。
心臓がドクン、ドクンと耳元で不快な音を立てて鳴り響き、全身から急速に血の気が引いていく。
「まさか、私が……?嘘でしょ……?」
美代子は目を固く閉じ、スマホを放り出して布団を頭までかぶり、現実を拒絶した。
彼女は数ヶ月前から「パパ活」を始めていた。
最初は、ただのお小遣い欲しさだった。友だちが持っているブランドの財布やコスメが欲しかっただけ。でも、繰り返される退屈な学校生活への反抗心もあったし、「若くて可愛い」と大人に必要とされる感覚が、いつの間にか空っぽな自己肯定感を満たす燃料になっていた。相手はいつも優しく、紳士的で、危険なんてニュースの中だけの話だと思っていた。
でも今、彼女の頭を埋め尽くすのは、自己肯定感など跡形もなく吹き飛ばすほどの後悔と恐怖だ。
「もしこれが本当なら……誰にも言えない。親にも、学校にも……バレたら人生終わる」
夜が明けるまで一睡もできず、枕に顔を埋めて声を殺して嗚咽を漏らした。
翌日、学校の授業中も上の空だった。
黒板の文字は意味のない記号の羅列に見え、先生の声は水の中にいるように遠く響いた。ノートにペンを走らせるふりをしながら、頭の中では「どうすればいいか」のシミュレーションだけが回っていた。休み時間に響く友だちの無邪気な笑い声が、自分だけを断絶した別の世界の出来事のように感じられ、吐き気すら覚えた。
昼休み、逃げ込むようにトイレの個室にこもり、再びスマホを開く。AIチャットに「性病 検査 匿名」と打ち込むと、船橋市保健所やセルフ検査キットの情報が返ってきた。
「匿名なら……バレないよね?」
すぐに保健所に行く勇気は出なかった。待合室で知り合いに会ったら?入るところを誰かに見られたら?
そう考えると胸が締め付けられ、過呼吸になりそうになる。結局、「自宅でできる検査キット」が、今の彼女が縋れる唯一の蜘蛛の糸だった。
放課後、人目を避けるように船橋駅前のローソンに立ち寄った。マスクを顎まで下げないよう細心の注意を払い、財布の中のバイト代とパパ活で得た汚れたようにも感じるお金で、Amazonギフト券を4,800円分購入した。クレジットカードを使えば親に履歴を見られる可能性がある。現金で買えるギフト券だけが頼りだった。
スマホでAmazonを開き、梅毒検査キットをカートに入れ、コンビニ受け取りを選択して注文ボタンを押す。指の震えが止まらなかった。
三日後、同じローソンで店員に目を合わせず小包を受け取った。家に帰ると、母親が夕飯の支度をしている隙を突いて自室に駆け込み、ドアを二重にロックする。
キットの説明書を手に持つ指は、氷のように冷たかった。採血用のランセット(針)を指先に当てる瞬間、涙が溢れそうになったが、「知らないままでいる方が怖い」と自分に言い聞かせてボタンを押した。チクリとした痛みと共に滲み出た小さな血の滴りを容器に落とす。封をしてポストに投函するまでの間、彼女の神経は張り詰めたピアノ線のようにギリギリだった。
数日後、スマホに届いたメールを開く手が止まらないほど震えた。
「梅毒抗体陽性」
無機質なフォントで記されたその文字が、網膜に焼き付いた。美代子はスマホを床に落とし、その場に膝から崩れ落ちて蹲った。
「間違いだよ……きっとそうだよ。キットなんて簡易的なものだし、正確じゃないよね?」
頭の中は否定と、縋るような希望でぐちゃぐちゃだった。ネットで必死に検索すると「偽陽性」の可能性があるという記事が見つかり、ほんの少しだけ理性が戻ってきた。
「もう一度、ちゃんと検査しよう。保健所なら……確実だよね?」
彼女は船橋市保健所のサイトで予約を入れた。「匿名・無料」の文字を何度も、何度も確認した。もし本当に陽性ならどうしよう、という恐怖はあったが、このまま放置して体中が発疹だらけになることの方が恐ろしかった。
12月の期末試験も近づいた平日。美代子は学校を早退し、船橋市保健所へ向かった。
JR船橋駅からバスに乗り、「保健所入口」で降りる。深く被ったキャップとマスクで顔を隠し、まるで犯罪者のように周囲を警戒しながら建物に入った。
受付で「予約した者です」と蚊の鳴くような声で予約番号だけを告げると、番号札を渡され待合室へ通された。そこには彼女と同じように俯き、スマホを弄りながら誰とも目を合わせようとしない人々がちらほらいる。ここの空気は、学校の教室とは成分が違う気がした。
美代子は膝の上でスカートの裾を握りしめ、心の中で祈るように呟いた。
「お願い、陰性であって……何かの間違いであって……」
採血はあっという間に終わった。結果が出るまでの待ち時間、彼女の頭は最悪のシナリオで埋め尽くされた。
