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09

ー/ー



 ヨグトス――変わった名の少年は、丁寧に頭を下げる。

「ごきげんよう、有明姫様。貴女を連れ戻しに参りました」

 目の下のくまがひどく、冷たい目は笑っていない。

 アリィは彼に対して、生理的な恐怖を感じていた。

 実際にはただの美しい少年で、言葉はいつも丁寧なのに。

(そうよ、おかしいもの。あの人は、六年前から年を取っていない……)

 アリィがヨグトスを最後に見たのは、閉じ込められる前だ。

 彼は兄と同い年で、学生時代の友達。

 それは情報として分かっている。

 既に成人している筈なのに、その頃とまるで変わっていなかった。

「ヨグトス……」

 ユオはその名を聞いて視線を冷やし、復唱するように呟く。

「世界政府の職員よ。私たち王族を監視していたの。お兄様の学友だったのに、裏切って世界政府に付いたのよ」

 アリィは焦っていて、ユオの様子が少し変なことに気付けない。

 ただ、情報を共有しようと必死だった。

「あぁ、それなら君のお兄さんから聞いたことがある。今の姿を見たのは初めてだな……」

 ユオは警戒を解いていないが、強張るアリィを安心させるように柔らかな口調で話す。

 視線はじっとヨグトスに向いており、僅かな動きすら見逃さずに睨んでいた。

(シノから聞いた話では、僕らと同い年だと言ってたけど……妙に若いな。ティファと同じくらいに見える)

 アリィの兄は二十歳で、ユオと同い年だ。

 それにも関わらず、ヨグトスはまだ十四歳くらいの少年に見える。

 服からも分かる細い腕に、半丈の履物からは折れそうな細い脚が覗く。

 少なくとも、成人男性の装いではない。

 格好だけならまだしも、声も変声期途中のような高さだ。

 肉体的にも、何もかも、成人男性とは言い難い。

(怖い……戻りたくなんかない。でも、ユオシェム様が殺されてしまうのは、もっと嫌)

 やっと幸せな居場所を見つけられた。

 アリィは今までの恐怖とすら、決別しようとしていた。

 そんな門出だったのに、すぐに見つかってしまって泣きそうになる。

 冷や汗と動悸に襲われた。

 ヨグトスに付いて行きたくなんてない。

 でも、そうしないとユオが殺されてしまうのではと――そこはかとない恐怖に胸を締め付けられた。

「私が行ったら、彼を殺さないでくれる……?」

 ユオの背後から咄嗟に出たアリィの声は、震えていた。

 それでも芯は強く、ユオを守ろうとしての行動だ。

「まぁ、いいでしょう。その役立たずの皇子がいたところで、こちらに支障はない。さぁ、姫様。戻りましょう」

 ヨグトスは余裕そうに答え、離れたところから穏便に手を差し出す。

 仕草などは柔らかいが、表情は暗くてよく見えない。

「行かないで。僕は大丈夫だから。君はトランから離れないでね」

 ユオは動こうとする彼女を制した。

 片時も敵から目を離さず、後ろ手で服を引き、アリィの手をゆっくりと解かせる。

「だけど、勝てっこないわ。世界政府の職員は強いの。魔法も使うし、お兄様もやられたことがあって……」

 アリィは昔のトラウマを吐露した。

 まだ閉じ込められる前――兄を裏切って、ヨグトスは世界政府に寝返った。

 そんな彼は再び王宮にやってくるなり、兄と剣術の勝負を挑んだ。

 そして、強いはずの兄はあっさり負け、死にそうなほどの大怪我を負った。

 それからは、監視役として彼が出鶴に常駐した。

 息苦しいくらい、監視される日々が続いたのである。

 特に兄においては、プライベートなんてなかったくらいだ。

(ヨグトスはなぜだか、お兄様がどこにいても特定した……不思議な力があるのは確かよ)

