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祝福の子

ー/ー



 緑の広がる丘道を、クロードはひとり歩いていた。
 陽はすでに傾き、辺りは夕刻の気配に染まりはじめている。
 目指すのは、丘の上に見える小さな村だった。



━━━━━ * * * * * ━━━━━



 左足が痛む。
 どうやら、さっき木の根に足を取られた時にひねったらしい。

「……今日は山越えは無理だな」

 クロードは近くの木に背を預け、その場に腰を下ろした。

 ふぅ、と息をついて水を飲む。
 足首はじくじくと痛み、クロードはそこをさすりながら「参ったな……」と呟いた。

「もし、もし、そこの方。どうしました?」

 呼びかけに顔を上げると、クロードが来た道を一台の荷車が登ってくるところだった。
 御者台に座った少年が、心配そうにこちらを見ている。
 クロードはフラップキャップのつばをくいと持ち上げた。

「丘の上の村に、薬屋はあるか?」
「どうしたんです?」

 少年はロバを止めると、すぐに荷車から降りてきた。

「少し足を痛めた」
「それはお困りでしょう。薬屋はありませんが、教会にいくらか薬があります」

「……教会」

 クロードは小さく繰り返した。

 少年は人好きのする笑顔を浮かべ、ためらいなく手を差し伸べる。

「荷車に乗ってください。村まではまだ距離がありますから」

 クロードを乗せ、少年はロバに荷車を引かせた。

 荷車はがたがたと揺れながら、丘道をゆっくり登っていく。
 クロードは御者台に座る少年をちらりと見た。

 年の頃は十五ほどだろうか。
 素朴な衣服の胸元には、小さな教会のペンダントが下がっていた。

「教会の者か」
「僕は牧師見習いです」

「牧師……」

 クロードは少年をもう一度見た。

「僕は蘇生者だから、神官にはなれないんですよ」

 少年はそう言って、にこりと笑った。

 聖教会の定めでは、神官以上になれるのは未蘇生の者だけで、蘇生者は牧師までとされている。

 この年で蘇生者ということは、病か、あるいは事故か。

 クロードは視線を落とし、フラップキャップを目深にした。

 それきり会話は途切れた。
 荷車の軋む音と、ロバの蹄の音だけが、暮れかけた丘道にのんびりと響いていた。

 やがて村の教会の前に着くと、少年は荷車を止めた。

「僕に掴まってください」
「いや、歩ける」
「ええ、歩けるでしょうけど、痛いでしょう?」

 クロードはしばらく黙っていたが、少年の笑顔にため息をひとつつき、「すまない」と肩を借りた。

 小さな教会に入ると、甘い花の香りがした。

「ここに座っていてください。薬を持ってきます」

 少年はそう言うと奥の部屋へ向かい、「牧師さま」と呼んだ。

 しばらくして、少年と年配の牧師が戻ってくる。

「ようこそいらっしゃいました、旅のお方」
「クロード、という」
「怪我をなさってお困りと聞きました」
「木の根に足を取られて、ひねったようだ」
「それはいけません。旅人の足は宝です。すぐに手当てをいたしましょう」

