10
ー/ー アリィは錯乱する暇もなく、今どうすべきかを必死に考えた。
何か、手立てはないのかと。
生き残りたいとか、怖いとか、そんな次元の話ではないのだ。
(ユオシェム様……)
月明かりだけが頼りの中、ユオだけが血だらけになって戦う。
ただただ、胸が苦しかった。
彼が血を吐いてしまうのがシルエットで分かる度に、その笑顔を思い出す。
陽気で戯けていて、容赦なく人を殺す残忍さがありながらも、アリィが嫌だと思うことは一切しなかった人。
六年も封じられてきた感情を、取り戻してくれた人なのだ。
(何か、打開策を……)
どんな策を考えても、初心者であるアリィが役に立つ想像には至らない。
想像した先にすら、死が待っているのだ。
動いたところで、悲惨な結果が待つのは目に見えている。
祈りを捧げるしかなくなり、アリィは自身の能力を思い出した。
(そうだわ、私の魔力は月……人を癒やす能力)
魔法の使い方はまだ掴めていないが、それに賭けるしかない。
「月の光よ、力を貸しなさい。女神の子孫、有明が命じます」
今の世界にとって、彼がいなくなることは重大な損失だ。
アリィはもう必死で、月夜の空に手を伸ばす。
すると――周りの音が消え、時が止まったかのように、ユオやヨグトスの姿が固まって見えた。
(夢……?)
とてつもない速度でぶつかっていたのに、別の次元にでも飛ばされたような感覚だ。
「覚悟はあるの? その力を使うと、もう逃げられないわ」
アリィは自分自身の声が、どこからか聞こえてくるのを感じる。
見上げると、月を背後に舞い降りてくるような女性がいた。
姿はアリィと瓜二つで、横髪を真っ直ぐに切った髪型まで同じだ。
それが女神だと悟るのに、刹那すらも必要なかった。
(女神様……いえ、もう一人の私)
理屈ではなく、感覚で理解する。
考えている余裕はなかった。
「あります。何があっても、逃げずに向き合います。だから……彼を助ける力をください」
必死に懇願したら、女神は微笑んだ。
鏡を見ているかのような、不思議な感覚に見舞われる。
「貴女は私、私は貴女。最初から貴女の中に、その力はあるのよ……やっと、ひとつになれるわね」
女神は白い兎を抱いていた。
その兎は清廉な青の杖に変わり、女神の手の上に浮かぶ。
もう一人の自分が念じただけで、その杖はアリィの手の上に舞い降りてきた。
女神は静かに、息を吸う。
「運命の夢杖、清らかな月の兎よ。月の主より、神秘の解放を命ずる。その力を女神の転生者・有明に授け、再び魂の盟約を結べ」
女神は確かに、アリィを転生者だと呼んだ。
何も分からないが、それが真理なのだと知る。
ゆっくりと手に舞い降りてくる杖を――夢にまで見た神秘の器を、そっと受け入れた。
「我が御霊は、運命の夢杖と共に」
女神であり、自分自身との対話の後、アリィは現実の世界でもそう呟いていた。
途端、その清らかな性質の何かが、アリィの中に流れてきて――溶け込んだような気がする。
アリィは目を閉じ、月の魔力を感じ取った。
誰にも教わっていないのに、頭の中に魔法を使う方法が浮かんでくる。
青い宝石が散りばめられた杖はペンダントとなっており、その名を呼べば操れると確信したのだ。
次に目を開くと、ユオは更に傷付いていた。
(どうして、私のために傷つくの?)
