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Mission.1 不穏な国賓の陰謀を暴け

ー/ー



 中欧ルマノ公国第一公爵兼行政府総督エリック・フォン・ルマノ八世が日本国内閣総理大臣と極秘会談を京都で催したのは、十月八日木曜日の昼下がりであった。少年の頃より日本通を自称している公爵にとって、京都はお気に入りの街で、中でも祇園が格別らしい。襲爵前からプライベートで何度も訪れ、花見小路にて舞妓とツーショットを撮っていたほどの熱の入れ様だ。

 そんな彼が爵位継承後初めてとなる日本国首相との会談を京都で開催した理由は、敬愛する古都の空気を味わうことで日本への愛をさらに深めたかったから――外務省からの伝達書には記してあった。

 京都市内の三ツ星ホテルで会談を終えた公爵は、京都駅から新幹線に乗って東京へ向かい、羽田国際空港から政府専用機でルマノ本国へ戻る手筈となっていた。日本政府関係者とは京都で別れ、東京駅までの旅路は公国からの随行員だけで守る。公爵来日にあたり送付された計画書を読んだ外務省は、あまりの防備の手薄さに難色を示したという。されどもルマノ公国側は日本政府による護衛増員の申し出を丁重に拒否し、あまつさえ『日本人に余の命を狙う野蛮な者などいるわけがない』と言ってのけた公爵の声明文まで発表した。これにはさすがの日本政府も折れる他なかったようで、斯()くして十月八日十三時三十四分、エリック公爵はお付きの者と共に京都駅から新幹線に乗り込み、東京を目指して出発した。

 守りを固めるために車両ごと貸し切ったグランクラスの上等な椅子に腰かけた公爵は、国賓としては実に淑やかな風貌をしていた。四十代後半にしては非常に若く見える顔立ち。柔和な笑み。理想的な貴族の仮面。

 ただ、公爵の仮面は列車が動き出すなり外された。

 「やっと終わったか」

 彼は母国語で続けた。

 「退屈な茶番だったな」

 側近たちが笑う。

 「しかしながら、閣下。日本の総理大臣はかなり乗り気でしたな」

 「当然だろう」

 公爵は(わら)いながら返す。

 「あいつは異国から資源をたっぷりと調達することを公約に掲げて総理になったんだ。奴に限らず、この経済停滞国家に住まう蛮族は我が国と条約を交わしたがっている」

 車内には、公爵の他に十数人がシートに座っている。本国からついてきた側近。駐日ルマノ大使館勤務の外交官と、そこで密かに活動する駐在武官と部下の情報将校。金融顧問官。そして、僕。