 牧師の低くやさしい声に、クロードは「頼む」と頭を下げた。

 少年がクロードの足元にしゃがみ込み、ブーツと靴下を脱がせると、足首は赤く腫れていた。

「これは痛そうですね」

 少年は薬箱から瓶を取り出し、木べらで軟膏をすくって布に塗った。
 青い薬草と鉱物の匂いが立ちのぼり、クロードはわずかに眉を寄せる。

「ふふっ、臭いでしょ? でもこれ、すごく効くんですよ」
「……そうか」

 クロードが目を閉じると、少年はその布を足首に当て、手際よく包帯を巻いていった。

「クロードさん、今夜はこの村に逗留なさるのですか?」
 少年は包帯を結び終えながら、顔を上げた。

「この足で山越えはできんからな」

 少年の顔が、ぱっと明るくなる。

「なら、教会にお泊まりになるといいですよ。この村には宿屋はないので。ね、いいですよね? 牧師さま」
「そこまで迷惑は……」

「この子は旅人の話を聞くのが、何より楽しみなんですよ」

 牧師は古びた大きな手で、少年の頭をやさしく撫でた。

「もう外も暗い。どうかこの子に付き合ってやってもらえませんかな?」

 牧師の許しが出たことで、少年はさらに目を輝かせてクロードを見上げた。
 そのまっすぐな期待に、クロードはわずかにたじろぐ。

「……では、お言葉に甘えて」

 そう言って、ようやく頷いた。



━━━━━ * * * * * ━━━━━



 少年は物置部屋から松葉杖を持ってきて、クロードの背丈に合わせた。

「背が高いのですね。僕も大きくなれるかなぁ」
「ああ」
「クロードさん、旅は長いのですか?」
「お前さんくらいの頃に故郷を出た」
「何のために?」

 ためらいなく向けられた問いに、クロードの脳 裏には「過去を捨てるため」という言葉がよぎった。
だが、「さぁ……な」とだけ答えを濁す。

「……お前さんは、なぜ教会に?」
 きょとんとした顔で、少年はクロードを見返した。
「訛りがこの地のものじゃない。南の出身だな」

 少年の目が、たちまち輝く。

「さすが旅人ですね。そうです。僕は南の出身です。教会に入ってから、この村に派遣されたんです」

 その瞳が故郷を懐かしむように細められた。

「僕は、生まれた時に息をしていなかったそうです。父が教会に頼んで、蘇生をしてもらったと聞きました」
「……なるほど」

 クロードは少年を見つめた。
 見える部位に死痕(しこん)がないのは、傷を負って死んだわけではないからかと納得し、小さく頷く。

「でも、故郷の神道はもうほとんど閉じていて、本来なら蘇生は叶わないはずだったそうです」

 少年はそこで言葉を切り、胸のペンダントにそっと触れた。

「それでも、神は奇跡を起こされたのです」

 少年は胸に手を当て、静かに微笑んだ。

「代わりに、その地の神道はそれを最後に閉じてしまったそうです」

「……」

 少年の瞳には迷いがなかった。

「だから、僕は牧師となって神の恵みを人々へ渡したいと思ったんです。そしていつか、故郷に再び神道を開き、蘇生が行えるようにしたい」

 クロードは自分の胸元に視線を落とした。

「……叶うと、いいな」
「はい」

 少年は目を細めて笑い、それから待ちきれないというように身を乗り出した。

「じゃあ、今度はクロードさんの番ですよ。旅で面白かったことや珍しいものとかのお話を聞かせてください」

 そのきらきらとした眼差しに、クロードは仕方ないなというように苦笑した。



━━━━━ * * * * * ━━━━━



 ふと目を覚ますと、窓の外はほの明るくなっていた。

 クロードが部屋を見回すと、本棚には、いくつもの薬学書が並んでいる。

 ソファーで牧師見習いの少年が丸まって眠っていた。

 遅くまで旅の話を聞いてはしゃいでいたことを思い出す。
 眠りにつく前、少年は「もっと話聞かせて……寝たくない……」と我儘を言っていた。

 それを思い出し、クロードは小さく笑った。

 その時、静かな空気を叩き割るように、鐘の音が鳴り響いた。

「大変だ!! 火事だ!!」

