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第4話 二つの足音

ー/ー



荒野の風は、峠の風とは違う音で吹く。


乾いた土を撫で、背の低い草を一斉に伏せさせて、遠くの石壁にぶつかって消えていく。
空は高く、雲は薄い。昼を少し過ぎたばかりだというのに、日差しにはもう夕方の気配が混じり始めていた。


街道を歩いているのは二人だけだった。


先を行くのはカヤ。
少し後ろを、シオンが歩く。


荷は今より軽い。
道具も少ない。
歩幅も、互いに合わせているわけではなかった。


ただ、前へ進むならこのくらいの距離がちょうどいいと、どちらも何となく知っているだけだった。


「次の町で水を補充する」


前を向いたまま、シオンが言った。


「言われなくてもそうするつもりだった」


カヤの返事は短い。


「ついでに食えるものも買う。干し肉ばかりは飽きた」


「金があるならな」


「あるだろ」


「節約する」


「お前はたまに年寄りみたいなことを言うな」


シオンは答えなかった。


返すほどのことでもない。カヤもそれ以上は何も言わず、また風の音だけが二人のあいだを通り抜けていった。


この頃の旅は、まだこんなふうだった。
必要なことだけを言う。
聞かれたことにだけ答える。
沈黙が続いても、困りはしない。


それが悪いとも、シオンは思っていなかった。


城塞町が見えてきたのは、日が少し傾いてからだった。


荒野の中に突き出すように築かれた灰色の石壁。高くはないが厚みがあり、北へ向かう街道をそのまま飲み込むように門が開いている。門前には荷馬車が二台、旅人が数人、そして槍を持った衛兵が二人立っていた。


「思ったより人がいるな」


カヤが言う。


「北へ抜ける道はここしかない」


「だから面倒も集まるわけか」


近づくにつれ、門前のざわめきがはっきり聞こえてきた。誰かが高い声で何かを訴えている。衛兵の声も混じる。旅人たちは距離を置いて眺めていた。


二人が門の前へ着くころには、揉めている相手の顔も見えた。


若い男だった。二十歳そこそこ。旅装はしているが、剣を振るう人間の身のこなしではない。荷は革袋ひとつと、背に括りつけた細長い筒。片手には紙束を抱えるように持っていて、もう片方の手を衛兵へ向けている。