 外交官が資料を開く。

 「ええっと、今回の会談に至る経緯を改めて整理いたします)」

 僕は耳を傾ける。こういった部分が重要だ。

 「三年前、我が国の領内で豊富なレアアースを埋蔵する土壌が発見されました」

 「んで、日本のハイテク産業がこぞって食いついたと)」

 「はい。その後、日本側から経済封鎖解除の打診がありました」

 公爵は笑う。

 「魚が餌に食いついたわけだ。馬鹿らしいよ。父上の代まで我が国の絶対君主制を非難して、一切の貿易を拒んでいたというのに」

 「その掌返しの是非はともかく、日本は昔から資源に乏しい国でございますからな。そうして、昨年からは日本企業による我が国インフラ投資が増加したのでございます」

 「素晴らしき依存関係の幕開けってわけか」

 「はい。今回の条約は、日本側が技術提供、我々が資源供給という形でございます」

 公爵は笑いながらワイングラスを回す仕草をした。中身はミネラルウォーターであるが。

 「東洋の蛮族にくれてやる資源など無いぞ」

 公爵の向かい側に腰かけた金融顧問官が頷く。

 「市場は既に反応を示しております。条約期待でエネルギー関連の日本株は軒並み上昇傾向にございます。閣下」

 「余()の注文通りに準備してくれたか?」

 「はい。日本指数先物の大規模ショートを仕込み済みでございます。閣下」

 公爵は顔を満足一色にひしゃげさせた。

 「そうだなあ。この状況で条約破棄を示唆すれば暴落するよなあ」

 「その通りでございます。閣下」

 「利益は?」

 「最低でも三百億ユーロを見込んでございます。閣下」

 公爵は手を叩いて笑顔を爆発させた。

 「素晴らしい!」

 僕は思う――典型的だ。帝国主義の時代が終わり、二度の世界大戦を経てもなお、欧州の貴族層は東洋人を内心軽蔑していることが多い。表では友好を語り、裏では劣等人種の蛮族とコケにしている。まあ、日本の政治も笑えたものではないが。

 「それで、タイミングは?」

 公爵の下問に側近が答える。

 「東京到着後、非公式発言としてマスコミに漏らします」

 「良いぞ」

 彼は微笑む。

 「日本人は義理堅い分、約束という言葉を絶対と考える。だから、裏切られるとパニックに陥るんだよ」

 その瞬間だった。

 金融顧問官のスマートフォンが震えた。彼は瞳を丸くさせ、液晶画面を凝視する。忽ち、顔色が変わった。

 「……閣下」

 「何だ?」

 「し、市場が」

 「どうした?」

 「暴落しておりますッ!」

 車両内に沈黙が走る。

 「何だと?」

 「急落しておりますッ!」

 公爵の声が鋭くなる。

 「ありえぬ!」

 「こちらをご覧くださいッ」

 金融顧問官は端末を差し出す。僕も覗いたところ、確かに日本指数が暴落していた。しかも、不自然な速度で。

 「誰が売っておる!?」

 「分かりませぬ!」

 「情報公開が早すぎたのではあるまいか!?」

 「日本の新聞社にはまだ伝えておりませぬ!」

 「ならばどうして漏れておる!」

 「分かりませぬ!」

 車内の空気が変わった。数十秒前までの余裕が消えた。情報将校が立ち上がる。

 「盗聴の可能性がございます」

 「すぐに探し出さぬか!」

 「確認いたします」

 彼らは車内を調べ始めた。

 座席の裏、天井、照明、床、至る所を電子スキャナーやら、非線形接合探知機やら、周波数解析やらで、完璧な手順を踏んで。

 されど何も出ない。

 当然だ。

 僕は公爵の隣に空いた席に座っているが、僕の体を機械は認知できない。

 「異常ございませぬ」

 情報将校が怯えた表情で言う。

 「そんなはずはない! 例の計画のことは、この国の地を踏んでから今の今まで一言も口には出しておらぬぞ!」

 公爵は叫び、皆を睨みつけた。

 「よもや、この中の誰かが漏らしたのか!?」

 誰も答えない。沈黙の中で焦燥が広がってゆく。公爵は激昂の色を深める。

 「どうして黙っておる? 日本のスパイは完璧に姿を隠せるニンジャとでも申すまいな!?」

 僕は小さく笑った――正解だ。

 ゆっくりと立ち上がった僕は、通路に出て彼らの横を通って行く。もちろんながら気づかれない。連中の公用語で小さく呟いても、僕の声は誰にも聞こえない。

 「Dumme Typen(馬鹿な奴らだ)」

 気配を感じたのか、公爵が振り向いた。その方向には誰もいない。彼は眉をひそめた。

 「今、誰か何か申したか!?」

 「いいえ」

 僕はもう聞いていなかった。

 任務完了。

 必要な情報は全て手元の端末で送信済み。

 幽体化した状態では、通信機器すら自分の意識で生成できる。そもそも幽体こそが本人のイメージの投影である。これは政府が莫大な予算を投じて確立した技術らしいが、僕は完全には理解していない。