 窓の外から男の叫び声が飛び込んでくる。

 クロードが急いで立ち上がるのと同時に、勢いよくドアが開く音がした。
 見ると、さっきまでソファーで眠っていた少年が、もう廊下へ駆け出していた。

 松葉杖をつきながら教会の外へ出ると、牧師が駆け寄ってきた。

「どうした?」

 クロードが問うと、牧師は煙の上がる方を振り返った。

「通りの家が火事になっていて……まだ中に人がいるようで……あの子が……」
「なにっ」

 慣れない松葉杖をつきながら、クロードは煙の上がる方へ急いだ。

 通りには、家人らしい男女が数人へたり込んでいた。
 その中の女が、牧師見習いの少年にすがりついて泣いている。

「まだ……まだ中に娘がいるの……」
「娘さんはどの辺りに?」
「廊下の奥の、右の部屋に……」

 少年は泣き崩れる母親をまっすぐ見つめ、それから小さく頷いた。

「分かりました」

 少年は立ち上がると、消火のために汲まれていた桶の水を頭からかぶった。

「待て!!」
「クロードさん、起こしちゃいましたか」
「火の手はかなり強い。お前さんまで━━」

「僕はこの人生を与えて下さった神に感謝しています。今こそ、そのご恩をお返しする時なのです」

 少年は胸元のペンダントを握る前に、クロードを見た。

「旅の話、ありがとうございました」

 両手でペンダントを包み、短く祈る。

「神よ、どうか中の子どもをお守り下さい」

 次の瞬間、少年は燃え盛る家へ駆け出していた。

「……おい、止めろ!!」

 その背が火の中へ消えてほどなく、玄関側の屋根が崩れ落ちた。

 クロードは片手で顔を押さえ、「バカ野郎……」と苦しげに呟いた。

 黒い煙は、高く、高く空へ昇っていった。



━━━━━ * * * * * ━━━━━



 夜がすっかり明ける頃には、星は太陽の光に追われて姿を消し、明るい朝が村を照らしていた。

 広場では、焼け出された家族のもとへ村人たちが毛布やスープやパンを持ち寄っている。

 その中で、幼い娘を抱きしめながら、母親が牧師見習いの少年に何度も礼を言っていた。

「ありがとう……本当にありがとうございます」
「神の祝福のおかげです」

 少年が子どもの頭を撫でると、ぐずっていた少女が笑顔になった。

 クロードはその光景を、少し離れた木の下から見つめていた。

 少年がクロードを見つけ、笑顔で駆け寄って来る。
 その頬は煙で煤け、服の裾も焦げていた。

「クロードさん、大丈夫ですか?」

 座り込んでいるクロードの顔を、少年は気づかわしげに覗き込む。
 焼け死にそうだった本人の開口一番の言葉がそれかと、クロードは眉を寄せた。

「ご心配おかけしてすみません」
「……全くだ」

 クロードは、自分の頭をくしゃくしゃとかき回し、吐き出すように息をついた。

「でも、無事戻りました」

 少年が微笑むと、クロードは疲れたように顔を伏せる。

「もう……あんなことは…、するな」
「僕は神の信徒となった時から、人々の笑顔のために、この命を使うと決めています」

 あまりにも真っすぐなその言葉に、クロードは唇を噛んだ。

「大丈夫。僕には神の祝福がありますから」

 少年は安心させるように、自分の胸を拳でとんと叩いた。

「……強いな……」

 クロードはそれを見て、ようやく表情を和らげた。



━━━━━ * * * * * ━━━━━



 教会で朝の礼拝を終えると、少年が黒パンとスープを持って来た。

「どうぞ。食べたら足の状態を見ましょう」

 正直、火事の騒ぎがあったばかりで食欲はなかったが、クロードは好意に礼を言ってそれを食べた。

 食後、少年が足に巻いた包帯と布を外す。
 腫れはすっかり引いていて、足をついてもほとんど痛みがない。

「良かったですね」
「……治りが早すぎないか……?」

 足首をさすりながら、クロードは少年を見つめた。

「もしかして、お前さんは……」
「しぃーっ」

 少年はいたずらっぽく笑い、口元に指を当てた。

「だから、よく効く薬だって言ったでしょう?」

