【1話】一章 一『最終試験』
ー/ー 拳が、脚が、鋭く空を切る。
修練場の冷たい石壁に背を預けながら、カムラン・リードは目の前で繰り広げられる二人の士官候補による格闘術の応酬を、半ば呆れた目で眺めていた。
一人は、涼やかな表情のまま、鋭く重い踏み込みで拳を放ち、隙を与えぬように流れるような蹴りを繰り出している。
一撃ごとに美しい黒髪をなびかせる幼馴染、ライカ・サンクティス。
それに応じるもう一人。
一回り小柄な士官候補は、ライカの連撃の前に、金糸の混じる栗色の髪がしっとりと汗に濡れながらも、必死でいなしている。それでも、迫る打撃を最小限の動きで受け流し、時には組み付いて決定機を与えていない。
未熟さは残るが、その青い目で精巧に見切っているのは、キャスティ・ブラン。少し年下の士官候補生である。
「……っ!先輩、ちょっととめてください。もう降参です!」
すっかり息の上がったキャスティが懇願するように声を出す。
「ごめん、熱が入っちゃって。……でも、すごく良くなってるよ、キャスティ!」
ライカは後輩の手を取り、底抜けの笑顔で彼女の健闘を称えた。
「……私、これでも格闘術の合格基準はとっくに満たしているはずですけどね。……そういえば、先輩方の最終試験ってもうすぐじゃないですか?」
息を整えながらキャスティが小言を漏らす。
キャスティの問いに、カムランは壁から背中を離した。
「今夜だ。だからライカは、こんな時間から無駄に気合が入ってるんだろう」
朝から疲労困憊の憂き目に遭っているキャスティを哀れに感じたカムランは、腰元の水袋を彼女に渡しながら軽口を叩いた。
「無駄に、って……。カム、わかってる?最終試験は一回限り、『不適格』になったらおしまいなんだよ?」
口を尖らせたライカは、自分には水はないのかと言わんばかりに手を伸ばす。
カムランは、ため息に小さな笑いを乗せながら、もう一つの水袋をライカに手渡すと、彼女は少し満足げに喉を潤した。
「それにさ……」
口元に残った小さな水滴を丁寧に折られた綿布でふき取ると、ライカの表情がすっと真剣なものに変わる。
「私たちをここまで育ててくれた、シルヴァン教官を失望させたくない。……もし不適格になって放逐なんてされたら、もう合わせる顔がないよ」
シルヴァン・ロディル。
その名が出た瞬間、カムランの飄々とした態度にも、わずかながら芯が入った。
熾烈な競争を常に求めるこのアンバルという国において、人の情と理性を同居させた数少ない教官は、一介の指導者を超えた存在として士官候補に支持されていた。
「……ああ、そうだな」
カムランは小さく肩をすくめ、自嘲気味に笑う。
「先輩、あの『導き手』(シルヴァン)の門下だったんですか?……知らなかった。少し、羨ましいです」
薄いそばかすの上に並んだキャスティの青い双眸は、ライカに羨望の眼差しを向けている。
「まあ、最初の数年だけだったけどね、『導き手』としてだけじゃなく優秀だったみたいで、すぐに栄転しちゃったから」
ライカは、厳しくも指導者としての愛を持ったその人を思い出すように、一瞬瞳を閉じる。
だが、そのひと時の暖かい感傷は、石床を叩く硬い靴音によって容赦なく霧消させられた。
「ご立派な『導き手』の思い出に浸るのは勝手だが、解っているな?最終試験は『実地』だ。士官校の中のお遊びじゃない。……死体で帰ってくる奴もいる」
修練場の入り口に立っていたのは、怜悧な美貌に鋼のような暗い冷たさを纏った女性だった。
アンバル公国軍士官校の監督官、カーラ・リーベンタスカ。
彼女が姿を見せた途端、キャスティは息を飲んで直立不動の姿勢をとった。カムランとライカも生真面目な士官候補としての仮面を張り直し、カーラに向き直って短く敬礼する。
「……カーラ監督官殿。朝の準備運動には少しばかり感傷が過ぎたようです」
カムランの軽口を、カーラは一瞥もせずに切り捨てた。
「貴様の減らず口は、評価に値しない。……今夜の最終試験は、通達の通り二名で一組だ。組が作れていなければ一人でやることになる。あとは『夜鷹』の報を待て」
冷たく言い放つと、カーラは試験を迎える二人を品定めするように一瞥を残して踵を返した。
遠ざかる靴音が消えた後も、修練場には重く冷たい空気がまとわりついていた。今夜、彼らの運命を決める夜が始まる。
「……カム、一応聞いておくけれど、もう別の組を作ったなんて言わないよね?」
「そうだ、と言ったら今度はその拳を俺に飛ばしてくるだろう?」
ため息交じりのカムランの回答に、ライカは満足げに微笑んだ。
