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第5話 一人分の焚火

ー/ー



雨は、夜になるほど冷たくなった。


街道脇の小屋は、もともと旅人のために作られたものなのだろう。
壁は石と板を継ぎ合わせた粗末な造りで、扉も片方の蝶番が外れかけている。風が吹くたび、隙間から細い雨が斜めに入り込んだ。それでも、野ざらしよりはずっとましだった。


小屋の中央で、シオンは焚き火を起こしていた。


湿った枝は煙を多く吐く。乾いた芯だけを選び、細い火を絶やさないように育てていく。火打石を打つ音、雨が屋根を叩く音、風が壁を鳴らす音。そのどれもが小さな空間の中で近かった。


火がようやく落ち着いたころ、シオンは椀をひとつだけ出した。


鍋も小さい。水袋もひとつ。寝袋もひとつ。荷はそれだけで足りている。足りてしまうことに、何の不都合もなかった。


懐に入れた小さなランタンへ、指先が触れる。


火はまだある。
届ける場所も、決まっている。
それで十分だと、そう思うことにしていた。


外で、何かが倒れる音がした。


木の枝ではない。人の重みが、ぬかるんだ土へ膝をつく鈍い音だった。


シオンはすぐに立ち上がった。剣に手をかける。火を背に、半壊した扉の影へ視線を向けた。


次の瞬間、扉が内側へ押し開かれた。


入ってきたのは、女だった。


短い髪は雨で頬に張りつき、肩から腕にかけて濡れている。片手で脇腹を押さえ、もう片方の手には細身の剣。まともに構えてはいないが、落としてもいない。息は荒く、目だけが鋭かった。


「……先客か」


声は低い。疲れてはいても、弱って聞こえる声ではなかった。


シオンは剣を抜かなかったが、手も離さなかった。


足元には、薄く血が落ちている。脇腹からだ。深くはない。だが放っておけば夜のうちに動けなくなる。


シオンは一拍だけ黙った。


「追われてるのか」


「追われていた、が近い」


「まだ近くにいるのか」


「たぶんな」


答えは簡潔だった。無駄に取り繕わない。そこだけは信用できると思った。


シオンは剣から手を離した。


「入れ」


女がわずかに眉を上げる。


「いいのか」


「立ったまま死なれる方が迷惑だ」


「嫌な言い方をする」


そう言いながらも、女は火のそばまで歩いてきた。途中で一度だけ膝が揺れたが、倒れはしなかった。剣を脇へ置き、壁に背を預けるように座り込む。


シオンは水袋を投げた。女は受け取り、ひと口だけ飲むと、喉を鳴らして息を整えた。


「助かる」


「まだ助けてない」


「火と水を分けた時点で半分は助けてる」


言い返す気にはならなかった。


シオンは荷の中から布と小瓶を出した。女がそれを見る。


「手当てまでしてくれるのか」


「自分でできるならやれ」


「利き手じゃ届きにくい」


「なら黙ってろ」


女は一度だけ笑った。薄い笑いだったが、余裕のあるものに聞こえた。


傷は刃物によるものだった。浅くはないが、内臓までは届いていない。雨に打たれたせいで出血は思ったほど広がっていないが、放っておけば熱を持つ。シオンは布で血を拭い、薬を押し当ててから手早く巻き直した。