 その楽しげな表情に、クロードはそれ以上の言葉を飲み込む。

「神に……感謝、だな」

 そう言ったクロードの口元は、わずかにほころんでいた。

 昼前、クロードは荷物をまとめ、旅支度を整えた。

 教会の募金箱に銀貨を一枚入れる。

「お布施をありがとうございます」
「元気でな」
「あ、クロードさん、これ持って行って下さい」

 少年は薬の包みをいくつか差し出した。

「次に会う時には、もっとよく効く薬を作れるよう勉強しますので、近くに寄ったら来て下さい」
「ああ」
「それまでたくさん旅をして、また僕に聞かせて下さいね」

 眩しい笑顔の少年と、静かに見守る牧師に小さく手を上げ、クロードは再び旅の道へと戻っていった。


━ 終 ━



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 緑の広がる丘道を、クロードはひとり歩いていた。
 陽はすでに傾き、辺りは夕刻の気配に染まりはじめている。
 目指すのは、丘の上に見える小さな村だった。
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 左足が痛む。
 どうやら、さっき木の根に足を取られた時にひねったらしい。
「……今日は山越えは無理だな」
 クロードは近くの木に背を預け、その場に腰を下ろした。
 ふぅ、と息をついて水を飲む。
 足首はじくじくと痛み、クロードはそこをさすりながら「参ったな……」と呟いた。
「もし、もし、そこの方。どうしました?」
 呼びかけに顔を上げると、クロードが来た道を一台の荷車が登ってくるところだった。
 御者台に座った少年が、心配そうにこちらを見ている。
 クロードはフラップキャップのつばをくいと持ち上げた。
「丘の上の村に、薬屋はあるか?」
「どうしたんです?」
 少年はロバを止めると、すぐに荷車から降りてきた。
「少し足を痛めた」
「それはお困りでしょう。薬屋はありませんが、教会にいくらか薬があります」
「……教会」
 クロードは小さく繰り返した。
 少年は人好きのする笑顔を浮かべ、ためらいなく手を差し伸べる。
「荷車に乗ってください。村まではまだ距離がありますから」
 クロードを乗せ、少年はロバに荷車を引かせた。
 荷車はがたがたと揺れながら、丘道をゆっくり登っていく。
 クロードは御者台に座る少年をちらりと見た。
 年の頃は十五ほどだろうか。
 素朴な衣服の胸元には、小さな教会のペンダントが下がっていた。
「教会の者か」
「僕は牧師見習いです」
「牧師……」
 クロードは少年をもう一度見た。
「僕は蘇生者だから、神官にはなれないんですよ」
 少年はそう言って、にこりと笑った。
 聖教会の定めでは、神官以上になれるのは未蘇生の者だけで、蘇生者は牧師までとされている。
 この年で蘇生者ということは、病か、あるいは事故か。
 クロードは視線を落とし、フラップキャップを目深にした。
 それきり会話は途切れた。
 荷車の軋む音と、ロバの蹄の音だけが、暮れかけた丘道にのんびりと響いていた。
 やがて村の教会の前に着くと、少年は荷車を止めた。
「僕に掴まってください」
「いや、歩ける」
「ええ、歩けるでしょうけど、痛いでしょう?」
 クロードはしばらく黙っていたが、少年の笑顔にため息をひとつつき、「すまない」と肩を借りた。
 小さな教会に入ると、甘い花の香りがした。
「ここに座っていてください。薬を持ってきます」
 少年はそう言うと奥の部屋へ向かい、「牧師さま」と呼んだ。
 しばらくして、少年と年配の牧師が戻ってくる。
「ようこそいらっしゃいました、旅のお方」
「クロード、という」
「怪我をなさってお困りと聞きました」
「木の根に足を取られて、ひねったようだ」
「それはいけません。旅人の足は宝です。すぐに手当てをいたしましょう」
 牧師の低くやさしい声に、クロードは「頼む」と頭を下げた。
 少年がクロードの足元にしゃがみ込み、ブーツと靴下を脱がせると、足首は赤く腫れていた。
「これは痛そうですね」
