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異郷の神

ー/ー



 潮の匂いが海風に乗って鼻先をくすぐった。

 湿り気を含んだ風が、長い外套の裾をわずかに揺らす。
 石畳はところどころ濡れて黒ずみ、港へ続く道の先には、帆を下ろした船がいくつも影を重ねていた。
 縄のきしむ音、荷を運ぶ男たちの怒鳴り声、魚を並べる店先の威勢のいい声。
 町は昼の熱をまだ残したまま、海の側らしい雑多なざわめきに包まれていた。



 クロードはフラップキャップのつばを指で少し上げ、その光景を横目に広場の方へと足を運んだ。

 この港町に着くまで、ろくな物を食べていない。
 まずはどこかで食事をとろうと、広場に面した店の看板をひとつひとつ眺めていく。

 広場の端に、小さな人だかりがあった。

 珍しくもない。
 旅芸人か、薬売りか、賭場崩れの口上屋か。

 そう思って通り過ぎようとしたクロードの耳に、外国訛りの言葉が聞こえてきた。

「死者は、死者の国へゆくべきなのです」

 人混みの中にあってもよく通る声だった。
 声の主は、見慣れない衣をまとった青年だった。
 色あせた長衣の上に異国独特の外套を羽織り、胸元には銀色のペンダントが下がっている。そこに刻まれているのは、見知らぬ神の姿だった。

「人はみな、神の御許へ還るためにある。死を留めるのは、自然の摂理に逆らうことなのです」

 道行く人々は少し足を止めはしても、長く耳を傾ける者はいなかった。

「また来たよ。あの外の国の坊さん」
「死ぬなって言われたって、生き返るもんはしかたないじゃないか。ねえ」
「そうそう。うちの爺さんなんて二回も生き返ったさ」

 女たちは笑い、魚屋は面白くもなさそうに魚を捌いていた。

 異国の男の言葉に、この街の人間が向ける関心はその程度のものだった。

 クロードは少し離れたところで足を止め、フラップキャップの下でわずかに目を細めた。

 この国では、土地ごとに神道の太さが違う。
 太い土地では死者の多くが蘇り、細い土地では神の奇跡は滅多に起こらない。

 この港町では、蘇生は身近すぎて、もはや奇跡とも思われていないのだろう。かえって死者のまま還る者の方が珍しいのかもしれない。

 男はなおも語っていた。

「死を受け入れることこそ、神を敬うことなのです。還るべき魂を引き留めるのは━━」

 そこまで聞いて、クロードは石畳の上を歩き出した。

 宿を決めたあと、クロードは一階の酒場で酒と料理をいくつか頼んだ。

 店内では、陽に焼けた漁師たちが豪快に酒を飲み、肉や魚を頬張っている。
 奥の席では、胸元や足をあらわにした女が男たちに囲まれながら賽子を振っていた。
 隅では売れない吟遊詩人が冴えない歌をかき鳴らし、そのたびに野次が飛ぶ。

「昼間、広場で喋っていた外の国の男がいたな」

 料理を運んできた女にそう言うと、「ああ、あの宣教師さまねぇ」と苦笑した。

「どっか遠い国のお坊さんみたいだよ。毎日あの広場に来ちゃあ、死んだ人は戻っちゃいけないだの、神様のところへ行くのがいいだの」

 給仕の女の言葉に、近くの男が鼻で笑う。

「ここは神道が太い。生き返りたくない奴だって、生き返っちまうってぇの」
「そうそう。死ぬのは寿命か、神に見放された奴くらいのもんだ」

「最近じゃ、あの人、貧民街の奴らにまで説教してるらしくてねぇ。前に一回止めてやったんだけど、聞きやしないんだよ」
 給仕の女が皿を置きながら、やれやれといった顔で言う。

 すると奥の席で男たちに囲まれていた女が、面白がるように笑って口を挟んだ。

「いい男なのに、操は神様に捧げちまってるんだよ。勿体ないねぇ」

 それを聞いて、近くで杯をあおっていた男が鼻で笑う。
「やめとけやめとけ。男なんざ顔より、稼ぐ甲斐性だぜ」
「全くだ」
 その言葉に、酒場の男たちがどっと笑った。

 クロードは「貧民街」と小さく口の中でつぶやき、出された料理を黙々と食べ始めた。



━━━━━ * * * * * ━━━━━



 翌日も、その次の日も、広場にはあの宣教師が立っていた。

 誰も足を止めない日もあれば、冷やかし半分に声をかける者がいる日もあった。
 酔っ払いが笑いながら肩を小突いていくこともあったし、哀れに思った老人が小銭を握らせることもあった。