 理解しているのは結果だけだ。

 送れば届く。

 それだけで十分だ。

 僕は車両を出る。

 壁を通り抜ける。

 次の車両。

 さらに次の車両へ。

 一般客。弁当の匂い。子供の笑い声。

 音は聞こえるし、匂いも感じる。

 ただ、触れることができない。

 どんなに美味しそうな食べ物を前にしても、この姿では味わうことができない。少し寂しい。なんだかんだいって、物を食べて味わう行為は人間らしさの最後の部分のような気がするから。

 やがて僕はグリーン車へ戻る。

 僕の肉体は相変わらず間抜けな顔で寝ていた。周囲の乗客は誰も気にしていない。この国の人間の良いところは、他人に無関心なところだ。

 僕は肉体に近づく。

 この瞬間が一番嫌いだ。幽体が肉体に重なる感覚。

 冷たい水に落ちるような。狭い箱に押し込まれるような。重くて動きづらい服を着せられるような。

 嘆息を吐いた瞬間、重力が戻る。呼吸が戻る。心拍が戻る。生(せい)()く痛みが戻る。僕は目を開けた。大きな欠伸(あくび)をして、首を回す。

 作戦終了。

 胸元に手を入れ、胸部パッドを外す。その下には薄型の量子共振ユニットが搭載されていて、銀色のケーブルが白い長方形の機器から伸びている。

 人工(じんこう)幽体(ゆうたい)離脱(りだつ)装置(そうち)。組織の上層部は「QED」という通称を付けているらしいが、僕らは「契約の箱」だの「仮死の箱」などと思い思いの渾名で呼んでいる。

 それをアタッシュケースに収納した僕は、鍵を閉める。

 ちょうど列車は豊橋駅に着いたところだった。

 両手に荷物を抱え、僕は降りた。駅の雑踏が現実世界の重さを否応なしに認識させる。少しだけ頭痛に苛まれたが、いつものことだから気にするに値しない。

 改札口を抜けると、土産物店が並ぶ広場の中央に位置するベンチに男が腰かけていた。

 見たところ齢は六十代くらい。精悍な紳士という表現が最も似合う人物。国内最高峰の服飾店が仕立てたと瞬時に分かるベージュのスーツを纏い、橙色のネクタイもおそらく世界で群を抜いて上品とされる結び方をしている。白いシャツの質も良い。短く刈り揃えた白髪と程よく揃えた白い髭が洒落ている。

 世界最強クラスの情報機関の幹部というよりは、政治家に見受けられる佇まい。部下には日頃から「あんまり目立つんじゃないぞ」と口酸っぱく言っているくせに、ご立派なことだ。僕が裏側のベンチに座ると、そいつの短い言葉が背中越しに聞こえてきた。

 「よくやったな」

 低い声色。

 「どうも」

 「君の情報は完璧だったよ。エージェント雛菊(ひなぎく)

 彼は鞄の中から取り出したタブレット端末を僕に見せる。

 「先ほど本部が市場操作を実施した」

 政府傘下の戦略的情報安全保障特別監理室(TISO:Cabinet Intelligence Security Office)。表に出ない組織。東京の本部も、現場で活動する僕のようなエージェントも、決して表に出ることは無い。存在を知る者は、ごくわずかだ。