敵に対して怒りに似た感情が湧くが、それでは力が出せない。
感覚として、どうすればいいかが体に染み付いていた。
つい先ほどまでは掴めなかった感覚だが、今は魔力の使い方を完全に理解できている。
(彼を守りたい……これからも、一緒にいたい)
アリィの持つ性質は、愛が重要になるのだと――女神の記憶に刻まれていた情報が、杖が、そう叫んでいる。
誰かを大切にすることこそが愛ならば、ユオに対しては既に持ち合わせている感情だ。
「運命の夢杖、お願い」
相手を倒すよりも、大切な人を守りたい気持ちが最大限に達した時――再び杖の名を呼ぶと、ペンダントは杖の形に変化し、アリィの手中に入った。
暗い瑠璃色だったアリィの髪は、まさに有明の空のように白みを帯びてくる。
限りなく白に近い薄青色に、金色の光が差し込んだような色彩へと塗り替わった。
体が月の光に包まれ、その光がアリィに神々しいドレスを着せる。
誰が見ても、それが女神だと理解してしまう姿だった。
天に翳したアリィの杖を軸に、強大な光の柱が生まれる。
月から伸びるような光は、夜の砂漠を青白く染めた。
「女神の杖……そうか、王妃の方ではなく、姫の方が……!?」
遠くから気配を感じ取ったヨグトスは、余裕そうだった顔を歪めた。
青ざめ、翼を広げて遠くに退避しようとする。
「前提が違う!? 早く知らせねば……!」
アリィのその変化は、誰が見ても不可侵なる神聖なものだ。
前提の情報が間違っていたとしても、すぐに受け入れてしまうほどに。
「アリィ、今はダメだ……!」
ユオもまた、それは想定していなかった出来事だった。
名前を呼んでしまうほど、彼にも余裕がなくなる。
ヨグトスはそっちのけで、慌ててアリィのもとに向かおうとした。
「彼を守って!」
ユオの制止は聞こえておらず――少し離れたところで、アリィが叫ぶ。
月から伸びるような光の柱は、彼女の杖を通して拡散していく。
翳された先にはユオと、逃げようとしているヨグトスがいて――二人してその光を浴びるのだった。
柱のように降り注いだ月光は、遠くから見たら雷のように見えただろう。
光は一瞬で消えた。
ヨグトスの断末魔のような声が上がる。
数秒後には、静寂が流れた。
そして――ユオは体を蝕んでいた要因が、全て消えたのを感じる。
(これは……アリィの本来の力。今はまだ……!)
アリィが初めて力を使ったことを、ユオは改めて理解した。
そして、その魂に眠っていた、運命の夢杖を手に入れたことも。
まだ魔力に慣れていない彼女が使えば、下手をすれば命にも関わってしまう。
ユオはヨグトスがどうなったかを振り向く余裕などはなく、彼女のもとを目指した。
案の定、アリィは急に魔力を使った反動で、砂の上に倒れている。
トランが何とか体を浮かし、衝撃を緩和させたようだ。
髪の色も服装も元に戻っていて、杖もペンダントとして首に光っている。
ユオはそんな彼女を抱き上げ、呼吸を確認して安堵した。
顔についた砂を払ってやる。
(よかった……今の彼女には負荷が大きすぎる。魔力切れで済んだなら、幸いな方だ)
彼女の安否を確認し、ユオはすぐにヨグトスがいた方向を見る。
月の魔法の威力で肉体は消し去ったかと思いきや、心臓だけが残って浮遊していたのだ。
「さすが、一番星はしぶといね」
剣を投げて捕らえようとするが――心臓はひとりでに動き、猛スピードで遠くの彼方に消えていく。
(アリィの力はすごいけど、まだ完全じゃない。とは言え、ヨグトスもしばらくは復活できない……ひとまずはよかった)
ユオにとっても今はアリィの安全が第一で、それ以上はヨグトスを追わなかった。
「やれやれ、無茶なお姫様だね。初めてであんな力を使うなんて……僕にはまだ、奥の手があったんだよ?」
眠っているアリィに、戯けたような口調で言う。
彼女が息をしているのを何度も確認して、緊張を解いて脱力した。
「でもね……ごめん。君にもうひとつの姿を見せるのが怖くて、奥の手を出すのを躊躇ったんだ」
感極まり、その華奢な体をぎゅっと抱きしめてしまう。
「にゃあ……」