「ですから、通行証は持っていたんです。さっきまで確かに」


「持っていたなら出せ」


「だから盗まれたんですって!」


「証明できん話を門前でされても困る」


衛兵の返しは冷たかった。


若い男は一度言葉を詰まらせ、それでも食い下がる。


「北へ急ぎなんです。記録を届けないといけない」


「ならなおさら通せん。ここから先は街道荒らしも多い。身元の曖昧な人間を入れるわけにはいかない」


正論だった。だからこそ、周囲も面白がるだけで誰も助けに入らない。


カヤが足を止める。


「面倒そうだな」


「面倒事はごめんだ」


シオンはそう言って、そのまま門の列へ向かった。自分たちの通行証を出せば済む話だ。他人の揉め事に立ち止まる理由はない。


だが、横を通り過ぎる瞬間、若い男がこちらを振り向いた。


切羽詰まった目だった。


「あなたたち、北へ行くんですか」


シオンは足を止めなかった。カヤも同じだった。


「待ってください、ひとつだけ聞きたいんです。次の宿場まで、どれくらい――」


「知らない」


シオンは振り向かずに答えた。


「え」


「自分で調べろ」


そこでようやく、カヤがシオンを見た。


「冷たいな」


「関わる必要がないだろ」


「必要で動くタイプにも見えないけど」


そう言いながら、カヤは列を離れた。


シオンが眉をひそめる。


「どこへ行く」


「面倒を見るとは言ってない。少し聞くだけだ」


「同じだ」


「全然違うって」


言い切って、カヤは門前へ戻った。


若い男は一瞬だけ顔を明るくしたが、すぐに警戒を滲ませる。カヤはそれを気にした様子もなく、腕を組んだ。


「盗まれたのはいつだ」


「え」


「通行証だ。いつ、どこで」


「町へ着く少し前です。街道脇で水を飲んで、そのあと……」


「袋ごとやられたのか」


「いえ、袋はそのままです。通行証だけ抜かれていました」


シオンは少し離れた位置で聞いていた。聞くつもりはなかったが、耳に入るものを追い払うほど器用でもない。


「気づかなかったのか」


「門の前で出そうとして、初めて。いや、たぶん、途中で一度転びかけて……そのときかもしれません」


男は悔しそうに唇を噛んだ。


「名前は」


「トウマです」


「職は」


「記録士です。北方の古い街道と遺跡の位置を調べています」


「見るからにそうだな」


カヤの言い方に棘はなかった。事実をそのまま言っただけだ。


トウマは困ったように頷いた。


「だから、戦う方はあまり得意じゃなくて」


「見ればわかる」


今度はシオンが言った。


二人の視線が一度ぶつかる。トウマはその目つきの悪さに少しだけ気圧されたようだったが、それでも引かなかった。


「……本当に、通行証は持っていたんです」


「門番もそう思っているだろう」


シオンは言う。


「だが、無いものは無い」


その通りだった。だからこそ、トウマの顔はいっそう曇る。


カヤが門の外、街道脇へ目を向けた。荒野から町へ入る道は一本だ。隠れる場所は多くない。だが、獲物を選ぶ人間なら別だ。


「街道荒らしがいるって言ってたな」


ぽつりと呟く。


シオンは嫌な予感がした。


「やめておけ」


「何を」


「首を突っ込むな」


「まだ決めてない」


決めている顔だった。


カヤは踵を返し、門前の列から外れた。トウマが慌ててその背を追う。


「どこへ」


「通行証を持ってるやつが近くにいるなら、そう遠くへは行ってない」


「待ってください、そんな簡単に――」


「簡単じゃないから見に行くんだろ」


カヤは歩きながら言う。


シオンは小さく舌打ちした。面倒だ、と改めて思う。だが、ここで放って町へ入ったところで、どうせ夜までには気になってしまうのもわかっていた。


心底うんざりしながら、シオンも後を追った。


町の外れには、旅人を狙う小悪党が身を潜めるにはちょうどいい崩れ石の一帯があった。古い見張り台の残骸か、半端な壁が何枚か残り、その影に人が隠れる余地がある。


「いたとしても二、三人だ」


カヤが低く言う。


「根拠は」


「こういうのは群れない。分け前で揉めるからな」


妙に実感のある口ぶりだったが、シオンは突っ込まなかった。


トウマは周囲を見回しながらついてくる。足取りは危なっかしいが、逃げ出しはしなかった。


「通行証には私の名前が入っています。売っても意味はないはずなんですが」


「それを知らないやつが盗んだんだろ」


シオンが返す。


「あるいは、意味がなくても一日二日、足止めができれば充分だと思ったか」


「誰がそんなことを」


「敵は多いか?」


シオンの問いに、トウマは一瞬黙った。


「……多くは、ないです」


「少しはいるんだな」


「仕事柄、恨まれないわけでは」


「それを先に言え」


カヤが呆れたように言った、そのときだった。


石陰から、小さな音がした。


気配は三つ。


シオンが視線だけで合図を送る。カヤは即座に左へ開き、トウマは遅れて一歩下がった。


「見えてるぞ」


シオンが言う。


返事の代わりに、石陰から男が二人現れた。どちらも痩せているが、手にしている短剣だけは本物だった。少し遅れて、後ろからもう一人。そいつの手には、見覚えのない紙束と革の小袋があった。


