13 二人のあいだの溝
ー/ー 湯船に身を浸しても神経は鎮まらなかった。
地下駐車場の光景が目の裏にちらついている。
マルティナがもし、あのとき何か言ってきていたら――翌朝、ララは出勤しながら考えた。自分はどうしただろう。
知らないふりをする?
それとも開き直って「みっともない真似はやめなさい」とか?
みっともないのはどちらだろう。撒き散らされたものは恥ずかしくて拾いに行けなかった。
三百五十ユーロのベビードールは清掃人がダストシュートに入れただろう。
デスクに山積みの郵便物に目をやったとき、着信音が鳴った。カリン・シェーファー上級警部だ。
『法医学者の先生が十時から解剖所見を説明できると言ってます。一緒にいかがですか?』
「どうしよう、これからミーティングなの。間に合わなかったら聞いておいてもらえませんか?」
厚紙の封筒があった。硬いものが入っている。携帯を肩と頬で挟んで封を破り、逆さにした。
『了解。あとで知らせます……』
シェーファーの声はほとんど耳に入らなかった。封筒から出てきたものに目が釘付けになっていた。
ナイフが一本。乾いた血がこびりついている。
◇
ナイフは長さ二十センチほど、プラスチック製の柄も乾燥した血で汚れている。
消印はフランクフルト市内の郵便局。差出人名はなく、庁舎の住所と「ララ・ヴァイス警視」とだけ宛名が書かれていた。
シャルロッテが眉根を寄せた。
「誰が送ってきたんですか?」
「わからない」
ララは嘘をついた。動揺が収まり、冷静に考えられるようになっていた。
ブレナーがやってきた。
「きみに護衛をつけるべきだな」
「いらないわ」
「いや、必要だ。これは嫌がらせの域を超えている。私服警官に車で送り迎えさせよう」
この期に及んで騎士でも気取るつもりだろうか。どうみてもマルティナの仕業なのに。昨日の修羅場を見たと言ってやりたくなった。
「そんなことをされたら仕事がやりづらいもの」
「エスカレートしているのがわからないか? 次は危害を加えようとするかもしれないんだぞ」
二人は小声になった。
「誰がやったかについては、もう私の考えを話したと思うけど」
「まだ彼女を疑ってるのか」
「動機はあるでしょう。別にあてつけじゃないわよ」
まわりに人がいることを思い出したか、ブレナーはそれ以上は言わず、辟易した顔で立ち去った。
この二日間で二人の間に溝ができた。
鑑識班が指紋採取の粉をはたき、封筒にフラッシュを浴びせていた。シャルロッテがヤニックにたずねている。
「クラウスは?」
「遅れるって言ってきた。窓ガラスが割れて修理が来てるらしい」
「何それ。どうしてガラスが割れたの?」
シャルロッテがたずね、ヤニックが首を傾げた。
「いや、よくわからないけどノートパソコンがぶつかったんだって」
「投げつけたってこと? そんなにストレスが溜まってたの?」
シェーファーからの電話を思い出し、ララは法医学研究所に行くことにした。ここにいてもどうせデスクで仕事はできない。
◇
法医学者のドリス・イエーガーが壁面のディスプレイにレントゲン画像を表示させた。
「後頭部に六カ所の打撲創。陥没骨折が脳の損傷を引き起こしたようね」
フランクフルト法医学研究所の死体安置室。別の遺体がシーツに覆われ、ストレッチャーに寝かされていた。次の検査を待っているのだろう。
「凶器は燭台と断定してよさそう。ただねえ」
CT画像が提示された。ルイジ・オリーヴァの頭部の右側に影が見える。
「ここの皮下出血は別。燭台と形状が一致しないし、数分か十数分前に生じたと推定できる。命にかかわるものではないわ」
「別の鈍器ですか?」ララは眉をひそめた。
「そのようね。もしくはどこかにぶつけたか。血中アルコール濃度は1.12パーミル、酩酊といっていい状態だから転倒もありうる」
シャルロッテがCT画像から視線をはずして振り向いた。
「殺害される数分前に、彼は転倒して頭を打っていたということでしょうか」
「なら殺人とは無関係な打ち身ね。タイムラグの説明はつく」
「報告書は週明けになりそう。このあと解剖が二件入ってるの。散弾銃で撃たれた八十代の夫婦で、心中の可能性がある。嫌な世の中だわねえ」
さほど嫌そうな顔もせずに言い、イエーガーは思い出したように証拠品保管袋を手に取った。
「そうそう、レストランの死体の件だけど、これが見つかった。ズボンのポケットに入っていたの」
中にはスマートフォンが一台。ララはシャルロッテと視線を合わせた。
また暗号化端末だろうか。
地下駐車場の光景が目の裏にちらついている。
マルティナがもし、あのとき何か言ってきていたら――翌朝、ララは出勤しながら考えた。自分はどうしただろう。
知らないふりをする?