「もし陽性なら、学校に連絡が行く?親に通知が届く?パパ活のことまで全部バレたら、私はもう生きていけない」
30分後、番号が呼ばれた。
個室に入ると、白衣を着た40代くらいの女性が椅子に座って待っていた。机の上には、一枚の紙が置かれている。女性は穏やかな、しかし同情を含んだ声で話し始めた。
「こんにちは、結果をお伝えしますね。検査の結果、梅毒の抗体が陽性でした。今の数値から見ても、これは治療が必要な状況です」
宣告された瞬間、美代子の時が止まった。目を逸らし、震える声で絞り出すように言った。
「……キットでも陽性だったんですけど……間違いじゃないんですか?偽陽性ってこともありますよね?もう一回、検査できないですか?」
女性は静かに首を振り、落ち着いた口調で事実を告げた。「こちらの検査は精度が高いので、間違いの可能性はほぼありません。もちろん、納得できなければ病院で精密検査もできます。ただ、治療は早めに始めた方がいいですよ。放っておくと進行して、脳や心臓にまで影響が出る病気ですから」
美代子の脳裏に、いつかネットで見た、鼻が欠け落ちた昔の遊女の絵がフラッシュバックした。涙がボロボロと溢れ、声が詰まる。
「……私、どうしたらいいか分からないんです。誰にも言いたくない……親にも、学校にもバレたら終わりで……」
女性は優しく、しかし医療従事者としての毅然とした口調で続けた。
「気持ちは痛いほど分かります。でもね、大切なことを伝えますね。この病気は『感染症法』という法律で、5類感染症に指定されています。医師が診断したら、保健所に報告する義務があるんです」
美代子は弾かれたように顔を上げ、涙に濡れた顔で叫びそうになった。「報告義務」という言葉が、鋭利な刃物のように聞こえたからだ。
「記録に残るって……誰かにバレるってことですよね?私、まだ17歳で……こんなことになるなんて……」
「落ち着いて聞いてくださいね」女性は美代子の目を真っ直ぐに見つめ、ゆっくりと言葉を紡いだ。「確かに記録はされます。でもそれは、国が感染症の動向を把握するためのデータであって、あなたの名前や住所が公表されたり、学校や親御さんに連絡がいったりするものではありません。そこは厳重に守られています。ただし、この保健所内でのカルテには記録が残りますし、治療のために病院に行けば、そこでもカルテは作られます。それは避けられません」
公にはならない。けれど、自分が「梅毒患者」であるという事実は、公的機関のデータとして、そして病院の記録として、確実にこの世に刻まれる。その事実は消えない。
女性は一呼吸置き、少し真剣な顔つきでデスクの上の資料に視線を落とした。
「それとね、千葉県での梅毒の患者数は、正直、深刻な状況なんです。国立感染症研究所のデータだと、2023年には過去最多の約1,200件を超え、2024年も444件と高水準が続き、2025年に入っても443件(速報値)とほぼ同水準で推移しています。特にあなたのような若い世代での増加が顕著に見られるんです。あなた一人ではないですが、このまま放っておくと、さらに広がる可能性が高いことを知っておいてほしいんです」
美代子は涙が止まり、呆然とした。自分がその「急増するグラフの一部」になったことが信じられなかった。
「そんなに……増えてるんですか……?」
女性は頷き、そして静かに、核心を突く質問を投げかけた。「どこで感染したか、心当たりはある?」
その言葉が、トリガーだった。
美代子の脳内で、蓋をしていた記憶が一気に溢れ出した。消毒液の匂いが、あの日の安いホテルのシャンプーの匂いと混ざり合う。
あれは数週間前のこと。
同級生の佐藤美穂に教えてもらったとおりに、スマホで裏垢を作って、『#P活船橋』って呟いたら、すぐにDMが届いたんだ。通知音が鳴った時の、あの高揚感。 画面には『初回イチゴ(1万5千円)で茶飯(お茶や食事だけ)どう?』という文字が踊っていた。
船橋駅のカフェで会ったおじさんは、ブランド物の時計をしていて、優しそうに見えた。『諭吉(1万円)2枚で定期(月契約)は?』って提案されて、私は自分が特別な価値ある人間に思えた。
最初は警戒して『大人(性的関係)はNG』って言った。でもおじさんは困った顔一つせず、『じゃあ、プチ(挿入なしの行為)ならイチゴでいいよ』って笑って許してくれた。
あの時、緑(LINE)を交換して、何回か会って、お小遣いをもらって。『太P(高額払うパパ)見つけた!』って浮かれてた。学校の誰よりもリッチで、大人な世界を知ってる自分が誇らしかった。私、バカみたい……。
保健所の人が言うデータの中には、あのおじさんも入っているんだろうか?