トウマが息を呑む。


「それ、私の――」


「おとなしくしてれば返してやってもいいぜ」


前へ出た男が笑う。目が笑っていない。


「ただし、北へは行くな」


なるほど、とシオンは思った。
盗みそのものが目的ではない。足止めだ。通行証を奪えば、それだけで町の門は越えられない。


「お前、本当に敵が多いな」


カヤが言う。


「だから言いにくかったんです」


「それで黙るな」


トウマは返す言葉がないらしく、口を閉じた。


男たちは三人。強くはない。だが、狭い石陰では油断すれば刃が届く距離だった。


「通行証だけ置いて消えろ」


シオンが言う。


男が嗤う。


「断ったら」


「痛い目を見る」


「脅しか」


「忠告だ」


次の瞬間、男が先に動いた。


短剣の突きは速くない。だが躊躇がなく、街道で旅人を襲い慣れている動きだった。シオンは半歩だけ身をずらし、手首を払う。刃が逸れた隙に膝を入れる。男がうめいて崩れた。


右から別の男が飛び込んでくる。そちらはカヤが止めた。剣を抜くまでもなく、鞘のまま打ち上げて顎を跳ねる。よろめいた相手の背へ踵を入れ、地面へ転がした。


残る一人は逃げようとした。だが、そこで意外なことが起きる。


「左へ逃げます!」


トウマの声だった。


石壁の切れ目を見ていたのだろう。逃げ道を先に読んでいたらしい。
シオンは声の方向へ身体を向け、そのまま回り込む。逃げ出した男の前へ出る形になり、肩を押し返した。男は尻もちをつき、手にしていた袋と紙束を落とす。


それで終わった。


三人とも、立ち上がる気力は残っていなかった。群れているだけの小悪党だ。シオンとカヤの相手にはならない。だが油断していれば、トウマひとりくらいなら簡単に刺せたはずだった。


カヤが落ちた小袋を拾う。中身を覗き、紙束と一緒にトウマへ放った。


「確認しろ」


トウマは慌てて受け取り、袋の中を見た。安堵したように肩から力を抜く。


「あります……通行証も、記録も、全部」


「ならよかったな」


シオンがそう言って、踵を返す。


「待ってください」


トウマの声が追った。


「助かりました。……本当に」


振り向くと、彼は深く頭を下げていた。礼儀だけはちゃんとしているらしい。


「礼はいい」


シオンは言う。


「門へ戻れ。次は盗まれるな」


「努力します」


「努力で済めば苦労しない」


カヤが呟く。


三人で町へ戻るころには、日はだいぶ傾いていた。門前の衛兵は、通行証を見せるトウマに少しだけ驚いた顔をしたが、黙って道を開けた。面倒ごとが片づいたことの方が大事なのだろう。