 ユオが強いのは分かっていても、勝てる気がしない。

 アリィは肌で感じて震える。

「聞いたことがあるよ。君のお兄さんが剣で勝てなかったってね。だけど、僕は君のお兄さんよりも強い。たとえそうじゃなくても、婚約者を他の男に渡すことなんてしないよ」

 アリィを守ることの決意は深く、ユオの声色は低くなる。

 彼女に背を向けて、優しい口調で話しているが、瞳はずっと冷えていた。

 普段からは想像できないほどに鋭く、敵の隙を窺っていたのだ。

「トラン」

「にゃっ!」

 ユオが号令を出すと同時に、トランが透明な膜のような結界でアリィを包み込む。

 かと思えば――砂嵐のように乾いた砂が舞い上がっていた。

 トランの結界で、アリィに降り注ぐ砂埃が遮断される。

(何が起こっているの……?)

 その間、一秒にも満たなかっただろう――現にアリィが瞬きをした瞬間、焚き火も消えてしまっていた。

 ユオは傍からいなくなっていて、ヨグトスと距離を詰めていたのだ。

 瞬時に剣を取り出してたユオは、抵抗する間もない速さでヨグトスの両眼を潰す。

「写真で見た顔と、違う……!?」

 視界が闇に沈む直前――ヨグトスはユオの顔をしっかりと見た。

 つい口をついてその言葉が出ていたくらい、彼には青天の霹靂だったのだ。

 たったそれだけの油断のせいか――僅かに動く余裕もないまま、急に攻撃を受けて混乱したのだった。

 ユオの長い剣は両眼を巻き込み、頭蓋を貫いていた。

 大量に垂れる血が、砂漠の渇いた砂に染み込んでいく。

 剣に纏った禍々しい闇が、じわじわとその傷口に溶けていった。

「久し振りだね、ヨグトス殿。油断してくれていてよかったよ」

 ユオは反撃を回避し、剣を抜いてヨグトスと距離を取った。

 すると、相手もすぐに何事かを察したのか――次の攻撃はあっさりと回避する。

「ナイアラトか。裏切り者がまさか、放蕩皇子として生きていたとはな。本物を殺して成り代わったか? 相変わらず人間で遊んでいるのか」

 ヨグトスは激昂せず、至って冷静だ。

 顔の上半分が潰れてしまっているが、口元だけ妙に釣り上げてそう言った。

 頭部の傷は塞がっていくが、両眼だけは空洞のまま再生しない。

(ナイアラト? 裏切り者? 何を言っているの……?)

 離れたところにいるアリィには、ヨグトスが何を言っているのか、全く理解できなかった。

「一時的に、僕の目の再生を止めたか。確かに、お前にだけ出来る技だな」

 普通の人間では、即死レベルの致命傷である。

 ましてや回復する筈もないのに、ヨグトスはユオの技に感心するばかりだった。

(あんなのおかしいわ。治癒魔法というわけでもなさそう。ヨグトスは、人間じゃないの……?)