罰が悪そうにトランがアリィの外套の中に隠れ、ユオを見上げた。
「トラン、ご苦労様。仕方ないさ。アリィは誰かが傷付いているのを、黙って見ていられる子じゃないからね。まさか覚醒するなんて思わなかったけど」
ユオは微笑み、水色の猫を撫でた。
すると安心したのか、猫はユオの手に擦り寄っていく。
「しかし、妙だな……ヨグトスはアリィの母君を、女神の転生者だと言っていた。ということは、まだ騙せていたはずだよ。それなのに、世界政府がここまでアリィを追う理由が分からないんだよね。皇太子が執着してるだけならまだしも……何か他にあるのかな」
ユオは一人、夜空に向かって疑問を投げかける。
トランは首を傾けて「にゃあ?」と鳴いた。
その夜は何事もなかったかのように、静かに更けていった。
☽
数日後――カナンの宮殿は、皇太子シドゥルの機嫌を伺う者たちで溢れていた。
アリィが逃げてから毎夜にわたって宴を開き、侍女たちが閨の相手をする。
皇太子と関係を持った女たちは、前例なく生きて帰ってくることがなかった。
「ヨグトスが有明姫を探知したって言ってたが、三日経っても戻ってこねぇじゃねーか!」
シドゥルは宮殿中の女を次々と食い、尚も満足できずに酒に溺れる。
母親である皇后にも当たり散らしていた。
「少しは落ち着きなさい、シドゥル。ヨグトス様にも何かご事情があるのよ。あの日の夜、砂漠にすごい雷が落ちたのも関係するかも……」
イライラしながらも抑えつつ、皇后はそう言った。
遠くの帝都からも見えていた光を、人々は大きな雷だと思っていたのだ。
「遅ぇんだよ。女神の娘をいたぶれば、純度の高い〈マギカロム〉を手に入れられるって……お前が神託を受けたんだろうが」
シドゥルは鏡を見て、少し薄くなった髪に苛立ちを覚えていた。
高魔力保持者はあまり老けないとは言え、彼らは年相応の見た目だ。
毛根は衰え、体力も低下し、目の周りは小皺が目立つ。
そんな彼が求めているのは他でもなく、オーロラのような輝きを目に灯した少女だ。
(七年ほど前の予言は……女神の娘が奇跡を起こすというものだった)
暴れる息子を冷静に眺め、皇后はため息をこぼす。
(最初は意味が分からなかったけど、彼女こそが奇跡の妙薬の原料だって結論になったわね。シドゥルは有明姫の体と、彼女から作る〈マギカロム〉の究極版を欲しがって、うるさくてたまらないわ)
皇后であり、星慧教団の聖母であるマザー・エイプリルは、稀に眠っている邪神からの神託を受けることがある。
その内容がまさに、アリィを狙う思惑そのものだった。
神託を受けて出鶴を訪問し、十二歳のアリィを初めて見かけた時、本能的にそれは正しいと確信したのである。
それはシドゥルも同じで、以降は彼女に執着した。
出鶴には何度も結婚の打診をし、その度に断られてきた。
かと思えば、病気療養という名目で彼女を閉じ込めてしまう始末。
手が出せなかった折に、ようやく彼女を迎え入れる願いが叶ったのだが――あろうことか、見下していた放蕩皇子と駆け落ちしてしまったのである。
(ラニ皇妃……あの人の最愛だった女。あの女は殺したのに、今はその息子が邪魔をしてくる。殺しておけばよかった)
エイプリルは過去を思う。
皇帝が自らプロポーズしてまで迎え入れた、唯一の妃。
彼が特別に扱っていたのは、後にも先にもラニだけだった。
世界政府の決定で、ラニの処刑が決まった時も抗っていたが――連帯責任で彼女の息子たちも処刑すると言えば、皇帝はラニを泣く泣く諦めたのだ。
ラニに似ていた下の息子のティファは、エイプリルが毒殺した。
それ以降、虚ろになった皇帝はぼんやりしながら過ごしている。
皇帝が政治に興味がないのは、エイプリルにとって都合がいい。
バカで間抜けな皇子は、無能な皇太子の引き立て役になった。
だから殺さなかっただけに過ぎない。
まさかそのバカに裏切られるとは――エイプリルも思っていなかったのだ。
「世界政府も〈マギカロム〉を欲しているわ。私たちで彼女を共有するという約束だったでしょう。ヨグトス様がダメなら、また別の人が探してくれるわよ」
エイプリルは息子を宥めるように言った。