 「あの公爵は今頃、沸々と煮えたぎる怒りを発散する手段に悩んでいることだろう。三百億ユーロの儲けがパーになったんだからな」

 「我が国を利用して金儲けなんか企むからだ」

 「君のおかげで我が国は泡を吹かずに済んだ。ルマノ公国との条約も無事に締結される見通しが立った」

 僕は即座に(こた)える。

 「たまたまだ」

 「謙遜するな。それだけの技量を持つエージェントは君を置いて他にはいない」

 彼は背後を覗き込み、僕を見る。

 「しかし、君には毎度のこと驚かされるな。群れるのが嫌いなのは分かるが、無茶をしすぎだ」

 「問題ない」

 「ほどほどにな。本来は最低でも3人が必要なんだ」

 彼は呆れたように息を吐く。

 「工作の実務を担う者、装備を生成する者、肉体を護衛する者……毎回全てをひとりでやってたら脳に掛かる負荷が尋常ではないぞ」

 「問題ないと言っている」

 彼は苦笑する。

 「体がもたんぞ。少しは仲間というものを頼ったらどうだ」

 されども僕は答える。

 「僕に仲間など必要ない」

 それから少しばかり間が空いた。根負けしたような調子で、彼は苦笑する。

 「相変わらずだな」

 そして端末を取り出す。

 「では、君に次のミッションを与えるとしよう」

 「掛川(かけがわ)なら今から行くぞ」

 「それもあるが、新しいミッションだ」

 「さっきの公爵を殺せと?」

 「違う」

 思わず首を傾げた。

 「教育だ」

 「……教育?」

 「君に新人を任せたい」

 僕は顔を(しか)めた。

 「何の冗談だ?」

 「本気だ」

 「新人教育なら勿忘(わすれな)(ぐさ)の仕事だろ。僕は実戦要員のエージェントだ」

 「だから任せる」

 意味が分からない。

 「君もそろそろ弟子を取った方が良い。人にモノを教えることで自分も成長できる」

 余計なお世話だ。自分を自分で未熟と思ったことなど無い。怪訝な顔で背後に座る上官を睨むと、彼は言った。

 「来たぞ。前を見てみろ」

 僕が視線を戻すと、そこには一人の女が立っていた。青のチェックのロングスカートに黒のブラウス。セミロングの茶髪。白い顔に鋭い瞳。年齢は僕より三つ下くらいか。

 面白そうな顔で、彼女は僕を見ていた。

 そして言った。

 「この人が凄腕のエージェント? なんか大したことなさそうだね」

 僕はため息をついた。潜入より面倒だ。諜報より骨が折れそうだ。人間関係――僕の最も苦手な仕事である。何より、間違いなく、最も嫌な仕事だ。


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 中欧ルマノ公国第一公爵兼行政府総督エリック・フォン・ルマノ八世が日本国内閣総理大臣と極秘会談を京都で催したのは、十月八日木曜日の昼下がりであった。少年の頃より日本通を自称している公爵にとって、京都はお気に入りの街で、中でも祇園が格別らしい。襲爵前からプライベートで何度も訪れ、花見小路にて舞妓とツーショットを撮っていたほどの熱の入れ様だ。
 そんな彼が爵位継承後初めてとなる日本国首相との会談を京都で開催した理由は、敬愛する古都の空気を味わうことで日本への愛をさらに深めたかったから――外務省からの伝達書には記してあった。
 京都市内の三ツ星ホテルで会談を終えた公爵は、京都駅から新幹線に乗って東京へ向かい、羽田国際空港から政府専用機でルマノ本国へ戻る手筈となっていた。日本政府関係者とは京都で別れ、東京駅までの旅路は公国からの随行員だけで守る。公爵来日にあたり送付された計画書を読んだ外務省は、あまりの防備の手薄さに難色を示したという。されどもルマノ公国側は日本政府による護衛増員の申し出を丁重に拒否し、あまつさえ『日本人に余の命を狙う野蛮な者などいるわけがない』と言ってのけた公爵の声明文まで発表した。これにはさすがの日本政府も折れる他なかったようで、斯《か》くして十月八日十三時三十四分、エリック公爵はお付きの者と共に京都駅から新幹線に乗り込み、東京を目指して出発した。