 砂埃が晴れていく中で、アリィはようやくその異常な光景を認識した。

 思わず息を呑む。

 凄惨な場面に目を背けながらも、あまりに非現実的すぎるのだ。

 夢でも見ているかのような感覚に陥った。

「すぐに殺せると思っていたが……放蕩皇子の中身がお前だとは、番狂わせだな。そうまでして、女神に仕えるのか?」

 ヨグトスの発言に、ユオは余裕そうな微笑みを見せる。

「説明しても、君に人の気持ちは分からないだろう?」

「お前が人だと言うのか? 笑わせる」

 雑談をしているようで、その間にも激しい戦闘が繰り広げられる。

 闇を纏った剣を目にも留まらぬ速さで捌くユオ。

 目を潰されたヨグトスも、それらを全て避けきっていた。

 そんな中で、ヨグトスはユオから距離を取り、戦況は変わる。

 禍々しいオーラを出し、背中から蝶のような翼を生やした。

 黒い鱗粉を撒き散らし、数メートルほど先にいるアリィの方まで降ってくる勢いだった。

「何、あれ……」

 それは、世界の終わりを示すかのような黒い粉。

 トランの作った結界に触れると同時に消え去り、アリィは守られながらも、恐ろしくて身が竦む。

 一方で、ユオはそれを吸わないようにと心がけたが――繊細に砕かれた粒子を吸わないのは、まず不可能だ。

 咄嗟に結界を作ったが、一瞬の遅れが仇となる。

 僅かながらも、肺にそれを取り込んでしまったのだ。

(やっぱり、これは避けられなかった。アリィに被害がないならいいか)

 ユオは自身の体よりも、アリィが無事であることに安堵して敵と向き合う。

「知っているだろうが、その鱗粉は黴のように増殖する。毒とも違う。少しでも吸い込めば、多くの人間は数分以内に死ぬだろうが……今のお前はどうだろうな?」

 ヨグトスは宙に浮き、試すようにしてそう言った。

(確かに、普通の人間なら危ないな)

 ユオもそれは分かっていた。

 吸い込んだ瞬間に激痛が走り、体の奥から溢れてくる血の塊を吐き出さずにはいられなくなる。

 片膝をつき、剣で体を支えながら耐えた。

「以前のお前なら、これくらいすぐに分解できていた筈だが……やはり、そういうことか」

 ユオの様子を見て、ヨグトスは何かを理解したように笑った。

「あれは女神の娘だぞ。お前を慕う者は多くいる。もう一度、我らのもとに戻ってくればいいものを」

 そして、ヨグトスは講釈を垂れながら、ユオを誘った。

 元々は仲間であったと言わんばかりに。

「お喋りする暇があるのかい?」

 ユオは血まみれの顔で起き上がり、剣を突き上げる。

 刃は腕を切り落とし、また魔力を注ごうとしたが――たった一秒にも満たない動作が間に合わず、すぐに生えてきてしまった。

(目だけは塞げた。でも、一時的なものだ。生命に関わる部分の再生は止められない。あいつはまだ、完全には殺せない)

 ユオは血反吐を吐きながらも冷静で、体の痛みなど気にもしていなかった。

 どうすれば油断を誘えるか、そればかりを考える。

「ユオシェム様……」

「君はそこにいて」

 アリィはユオに危機が迫っていることを知り、無意識に駆け寄りそうになった。

 本人に優しい声色で止められ、はっとさせられてそこに居直る。

(女神の娘って、きっと私のことよね……?)

 考える余裕もあまりなく、ただ喜代古の言葉を思い出すに留まる。

“姫様の母親は頭がおかしいですからね。自分は女神の転生者だと言い張って、国王陛下の気を引いたんですよ”

 この時にもなって憎たらしい顔を思い出してしまうことに、アリィは嫌気が差した。

 ただでさえ、今は足手まといだ。

 動いても、動かなくても、ユオの枷にしかならない。

 見ていることしかできず、歯がゆい思いをした。

 旅に出る前に、少しでも魔法を使えるようになっていれば。

 筋力が弱いからと止められたが、無理してでも剣術を学んでいれば。

 こうして誰かを盾にして、見ているだけの自分はいなかったのかも知れない――。

(私は……役立たずね)

 アリィはこれまで何も出来なかった人生を、ここまで悔いることはなかった。

「あはは、久々に楽しい戦いだ。あいにく、僕はもう戻らないよ。そっちはつまらない工作ばかりで、とうの昔に飽きてたんだ」

 アリィから少し離れた戦場にて、ユオは血を吐きながらも笑い飛ばした。

 彼女が無事だからこそ、笑っていられる。

 体の内部が侵食されていても、恐怖すら感じていないのだ。

「そうか。二番星(・・・)の座は空けてあったんだが……殺すしかないな。今のお前の命が、いくつあるのかも興味深い」

 そんな挑発に激昂する相手でもなく、ヨグトスは冷静に判断したようだ。

 今度は針が雨のように降ってきた。

 ユオは軽い身のこなしで避け切る。

 避けた後に襲ってくる肺のダメージに、また血を吐いてしまう。

(ヨグトスの慢心が出てきた。そろそろ……奥の手を出すしかないかな)