女は痛みに眉を寄せても、声は出さなかった。


「慣れてるな」


ぽつりと言う。


「怪我人を見るのにか」


「そういう顔をしてる」


シオンは布を結び終え、手を離した。


「そんないいやつに見えるか」


「見えるよ」


女は火を見たまま答えた。


「自分より先に他人の血を止めるやつは、大体そうだ」


言葉が少しだけ胸に残ったが、シオンは流した。


鍋の湯が沸き始める。小さな泡の立つ音が、雨音の隙間に混じった。シオンは干し肉を削り、硬いパンを二つに割る。椀はひとつしかない。


少し考えてから、鍋からそのまま分けることにした。


「食えるか」


「選べる立場か?」


「いや」


「なら食べる」


女は火の熱で少しだけ頬に色を戻しながら、鍋から差し出されたスープを受け取った。行儀よくはないが、無駄もない飲み方だった。


「名前は」


シオンが訊く。


「カヤ」


女は答えた。


「お前は」


「シオン」


「そうか」


それきり、会話は途切れた。


沈黙は重くなかった。雨がある。火がある。湯気の匂いがある。言葉がなくても、小屋の中はそれなりに埋まっていた。


しばらくして、カヤが口を開いた。


「北へ行くのか」


シオンは鍋を火から少し離しながら頷いた。


「そうだ」


「ひとりで」


「そうだ」


「やめた方がいい」


言い方に断定があった。脅しではない。経験から出た調子だった。


「道が悪いからか」


「それもある」


「それ以外は」


カヤは少しだけ考えてから、肩を壁へ預け直した。


「ひとりで歩くやつは、ひとり分しか物を持たない。ひとり分しか火を起こさない。ひとり分しか眠れない。そういう旅は、途中で何か一つ狂うと、立て直す手が足りない」


シオンは返事をしなかった。


理屈はわかる。けれど、だからといって誰かを増やしたいとも思わない。いや、増やしたくない、が正しいのかもしれなかった。


火が小さく爆ぜる。


カヤがその音を聞きながら、ぽつりと続けた。


「お前、本当は一人旅に向いてないだろ」


その一言は、妙に静かに小屋へ落ちた。


シオンは眉をひそめた。


「何を見て言ってる」


「倒れかけたやつを中に入れて、手当てして、飯まで分ける顔」


「放っておくのが面倒なだけだ」


「そういう言い訳をするところも向いてない」


少し笑ったように言って、カヤは鍋の底を見た。


「向いてるやつは、扉を開けない」


シオンは言い返そうとして、やめた。


たしかに、扉を閉めたまま火の前へ戻ることもできたはずだ。声をかけず、息を潜めていれば、雨音に紛れてそのまま過ぎたかもしれない。やらなかった。できなかったとも言える。