安全日だからって油断して、流れでうっかりナマでされちゃった時、うつったのかな?それとも、その後会った別の人が?
さらに最悪な想像が頭をよぎる。その後、私が誰かにうつしたのかな?
私の体の中で、菌が増殖している。見えない何かが、私を蝕んでいく。美代子は保健所の椅子の上で、自分の身体が自分のものでなくなっていくような、底知れぬ恐怖に震え続けた。
あああ、どうしよう! どうしよう! どうしよう!
最初は「汗疹かな」と軽く考えていた。部活で汗をかいたわけでもないのに、おかしいなとは思ったけれど、まさかそれが自分の人生を脅かす烙印だなんて想像もしなかった。しかし、日に日に消えないその跡に、得体の知れない不安が胸の奥で黒く渦巻き始めた。
彼女には、決定的な心当たりがあったのだ。
自室の鏡の前でスカートを捲り上げるたび、心臓が物理的に握り潰されるような鈍い痛みが走る。
誰にも言えない。言えるはずがない。
夜遅く、家族が寝静まったのを確認してからベッドでスマホを手に取った。指先が小刻みに震え、フリック入力がいつものように上手くいかない。何度も打ち間違えながら検索バーに入力したのは「発疹 性病」の四文字。
画面に映し出された画像検索の結果に、美代子は息を呑んだ。「梅毒」――その検索結果に並ぶ赤いバラ疹の写真は、今、自分の白い肌を侵食しているものと残酷なほど酷似していた。
心臓がドクン、ドクンと耳元で不快な音を立てて鳴り響き、全身から急速に血の気が引いていく。
「まさか、私が……?嘘でしょ……?」
美代子は目を固く閉じ、スマホを放り出して布団を頭までかぶり、現実を拒絶した。
彼女は数ヶ月前から「パパ活」を始めていた。
最初は、ただのお小遣い欲しさだった。友だちが持っているブランドの財布やコスメが欲しかっただけ。でも、繰り返される退屈な学校生活への反抗心もあったし、「若くて可愛い」と大人に必要とされる感覚が、いつの間にか空っぽな自己肯定感を満たす燃料になっていた。相手はいつも優しく、紳士的で、危険なんてニュースの中だけの話だと思っていた。
でも今、彼女の頭を埋め尽くすのは、自己肯定感など跡形もなく吹き飛ばすほどの後悔と恐怖だ。
「もしこれが本当なら……誰にも言えない。親にも、学校にも……バレたら人生終わる」
夜が明けるまで一睡もできず、枕に顔を埋めて声を殺して嗚咽を漏らした。
翌日、学校の授業中も上の空だった。
黒板の文字は意味のない記号の羅列に見え、先生の声は水の中にいるように遠く響いた。ノートにペンを走らせるふりをしながら、頭の中では「どうすればいいか」のシミュレーションだけが回っていた。休み時間に響く友だちの無邪気な笑い声が、自分だけを断絶した別の世界の出来事のように感じられ、吐き気すら覚えた。
昼休み、逃げ込むようにトイレの個室にこもり、再びスマホを開く。AIチャットに「性病 検査 匿名」と打ち込むと、船橋市保健所やセルフ検査キットの情報が返ってきた。
「匿名なら……バレないよね?」
すぐに保健所に行く勇気は出なかった。待合室で知り合いに会ったら?入るところを誰かに見られたら?