 それでも宣教師は怒ることもなく、異郷の神の名を語り続けていた。



 それからさらに二日ほどが過ぎた。



 その夜、クロードが港近くの飯屋に入ると、店内はひどく混み合っていた。
 空いている席はひとつしかないらしく、店の女が面倒くさそうに顎をしゃくる。

「そこ、相席でいいだろ」

 見れば、壁際の小さな卓に、見覚えのある異国の青年がひとりで座っていた。
 色あせた長衣に、異郷の神を刻んだ銀のペンダント。
 昼の広場で、何度も見かけた宣教師だった。

 クロードは椅子を引き、無愛想にひと言だけ落とす。
「……邪魔をする」
 すると、宣教師はクロードを見上げ、一瞬目を丸くしたあと、わずかに頷いた。

「帽子の方」

 クロードは眉をひそめた。

「俺か」
「はい。広場で、何度かお見かけしました。その帽子が珍しかったので」

 クロードは「そうか」と言って、フラップキャップを脱いだ。
 銀髪とくすんだ灰色の瞳を見て、宣教師は言った。
「この土地の方ではありませんね」
「ああ」

 それきり二人は黙り込んだ。

 そこへ注文の品を持ってきた女が、
「色男が二人して、何しけた面してんだい?」
 と、呆れたように眉を上げた。

 クロードは答えず、宣教師は曖昧に会釈をした。

「つまんない男たちだねぇ」
 女はそう言うと、クロードの前に食事と酒瓶を置いて去っていった。

「毎日、広場に立っているな」
「ご存知でしたか」
「嫌でも耳に入る」

 クロードが豆のスープをすくった時、宣教師がぽつりと呟いた。
「人は……魂は、死後、神の御許へ行かなければなりません」

「……あんたの神の教えならな」
 スープを口に入れると、思いのほか塩辛く感じた。

 宣教師はうつむいたまま、かすかに頷いた。
「はい」

 料理を食べ終えると、クロードは酒瓶を宣教師の方へ傾けた。

「あんたの神様は、酒は許してるか?」
「あ、はい……」
「俺一人で一本はきつい。少し手伝っちゃくれないか」

 クロードがうっすら笑うと、宣教師はようやく表情を緩めた。

「ありがとうございます」

 そう言って、遠慮がちに空のグラスを差し出した。

「……あなたは、変わった方ですね」
「そうか?」
「説教を聞かされて酒を勧める人は、初めてです」

 宣教師がそう言って笑うのを見て、クロードもわずかに口角を上げた。

 それから、クロードと宣教師は他愛のない旅の話をし、酒瓶が空になったところで席を立った。

 店の木戸を開けると、夜の空気は少し冷たかった。

「あんた、貧民街にも説教に行ってるんだって?」
「はい」
「悪いことは言わん。やめておけ。この街の人間は、良くも悪くも、人の死を軽く考えている」
「ですが……私には、神の言葉を届ける使命があります」
「……そうか」
「私は、明後日の船で故郷に戻ります。あなたとお話できて良かった」
「ああ。元気でな」

 クロードは、反対方向へ去っていく宣教師の背中を見送った。

 夜風が潮の匂いを運んでくる。
 異国の長衣は人混みの向こうへ紛れていき、やがて見えなくなった。

 それでもクロードは、しばらくその場に立ったままだった。

 宿へ戻ってからも、あの静かな声が妙に耳に残っていた。

『死者は、死者の国へゆくべきなのです』

 安酒の酔いの底で、そんな言葉だけがやけにはっきりと浮かんだ。



━━━━━ * * * * * ━━━━━



 翌朝、クロードは宿を出る前に、ふと昨夜の言葉を思い出した。

『明後日の船で故郷に戻ります』

 ならば今日も、あの男は広場に立つはずだ。
しかし、クロードが広場を横切ると、あの宣教師の姿はなかった。
 いつも男が立っていた辺りを目の端に入れながら、クロードは石畳を歩く。

「今日はあの外の国の坊さん、いないんだな」
 誰かの声がした。
「毎日毎日説教たれてやかましかったけど、いなけりゃいないで物足りないもんだな」
 道行く男たちが笑い合う。