それが性分だと認めるのは、少しだけ気に食わなかった。


外で、低い唸り声がした。


シオンの視線が扉へ向く。カヤも同時に顔を上げた。


「追手か」


「違う」


カヤが耳を澄ませる。


「野犬だ。血の匂いに寄ってきた」


ひとつではない。二、三。小屋の外をうかがう足音が、雨の向こうにかすかに混じる。腹を空かせた獣なら、人より質が悪いこともある。


シオンは立ち上がった。剣を取る。


「中にいろ」


「そうする」


カヤはそう返しながらも、自分の剣を手元へ引き寄せた。


シオンは外へ出た。


雨は思っていたより弱まっていたが、視界は悪い。小屋の脇、荷車の残骸の影、濡れた草のあいだに光る目が三つ。野犬は人を恐れるが、飢えていれば距離を詰める。


シオンは火の明かりを背に、一歩前へ出た。


吠え声
跳ねる泥
一頭が飛び込む


剣を振るうほどでもない。踏み込みを外し、石を蹴り上げる。鼻先に当たった犬が悲鳴を上げて退く。別の一頭が横へ回ろうとしたが、その前に小屋の中から何かが飛んだ。


短剣だった。


浅く土に刺さっただけだが、十分だった。犬たちは一斉に身を引く。扉の隙間から、カヤがこちらを見ていた。


「一つ貸しだ」


「当たってないぞ」


「牽制だよ」


その言い合いを警戒と受け取ったのか、野犬たちは低く唸ったあと、やがて雨の向こうへ消えていった。


シオンが小屋へ戻ると、火のそばの荷が少しだけ移動していた。雨の吹き込みが当たらない位置へ寄せられている。寝袋も同じだ。


「勝手に触るな」


「濡れる方が嫌だ」


カヤは悪びれずに言った。


「文句があるなら外へ戻すか」


「いい」


短く返して、シオンは剣を置いた。


火のそばへ戻ると、さっきより空間が狭くなっていた。荷を寄せたぶんだけ、二人が座る場所が自然に近くなっている。


小屋の中には、焚き火の音と雨音と、二人分の呼吸があった。


カヤが火を見ながら言う。


「北のどこまで行く」


「岬だ」


「目的は」


「灯台」


カヤは少しだけ黙った。


「見物か」


「違う」


そこでシオンも口を閉じた。全部を言う必要はなかった。言えば軽くなる気もしたし、軽くしたくもなかった。


カヤはそれ以上は訊かなかった。踏み込みすぎないやつなのだと、そのとき初めて思った。


「私も北へ行く」


代わりにそう言った。


「途中までは同じ道だ」


「そうか」


「そうか、だけか」


「別に」


「追い払わないんだな」


シオンは火を見た。


「歩けるなら好きにしろ」


「雑だな」


「面倒を見るつもりはない」


「それもさっき聞いた」


カヤは笑い、それきり目を閉じた。眠ったわけではない。ただ、痛みと疲れをやり過ごすために、じっとしているのだろう。


シオンも壁へ背を預けた。


火は小さい。けれど絶えない。
椀はひとつしか出していない。
寝袋もひとつしかない。
それでも、小屋の中はもうひとり分だけ確かに埋まっていた。


どれくらいそうしていたのか、シオンは覚えていない。


次に目を開けたとき、雨はほとんど止んでいた。


夜明けは近い。小屋の外はまだ薄暗いが、雲の向こうが白み始めている。焚き火は灰の下に赤を残していた。


カヤは先に起きていた。痛むはずの脇腹を庇いながら、それでも剣帯を締め直している。


「動けるのか」


「昨日よりは」


「そうか」


「お前は相変わらず愛想がないな」


「必要ないだろ」


「必要なさそうなのに、火だけは分けるんだよな」


言いながら、カヤは扉を押し開けた。


外の空気は冷たい。だが、雨は上がっていた。濡れた街道の向こう、雲の切れ間に朝の薄い光がのびている。


カヤは小屋の前へ出て、大きく息を吐いた。


「悪くない朝だ」


シオンは荷を背負う。火を完全に消し、灰を散らし、ランタンの位置を確かめる。やることは昨日と同じだったはずなのに、小屋の出口へ向かう足取りだけが少し違う気がした。


「じゃあ、行くか」


カヤが言った。


まるで最初から一緒に歩くことが決まっていたみたいな言い方だった。


シオンは小さく眉を寄せる。


「どこへ」


「北へ」


「勝手にしろ」


「そうさせてもらう」


カヤは先に歩き出す。傷があるぶん少し遅い。だが、止まる気配はない。


シオンはその背を見た。


追い払うことはできた。
ここで別れることもできた。
それでも、口にした言葉は結局それではなかった。


小屋の中、火のそばへ一度だけ視線を戻す。


灰の匂い。
夜の名残。
さっきまでひとり分だった場所。


そして、今はもう違う。


シオンは何も言わず、カヤのあとを追った。


濡れた街道に、足音が二つ並ぶ。


焚き火の向こうに、ようやくひとり増えた。


ひとり分で足りていたはずの夜は、そこで静かに形を変えた。