それとも開き直って「みっともない真似はやめなさい」とか?
みっともないのはどちらだろう。撒き散らされたものは恥ずかしくて拾いに行けなかった。
三百五十ユーロのベビードールは清掃人がダストシュートに入れただろう。
デスクに山積みの郵便物に目をやったとき、着信音が鳴った。カリン・シェーファー上級警部だ。
『法医学者の先生が十時から解剖所見を説明できると言ってます。一緒にいかがですか?』
「どうしよう、これからミーティングなの。間に合わなかったら聞いておいてもらえませんか?」
厚紙の封筒があった。硬いものが入っている。携帯を肩と頬で挟んで封を破り、逆さにした。
『了解。あとで知らせます……』
シェーファーの声はほとんど耳に入らなかった。封筒から出てきたものに目が釘付けになっていた。
ナイフが一本。乾いた血がこびりついている。
◇
ナイフは長さ二十センチほど、プラスチック製の柄も乾燥した血で汚れている。
消印はフランクフルト市内の郵便局。差出人名はなく、庁舎の住所と「ララ・ヴァイス警視」とだけ宛名が書かれていた。
シャルロッテが眉根を寄せた。
「誰が送ってきたんですか?」
「わからない」
ララは嘘をついた。動揺が収まり、冷静に考えられるようになっていた。
ブレナーがやってきた。
「きみに護衛をつけるべきだな」
「いらないわ」
「いや、必要だ。これは嫌がらせの域を超えている。私服警官に車で送り迎えさせよう」
この期に及んで騎士でも気取るつもりだろうか。どうみてもマルティナの仕業なのに。昨日の修羅場を見たと言ってやりたくなった。
「そんなことをされたら仕事がやりづらいもの」
「エスカレートしているのがわからないか? 次は危害を加えようとするかもしれないんだぞ」
二人は小声になった。
「誰がやったかについては、もう私の考えを話したと思うけど」
「まだ彼女を疑ってるのか」
「動機はあるでしょう。別にあてつけじゃないわよ」
まわりに人がいることを思い出したか、ブレナーはそれ以上は言わず、辟易した顔で立ち去った。
この二日間で二人の間に溝ができた。
鑑識班が指紋採取の粉をはたき、封筒にフラッシュを浴びせていた。シャルロッテがヤニックにたずねている。
「クラウスは?」
「遅れるって言ってきた。窓ガラスが割れて修理が来てるらしい」
「何それ。どうしてガラスが割れたの?」
シャルロッテがたずね、ヤニックが首を傾げた。
「いや、よくわからないけどノートパソコンがぶつかったんだって」
「投げつけたってこと? そんなにストレスが溜まってたの?」
シェーファーからの電話を思い出し、ララは法医学研究所に行くことにした。ここにいてもどうせデスクで仕事はできない。
◇
法医学者のドリス・イエーガーが壁面のディスプレイにレントゲン画像を表示させた。
「後頭部に六カ所の打撲創。陥没骨折が脳の損傷を引き起こしたようね」
フランクフルト法医学研究所の死体安置室。別の遺体がシーツに覆われ、ストレッチャーに寝かされていた。次の検査を待っているのだろう。
「凶器は燭台と断定してよさそう。ただねえ」
CT画像が提示された。ルイジ・オリーヴァの頭部の右側に影が見える。
「ここの皮下出血は別。燭台と形状が一致しないし、数分か十数分前に生じたと推定できる。命にかかわるものではないわ」
「別の鈍器ですか?」ララは眉をひそめた。
「そのようね。もしくはどこかにぶつけたか。血中アルコール濃度は1.12パーミル、酩酊といっていい状態だから転倒もありうる」
シャルロッテがCT画像から視線をはずして振り向いた。
「殺害される数分前に、彼は転倒して頭を打っていたということでしょうか」
「なら殺人とは無関係な打ち身ね。タイムラグの説明はつく」
「報告書は週明けになりそう。このあと解剖が二件入ってるの。散弾銃で撃たれた八十代の夫婦で、心中の可能性がある。嫌な世の中だわねえ」
さほど嫌そうな顔もせずに言い、イエーガーは思い出したように証拠品保管袋を手に取った。
「そうそう、レストランの死体の件だけど、これが見つかった。ズボンのポケットに入っていたの」
中にはスマートフォンが一台。ララはシャルロッテと視線を合わせた。
また暗号化端末だろうか。
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