 クロードの足が止まった。

 胸騒ぎがする。

 昨日、男は明後日の船で帰ると言っていなかったか。
 あの男の使命感なら、旅立つ前の日であっても広場に立っていそうなものだ。

 脳裏に「貧民街」の言葉が浮かんだ瞬間、クロードは駆け出していた。

 広場から東の貧民街まで走り、路地をいくつも曲がった。

「ここに、異国の服を着た男は来なかったか?」

 煉瓦の上に座り込んでいた老人に尋ねると、老人はばさばさの長い前髪の下から、ぎょろりとクロードをねめつけた。そして無言のまま、節くれだった手を差し出す。

 クロードはポケットの小銭袋から銅貨を数枚つまみ、老人の手に落とした。

 老人はそれを握り込むと、無言で路地の奥を指した。

 湿ったかび臭い空気を裂くように走り、小さな広場に出た瞬間、血の匂いが鼻をついた。

「止めろ!!」

 広場の隅で倒れた人間に群がっていた貧民たちが、一瞬だけ手を止めてクロードを振り返る。
 しかし、すぐに興味を失ったように視線を戻し、剥ぎ取りを続けた。
 見覚えのあるペンダントが、乱暴に引きちぎられる。

「ちっ」

 クロードはポケットの小銭袋を、離れた場所へ放り投げた。
 硬い金属音を立てて小銭が散らばる。
 その音に、貧民たちは一斉に倒れた人間から離れた。

 奇声を上げて金を奪い合う貧民たちを横目に、クロードは倒れていた者を担ぎ上げ、足元に落ちていたペンダントを拾った。

 血に汚れた長衣。
 鼓動の感じられない身体。

「バカが」

 こうなることくらい、分かっていたはずだ。

 なのに━━。

 クロードは重い足取りで、貧民街を後にした。

 人気のない道を選んで、教会を目指して歩いていく。

 担いだ宣教師は力なく、重かった。

 しばらくして、ぴくりと宣教師の身体が動いた。そして、ひゅう、と小さく息を吹き返す。

「……ぅ」

 クロードは近くの塀にもたれ、宣教師を座らせた。

「……わ……たし……は……」
「……戻ったか」

 その言葉に、ぼんやりしていた瞳に光が戻ってきた。

「……っ!? 私は……!?」

 貧民に襲われたことを思い出したのか、宣教師は刺された胸を押さえた。しかし、そこにはもう傷はなく、鈍い痛みだけが残っていた。

「……なんてことだ……私は……まさか……」
「ああ。蘇生した」

 宣教師は驚愕のままクロードを見つめた。

「……なんて……こと……」
 そのまま宣教師は項垂れた。

「教会まで行く必要はなかったな」
「まさか、あなたは私の教義を知っていて……」
「別に、蘇生させるためじゃない。死んだら死んだで、教会に届ける必要があっただけだ」