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雨は、夜になるほど冷たくなった。
街道脇の小屋は、もともと旅人のために作られたものなのだろう。
壁は石と板を継ぎ合わせた粗末な造りで、扉も片方の蝶番が外れかけている。風が吹くたび、隙間から細い雨が斜めに入り込んだ。それでも、野ざらしよりはずっとましだった。
小屋の中央で、シオンは焚き火を起こしていた。
湿った枝は煙を多く吐く。乾いた芯だけを選び、細い火を絶やさないように育てていく。火打石を打つ音、雨が屋根を叩く音、風が壁を鳴らす音。そのどれもが小さな空間の中で近かった。
火がようやく落ち着いたころ、シオンは椀をひとつだけ出した。
鍋も小さい。水袋もひとつ。寝袋もひとつ。荷はそれだけで足りている。足りてしまうことに、何の不都合もなかった。
懐に入れた小さなランタンへ、指先が触れる。
火はまだある。
届ける場所も、決まっている。
それで十分だと、そう思うことにしていた。
外で、何かが倒れる音がした。
木の枝ではない。人の重みが、ぬかるんだ土へ膝をつく鈍い音だった。
シオンはすぐに立ち上がった。剣に手をかける。火を背に、半壊した扉の影へ視線を向けた。
次の瞬間、扉が内側へ押し開かれた。
入ってきたのは、女だった。
短い髪は雨で頬に張りつき、肩から腕にかけて濡れている。片手で脇腹を押さえ、もう片方の手には細身の剣。まともに構えてはいないが、落としてもいない。息は荒く、目だけが鋭かった。
「……先客か」
声は低い。疲れてはいても、弱って聞こえる声ではなかった。
シオンは剣を抜かなかったが、手も離さなかった。
足元には、薄く血が落ちている。脇腹からだ。深くはない。だが放っておけば夜のうちに動けなくなる。
シオンは一拍だけ黙った。
「追われてるのか」
「追われていた、が近い」
「まだ近くにいるのか」
「たぶんな」
答えは簡潔だった。無駄に取り繕わない。そこだけは信用できると思った。
シオンは剣から手を離した。
「入れ」
女がわずかに眉を上げる。
「いいのか」
「立ったまま死なれる方が迷惑だ」
「嫌な言い方をする」
そう言いながらも、女は火のそばまで歩いてきた。途中で一度だけ膝が揺れたが、倒れはしなかった。剣を脇へ置き、壁に背を預けるように座り込む。
シオンは水袋を投げた。女は受け取り、ひと口だけ飲むと、喉を鳴らして息を整えた。
「助かる」
「まだ助けてない」
「火と水を分けた時点で半分は助けてる」
言い返す気にはならなかった。
シオンは荷の中から布と小瓶を出した。女がそれを見る。
「手当てまでしてくれるのか」
「自分でできるならやれ」
「利き手じゃ届きにくい」
「なら黙ってろ」
女は一度だけ笑った。薄い笑いだったが、余裕のあるものに聞こえた。
傷は刃物によるものだった。浅くはないが、内臓までは届いていない。雨に打たれたせいで出血は思ったほど広がっていないが、放っておけば熱を持つ。シオンは布で血を拭い、薬を押し当ててから手早く巻き直した。
女は痛みに眉を寄せても、声は出さなかった。
「慣れてるな」
ぽつりと言う。
「怪我人を見るのにか」
「そういう顔をしてる」
シオンは布を結び終え、手を離した。
「そんないいやつに見えるか」
「見えるよ」
女は火を見たまま答えた。
「自分より先に他人の血を止めるやつは、大体そうだ」
言葉が少しだけ胸に残ったが、シオンは流した。
鍋の湯が沸き始める。小さな泡の立つ音が、雨音の隙間に混じった。シオンは干し肉を削り、硬いパンを二つに割る。椀はひとつしかない。
少し考えてから、鍋からそのまま分けることにした。
「食えるか」
「選べる立場か?」
「いや」
「なら食べる」
女は火の熱で少しだけ頬に色を戻しながら、鍋から差し出されたスープを受け取った。行儀よくはないが、無駄もない飲み方だった。
「名前は」
シオンが訊く。
「カヤ」
女は答えた。
「お前は」
「シオン」
「そうか」
それきり、会話は途切れた。
沈黙は重くなかった。雨がある。火がある。湯気の匂いがある。言葉がなくても、小屋の中はそれなりに埋まっていた。
しばらくして、カヤが口を開いた。
「北へ行くのか」
シオンは鍋を火から少し離しながら頷いた。
「そうだ」
「ひとりで」
「そうだ」
「やめた方がいい」
言い方に断定があった。脅しではない。経験から出た調子だった。
「道が悪いからか」
「それもある」
「それ以外は」
カヤは少しだけ考えてから、肩を壁へ預け直した。
「ひとりで歩くやつは、ひとり分しか物を持たない。ひとり分しか火を起こさない。ひとり分しか眠れない。そういう旅は、途中で何か一つ狂うと、立て直す手が足りない」
シオンは返事をしなかった。
理屈はわかる。けれど、だからといって誰かを増やしたいとも思わない。いや、増やしたくない、が正しいのかもしれなかった。
火が小さく爆ぜる。
カヤがその音を聞きながら、ぽつりと続けた。
「お前、本当は一人旅に向いてないだろ」
その一言は、妙に静かに小屋へ落ちた。
シオンは眉をひそめた。
「何を見て言ってる」
