14 もう一つの死体
ー/ー クラウスは古風なエレベーターでビルの三階にあがった。
玄関のブザーを押すと、男がドアを開けた。連邦刑事庁を退職してハードウェア修理業を営む技術者だ。軍用機材から旧東独の謎の通信機まで修理経験は豊富だが、そんな彼もクラウスが持参したものには面白そうに目をみはった。
「象の檻に落としたのか? それとも装甲車で轢いた?」
ノートパソコンは天板が外れていた。側面のコネクタは陥没し、液晶は割れて蜘蛛の巣のようなヒビが入っている。
昨夜、クラウスが急いで路上に出ると、業務用ノート端末はこの有様になっていた。
技師の冗談に、クラウスは笑う気分になれなかった。
「データを救出できそうか見てもらえる?」
「通電中だったんだな? コーヒーは?」
「いらない」
技師はひしゃげたラップトップを裏返し、ネジを外しはじめた。
窓の外ではブナの並木が茶色い葉を落としている。
昨日は呆気にとられるばかりだったが、一夜明けると怒りが沸いてきた。
馬鹿野郎が。もう家にあがらせるものか。もしガラスの破片か端末本体が通行人にあたっていたら、と考えるだけで背筋が凍る。
あのあとパトカーがやってきた。近所の誰かが通報したらしい。清掃局も来て歩道が一時封鎖された。
――まあ、なんてこと!
善良な大家のニーダーマイヤー夫人は胸元の十字架を握りしめた。宮廷で不作法をまのあたりにした貴婦人のようだ。
――若い方は困りますねえ。亡き夫なら、こんな騒ぎは許しませんでしたわよ。
クラウスは自分が誤って落としたと言い訳した。薬物中毒の兄の仕業だ、と正直に言おうものなら売人の仲間と思われて即刻退去を迫られかねない。
技師が眼鏡を外した。
「こりゃ終わってるね。データも物理的に逝ってるし、復旧には数千ユーロかかるぞ」
「いや、それがわかれば充分」
事典並みに分厚い始末書を書かされるのは確実だ。
クラウスはララ・ヴァイスに電話し、支給端末を壊したと報告した。
ヴァイスは特に重大と思わなかったようだ。わかったとだけ言い、きびきびと付け加えた。
「今フランクフルトにいるの?」
「はい」
「じゃ、法医学研究所に来て。見てもらいたいものがあるの」
◇
クラウスはレストラン経営者の死体が身につけていたスマートフォンを袋越しに観察した。電源は切れている。
「暗号化端末かどうかは中を見ないとわからないんです。市販のスマホの改造品だから判別が難しい」
シャルロッテが横から覗いてきた。
「電源を入れてみたら?」
「そうはいかないんだ。もしエレボスなら、電波が入った瞬間に消去機能が作動するかもしれないから」
「そうするとどうなるの?」
「内部のデータが根こそぎ消える」
カリン・シェーファー上級警部が戸口に現れた。
「遅れてごめんなさい。急に別件が入っちゃって」
法医学研究所の死体安置室だった。入ってきたときは気に留めなかったが、遺体の載ったストレッチャーが置いてある。
端末を電波遮断ケースに収めながら、クラウスはそちらを見やった。
仰向けで、胸までシーツで覆われた大柄な男。肌の色が濃く、編み込んだ髪を長く伸ばしている。
ぎくりとした。
ドニー。
死体の横顔を凝視した。昨晩のことが鮮やかに蘇った。
間違いない。
家で刑事ドラマの出来を嘲笑っていた男が。
ここにいる。冷たくなって、ストレッチャーに横たわって。
兄とテレビを見て笑っていた男が。
シェーファーがララ・ヴァイスと短く言葉を交わし、法医学者に声をかけた。
「こっちは今朝発見された男性ですか?」
「ええ。身元のわかる所持品はないわね」
クラウスは思わず近づいていた。
「どこで見つかったんですか?」
シェーファーは意外そうな顔で振り向いた。
「今朝九時頃、マイン川沿いの埠頭で。この男性を知っているんですか?」
知っているうちに入るのか。薬物の過剰摂取が頭に浮かんだが、顔に痣がある。鼻も形が変わっているようだ。
「死因は?」
室内にいる全員の視線を感じた。協力中の捜査とは別件だ。それでも聞かずにいられなかった。
イエーガー医師がレントゲン画像を示す。
「解剖しないと何とも言えないけど、激しい暴行があったのは確かね。薬物を常用していたようだから、心肺機能の低下で普通なら致命的じゃない怪我が死に繋がったのかもしれないし」
テオドールはあのあと立ち去り、逃げるようにドニーとエルも姿を消していた。
今朝までの数時間で何があったんだろう?