 ユオは何とか耐えつつ、ヨグトスの肩から腰までを一気に切り裂いた。

 けれども、両眼を貫いた時のように――魔力が体内に流れなければ、速すぎる再生を避けられない。

 斬る動作と魔力を流す動作はほぼ同時にできるが、ほんの僅かなタイムラグがあるのが難点であった。

「その体で生きているのが奇跡なくらいだな。僕はすぐに回復するが、お前に同族としての特性は残っていないか」

 両眼を失ったとはいえ、ヨグトスの他の部位はすぐに再生させてしまう。

 斬りつけた傷も一瞬で回復し、余裕そうな微笑みを絶やさなかった。

 対するユオは息を切らし、呼吸をすることすら難しそうだ。

 舞ってくる鱗粉を自身の魔力で防いだとして、既に吸ってしまった分は蓄積されてしまっている。

「女神は覚醒しない。諦めろ、ナイアラト。この惑星の人類にも、既に勝ち目はないのだ」

 ヨグトスは勝利を確信したのか、ユオにそんなことを言っていた。


 離れたところで見守るアリィは、泣きそうになりながら、何とか立ち続けた。

(いいえ、違うわ。ユオシェム様が、私は役に立つって言ってくれたもの。彼の勝利を疑ってはダメよ!)

 そう奮い立たせるが、戦いなど知らないアリィから見ても、劣勢なのはユオの方だった。

 二人の会話は断片的に名詞がちらほらと聞こえていたが、今はその意味を考える余裕もない。

 ただ、ユオの無事を願うばかりだった。


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 ヨグトス――変わった名の少年は、丁寧に頭を下げる。
「ごきげんよう、有明姫様。貴女を連れ戻しに参りました」
 目の下のくまがひどく、冷たい目は笑っていない。
 アリィは彼に対して、生理的な恐怖を感じていた。
 実際にはただの美しい少年で、言葉はいつも丁寧なのに。
(そうよ、おかしいもの。あの人は、六年前から年を取っていない……)
 アリィがヨグトスを最後に見たのは、閉じ込められる前だ。
 彼は兄と同い年で、学生時代の友達。
 それは情報として分かっている。
 既に成人している筈なのに、その頃とまるで変わっていなかった。
「ヨグトス……」
 ユオはその名を聞いて視線を冷やし、復唱するように呟く。
「世界政府の職員よ。私たち王族を監視していたの。お兄様の学友だったのに、裏切って世界政府に付いたのよ」
 アリィは焦っていて、ユオの様子が少し変なことに気付けない。
 ただ、情報を共有しようと必死だった。
「あぁ、それなら君のお兄さんから聞いたことがある。今の姿を見たのは初めてだな……」
 ユオは警戒を解いていないが、強張るアリィを安心させるように柔らかな口調で話す。
 視線はじっとヨグトスに向いており、僅かな動きすら見逃さずに睨んでいた。
(シノから聞いた話では、僕らと同い年だと言ってたけど……妙に若いな。ティファと同じくらいに見える)
 アリィの兄は二十歳で、ユオと同い年だ。
 それにも関わらず、ヨグトスはまだ十四歳くらいの少年に見える。
 服からも分かる細い腕に、半丈の履物からは折れそうな細い脚が覗く。
 少なくとも、成人男性の装いではない。
 格好だけならまだしも、声も変声期途中のような高さだ。
 肉体的にも、何もかも、成人男性とは言い難い。
(怖い……戻りたくなんかない。でも、ユオシェム様が殺されてしまうのは、もっと嫌)
 やっと幸せな居場所を見つけられた。
 アリィは今までの恐怖とすら、決別しようとしていた。