最も優秀だとされるヨグトスが派遣されたのは、アリィを本気で欲しがっている証左なのだ。
彼の目は不思議な力が宿っていて、どこにいてもその人を見つけ出すことができる。
そんな彼でも、七日ほどはアリィの姿を確認できなかったと言う。
それがようやく近くの砂漠でアリィを探知し、すぐに向かったのだが――数日経っても帰ってこないのだ。
今はそれよりも、暴れる息子をどうにかしたかった。
「そうだ、シドゥル。女神の娘ほどではないけど、良質な〈マギカロム〉を取りに行きましょう」
考えた末、皇后は息子を振り向いた。なるべく刺激しないよう、穏やかに語りかける。
「……あぁ、ひとまずそれならいいか」
暴れていたのをぴたりと止め、興味ありげにシドゥルはにやりと笑う。
ようやく終わると安堵したように、エイプリルはその詳細を息子に嬉々として告げた。
何か、手立てはないのかと。
生き残りたいとか、怖いとか、そんな次元の話ではないのだ。
(ユオシェム様……)
月明かりだけが頼りの中、ユオだけが血だらけになって戦う。
ただただ、胸が苦しかった。
彼が血を吐いてしまうのがシルエットで分かる度に、その笑顔を思い出す。
陽気で戯けていて、容赦なく人を殺す残忍さがありながらも、アリィが嫌だと思うことは一切しなかった人。
六年も封じられてきた感情を、取り戻してくれた人なのだ。
(何か、打開策を……)
どんな策を考えても、初心者であるアリィが役に立つ想像には至らない。
想像した先にすら、死が待っているのだ。
動いたところで、悲惨な結果が待つのは目に見えている。
祈りを捧げるしかなくなり、アリィは自身の能力を思い出した。
(そうだわ、私の魔力は月……人を癒やす能力)
魔法の使い方はまだ掴めていないが、それに賭けるしかない。
「月の光よ、力を貸しなさい。女神の子孫、有明が命じます」
今の世界にとって、彼がいなくなることは重大な損失だ。
アリィはもう必死で、月夜の空に手を伸ばす。
すると――周りの音が消え、時が止まったかのように、ユオやヨグトスの姿が固まって見えた。
(夢……?)
とてつもない速度でぶつかっていたのに、別の次元にでも飛ばされたような感覚だ。
「覚悟はあるの? その力を使うと、もう逃げられないわ」
アリィは自分自身の声が、どこからか聞こえてくるのを感じる。
見上げると、月を背後に舞い降りてくるような女性がいた。
姿はアリィと瓜二つで、横髪を真っ直ぐに切った髪型まで同じだ。
それが女神だと悟るのに、刹那すらも必要なかった。
(女神様……いえ、もう一人の私)
理屈ではなく、感覚で理解する。
考えている余裕はなかった。
「あります。何があっても、逃げずに向き合います。だから……彼を助ける力をください」
必死に懇願したら、女神は微笑んだ。
鏡を見ているかのような、不思議な感覚に見舞われる。
「貴女は私、私は貴女。最初から貴女の中に、その力はあるのよ……やっと、ひとつになれるわね」
女神は白い兎を抱いていた。
その兎は清廉な青の杖に変わり、女神の手の上に浮かぶ。
もう一人の自分が念じただけで、その杖はアリィの手の上に舞い降りてきた。
女神は静かに、息を吸う。
「運命の夢杖、清らかな月の兎よ。月の主より、神秘の解放を命ずる。その力を女神の転生者・有明に授け、再び魂の盟約を結べ」
女神は確かに、アリィを転生者だと呼んだ。
何も分からないが、それが真理なのだと知る。
ゆっくりと手に舞い降りてくる杖を――夢にまで見た神秘の器を、そっと受け入れた。
「我が御霊は、運命の夢杖と共に」
女神であり、自分自身との対話の後、アリィは現実の世界でもそう呟いていた。
途端、その清らかな性質の何かが、アリィの中に流れてきて――溶け込んだような気がする。
アリィは目を閉じ、月の魔力を感じ取った。
誰にも教わっていないのに、頭の中に魔法を使う方法が浮かんでくる。
青い宝石が散りばめられた杖はペンダントとなっており、その名を呼べば操れると確信したのだ。
次に目を開くと、ユオは更に傷付いていた。
(どうして、私のために傷つくの?)