町へ入る前に、トウマが立ち止まる。


「本当に、ありがとうございます」


「それはさっき聞いた」


シオンが言う。


「でも言わせてください。あの、もし迷惑でなければ――」


言い淀む。


ここでやっと、カヤが少しだけ笑った。


「北へ行くんだろ」


「はい」


「ひとりはやめておけ」


トウマは目を瞬く。喜ぶにはまだ早い、と自分でも思っている顔だった。


「ご一緒しても、いいんですか」


「私は構わないが」


カヤはそう言って、横目でシオンを見た。


面倒な視線だった。お前が決めろ、とでも言いたげな。


シオンは小さく息を吐く。


「途中までだ」


言ってから、自分でも半端だと思った。だが、完全に拒む気にもなれなかった。


トウマの顔に、ようやくはっきりと安堵が浮かぶ。


「それでも十分です」


「勘違いするな。面倒を見続けるつもりはない」


「はい」


門をくぐる。石壁の内側は、外の荒野より少しだけ暖かい。宿を探す人間、荷を運ぶ人間、湯気の立つ屋台。ざわめきが耳に入る。


けれど、そのどれより先に、シオンの耳へ残ったのは自分たちの足音だった。


先を行くカヤ。
その少し後ろを歩く自分。
そして、わずかに遅れて続くもう一つ。


二つだったはずの足音に、もうひとつ混じった。


その音は、不思議なくらい自然に道の上へ馴染んでいた。


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荒野の風は、峠の風とは違う音で吹く。
乾いた土を撫で、背の低い草を一斉に伏せさせて、遠くの石壁にぶつかって消えていく。
空は高く、雲は薄い。昼を少し過ぎたばかりだというのに、日差しにはもう夕方の気配が混じり始めていた。
街道を歩いているのは二人だけだった。
先を行くのはカヤ。
少し後ろを、シオンが歩く。
荷は今より軽い。
道具も少ない。
歩幅も、互いに合わせているわけではなかった。
ただ、前へ進むならこのくらいの距離がちょうどいいと、どちらも何となく知っているだけだった。
「次の町で水を補充する」
前を向いたまま、シオンが言った。
「言われなくてもそうするつもりだった」
カヤの返事は短い。
「ついでに食えるものも買う。干し肉ばかりは飽きた」
「金があるならな」
「あるだろ」
「節約する」
「お前はたまに年寄りみたいなことを言うな」
シオンは答えなかった。
返すほどのことでもない。カヤもそれ以上は何も言わず、また風の音だけが二人のあいだを通り抜けていった。
この頃の旅は、まだこんなふうだった。
必要なことだけを言う。
聞かれたことにだけ答える。
沈黙が続いても、困りはしない。
それが悪いとも、シオンは思っていなかった。
城塞町が見えてきたのは、日が少し傾いてからだった。
荒野の中に突き出すように築かれた灰色の石壁。高くはないが厚みがあり、北へ向かう街道をそのまま飲み込むように門が開いている。門前には荷馬車が二台、旅人が数人、そして槍を持った衛兵が二人立っていた。
「思ったより人がいるな」
カヤが言う。
「北へ抜ける道はここしかない」
「だから面倒も集まるわけか」
近づくにつれ、門前のざわめきがはっきり聞こえてきた。誰かが高い声で何かを訴えている。衛兵の声も混じる。旅人たちは距離を置いて眺めていた。
二人が門の前へ着くころには、揉めている相手の顔も見えた。
若い男だった。二十歳そこそこ。旅装はしているが、剣を振るう人間の身のこなしではない。荷は革袋ひとつと、背に括りつけた細長い筒。片手には紙束を抱えるように持っていて、もう片方の手を衛兵へ向けている。
「ですから、通行証は持っていたんです。さっきまで確かに」
「持っていたなら出せ」
「だから盗まれたんですって!」
「証明できん話を門前でされても困る」
衛兵の返しは冷たかった。
若い男は一度言葉を詰まらせ、それでも食い下がる。
「北へ急ぎなんです。記録を届けないといけない」
「ならなおさら通せん。ここから先は街道荒らしも多い。身元の曖昧な人間を入れるわけにはいかない」
正論だった。だからこそ、周囲も面白がるだけで誰も助けに入らない。