 そんな門出だったのに、すぐに見つかってしまって泣きそうになる。
 冷や汗と動悸に襲われた。
 ヨグトスに付いて行きたくなんてない。
 でも、そうしないとユオが殺されてしまうのではと――そこはかとない恐怖に胸を締め付けられた。
「私が行ったら、彼を殺さないでくれる……?」
 ユオの背後から咄嗟に出たアリィの声は、震えていた。
 それでも芯は強く、ユオを守ろうとしての行動だ。
「まぁ、いいでしょう。その役立たずの皇子がいたところで、こちらに支障はない。さぁ、姫様。戻りましょう」
 ヨグトスは余裕そうに答え、離れたところから穏便に手を差し出す。
 仕草などは柔らかいが、表情は暗くてよく見えない。
「行かないで。僕は大丈夫だから。君はトランから離れないでね」
 ユオは動こうとする彼女を制した。
 片時も敵から目を離さず、後ろ手で服を引き、アリィの手をゆっくりと解かせる。
「だけど、勝てっこないわ。世界政府の職員は強いの。魔法も使うし、お兄様もやられたことがあって……」
 アリィは昔のトラウマを吐露した。
 まだ閉じ込められる前――兄を裏切って、ヨグトスは世界政府に寝返った。
 そんな彼は再び王宮にやってくるなり、兄と剣術の勝負を挑んだ。
 そして、強いはずの兄はあっさり負け、死にそうなほどの大怪我を負った。
 それからは、監視役として彼が出鶴に常駐した。
 息苦しいくらい、監視される日々が続いたのである。
 特に兄においては、プライベートなんてなかったくらいだ。
(ヨグトスはなぜだか、お兄様がどこにいても特定した……不思議な力があるのは確かよ)
 ユオが強いのは分かっていても、勝てる気がしない。
 アリィは肌で感じて震える。
「聞いたことがあるよ。君のお兄さんが剣で勝てなかったってね。だけど、僕は君のお兄さんよりも強い。たとえそうじゃなくても、婚約者を他の男に渡すことなんてしないよ」
 アリィを守ることの決意は深く、ユオの声色は低くなる。
 彼女に背を向けて、優しい口調で話しているが、瞳はずっと冷えていた。
 普段からは想像できないほどに鋭く、敵の隙を窺っていたのだ。
「トラン」
「にゃっ!」
 ユオが号令を出すと同時に、トランが透明な膜のような結界でアリィを包み込む。
 かと思えば――砂嵐のように乾いた砂が舞い上がっていた。
 トランの結界で、アリィに降り注ぐ砂埃が遮断される。
(何が起こっているの……?)
 その間、一秒にも満たなかっただろう――現にアリィが瞬きをした瞬間、焚き火も消えてしまっていた。
 ユオは傍からいなくなっていて、ヨグトスと距離を詰めていたのだ。
 瞬時に剣を取り出してたユオは、抵抗する間もない速さでヨグトスの両眼を潰す。
「写真で見た顔と、違う……!?」
 視界が闇に沈む直前――ヨグトスはユオの顔をしっかりと見た。
 つい口をついてその言葉が出ていたくらい、彼には青天の霹靂だったのだ。
 たったそれだけの油断のせいか――僅かに動く余裕もないまま、急に攻撃を受けて混乱したのだった。
 ユオの長い剣は両眼を巻き込み、頭蓋を貫いていた。
 大量に垂れる血が、砂漠の渇いた砂に染み込んでいく。
 剣に纏った禍々しい闇が、じわじわとその傷口に溶けていった。
「久し振りだね、ヨグトス殿。油断してくれていてよかったよ」
 ユオは反撃を回避し、剣を抜いてヨグトスと距離を取った。
 すると、相手もすぐに何事かを察したのか――次の攻撃はあっさりと回避する。