 守りを固めるために車両ごと貸し切ったグランクラスの上等な椅子に腰かけた公爵は、国賓としては実に淑やかな風貌をしていた。四十代後半にしては非常に若く見える顔立ち。柔和な笑み。理想的な貴族の仮面。
 ただ、公爵の仮面は列車が動き出すなり外された。
 「やっと終わったか」
 彼は母国語で続けた。
 「退屈な茶番だったな」
 側近たちが笑う。
 「しかしながら、閣下。日本の総理大臣はかなり乗り気でしたな」
 「当然だろう」
 公爵は嗤《わら》いながら返す。
 「あいつは異国から資源をたっぷりと調達することを公約に掲げて総理になったんだ。奴に限らず、この経済停滞国家に住まう蛮族は我が国と条約を交わしたがっている」
 車内には、公爵の他に十数人がシートに座っている。本国からついてきた側近。駐日ルマノ大使館勤務の外交官と、そこで密かに活動する駐在武官と部下の情報将校。金融顧問官。そして、僕。
 外交官が資料を開く。
 「ええっと、今回の会談に至る経緯を改めて整理いたします)」
 僕は耳を傾ける。こういった部分が重要だ。
 「三年前、我が国の領内で豊富なレアアースを埋蔵する土壌が発見されました」
 「んで、日本のハイテク産業がこぞって食いついたと)」
 「はい。その後、日本側から経済封鎖解除の打診がありました」
 公爵は笑う。
 「魚が餌に食いついたわけだ。馬鹿らしいよ。父上の代まで我が国の絶対君主制を非難して、一切の貿易を拒んでいたというのに」
 「その掌返しの是非はともかく、日本は昔から資源に乏しい国でございますからな。そうして、昨年からは日本企業による我が国インフラ投資が増加したのでございます」
 「素晴らしき依存関係の幕開けってわけか」
 「はい。今回の条約は、日本側が技術提供、我々が資源供給という形でございます」
 公爵は笑いながらワイングラスを回す仕草をした。中身はミネラルウォーターであるが。
 「東洋の蛮族にくれてやる資源など無いぞ」
 公爵の向かい側に腰かけた金融顧問官が頷く。
 「市場は既に反応を示しております。条約期待でエネルギー関連の日本株は軒並み上昇傾向にございます。閣下」
 「余《よ》の注文通りに準備してくれたか?」
 「はい。日本指数先物の大規模ショートを仕込み済みでございます。閣下」
 公爵は顔を満足一色にひしゃげさせた。
 「そうだなあ。この状況で条約破棄を示唆すれば暴落するよなあ」
 「その通りでございます。閣下」
 「利益は?」
 「最低でも三百億ユーロを見込んでございます。閣下」
 公爵は手を叩いて笑顔を爆発させた。
 「素晴らしい!」
 僕は思う――典型的だ。帝国主義の時代が終わり、二度の世界大戦を経てもなお、欧州の貴族層は東洋人を内心軽蔑していることが多い。表では友好を語り、裏では劣等人種の蛮族とコケにしている。まあ、日本の政治も笑えたものではないが。
 「それで、タイミングは?」
 公爵の下問に側近が答える。
 「東京到着後、非公式発言としてマスコミに漏らします」
 「良いぞ」
 彼は微笑む。
 「日本人は義理堅い分、約束という言葉を絶対と考える。だから、裏切られるとパニックに陥るんだよ」
 その瞬間だった。
 金融顧問官のスマートフォンが震えた。彼は瞳を丸くさせ、液晶画面を凝視する。忽ち、顔色が変わった。
 「……閣下」
 「何だ?」
 「し、市場が」
 「どうした?」
 「暴落しておりますッ!」
 車両内に沈黙が走る。
 「何だと?」
 「急落しておりますッ!」
 公爵の声が鋭くなる。