敵に対して怒りに似た感情が湧くが、それでは力が出せない。
感覚として、どうすればいいかが体に染み付いていた。
つい先ほどまでは掴めなかった感覚だが、今は魔力の使い方を完全に理解できている。
(彼を守りたい……これからも、一緒にいたい)
アリィの持つ性質は、愛が重要になるのだと――女神の記憶に刻まれていた情報が、杖が、そう叫んでいる。
誰かを大切にすることこそが愛ならば、ユオに対しては既に持ち合わせている感情だ。
「運命の夢杖、お願い」
相手を倒すよりも、大切な人を守りたい気持ちが最大限に達した時――再び杖の名を呼ぶと、ペンダントは杖の形に変化し、アリィの手中に入った。
暗い瑠璃色だったアリィの髪は、まさに有明の空のように白みを帯びてくる。
限りなく白に近い薄青色に、金色の光が差し込んだような色彩へと塗り替わった。
体が月の光に包まれ、その光がアリィに神々しいドレスを着せる。
誰が見ても、それが女神だと理解してしまう姿だった。
天に翳したアリィの杖を軸に、強大な光の柱が生まれる。
月から伸びるような光は、夜の砂漠を青白く染めた。
「女神の杖……そうか、王妃の方ではなく、姫の方が……!?」
遠くから気配を感じ取ったヨグトスは、余裕そうだった顔を歪めた。
青ざめ、翼を広げて遠くに退避しようとする。
「前提が違う!? 早く知らせねば……!」
アリィのその変化は、誰が見ても不可侵なる神聖なものだ。
前提の情報が間違っていたとしても、すぐに受け入れてしまうほどに。
「アリィ、今はダメだ……!」
ユオもまた、それは想定していなかった出来事だった。
名前を呼んでしまうほど、彼にも余裕がなくなる。
ヨグトスはそっちのけで、慌ててアリィのもとに向かおうとした。
「彼を守って!」
ユオの制止は聞こえておらず――少し離れたところで、アリィが叫ぶ。
月から伸びるような光の柱は、彼女の杖を通して拡散していく。
翳された先にはユオと、逃げようとしているヨグトスがいて――二人してその光を浴びるのだった。
柱のように降り注いだ月光は、遠くから見たら雷のように見えただろう。
光は一瞬で消えた。
ヨグトスの断末魔のような声が上がる。
数秒後には、静寂が流れた。
そして――ユオは体を蝕んでいた要因が、全て消えたのを感じる。
(これは……アリィの本来の力。今はまだ……!)
アリィが初めて力を使ったことを、ユオは改めて理解した。
そして、その魂に眠っていた、運命の夢杖を手に入れたことも。
まだ魔力に慣れていない彼女が使えば、下手をすれば命にも関わってしまう。
ユオはヨグトスがどうなったかを振り向く余裕などはなく、彼女のもとを目指した。
案の定、アリィは急に魔力を使った反動で、砂の上に倒れている。
トランが何とか体を浮かし、衝撃を緩和させたようだ。
髪の色も服装も元に戻っていて、杖もペンダントとして首に光っている。
ユオはそんな彼女を抱き上げ、呼吸を確認して安堵した。
顔についた砂を払ってやる。
(よかった……今の彼女には負荷が大きすぎる。魔力切れで済んだなら、幸いな方だ)
彼女の安否を確認し、ユオはすぐにヨグトスがいた方向を見る。
月の魔法の威力で肉体は消し去ったかと思いきや、心臓だけが残って浮遊していたのだ。
「さすが、一番星はしぶといね」
剣を投げて捕らえようとするが――心臓はひとりでに動き、猛スピードで遠くの彼方に消えていく。
(アリィの力はすごいけど、まだ完全じゃない。とは言え、ヨグトスもしばらくは復活できない……ひとまずはよかった)
ユオにとっても今はアリィの安全が第一で、それ以上はヨグトスを追わなかった。
「やれやれ、無茶なお姫様だね。初めてであんな力を使うなんて……僕にはまだ、奥の手があったんだよ?」
眠っているアリィに、戯けたような口調で言う。
彼女が息をしているのを何度も確認して、緊張を解いて脱力した。
「でもね……ごめん。君にもうひとつの姿を見せるのが怖くて、奥の手を出すのを躊躇ったんだ」
感極まり、その華奢な体をぎゅっと抱きしめてしまう。
「にゃあ……」
罰が悪そうにトランがアリィの外套の中に隠れ、ユオを見上げた。
「トラン、ご苦労様。仕方ないさ。アリィは誰かが傷付いているのを、黙って見ていられる子じゃないからね。まさか覚醒するなんて思わなかったけど」
ユオは微笑み、水色の猫を撫でた。
すると安心したのか、猫はユオの手に擦り寄っていく。
「しかし、妙だな……ヨグトスはアリィの母君を、女神の転生者だと言っていた。ということは、まだ騙せていたはずだよ。それなのに、世界政府がここまでアリィを追う理由が分からないんだよね。皇太子が執着してるだけならまだしも……何か他にあるのかな」