「コカインのパケを隠し持っていました。密売人の可能性があります」シェーファーが続けた。「暴行致死か殺人でしょうね」
強烈な不安が襲ってきた。自分は事情聴取を受ける側かもしれない。この男は昨日家にいた、と言えば確実にそうなるだろう。
そんなことよりテオドールはどこだ。あいつは何をしでかしたんだ。
玄関のブザーを押すと、男がドアを開けた。連邦刑事庁を退職してハードウェア修理業を営む技術者だ。軍用機材から旧東独の謎の通信機まで修理経験は豊富だが、そんな彼もクラウスが持参したものには面白そうに目をみはった。
「象の檻に落としたのか? それとも装甲車で轢いた?」
ノートパソコンは天板が外れていた。側面のコネクタは陥没し、液晶は割れて蜘蛛の巣のようなヒビが入っている。
昨夜、クラウスが急いで路上に出ると、業務用ノート端末はこの有様になっていた。
技師の冗談に、クラウスは笑う気分になれなかった。
「データを救出できそうか見てもらえる?」
「通電中だったんだな? コーヒーは?」
「いらない」
技師はひしゃげたラップトップを裏返し、ネジを外しはじめた。
窓の外ではブナの並木が茶色い葉を落としている。
昨日は呆気にとられるばかりだったが、一夜明けると怒りが沸いてきた。
馬鹿野郎が。もう家にあがらせるものか。もしガラスの破片か端末本体が通行人にあたっていたら、と考えるだけで背筋が凍る。
あのあとパトカーがやってきた。近所の誰かが通報したらしい。清掃局も来て歩道が一時封鎖された。
――まあ、なんてこと!
善良な大家のニーダーマイヤー夫人は胸元の十字架を握りしめた。宮廷で不作法をまのあたりにした貴婦人のようだ。
――若い方は困りますねえ。亡き夫なら、こんな騒ぎは許しませんでしたわよ。
クラウスは自分が誤って落としたと言い訳した。薬物中毒の兄の仕業だ、と正直に言おうものなら売人の仲間と思われて即刻退去を迫られかねない。
技師が眼鏡を外した。
「こりゃ終わってるね。データも物理的に逝ってるし、復旧には数千ユーロかかるぞ」
「いや、それがわかれば充分」
事典並みに分厚い始末書を書かされるのは確実だ。
クラウスはララ・ヴァイスに電話し、支給端末を壊したと報告した。
ヴァイスは特に重大と思わなかったようだ。わかったとだけ言い、きびきびと付け加えた。
「今フランクフルトにいるの?」
「はい」
「じゃ、法医学研究所に来て。見てもらいたいものがあるの」
◇
クラウスはレストラン経営者の死体が身につけていたスマートフォンを袋越しに観察した。電源は切れている。
「暗号化端末かどうかは中を見ないとわからないんです。市販のスマホの改造品だから判別が難しい」
シャルロッテが横から覗いてきた。
「電源を入れてみたら?」
「そうはいかないんだ。もしエレボスなら、電波が入った瞬間に消去機能が作動するかもしれないから」
「そうするとどうなるの?」
「内部のデータが根こそぎ消える」
カリン・シェーファー上級警部が戸口に現れた。
「遅れてごめんなさい。急に別件が入っちゃって」
法医学研究所の死体安置室だった。入ってきたときは気に留めなかったが、遺体の載ったストレッチャーが置いてある。
端末を電波遮断ケースに収めながら、クラウスはそちらを見やった。
仰向けで、胸までシーツで覆われた大柄な男。肌の色が濃く、編み込んだ髪を長く伸ばしている。
ぎくりとした。
ドニー。
死体の横顔を凝視した。昨晩のことが鮮やかに蘇った。
間違いない。
家で刑事ドラマの出来を嘲笑っていた男が。
ここにいる。冷たくなって、ストレッチャーに横たわって。
兄とテレビを見て笑っていた男が。
シェーファーがララ・ヴァイスと短く言葉を交わし、法医学者に声をかけた。
「こっちは今朝発見された男性ですか?」
「ええ。身元のわかる所持品はないわね」
クラウスは思わず近づいていた。
「どこで見つかったんですか?」
シェーファーは意外そうな顔で振り向いた。
「今朝九時頃、マイン川沿いの埠頭で。この男性を知っているんですか?」
知っているうちに入るのか。薬物の過剰摂取が頭に浮かんだが、顔に痣がある。鼻も形が変わっているようだ。
「死因は?」
室内にいる全員の視線を感じた。協力中の捜査とは別件だ。それでも聞かずにいられなかった。
イエーガー医師がレントゲン画像を示す。
「解剖しないと何とも言えないけど、激しい暴行があったのは確かね。薬物を常用していたようだから、心肺機能の低下で普通なら致命的じゃない怪我が死に繋がったのかもしれないし」
テオドールはあのあと立ち去り、逃げるようにドニーとエルも姿を消していた。
今朝までの数時間で何があったんだろう?
「コカインのパケを隠し持っていました。密売人の可能性があります」シェーファーが続けた。「暴行致死か殺人でしょうね」
強烈な不安が襲ってきた。自分は事情聴取を受ける側かもしれない。この男は昨日家にいた、と言えば確実にそうなるだろう。
そんなことよりテオドールはどこだ。あいつは何をしでかしたんだ。
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