 少年は薬箱から瓶を取り出し、木べらで軟膏をすくって布に塗った。
 青い薬草と鉱物の匂いが立ちのぼり、クロードはわずかに眉を寄せる。
「ふふっ、臭いでしょ? でもこれ、すごく効くんですよ」
「……そうか」
 クロードが目を閉じると、少年はその布を足首に当て、手際よく包帯を巻いていった。
「クロードさん、今夜はこの村に逗留なさるのですか?」
 少年は包帯を結び終えながら、顔を上げた。
「この足で山越えはできんからな」
 少年の顔が、ぱっと明るくなる。
「なら、教会にお泊まりになるといいですよ。この村には宿屋はないので。ね、いいですよね? 牧師さま」
「そこまで迷惑は……」
「この子は旅人の話を聞くのが、何より楽しみなんですよ」
 牧師は古びた大きな手で、少年の頭をやさしく撫でた。
「もう外も暗い。どうかこの子に付き合ってやってもらえませんかな?」
 牧師の許しが出たことで、少年はさらに目を輝かせてクロードを見上げた。
 そのまっすぐな期待に、クロードはわずかにたじろぐ。
「……では、お言葉に甘えて」
 そう言って、ようやく頷いた。
━━━━━ * * * * * ━━━━━
 少年は物置部屋から松葉杖を持ってきて、クロードの背丈に合わせた。
「背が高いのですね。僕も大きくなれるかなぁ」
「ああ」
「クロードさん、旅は長いのですか?」
「お前さんくらいの頃に故郷を出た」
「何のために?」
 ためらいなく向けられた問いに、クロードの脳 裏には「過去を捨てるため」という言葉がよぎった。
だが、「さぁ……な」とだけ答えを濁す。
「……お前さんは、なぜ教会に?」
 きょとんとした顔で、少年はクロードを見返した。
「訛りがこの地のものじゃない。南の出身だな」
 少年の目が、たちまち輝く。
「さすが旅人ですね。そうです。僕は南の出身です。教会に入ってから、この村に派遣されたんです」
 その瞳が故郷を懐かしむように細められた。
「僕は、生まれた時に息をしていなかったそうです。父が教会に頼んで、蘇生をしてもらったと聞きました」
「……なるほど」
 クロードは少年を見つめた。
 見える部位に死痕(しこん)がないのは、傷を負って死んだわけではないからかと納得し、小さく頷く。
「でも、故郷の神道はもうほとんど閉じていて、本来なら蘇生は叶わないはずだったそうです」
 少年はそこで言葉を切り、胸のペンダントにそっと触れた。
「それでも、神は奇跡を起こされたのです」
 少年は胸に手を当て、静かに微笑んだ。
「代わりに、その地の神道はそれを最後に閉じてしまったそうです」
「……」
 少年の瞳には迷いがなかった。
「だから、僕は牧師となって神の恵みを人々へ渡したいと思ったんです。そしていつか、故郷に再び神道を開き、蘇生が行えるようにしたい」
 クロードは自分の胸元に視線を落とした。
「……叶うと、いいな」
「はい」
 少年は目を細めて笑い、それから待ちきれないというように身を乗り出した。
「じゃあ、今度はクロードさんの番ですよ。旅で面白かったことや珍しいものとかのお話を聞かせてください」
 そのきらきらとした眼差しに、クロードは仕方ないなというように苦笑した。
━━━━━ * * * * * ━━━━━
 ふと目を覚ますと、窓の外はほの明るくなっていた。
 クロードが部屋を見回すと、本棚には、いくつもの薬学書が並んでいる。
 ソファーで牧師見習いの少年が丸まって眠っていた。
 遅くまで旅の話を聞いてはしゃいでいたことを思い出す。
 眠りにつく前、少年は「もっと話聞かせて……寝たくない……」と我儘を言っていた。
 それを思い出し、クロードは小さく笑った。
 その時、静かな空気を叩き割るように、鐘の音が鳴り響いた。
「大変だ!! 火事だ!!」
 窓の外から男の叫び声が飛び込んでくる。
 クロードが急いで立ち上がるのと同時に、勢いよくドアが開く音がした。
 見ると、さっきまでソファーで眠っていた少年が、もう廊下へ駆け出していた。
 松葉杖をつきながら教会の外へ出ると、牧師が駆け寄ってきた。
「どうした?」
 クロードが問うと、牧師は煙の上がる方を振り返った。