「ナイアラトか。裏切り者がまさか、放蕩皇子として生きていたとはな。本物を殺して成り代わったか? 相変わらず人間で遊んでいるのか」
 ヨグトスは激昂せず、至って冷静だ。
 顔の上半分が潰れてしまっているが、口元だけ妙に釣り上げてそう言った。
 頭部の傷は塞がっていくが、両眼だけは空洞のまま再生しない。
(ナイアラト? 裏切り者? 何を言っているの……?)
 離れたところにいるアリィには、ヨグトスが何を言っているのか、全く理解できなかった。
「一時的に、僕の目の再生を止めたか。確かに、お前にだけ出来る技だな」
 普通の人間では、即死レベルの致命傷である。
 ましてや回復する筈もないのに、ヨグトスはユオの技に感心するばかりだった。
(あんなのおかしいわ。治癒魔法というわけでもなさそう。ヨグトスは、人間じゃないの……?)
 砂埃が晴れていく中で、アリィはようやくその異常な光景を認識した。
 思わず息を呑む。
 凄惨な場面に目を背けながらも、あまりに非現実的すぎるのだ。
 夢でも見ているかのような感覚に陥った。
「すぐに殺せると思っていたが……放蕩皇子の中身がお前だとは、番狂わせだな。そうまでして、女神に仕えるのか?」
 ヨグトスの発言に、ユオは余裕そうな微笑みを見せる。
「説明しても、君に人の気持ちは分からないだろう?」
「お前が人だと言うのか? 笑わせる」
 雑談をしているようで、その間にも激しい戦闘が繰り広げられる。
 闇を纏った剣を目にも留まらぬ速さで捌くユオ。
 目を潰されたヨグトスも、それらを全て避けきっていた。
 そんな中で、ヨグトスはユオから距離を取り、戦況は変わる。
 禍々しいオーラを出し、背中から蝶のような翼を生やした。
 黒い鱗粉を撒き散らし、数メートルほど先にいるアリィの方まで降ってくる勢いだった。
「何、あれ……」
 それは、世界の終わりを示すかのような黒い粉。
 トランの作った結界に触れると同時に消え去り、アリィは守られながらも、恐ろしくて身が竦む。
 一方で、ユオはそれを吸わないようにと心がけたが――繊細に砕かれた粒子を吸わないのは、まず不可能だ。
 咄嗟に結界を作ったが、一瞬の遅れが仇となる。
 僅かながらも、肺にそれを取り込んでしまったのだ。
(やっぱり、これは避けられなかった。アリィに被害がないならいいか)
 ユオは自身の体よりも、アリィが無事であることに安堵して敵と向き合う。
「知っているだろうが、その鱗粉は黴のように増殖する。毒とも違う。少しでも吸い込めば、多くの人間は数分以内に死ぬだろうが……今のお前はどうだろうな?」
 ヨグトスは宙に浮き、試すようにしてそう言った。
(確かに、普通の人間なら危ないな)
 ユオもそれは分かっていた。
 吸い込んだ瞬間に激痛が走り、体の奥から溢れてくる血の塊を吐き出さずにはいられなくなる。
 片膝をつき、剣で体を支えながら耐えた。
「以前のお前なら、これくらいすぐに分解できていた筈だが……やはり、そういうことか」
 ユオの様子を見て、ヨグトスは何かを理解したように笑った。
「あれは女神の娘だぞ。お前を慕う者は多くいる。もう一度、我らのもとに戻ってくればいいものを」
 そして、ヨグトスは講釈を垂れながら、ユオを誘った。
 元々は仲間であったと言わんばかりに。
「お喋りする暇があるのかい?」
 ユオは血まみれの顔で起き上がり、剣を突き上げる。
 刃は腕を切り落とし、また魔力を注ごうとしたが――たった一秒にも満たない動作が間に合わず、すぐに生えてきてしまった。