カヤが足を止める。
「面倒そうだな」
「面倒事はごめんだ」
シオンはそう言って、そのまま門の列へ向かった。自分たちの通行証を出せば済む話だ。他人の揉め事に立ち止まる理由はない。
だが、横を通り過ぎる瞬間、若い男がこちらを振り向いた。
切羽詰まった目だった。
「あなたたち、北へ行くんですか」
シオンは足を止めなかった。カヤも同じだった。
「待ってください、ひとつだけ聞きたいんです。次の宿場まで、どれくらい――」
「知らない」
シオンは振り向かずに答えた。
「え」
「自分で調べろ」
そこでようやく、カヤがシオンを見た。
「冷たいな」
「関わる必要がないだろ」
「必要で動くタイプにも見えないけど」
そう言いながら、カヤは列を離れた。
シオンが眉をひそめる。
「どこへ行く」
「面倒を見るとは言ってない。少し聞くだけだ」
「同じだ」
「全然違うって」
言い切って、カヤは門前へ戻った。
若い男は一瞬だけ顔を明るくしたが、すぐに警戒を滲ませる。カヤはそれを気にした様子もなく、腕を組んだ。
「盗まれたのはいつだ」
「え」
「通行証だ。いつ、どこで」
「町へ着く少し前です。街道脇で水を飲んで、そのあと……」
「袋ごとやられたのか」
「いえ、袋はそのままです。通行証だけ抜かれていました」
シオンは少し離れた位置で聞いていた。聞くつもりはなかったが、耳に入るものを追い払うほど器用でもない。
「気づかなかったのか」
「門の前で出そうとして、初めて。いや、たぶん、途中で一度転びかけて……そのときかもしれません」
男は悔しそうに唇を噛んだ。
「名前は」
「トウマです」
「職は」
「記録士です。北方の古い街道と遺跡の位置を調べています」
「見るからにそうだな」
カヤの言い方に棘はなかった。事実をそのまま言っただけだ。
トウマは困ったように頷いた。
「だから、戦う方はあまり得意じゃなくて」
「見ればわかる」
今度はシオンが言った。
二人の視線が一度ぶつかる。トウマはその目つきの悪さに少しだけ気圧されたようだったが、それでも引かなかった。
「……本当に、通行証は持っていたんです」
「門番もそう思っているだろう」
シオンは言う。
「だが、無いものは無い」
その通りだった。だからこそ、トウマの顔はいっそう曇る。
カヤが門の外、街道脇へ目を向けた。荒野から町へ入る道は一本だ。隠れる場所は多くない。だが、獲物を選ぶ人間なら別だ。
「街道荒らしがいるって言ってたな」
ぽつりと呟く。
シオンは嫌な予感がした。
「やめておけ」
「何を」
「首を突っ込むな」
「まだ決めてない」
決めている顔だった。
カヤは踵を返し、門前の列から外れた。トウマが慌ててその背を追う。
「どこへ」
「通行証を持ってるやつが近くにいるなら、そう遠くへは行ってない」
「待ってください、そんな簡単に――」
「簡単じゃないから見に行くんだろ」
カヤは歩きながら言う。
シオンは小さく舌打ちした。面倒だ、と改めて思う。だが、ここで放って町へ入ったところで、どうせ夜までには気になってしまうのもわかっていた。
心底うんざりしながら、シオンも後を追った。
町の外れには、旅人を狙う小悪党が身を潜めるにはちょうどいい崩れ石の一帯があった。古い見張り台の残骸か、半端な壁が何枚か残り、その影に人が隠れる余地がある。
「いたとしても二、三人だ」
カヤが低く言う。
「根拠は」
「こういうのは群れない。分け前で揉めるからな」
妙に実感のある口ぶりだったが、シオンは突っ込まなかった。
トウマは周囲を見回しながらついてくる。足取りは危なっかしいが、逃げ出しはしなかった。
「通行証には私の名前が入っています。売っても意味はないはずなんですが」
「それを知らないやつが盗んだんだろ」
シオンが返す。
「あるいは、意味がなくても一日二日、足止めができれば充分だと思ったか」
「誰がそんなことを」
「敵は多いか?」
シオンの問いに、トウマは一瞬黙った。
「……多くは、ないです」
「少しはいるんだな」
「仕事柄、恨まれないわけでは」
「それを先に言え」
カヤが呆れたように言った、そのときだった。
石陰から、小さな音がした。
気配は三つ。