そう考えると胸が締め付けられ、過呼吸になりそうになる。結局、「自宅でできる検査キット」が、今の彼女が縋れる唯一の蜘蛛の糸だった。
放課後、人目を避けるように船橋駅前のローソンに立ち寄った。マスクを顎まで下げないよう細心の注意を払い、財布の中のバイト代とパパ活で得た汚れたようにも感じるお金で、Amazonギフト券を4,800円分購入した。クレジットカードを使えば親に履歴を見られる可能性がある。現金で買えるギフト券だけが頼りだった。
スマホでAmazonを開き、梅毒検査キットをカートに入れ、コンビニ受け取りを選択して注文ボタンを押す。指の震えが止まらなかった。
三日後、同じローソンで店員に目を合わせず小包を受け取った。家に帰ると、母親が夕飯の支度をしている隙を突いて自室に駆け込み、ドアを二重にロックする。
キットの説明書を手に持つ指は、氷のように冷たかった。採血用のランセット(針)を指先に当てる瞬間、涙が溢れそうになったが、「知らないままでいる方が怖い」と自分に言い聞かせてボタンを押した。チクリとした痛みと共に滲み出た小さな血の滴りを容器に落とす。封をしてポストに投函するまでの間、彼女の神経は張り詰めたピアノ線のようにギリギリだった。
数日後、スマホに届いたメールを開く手が止まらないほど震えた。
「梅毒抗体陽性」
無機質なフォントで記されたその文字が、網膜に焼き付いた。美代子はスマホを床に落とし、その場に膝から崩れ落ちて蹲った。
「間違いだよ……きっとそうだよ。キットなんて簡易的なものだし、正確じゃないよね?」
頭の中は否定と、縋るような希望でぐちゃぐちゃだった。ネットで必死に検索すると「偽陽性」の可能性があるという記事が見つかり、ほんの少しだけ理性が戻ってきた。
「もう一度、ちゃんと検査しよう。保健所なら……確実だよね?」
彼女は船橋市保健所のサイトで予約を入れた。「匿名・無料」の文字を何度も、何度も確認した。もし本当に陽性ならどうしよう、という恐怖はあったが、このまま放置して体中が発疹だらけになることの方が恐ろしかった。
12月の期末試験も近づいた平日。美代子は学校を早退し、船橋市保健所へ向かった。
JR船橋駅からバスに乗り、「保健所入口」で降りる。深く被ったキャップとマスクで顔を隠し、まるで犯罪者のように周囲を警戒しながら建物に入った。
受付で「予約した者です」と蚊の鳴くような声で予約番号だけを告げると、番号札を渡され待合室へ通された。そこには彼女と同じように俯き、スマホを弄りながら誰とも目を合わせようとしない人々がちらほらいる。ここの空気は、学校の教室とは成分が違う気がした。
美代子は膝の上でスカートの裾を握りしめ、心の中で祈るように呟いた。
「お願い、陰性であって……何かの間違いであって……」
採血はあっという間に終わった。結果が出るまでの待ち時間、彼女の頭は最悪のシナリオで埋め尽くされた。
「もし陽性なら、学校に連絡が行く?親に通知が届く?パパ活のことまで全部バレたら、私はもう生きていけない」
30分後、番号が呼ばれた。
個室に入ると、白衣を着た40代くらいの女性が椅子に座って待っていた。机の上には、一枚の紙が置かれている。女性は穏やかな、しかし同情を含んだ声で話し始めた。
「こんにちは、結果をお伝えしますね。検査の結果、梅毒の抗体が陽性でした。今の数値から見ても、これは治療が必要な状況です」
宣告された瞬間、美代子の時が止まった。目を逸らし、震える声で絞り出すように言った。
「……キットでも陽性だったんですけど……間違いじゃないんですか?偽陽性ってこともありますよね?もう一回、検査できないですか?」
女性は静かに首を振り、落ち着いた口調で事実を告げた。「こちらの検査は精度が高いので、間違いの可能性はほぼありません。もちろん、納得できなければ病院で精密検査もできます。ただ、治療は早めに始めた方がいいですよ。放っておくと進行して、脳や心臓にまで影響が出る病気ですから」
美代子の脳裏に、いつかネットで見た、鼻が欠け落ちた昔の遊女の絵がフラッシュバックした。涙がボロボロと溢れ、声が詰まる。