(目だけは塞げた。でも、一時的なものだ。生命に関わる部分の再生は止められない。あいつはまだ、完全には殺せない)
 ユオは血反吐を吐きながらも冷静で、体の痛みなど気にもしていなかった。
 どうすれば油断を誘えるか、そればかりを考える。
「ユオシェム様……」
「君はそこにいて」
 アリィはユオに危機が迫っていることを知り、無意識に駆け寄りそうになった。
 本人に優しい声色で止められ、はっとさせられてそこに居直る。
(女神の娘って、きっと私のことよね……?)
 考える余裕もあまりなく、ただ喜代古の言葉を思い出すに留まる。
“姫様の母親は頭がおかしいですからね。自分は女神の転生者だと言い張って、国王陛下の気を引いたんですよ”
 この時にもなって憎たらしい顔を思い出してしまうことに、アリィは嫌気が差した。
 ただでさえ、今は足手まといだ。
 動いても、動かなくても、ユオの枷にしかならない。
 見ていることしかできず、歯がゆい思いをした。
 旅に出る前に、少しでも魔法を使えるようになっていれば。
 筋力が弱いからと止められたが、無理してでも剣術を学んでいれば。
 こうして誰かを盾にして、見ているだけの自分はいなかったのかも知れない――。
(私は……役立たずね)
 アリィはこれまで何も出来なかった人生を、ここまで悔いることはなかった。
「あはは、久々に楽しい戦いだ。あいにく、僕はもう戻らないよ。そっちはつまらない工作ばかりで、とうの昔に飽きてたんだ」
 アリィから少し離れた戦場にて、ユオは血を吐きながらも笑い飛ばした。
 彼女が無事だからこそ、笑っていられる。
 体の内部が侵食されていても、恐怖すら感じていないのだ。
「そうか。|二番星《・・・》の座は空けてあったんだが……殺すしかないな。今のお前の命が、いくつあるのかも興味深い」
 そんな挑発に激昂する相手でもなく、ヨグトスは冷静に判断したようだ。
 今度は針が雨のように降ってきた。
 ユオは軽い身のこなしで避け切る。
 避けた後に襲ってくる肺のダメージに、また血を吐いてしまう。
(ヨグトスの慢心が出てきた。そろそろ……奥の手を出すしかないかな)
 ユオは何とか耐えつつ、ヨグトスの肩から腰までを一気に切り裂いた。
 けれども、両眼を貫いた時のように――魔力が体内に流れなければ、速すぎる再生を避けられない。
 斬る動作と魔力を流す動作はほぼ同時にできるが、ほんの僅かなタイムラグがあるのが難点であった。
「その体で生きているのが奇跡なくらいだな。僕はすぐに回復するが、お前に同族としての特性は残っていないか」
 両眼を失ったとはいえ、ヨグトスの他の部位はすぐに再生させてしまう。
 斬りつけた傷も一瞬で回復し、余裕そうな微笑みを絶やさなかった。
 対するユオは息を切らし、呼吸をすることすら難しそうだ。
 舞ってくる鱗粉を自身の魔力で防いだとして、既に吸ってしまった分は蓄積されてしまっている。
「女神は覚醒しない。諦めろ、ナイアラト。この惑星の人類にも、既に勝ち目はないのだ」
 ヨグトスは勝利を確信したのか、ユオにそんなことを言っていた。
 離れたところで見守るアリィは、泣きそうになりながら、何とか立ち続けた。
(いいえ、違うわ。ユオシェム様が、私は役に立つって言ってくれたもの。彼の勝利を疑ってはダメよ!)
 そう奮い立たせるが、戦いなど知らないアリィから見ても、劣勢なのはユオの方だった。
 二人の会話は断片的に名詞がちらほらと聞こえていたが、今はその意味を考える余裕もない。
 ただ、ユオの無事を願うばかりだった。