「……」
 宣教師は血に汚れた長衣を握りしめ、目を伏せた。

「……私は……神の教えに背いてしまった」
「ここは神道がかなり太い。この国の人間かどうかなんて関係ない。蘇生は起こっただろう」

 唇を噛む宣教師の前にしゃがみ込み、クロードはその肩に手を置いた。

「安心しろ。あんたは、あんたの神を裏切っちゃいない」

 ポケットから鎖の千切れたペンダントを取り出し、宣教師の手に握らせる。

「この土地の自然現象に巻き込まれただけだ」

 宣教師は、震える手で神の刻まれたペンダントを握りしめた。
 うつむいた頬を、涙が静かに濡らしていった。



━━━━━ * * * * * ━━━━━


 翌朝、港に停泊している客船は、乗り込む人々で賑わっていた。
 荷運びの者や船員たちが、せわしなく桟橋を行き交っている。

 クロードは少し離れたところから、それを見ていた。

 ふいに後ろから声をかけられる。
 振り向くと、宣教師が荷物を持って立っていた。

「行くのか」

 クロードの言葉に、宣教師は少し眉を寄せ、それでも無理に笑顔を作った。

「はい。国へ帰り、もう一度修行をします」

「そうか」

 二人は短く握手を交わした。

 客船のロープが外され、船はゆっくりと岸を離れていく。
 甲板の端に立つ宣教師が、クロードに向かって手を振った。

「ありがとう。また、会いましょう」
「ああ。また」

 クロードは小さく片手を上げ、わずかに微笑んだ。

 明るい太陽の光が降り注ぐ海は、水平線の彼方まで眩しく光っていた。


━ 終 ━






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 潮の匂いが海風に乗って鼻先をくすぐった。
 湿り気を含んだ風が、長い外套の裾をわずかに揺らす。
 石畳はところどころ濡れて黒ずみ、港へ続く道の先には、帆を下ろした船がいくつも影を重ねていた。
 縄のきしむ音、荷を運ぶ男たちの怒鳴り声、魚を並べる店先の威勢のいい声。
 町は昼の熱をまだ残したまま、海の側らしい雑多なざわめきに包まれていた。
 クロードはフラップキャップのつばを指で少し上げ、その光景を横目に広場の方へと足を運んだ。
 この港町に着くまで、ろくな物を食べていない。
 まずはどこかで食事をとろうと、広場に面した店の看板をひとつひとつ眺めていく。
 広場の端に、小さな人だかりがあった。
 珍しくもない。
 旅芸人か、薬売りか、賭場崩れの口上屋か。
 そう思って通り過ぎようとしたクロードの耳に、外国訛りの言葉が聞こえてきた。
「死者は、死者の国へゆくべきなのです」
 人混みの中にあってもよく通る声だった。
 声の主は、見慣れない衣をまとった青年だった。
 色あせた長衣の上に異国独特の外套を羽織り、胸元には銀色のペンダントが下がっている。そこに刻まれているのは、見知らぬ神の姿だった。
「人はみな、神の御許へ還るためにある。死を留めるのは、自然の摂理に逆らうことなのです」
 道行く人々は少し足を止めはしても、長く耳を傾ける者はいなかった。
「また来たよ。あの外の国の坊さん」
「死ぬなって言われたって、生き返るもんはしかたないじゃないか。ねえ」
「そうそう。うちの爺さんなんて二回も生き返ったさ」
 女たちは笑い、魚屋は面白くもなさそうに魚を捌いていた。
 異国の男の言葉に、この街の人間が向ける関心はその程度のものだった。
 クロードは少し離れたところで足を止め、フラップキャップの下でわずかに目を細めた。
 この国では、土地ごとに神道の太さが違う。
 太い土地では死者の多くが蘇り、細い土地では神の奇跡は滅多に起こらない。
 この港町では、蘇生は身近すぎて、もはや奇跡とも思われていないのだろう。かえって死者のまま還る者の方が珍しいのかもしれない。
 男はなおも語っていた。
「死を受け入れることこそ、神を敬うことなのです。還るべき魂を引き留めるのは━━」
 そこまで聞いて、クロードは石畳の上を歩き出した。
 宿を決めたあと、クロードは一階の酒場で酒と料理をいくつか頼んだ。
 店内では、陽に焼けた漁師たちが豪快に酒を飲み、肉や魚を頬張っている。
 奥の席では、胸元や足をあらわにした女が男たちに囲まれながら賽子を振っていた。
 隅では売れない吟遊詩人が冴えない歌をかき鳴らし、そのたびに野次が飛ぶ。
「昼間、広場で喋っていた外の国の男がいたな」
 料理を運んできた女にそう言うと、「ああ、あの宣教師さまねぇ」と苦笑した。
「どっか遠い国のお坊さんみたいだよ。毎日あの広場に来ちゃあ、死んだ人は戻っちゃいけないだの、神様のところへ行くのがいいだの」