シオンが視線だけで合図を送る。カヤは即座に左へ開き、トウマは遅れて一歩下がった。
「見えてるぞ」
シオンが言う。
返事の代わりに、石陰から男が二人現れた。どちらも痩せているが、手にしている短剣だけは本物だった。少し遅れて、後ろからもう一人。そいつの手には、見覚えのない紙束と革の小袋があった。
トウマが息を呑む。
「それ、私の――」
「おとなしくしてれば返してやってもいいぜ」
前へ出た男が笑う。目が笑っていない。
「ただし、北へは行くな」
なるほど、とシオンは思った。
盗みそのものが目的ではない。足止めだ。通行証を奪えば、それだけで町の門は越えられない。
「お前、本当に敵が多いな」
カヤが言う。
「だから言いにくかったんです」
「それで黙るな」
トウマは返す言葉がないらしく、口を閉じた。
男たちは三人。強くはない。だが、狭い石陰では油断すれば刃が届く距離だった。
「通行証だけ置いて消えろ」
シオンが言う。
男が嗤う。
「断ったら」
「痛い目を見る」
「脅しか」
「忠告だ」
次の瞬間、男が先に動いた。
短剣の突きは速くない。だが躊躇がなく、街道で旅人を襲い慣れている動きだった。シオンは半歩だけ身をずらし、手首を払う。刃が逸れた隙に膝を入れる。男がうめいて崩れた。
右から別の男が飛び込んでくる。そちらはカヤが止めた。剣を抜くまでもなく、鞘のまま打ち上げて顎を跳ねる。よろめいた相手の背へ踵を入れ、地面へ転がした。
残る一人は逃げようとした。だが、そこで意外なことが起きる。
「左へ逃げます!」
トウマの声だった。
石壁の切れ目を見ていたのだろう。逃げ道を先に読んでいたらしい。
シオンは声の方向へ身体を向け、そのまま回り込む。逃げ出した男の前へ出る形になり、肩を押し返した。男は尻もちをつき、手にしていた袋と紙束を落とす。
それで終わった。
三人とも、立ち上がる気力は残っていなかった。群れているだけの小悪党だ。シオンとカヤの相手にはならない。だが油断していれば、トウマひとりくらいなら簡単に刺せたはずだった。
カヤが落ちた小袋を拾う。中身を覗き、紙束と一緒にトウマへ放った。
「確認しろ」
トウマは慌てて受け取り、袋の中を見た。安堵したように肩から力を抜く。
「あります……通行証も、記録も、全部」
「ならよかったな」
シオンがそう言って、踵を返す。
「待ってください」
トウマの声が追った。
「助かりました。……本当に」
振り向くと、彼は深く頭を下げていた。礼儀だけはちゃんとしているらしい。
「礼はいい」
シオンは言う。
「門へ戻れ。次は盗まれるな」
「努力します」
「努力で済めば苦労しない」
カヤが呟く。
三人で町へ戻るころには、日はだいぶ傾いていた。門前の衛兵は、通行証を見せるトウマに少しだけ驚いた顔をしたが、黙って道を開けた。面倒ごとが片づいたことの方が大事なのだろう。
町へ入る前に、トウマが立ち止まる。
「本当に、ありがとうございます」
「それはさっき聞いた」
シオンが言う。
「でも言わせてください。あの、もし迷惑でなければ――」
言い淀む。
ここでやっと、カヤが少しだけ笑った。
「北へ行くんだろ」
「はい」
「ひとりはやめておけ」
トウマは目を瞬く。喜ぶにはまだ早い、と自分でも思っている顔だった。
「ご一緒しても、いいんですか」
「私は構わないが」
カヤはそう言って、横目でシオンを見た。
面倒な視線だった。お前が決めろ、とでも言いたげな。
シオンは小さく息を吐く。
「途中までだ」
言ってから、自分でも半端だと思った。だが、完全に拒む気にもなれなかった。
トウマの顔に、ようやくはっきりと安堵が浮かぶ。
「それでも十分です」
「勘違いするな。面倒を見続けるつもりはない」
「はい」
門をくぐる。石壁の内側は、外の荒野より少しだけ暖かい。宿を探す人間、荷を運ぶ人間、湯気の立つ屋台。ざわめきが耳に入る。
けれど、そのどれより先に、シオンの耳へ残ったのは自分たちの足音だった。
先を行くカヤ。
その少し後ろを歩く自分。
そして、わずかに遅れて続くもう一つ。
二つだったはずの足音に、もうひとつ混じった。
その音は、不思議なくらい自然に道の上へ馴染んでいた。