 「ありえぬ!」
 「こちらをご覧くださいッ」
 金融顧問官は端末を差し出す。僕も覗いたところ、確かに日本指数が暴落していた。しかも、不自然な速度で。
 「誰が売っておる!?」
 「分かりませぬ!」
 「情報公開が早すぎたのではあるまいか!?」
 「日本の新聞社にはまだ伝えておりませぬ!」
 「ならばどうして漏れておる!」
 「分かりませぬ!」
 車内の空気が変わった。数十秒前までの余裕が消えた。情報将校が立ち上がる。
 「盗聴の可能性がございます」
 「すぐに探し出さぬか!」
 「確認いたします」
 彼らは車内を調べ始めた。
 座席の裏、天井、照明、床、至る所を電子スキャナーやら、非線形接合探知機やら、周波数解析やらで、完璧な手順を踏んで。
 されど何も出ない。
 当然だ。
 僕は公爵の隣に空いた席に座っているが、僕の体を機械は認知できない。
 「異常ございませぬ」
 情報将校が怯えた表情で言う。
 「そんなはずはない! 例の計画のことは、この国の地を踏んでから今の今まで一言も口には出しておらぬぞ!」
 公爵は叫び、皆を睨みつけた。
 「よもや、この中の誰かが漏らしたのか!?」
 誰も答えない。沈黙の中で焦燥が広がってゆく。公爵は激昂の色を深める。
 「どうして黙っておる? 日本のスパイは完璧に姿を隠せるニンジャとでも申すまいな!?」
 僕は小さく笑った――正解だ。
 ゆっくりと立ち上がった僕は、通路に出て彼らの横を通って行く。もちろんながら気づかれない。連中の公用語で小さく呟いても、僕の声は誰にも聞こえない。
 「Dumme Typen(馬鹿な奴らだ)」
 気配を感じたのか、公爵が振り向いた。その方向には誰もいない。彼は眉をひそめた。
 「今、誰か何か申したか!?」
 「いいえ」
 僕はもう聞いていなかった。
 任務完了。
 必要な情報は全て手元の端末で送信済み。
 幽体化した状態では、通信機器すら自分の意識で生成できる。そもそも幽体こそが本人のイメージの投影である。これは政府が莫大な予算を投じて確立した技術らしいが、僕は完全には理解していない。
 理解しているのは結果だけだ。
 送れば届く。
 それだけで十分だ。
 僕は車両を出る。
 壁を通り抜ける。
 次の車両。
 さらに次の車両へ。
 一般客。弁当の匂い。子供の笑い声。
 音は聞こえるし、匂いも感じる。
 ただ、触れることができない。
 どんなに美味しそうな食べ物を前にしても、この姿では味わうことができない。少し寂しい。なんだかんだいって、物を食べて味わう行為は人間らしさの最後の部分のような気がするから。
 やがて僕はグリーン車へ戻る。
 僕の肉体は相変わらず間抜けな顔で寝ていた。周囲の乗客は誰も気にしていない。この国の人間の良いところは、他人に無関心なところだ。
 僕は肉体に近づく。
 この瞬間が一番嫌いだ。幽体が肉体に重なる感覚。
 冷たい水に落ちるような。狭い箱に押し込まれるような。重くて動きづらい服を着せられるような。
 嘆息を吐いた瞬間、重力が戻る。呼吸が戻る。心拍が戻る。生《せい》を行《ゆ》く痛みが戻る。僕は目を開けた。大きな欠伸《あくび》をして、首を回す。
 作戦終了。
 胸元に手を入れ、胸部パッドを外す。その下には薄型の量子共振ユニットが搭載されていて、銀色のケーブルが白い長方形の機器から伸びている。
 人工《じんこう》幽体《ゆうたい》離脱《りだつ》装置《そうち》。組織の上層部は「QED」という通称を付けているらしいが、僕らは「契約の箱」だの「仮死の箱」などと思い思いの渾名で呼んでいる。
 それをアタッシュケースに収納した僕は、鍵を閉める。
 ちょうど列車は豊橋駅に着いたところだった。
 両手に荷物を抱え、僕は降りた。駅の雑踏が現実世界の重さを否応なしに認識させる。少しだけ頭痛に苛まれたが、いつものことだから気にするに値しない。