 給仕の女の言葉に、近くの男が鼻で笑う。
「ここは神道が太い。生き返りたくない奴だって、生き返っちまうってぇの」
「そうそう。死ぬのは寿命か、神に見放された奴くらいのもんだ」
「最近じゃ、あの人、貧民街の奴らにまで説教してるらしくてねぇ。前に一回止めてやったんだけど、聞きやしないんだよ」
 給仕の女が皿を置きながら、やれやれといった顔で言う。
 すると奥の席で男たちに囲まれていた女が、面白がるように笑って口を挟んだ。
「いい男なのに、操は神様に捧げちまってるんだよ。勿体ないねぇ」
 それを聞いて、近くで杯をあおっていた男が鼻で笑う。
「やめとけやめとけ。男なんざ顔より、稼ぐ甲斐性だぜ」
「全くだ」
 その言葉に、酒場の男たちがどっと笑った。
 クロードは「貧民街」と小さく口の中でつぶやき、出された料理を黙々と食べ始めた。
━━━━━ * * * * * ━━━━━
 翌日も、その次の日も、広場にはあの宣教師が立っていた。
 誰も足を止めない日もあれば、冷やかし半分に声をかける者がいる日もあった。
 酔っ払いが笑いながら肩を小突いていくこともあったし、哀れに思った老人が小銭を握らせることもあった。
 それでも宣教師は怒ることもなく、異郷の神の名を語り続けていた。
 それからさらに二日ほどが過ぎた。
 その夜、クロードが港近くの飯屋に入ると、店内はひどく混み合っていた。
 空いている席はひとつしかないらしく、店の女が面倒くさそうに顎をしゃくる。
「そこ、相席でいいだろ」
 見れば、壁際の小さな卓に、見覚えのある異国の青年がひとりで座っていた。
 色あせた長衣に、異郷の神を刻んだ銀のペンダント。
 昼の広場で、何度も見かけた宣教師だった。
 クロードは椅子を引き、無愛想にひと言だけ落とす。
「……邪魔をする」
 すると、宣教師はクロードを見上げ、一瞬目を丸くしたあと、わずかに頷いた。
「帽子の方」
 クロードは眉をひそめた。
「俺か」
「はい。広場で、何度かお見かけしました。その帽子が珍しかったので」
 クロードは「そうか」と言って、フラップキャップを脱いだ。
 銀髪とくすんだ灰色の瞳を見て、宣教師は言った。
「この土地の方ではありませんね」
「ああ」
 それきり二人は黙り込んだ。
 そこへ注文の品を持ってきた女が、
「色男が二人して、何しけた面してんだい?」
 と、呆れたように眉を上げた。
 クロードは答えず、宣教師は曖昧に会釈をした。
「つまんない男たちだねぇ」
 女はそう言うと、クロードの前に食事と酒瓶を置いて去っていった。
「毎日、広場に立っているな」
「ご存知でしたか」
「嫌でも耳に入る」
 クロードが豆のスープをすくった時、宣教師がぽつりと呟いた。
「人は……魂は、死後、神の御許へ行かなければなりません」
「……あんたの神の教えならな」
 スープを口に入れると、思いのほか塩辛く感じた。
 宣教師はうつむいたまま、かすかに頷いた。
「はい」
 料理を食べ終えると、クロードは酒瓶を宣教師の方へ傾けた。
「あんたの神様は、酒は許してるか?」
「あ、はい……」
「俺一人で一本はきつい。少し手伝っちゃくれないか」
 クロードがうっすら笑うと、宣教師はようやく表情を緩めた。
「ありがとうございます」
 そう言って、遠慮がちに空のグラスを差し出した。
「……あなたは、変わった方ですね」
「そうか?」
「説教を聞かされて酒を勧める人は、初めてです」
 宣教師がそう言って笑うのを見て、クロードもわずかに口角を上げた。
 それから、クロードと宣教師は他愛のない旅の話をし、酒瓶が空になったところで席を立った。
 店の木戸を開けると、夜の空気は少し冷たかった。
「あんた、貧民街にも説教に行ってるんだって?」
「はい」
「悪いことは言わん。やめておけ。この街の人間は、良くも悪くも、人の死を軽く考えている」
「ですが……私には、神の言葉を届ける使命があります」
「……そうか」
「私は、明後日の船で故郷に戻ります。あなたとお話できて良かった」
「ああ。元気でな」
 クロードは、反対方向へ去っていく宣教師の背中を見送った。
 夜風が潮の匂いを運んでくる。
 異国の長衣は人混みの向こうへ紛れていき、やがて見えなくなった。
 それでもクロードは、しばらくその場に立ったままだった。
 宿へ戻ってからも、あの静かな声が妙に耳に残っていた。
『死者は、死者の国へゆくべきなのです』
 安酒の酔いの底で、そんな言葉だけがやけにはっきりと浮かんだ。
━━━━━ * * * * * ━━━━━