◆ ◆ ◆
夜の冷気が、薄い外套を容赦なく刺し貫いてくる。
士官校を擁する公都、アンバル・ティシナ。その西端にそびえる、古い見張り塔の屋上。カムランは月明りの届かない影に身を潜めながら、規則的に星周りの刻の進みを観察していた。
「……おかしいね」
隣で同じように夜空を見据えていたライカが、たまらず小さな声を漏らした。
「もうだいぶ経ってる。もしかして、私たちが待機場所を間違えたんじゃ……」
「いや、ここであっている。それに、夜鷹からの指令がこれほど遅れたこともない」
焦りから思わず唾を飲むライカを横目に、カムランは静かに立ち上がる。
「俺たちの夜鷹は来ない。——いや、『来られない』事態が起きたのかもしれない」
「来られない、って……」
カムランに向き直ろうと、ライカも立ち上がった、その時だった。夜風に乗って、微かな鉄の臭いが二人の鼻腔をくすぐった。血の匂いだ。
カムランは無言でライカを制し、足音を殺して塔の屋上から下層の階段へと滑り降りた。暗がりの中、石段の踊り場に黒い塊が落ちている。
それは、見慣れた琥珀色の目を持つ鳥——『夜鷹』の死骸だった。
「……酷い」
ライカは口元にぎゅっと握った拳を寄せる。その死骸には、鋭利な刃物で斬られたような痕はない。まるで大きな手で無理やり握りつぶされたかのように、全身の骨が砕け、内臓が嘴から飛び出していた。異常な死に様だった。
だが、カムランの視線は死骸そのものではなく、鳥の脚に向けられていた。
「脚の筒がない。最終試験の『指令書』が抜かれている」
「そんな……でも、一体誰が?夜鷹への攻撃は重罪のはずでしょう?」
焦りと混乱で精彩を欠くライカをよそに、カムランは再び夜鷹の死骸に視線を戻した。
悲惨に圧殺されたその羽毛には、数本の灰色の毛が不自然に付着している。
「……獣の毛?しかし、獣の仕業なら、筒に用事があったとは思えない。」
二人は周囲を捜索したが、脚筒が見つかることは無かった。
「……状況を見れば、事故死を装った指令書の奪取だ。ライカ、急いで士官校へ戻ろう。事態が大きすぎる」
夜鷹の死骸を布に包み、二人は息を潜めて塔を下りた。
夜の公都を駆け抜け、士官校の琥珀門をくぐった時には、既に深夜の鐘が鳴ろうとしていた。
修練場の冷たい石壁に背を預けながら、カムラン・リードは目の前で繰り広げられる二人の士官候補による格闘術の応酬を、半ば呆れた目で眺めていた。
一人は、涼やかな表情のまま、鋭く重い踏み込みで拳を放ち、隙を与えぬように流れるような蹴りを繰り出している。
一撃ごとに美しい黒髪をなびかせる幼馴染、ライカ・サンクティス。
それに応じるもう一人。
一回り小柄な士官候補は、ライカの連撃の前に、金糸の混じる栗色の髪がしっとりと汗に濡れながらも、必死でいなしている。それでも、迫る打撃を最小限の動きで受け流し、時には組み付いて決定機を与えていない。
未熟さは残るが、その青い目で精巧に見切っているのは、キャスティ・ブラン。少し年下の士官候補生である。
「……っ!先輩、ちょっととめてください。もう降参です!」
すっかり息の上がったキャスティが懇願するように声を出す。
「ごめん、熱が入っちゃって。……でも、すごく良くなってるよ、キャスティ!」
ライカは後輩の手を取り、底抜けの笑顔で彼女の健闘を称えた。
「……私、これでも格闘術の合格基準はとっくに満たしているはずですけどね。……そういえば、先輩方の最終試験ってもうすぐじゃないですか?」
息を整えながらキャスティが小言を漏らす。
キャスティの問いに、カムランは壁から背中を離した。
「今夜だ。だからライカは、こんな時間から無駄に気合が入ってるんだろう」
朝から疲労困憊の憂き目に遭っているキャスティを哀れに感じたカムランは、腰元の水袋を彼女に渡しながら軽口を叩いた。
「無駄に、って……。カム、わかってる?最終試験は一回限り、『不適格』になったらおしまいなんだよ?」
口を尖らせたライカは、自分には水はないのかと言わんばかりに手を伸ばす。
カムランは、ため息に小さな笑いを乗せながら、もう一つの水袋をライカに手渡すと、彼女は少し満足げに喉を潤した。
「それにさ……」
口元に残った小さな水滴を丁寧に折られた綿布でふき取ると、ライカの表情がすっと真剣なものに変わる。
「私たちをここまで育ててくれた、シルヴァン教官を失望させたくない。……もし不適格になって放逐なんてされたら、もう合わせる顔がないよ」
シルヴァン・ロディル。
その名が出た瞬間、カムランの飄々とした態度にも、わずかながら芯が入った。