ユオは一人、夜空に向かって疑問を投げかける。
トランは首を傾けて「にゃあ?」と鳴いた。
その夜は何事もなかったかのように、静かに更けていった。
☽
数日後――カナンの宮殿は、皇太子シドゥルの機嫌を伺う者たちで溢れていた。
アリィが逃げてから毎夜にわたって宴を開き、侍女たちが閨の相手をする。
皇太子と関係を持った女たちは、前例なく生きて帰ってくることがなかった。
「ヨグトスが有明姫を探知したって言ってたが、三日経っても戻ってこねぇじゃねーか!」
シドゥルは宮殿中の女を次々と食い、尚も満足できずに酒に溺れる。
母親である皇后にも当たり散らしていた。
「少しは落ち着きなさい、シドゥル。ヨグトス様にも何かご事情があるのよ。あの日の夜、砂漠にすごい雷が落ちたのも関係するかも……」
イライラしながらも抑えつつ、皇后はそう言った。
遠くの帝都からも見えていた光を、人々は大きな雷だと思っていたのだ。
「遅ぇんだよ。女神の娘をいたぶれば、純度の高い〈マギカロム〉を手に入れられるって……お前が神託を受けたんだろうが」
シドゥルは鏡を見て、少し薄くなった髪に苛立ちを覚えていた。
高魔力保持者はあまり老けないとは言え、彼らは年相応の見た目だ。
毛根は衰え、体力も低下し、目の周りは小皺が目立つ。
そんな彼が求めているのは他でもなく、オーロラのような輝きを目に灯した少女だ。
(七年ほど前の予言は……女神の娘が奇跡を起こすというものだった)
暴れる息子を冷静に眺め、皇后はため息をこぼす。
(最初は意味が分からなかったけど、彼女こそが奇跡の妙薬の原料だって結論になったわね。シドゥルは有明姫の体と、彼女から作る〈マギカロム〉の究極版を欲しがって、うるさくてたまらないわ)
皇后であり、星慧教団の聖母であるマザー・エイプリルは、稀に眠っている邪神からの神託を受けることがある。
その内容がまさに、アリィを狙う思惑そのものだった。
神託を受けて出鶴を訪問し、十二歳のアリィを初めて見かけた時、本能的にそれは正しいと確信したのである。
それはシドゥルも同じで、以降は彼女に執着した。
出鶴には何度も結婚の打診をし、その度に断られてきた。
かと思えば、病気療養という名目で彼女を閉じ込めてしまう始末。
手が出せなかった折に、ようやく彼女を迎え入れる願いが叶ったのだが――あろうことか、見下していた放蕩皇子と駆け落ちしてしまったのである。
(ラニ皇妃……あの人の最愛だった女。あの女は殺したのに、今はその息子が邪魔をしてくる。殺しておけばよかった)
エイプリルは過去を思う。
皇帝が自らプロポーズしてまで迎え入れた、唯一の妃。
彼が特別に扱っていたのは、後にも先にもラニだけだった。
世界政府の決定で、ラニの処刑が決まった時も抗っていたが――連帯責任で彼女の息子たちも処刑すると言えば、皇帝はラニを泣く泣く諦めたのだ。
ラニに似ていた下の息子のティファは、エイプリルが毒殺した。
それ以降、虚ろになった皇帝はぼんやりしながら過ごしている。
皇帝が政治に興味がないのは、エイプリルにとって都合がいい。
バカで間抜けな皇子は、無能な皇太子の引き立て役になった。
だから殺さなかっただけに過ぎない。
まさかそのバカに裏切られるとは――エイプリルも思っていなかったのだ。
「世界政府も〈マギカロム〉を欲しているわ。私たちで彼女を共有するという約束だったでしょう。ヨグトス様がダメなら、また別の人が探してくれるわよ」
エイプリルは息子を宥めるように言った。
最も優秀だとされるヨグトスが派遣されたのは、アリィを本気で欲しがっている証左なのだ。
彼の目は不思議な力が宿っていて、どこにいてもその人を見つけ出すことができる。
そんな彼でも、七日ほどはアリィの姿を確認できなかったと言う。
それがようやく近くの砂漠でアリィを探知し、すぐに向かったのだが――数日経っても帰ってこないのだ。
今はそれよりも、暴れる息子をどうにかしたかった。
「そうだ、シドゥル。女神の娘ほどではないけど、良質な〈マギカロム〉を取りに行きましょう」
考えた末、皇后は息子を振り向いた。なるべく刺激しないよう、穏やかに語りかける。
「……あぁ、ひとまずそれならいいか」
暴れていたのをぴたりと止め、興味ありげにシドゥルはにやりと笑う。
ようやく終わると安堵したように、エイプリルはその詳細を息子に嬉々として告げた。
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