「倒れかけたやつを中に入れて、手当てして、飯まで分ける顔」
「放っておくのが面倒なだけだ」
「そういう言い訳をするところも向いてない」
少し笑ったように言って、カヤは鍋の底を見た。
「向いてるやつは、扉を開けない」
シオンは言い返そうとして、やめた。
たしかに、扉を閉めたまま火の前へ戻ることもできたはずだ。声をかけず、息を潜めていれば、雨音に紛れてそのまま過ぎたかもしれない。やらなかった。できなかったとも言える。
それが性分だと認めるのは、少しだけ気に食わなかった。
外で、低い唸り声がした。
シオンの視線が扉へ向く。カヤも同時に顔を上げた。
「追手か」
「違う」
カヤが耳を澄ませる。
「野犬だ。血の匂いに寄ってきた」
ひとつではない。二、三。小屋の外をうかがう足音が、雨の向こうにかすかに混じる。腹を空かせた獣なら、人より質が悪いこともある。
シオンは立ち上がった。剣を取る。
「中にいろ」
「そうする」
カヤはそう返しながらも、自分の剣を手元へ引き寄せた。
シオンは外へ出た。
雨は思っていたより弱まっていたが、視界は悪い。小屋の脇、荷車の残骸の影、濡れた草のあいだに光る目が三つ。野犬は人を恐れるが、飢えていれば距離を詰める。
シオンは火の明かりを背に、一歩前へ出た。
吠え声
跳ねる泥
一頭が飛び込む
剣を振るうほどでもない。踏み込みを外し、石を蹴り上げる。鼻先に当たった犬が悲鳴を上げて退く。別の一頭が横へ回ろうとしたが、その前に小屋の中から何かが飛んだ。
短剣だった。
浅く土に刺さっただけだが、十分だった。犬たちは一斉に身を引く。扉の隙間から、カヤがこちらを見ていた。
「一つ貸しだ」
「当たってないぞ」
「牽制だよ」
その言い合いを警戒と受け取ったのか、野犬たちは低く唸ったあと、やがて雨の向こうへ消えていった。
シオンが小屋へ戻ると、火のそばの荷が少しだけ移動していた。雨の吹き込みが当たらない位置へ寄せられている。寝袋も同じだ。
「勝手に触るな」
「濡れる方が嫌だ」
カヤは悪びれずに言った。
「文句があるなら外へ戻すか」
「いい」
短く返して、シオンは剣を置いた。
火のそばへ戻ると、さっきより空間が狭くなっていた。荷を寄せたぶんだけ、二人が座る場所が自然に近くなっている。
小屋の中には、焚き火の音と雨音と、二人分の呼吸があった。
カヤが火を見ながら言う。
「北のどこまで行く」
「岬だ」
「目的は」
「灯台」
カヤは少しだけ黙った。
「見物か」
「違う」
そこでシオンも口を閉じた。全部を言う必要はなかった。言えば軽くなる気もしたし、軽くしたくもなかった。
カヤはそれ以上は訊かなかった。踏み込みすぎないやつなのだと、そのとき初めて思った。
「私も北へ行く」
代わりにそう言った。
「途中までは同じ道だ」
「そうか」
「そうか、だけか」
「別に」
「追い払わないんだな」
シオンは火を見た。
「歩けるなら好きにしろ」
「雑だな」
「面倒を見るつもりはない」
「それもさっき聞いた」
カヤは笑い、それきり目を閉じた。眠ったわけではない。ただ、痛みと疲れをやり過ごすために、じっとしているのだろう。
シオンも壁へ背を預けた。
火は小さい。けれど絶えない。
椀はひとつしか出していない。
寝袋もひとつしかない。
それでも、小屋の中はもうひとり分だけ確かに埋まっていた。
どれくらいそうしていたのか、シオンは覚えていない。
次に目を開けたとき、雨はほとんど止んでいた。
夜明けは近い。小屋の外はまだ薄暗いが、雲の向こうが白み始めている。焚き火は灰の下に赤を残していた。
カヤは先に起きていた。痛むはずの脇腹を庇いながら、それでも剣帯を締め直している。
「動けるのか」
「昨日よりは」
「そうか」
「お前は相変わらず愛想がないな」
「必要ないだろ」
「必要なさそうなのに、火だけは分けるんだよな」
言いながら、カヤは扉を押し開けた。
外の空気は冷たい。だが、雨は上がっていた。濡れた街道の向こう、雲の切れ間に朝の薄い光がのびている。
カヤは小屋の前へ出て、大きく息を吐いた。
「悪くない朝だ」
シオンは荷を背負う。火を完全に消し、灰を散らし、ランタンの位置を確かめる。やることは昨日と同じだったはずなのに、小屋の出口へ向かう足取りだけが少し違う気がした。
「じゃあ、行くか」
カヤが言った。
まるで最初から一緒に歩くことが決まっていたみたいな言い方だった。
シオンは小さく眉を寄せる。
「どこへ」
「北へ」
「勝手にしろ」
「そうさせてもらう」
カヤは先に歩き出す。傷があるぶん少し遅い。だが、止まる気配はない。
シオンはその背を見た。
追い払うことはできた。
ここで別れることもできた。
それでも、口にした言葉は結局それではなかった。
小屋の中、火のそばへ一度だけ視線を戻す。
灰の匂い。
夜の名残。
さっきまでひとり分だった場所。
そして、今はもう違う。
シオンは何も言わず、カヤのあとを追った。
濡れた街道に、足音が二つ並ぶ。
焚き火の向こうに、ようやくひとり増えた。
ひとり分で足りていたはずの夜は、そこで静かに形を変えた。