 翌朝、クロードは宿を出る前に、ふと昨夜の言葉を思い出した。
『明後日の船で故郷に戻ります』
 ならば今日も、あの男は広場に立つはずだ。
しかし、クロードが広場を横切ると、あの宣教師の姿はなかった。
 いつも男が立っていた辺りを目の端に入れながら、クロードは石畳を歩く。
「今日はあの外の国の坊さん、いないんだな」
 誰かの声がした。
「毎日毎日説教たれてやかましかったけど、いなけりゃいないで物足りないもんだな」
 道行く男たちが笑い合う。
 クロードの足が止まった。
 胸騒ぎがする。
 昨日、男は明後日の船で帰ると言っていなかったか。
 あの男の使命感なら、旅立つ前の日であっても広場に立っていそうなものだ。
 脳裏に「貧民街」の言葉が浮かんだ瞬間、クロードは駆け出していた。
 広場から東の貧民街まで走り、路地をいくつも曲がった。
「ここに、異国の服を着た男は来なかったか?」
 煉瓦の上に座り込んでいた老人に尋ねると、老人はばさばさの長い前髪の下から、ぎょろりとクロードをねめつけた。そして無言のまま、節くれだった手を差し出す。
 クロードはポケットの小銭袋から銅貨を数枚つまみ、老人の手に落とした。
 老人はそれを握り込むと、無言で路地の奥を指した。
 湿ったかび臭い空気を裂くように走り、小さな広場に出た瞬間、血の匂いが鼻をついた。
「止めろ!!」
 広場の隅で倒れた人間に群がっていた貧民たちが、一瞬だけ手を止めてクロードを振り返る。
 しかし、すぐに興味を失ったように視線を戻し、剥ぎ取りを続けた。
 見覚えのあるペンダントが、乱暴に引きちぎられる。
「ちっ」
 クロードはポケットの小銭袋を、離れた場所へ放り投げた。
 硬い金属音を立てて小銭が散らばる。
 その音に、貧民たちは一斉に倒れた人間から離れた。
 奇声を上げて金を奪い合う貧民たちを横目に、クロードは倒れていた者を担ぎ上げ、足元に落ちていたペンダントを拾った。
 血に汚れた長衣。
 鼓動の感じられない身体。
「バカが」
 こうなることくらい、分かっていたはずだ。
 なのに━━。
 クロードは重い足取りで、貧民街を後にした。
 人気のない道を選んで、教会を目指して歩いていく。
 担いだ宣教師は力なく、重かった。
 しばらくして、ぴくりと宣教師の身体が動いた。そして、ひゅう、と小さく息を吹き返す。
「……ぅ」
 クロードは近くの塀にもたれ、宣教師を座らせた。
「……わ……たし……は……」
「……戻ったか」
 その言葉に、ぼんやりしていた瞳に光が戻ってきた。
「……っ!? 私は……!?」
 貧民に襲われたことを思い出したのか、宣教師は刺された胸を押さえた。しかし、そこにはもう傷はなく、鈍い痛みだけが残っていた。
「……なんてことだ……私は……まさか……」
「ああ。蘇生した」
 宣教師は驚愕のままクロードを見つめた。
「……なんて……こと……」
 そのまま宣教師は項垂れた。
「教会まで行く必要はなかったな」
「まさか、あなたは私の教義を知っていて……」
「別に、蘇生させるためじゃない。死んだら死んだで、教会に届ける必要があっただけだ」
「……」
 宣教師は血に汚れた長衣を握りしめ、目を伏せた。
「……私は……神の教えに背いてしまった」
「ここは神道がかなり太い。この国の人間かどうかなんて関係ない。蘇生は起こっただろう」
 唇を噛む宣教師の前にしゃがみ込み、クロードはその肩に手を置いた。
「安心しろ。あんたは、あんたの神を裏切っちゃいない」
 ポケットから鎖の千切れたペンダントを取り出し、宣教師の手に握らせる。
「この土地の自然現象に巻き込まれただけだ」
 宣教師は、震える手で神の刻まれたペンダントを握りしめた。
 うつむいた頬を、涙が静かに濡らしていった。
━━━━━ * * * * * ━━━━━
 翌朝、港に停泊している客船は、乗り込む人々で賑わっていた。
 荷運びの者や船員たちが、せわしなく桟橋を行き交っている。
 クロードは少し離れたところから、それを見ていた。
 ふいに後ろから声をかけられる。
 振り向くと、宣教師が荷物を持って立っていた。
「行くのか」
 クロードの言葉に、宣教師は少し眉を寄せ、それでも無理に笑顔を作った。
「はい。国へ帰り、もう一度修行をします」
「そうか」
 二人は短く握手を交わした。
 客船のロープが外され、船はゆっくりと岸を離れていく。
 甲板の端に立つ宣教師が、クロードに向かって手を振った。
「ありがとう。また、会いましょう」
「ああ。また」
 クロードは小さく片手を上げ、わずかに微笑んだ。
 明るい太陽の光が降り注ぐ海は、水平線の彼方まで眩しく光っていた。
━ 終 ━