「……私、どうしたらいいか分からないんです。誰にも言いたくない……親にも、学校にもバレたら終わりで……」
女性は優しく、しかし医療従事者としての毅然とした口調で続けた。
「気持ちは痛いほど分かります。でもね、大切なことを伝えますね。この病気は『感染症法』という法律で、5類感染症に指定されています。医師が診断したら、保健所に報告する義務があるんです」
美代子は弾かれたように顔を上げ、涙に濡れた顔で叫びそうになった。「報告義務」という言葉が、鋭利な刃物のように聞こえたからだ。
「記録に残るって……誰かにバレるってことですよね?私、まだ17歳で……こんなことになるなんて……」
「落ち着いて聞いてくださいね」女性は美代子の目を真っ直ぐに見つめ、ゆっくりと言葉を紡いだ。「確かに記録はされます。でもそれは、国が感染症の動向を把握するためのデータであって、あなたの名前や住所が公表されたり、学校や親御さんに連絡がいったりするものではありません。そこは厳重に守られています。ただし、この保健所内でのカルテには記録が残りますし、治療のために病院に行けば、そこでもカルテは作られます。それは避けられません」
公にはならない。けれど、自分が「梅毒患者」であるという事実は、公的機関のデータとして、そして病院の記録として、確実にこの世に刻まれる。その事実は消えない。
女性は一呼吸置き、少し真剣な顔つきでデスクの上の資料に視線を落とした。
「それとね、千葉県での梅毒の患者数は、正直、深刻な状況なんです。国立感染症研究所のデータだと、2023年には過去最多の約1,200件を超え、2024年も444件と高水準が続き、2025年に入っても443件(速報値)とほぼ同水準で推移しています。特にあなたのような若い世代での増加が顕著に見られるんです。あなた一人ではないですが、このまま放っておくと、さらに広がる可能性が高いことを知っておいてほしいんです」
美代子は涙が止まり、呆然とした。自分がその「急増するグラフの一部」になったことが信じられなかった。
「そんなに……増えてるんですか……?」
女性は頷き、そして静かに、核心を突く質問を投げかけた。「どこで感染したか、心当たりはある?」
その言葉が、トリガーだった。
美代子の脳内で、蓋をしていた記憶が一気に溢れ出した。消毒液の匂いが、あの日の安いホテルのシャンプーの匂いと混ざり合う。
あれは数週間前のこと。
同級生の佐藤美穂に教えてもらったとおりに、スマホで裏垢を作って、『#P活船橋』って呟いたら、すぐにDMが届いたんだ。通知音が鳴った時の、あの高揚感。 画面には『初回イチゴ(1万5千円)で茶飯(お茶や食事だけ)どう?』という文字が踊っていた。
船橋駅のカフェで会ったおじさんは、ブランド物の時計をしていて、優しそうに見えた。『諭吉(1万円)2枚で定期(月契約)は?』って提案されて、私は自分が特別な価値ある人間に思えた。
最初は警戒して『大人(性的関係)はNG』って言った。でもおじさんは困った顔一つせず、『じゃあ、プチ(挿入なしの行為)ならイチゴでいいよ』って笑って許してくれた。
あの時、緑(LINE)を交換して、何回か会って、お小遣いをもらって。『太P(高額払うパパ)見つけた!』って浮かれてた。学校の誰よりもリッチで、大人な世界を知ってる自分が誇らしかった。私、バカみたい……。
保健所の人が言うデータの中には、あのおじさんも入っているんだろうか?
安全日だからって油断して、流れでうっかりナマでされちゃった時、うつったのかな?それとも、その後会った別の人が?
さらに最悪な想像が頭をよぎる。その後、私が誰かにうつしたのかな?
私の体の中で、菌が増殖している。見えない何かが、私を蝕んでいく。美代子は保健所の椅子の上で、自分の身体が自分のものでなくなっていくような、底知れぬ恐怖に震え続けた。
あああ、どうしよう! どうしよう! どうしよう!
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