熾烈な競争を常に求めるこのアンバルという国において、人の情と理性を同居させた数少ない教官は、一介の指導者を超えた存在として士官候補に支持されていた。
「……ああ、そうだな」
カムランは小さく肩をすくめ、自嘲気味に笑う。
「先輩、あの『導き手』(シルヴァン)の門下だったんですか?……知らなかった。少し、羨ましいです」
薄いそばかすの上に並んだキャスティの青い双眸は、ライカに羨望の眼差しを向けている。
「まあ、最初の数年だけだったけどね、『導き手』としてだけじゃなく優秀だったみたいで、すぐに栄転しちゃったから」
ライカは、厳しくも指導者としての愛を持ったその人を思い出すように、一瞬瞳を閉じる。
だが、そのひと時の暖かい感傷は、石床を叩く硬い靴音によって容赦なく霧消させられた。
「ご立派な『導き手』の思い出に浸るのは勝手だが、解っているな?最終試験は『実地』だ。士官校の中のお遊びじゃない。……死体で帰ってくる奴もいる」
修練場の入り口に立っていたのは、怜悧な美貌に鋼のような暗い冷たさを纏った女性だった。
アンバル公国軍士官校の監督官、カーラ・リーベンタスカ。
彼女が姿を見せた途端、キャスティは息を飲んで直立不動の姿勢をとった。カムランとライカも生真面目な士官候補としての仮面を張り直し、カーラに向き直って短く敬礼する。
「……カーラ監督官殿。朝の準備運動には少しばかり感傷が過ぎたようです」
カムランの軽口を、カーラは一瞥もせずに切り捨てた。
「貴様の減らず口は、評価に値しない。……今夜の最終試験は、通達の通り二名で一組だ。組が作れていなければ一人でやることになる。あとは『夜鷹』の報を待て」
冷たく言い放つと、カーラは試験を迎える二人を品定めするように一瞥を残して踵を返した。
遠ざかる靴音が消えた後も、修練場には重く冷たい空気がまとわりついていた。今夜、彼らの運命を決める夜が始まる。
「……カム、一応聞いておくけれど、もう別の組を作ったなんて言わないよね?」
「そうだ、と言ったら今度はその拳を俺に飛ばしてくるだろう?」
ため息交じりのカムランの回答に、ライカは満足げに微笑んだ。
◆ ◆ ◆
夜の冷気が、薄い外套を容赦なく刺し貫いてくる。
士官校を擁する公都、アンバル・ティシナ。その西端にそびえる、古い見張り塔の屋上。カムランは月明りの届かない影に身を潜めながら、規則的に星周りの刻の進みを観察していた。
「……おかしいね」
隣で同じように夜空を見据えていたライカが、たまらず小さな声を漏らした。
「もうだいぶ経ってる。もしかして、私たちが待機場所を間違えたんじゃ……」
「いや、ここであっている。それに、夜鷹からの指令がこれほど遅れたこともない」
焦りから思わず唾を飲むライカを横目に、カムランは静かに立ち上がる。
「俺たちの夜鷹は来ない。——いや、『来られない』事態が起きたのかもしれない」
「来られない、って……」
カムランに向き直ろうと、ライカも立ち上がった、その時だった。夜風に乗って、微かな鉄の臭いが二人の鼻腔をくすぐった。血の匂いだ。
カムランは無言でライカを制し、足音を殺して塔の屋上から下層の階段へと滑り降りた。暗がりの中、石段の踊り場に黒い塊が落ちている。
それは、見慣れた琥珀色の目を持つ鳥——『夜鷹』の死骸だった。
「……酷い」
ライカは口元にぎゅっと握った拳を寄せる。その死骸には、鋭利な刃物で斬られたような痕はない。まるで大きな手で無理やり握りつぶされたかのように、全身の骨が砕け、内臓が嘴から飛び出していた。異常な死に様だった。
だが、カムランの視線は死骸そのものではなく、鳥の脚に向けられていた。
「脚の筒がない。最終試験の『指令書』が抜かれている」
「そんな……でも、一体誰が?夜鷹への攻撃は重罪のはずでしょう?」
焦りと混乱で精彩を欠くライカをよそに、カムランは再び夜鷹の死骸に視線を戻した。
悲惨に圧殺されたその羽毛には、数本の灰色の毛が不自然に付着している。
「……獣の毛?しかし、獣の仕業なら、筒に用事があったとは思えない。」
二人は周囲を捜索したが、脚筒が見つかることは無かった。
「……状況を見れば、事故死を装った指令書の奪取だ。ライカ、急いで士官校へ戻ろう。事態が大きすぎる」
夜鷹の死骸を布に包み、二人は息を潜めて塔を下りた。
夜の公都を駆け抜け、士官校の琥珀門をくぐった時には、既に深夜の鐘が鳴ろうとしていた。
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