 改札口を抜けると、土産物店が並ぶ広場の中央に位置するベンチに男が腰かけていた。
 見たところ齢は六十代くらい。精悍な紳士という表現が最も似合う人物。国内最高峰の服飾店が仕立てたと瞬時に分かるベージュのスーツを纏い、橙色のネクタイもおそらく世界で群を抜いて上品とされる結び方をしている。白いシャツの質も良い。短く刈り揃えた白髪と程よく揃えた白い髭が洒落ている。
 世界最強クラスの情報機関の幹部というよりは、政治家に見受けられる佇まい。部下には日頃から「あんまり目立つんじゃないぞ」と口酸っぱく言っているくせに、ご立派なことだ。僕が裏側のベンチに座ると、そいつの短い言葉が背中越しに聞こえてきた。
 「よくやったな」
 低い声色。
 「どうも」
 「君の情報は完璧だったよ。エージェント雛菊《ひなぎく》」
 彼は鞄の中から取り出したタブレット端末を僕に見せる。
 「先ほど本部が市場操作を実施した」
 政府傘下の戦略的情報安全保障特別監理室(TISO:Cabinet Intelligence Security Office)。表に出ない組織。東京の本部も、現場で活動する僕のようなエージェントも、決して表に出ることは無い。存在を知る者は、ごくわずかだ。
 「あの公爵は今頃、沸々と煮えたぎる怒りを発散する手段に悩んでいることだろう。三百億ユーロの儲けがパーになったんだからな」
 「我が国を利用して金儲けなんか企むからだ」
 「君のおかげで我が国は泡を吹かずに済んだ。ルマノ公国との条約も無事に締結される見通しが立った」
 僕は即座に応《こた》える。
 「たまたまだ」
 「謙遜するな。それだけの技量を持つエージェントは君を置いて他にはいない」
 彼は背後を覗き込み、僕を見る。
 「しかし、君には毎度のこと驚かされるな。群れるのが嫌いなのは分かるが、無茶をしすぎだ」
 「問題ない」
 「ほどほどにな。本来は最低でも3人が必要なんだ」
 彼は呆れたように息を吐く。
 「工作の実務を担う者、装備を生成する者、肉体を護衛する者……毎回全てをひとりでやってたら脳に掛かる負荷が尋常ではないぞ」
 「問題ないと言っている」
 彼は苦笑する。
 「体がもたんぞ。少しは仲間というものを頼ったらどうだ」
 されども僕は答える。
 「僕に仲間など必要ない」
 それから少しばかり間が空いた。根負けしたような調子で、彼は苦笑する。
 「相変わらずだな」
 そして端末を取り出す。
 「では、君に次のミッションを与えるとしよう」
 「掛川《かけがわ》なら今から行くぞ」
 「それもあるが、新しいミッションだ」
 「さっきの公爵を殺せと?」
 「違う」
 思わず首を傾げた。
 「教育だ」
 「……教育?」
 「君に新人を任せたい」
 僕は顔を顰《しか》めた。
 「何の冗談だ?」
 「本気だ」
 「新人教育なら勿忘《わすれな》草《ぐさ》の仕事だろ。僕は実戦要員のエージェントだ」
 「だから任せる」
 意味が分からない。
 「君もそろそろ弟子を取った方が良い。人にモノを教えることで自分も成長できる」
 余計なお世話だ。自分を自分で未熟と思ったことなど無い。怪訝な顔で背後に座る上官を睨むと、彼は言った。
 「来たぞ。前を見てみろ」
 僕が視線を戻すと、そこには一人の女が立っていた。青のチェックのロングスカートに黒のブラウス。セミロングの茶髪。白い顔に鋭い瞳。年齢は僕より三つ下くらいか。
 面白そうな顔で、彼女は僕を見ていた。
 そして言った。
 「この人が凄腕のエージェント? なんか大したことなさそうだね」
 僕はため息をついた。潜入より面倒だ。諜報より骨が折れそうだ。人間関係――僕の最も苦手な仕事である。何より、間違いなく、最も嫌な仕事だ。