「通りの家が火事になっていて……まだ中に人がいるようで……あの子が……」
「なにっ」
 慣れない松葉杖をつきながら、クロードは煙の上がる方へ急いだ。
 通りには、家人らしい男女が数人へたり込んでいた。
 その中の女が、牧師見習いの少年にすがりついて泣いている。
「まだ……まだ中に娘がいるの……」
「娘さんはどの辺りに?」
「廊下の奥の、右の部屋に……」
 少年は泣き崩れる母親をまっすぐ見つめ、それから小さく頷いた。
「分かりました」
 少年は立ち上がると、消火のために汲まれていた桶の水を頭からかぶった。
「待て!!」
「クロードさん、起こしちゃいましたか」
「火の手はかなり強い。お前さんまで━━」
「僕はこの人生を与えて下さった神に感謝しています。今こそ、そのご恩をお返しする時なのです」
 少年は胸元のペンダントを握る前に、クロードを見た。
「旅の話、ありがとうございました」
 両手でペンダントを包み、短く祈る。
「神よ、どうか中の子どもをお守り下さい」
 次の瞬間、少年は燃え盛る家へ駆け出していた。
「……おい、止めろ!!」
 その背が火の中へ消えてほどなく、玄関側の屋根が崩れ落ちた。
 クロードは片手で顔を押さえ、「バカ野郎……」と苦しげに呟いた。
 黒い煙は、高く、高く空へ昇っていった。
━━━━━ * * * * * ━━━━━
 夜がすっかり明ける頃には、星は太陽の光に追われて姿を消し、明るい朝が村を照らしていた。
 広場では、焼け出された家族のもとへ村人たちが毛布やスープやパンを持ち寄っている。
 その中で、幼い娘を抱きしめながら、母親が牧師見習いの少年に何度も礼を言っていた。
「ありがとう……本当にありがとうございます」
「神の祝福のおかげです」
 少年が子どもの頭を撫でると、ぐずっていた少女が笑顔になった。
 クロードはその光景を、少し離れた木の下から見つめていた。
 少年がクロードを見つけ、笑顔で駆け寄って来る。
 その頬は煙で煤け、服の裾も焦げていた。
「クロードさん、大丈夫ですか?」
 座り込んでいるクロードの顔を、少年は気づかわしげに覗き込む。
 焼け死にそうだった本人の開口一番の言葉がそれかと、クロードは眉を寄せた。
「ご心配おかけしてすみません」
「……全くだ」
 クロードは、自分の頭をくしゃくしゃとかき回し、吐き出すように息をついた。
「でも、無事戻りました」
 少年が微笑むと、クロードは疲れたように顔を伏せる。
「もう……あんなことは…、するな」
「僕は神の信徒となった時から、人々の笑顔のために、この命を使うと決めています」
 あまりにも真っすぐなその言葉に、クロードは唇を噛んだ。
「大丈夫。僕には神の祝福がありますから」
 少年は安心させるように、自分の胸を拳でとんと叩いた。
「……強いな……」
 クロードはそれを見て、ようやく表情を和らげた。
━━━━━ * * * * * ━━━━━
 教会で朝の礼拝を終えると、少年が黒パンとスープを持って来た。
「どうぞ。食べたら足の状態を見ましょう」
 正直、火事の騒ぎがあったばかりで食欲はなかったが、クロードは好意に礼を言ってそれを食べた。
 食後、少年が足に巻いた包帯と布を外す。
 腫れはすっかり引いていて、足をついてもほとんど痛みがない。
「良かったですね」
「……治りが早すぎないか……?」
 足首をさすりながら、クロードは少年を見つめた。
「もしかして、お前さんは……」
「しぃーっ」
 少年はいたずらっぽく笑い、口元に指を当てた。
「だから、よく効く薬だって言ったでしょう?」
 その楽しげな表情に、クロードはそれ以上の言葉を飲み込む。
「神に……感謝、だな」
 そう言ったクロードの口元は、わずかにほころんでいた。
 昼前、クロードは荷物をまとめ、旅支度を整えた。
 教会の募金箱に銀貨を一枚入れる。
「お布施をありがとうございます」
「元気でな」
「あ、クロードさん、これ持って行って下さい」
 少年は薬の包みをいくつか差し出した。
「次に会う時には、もっとよく効く薬を作れるよう勉強しますので、近くに寄ったら来て下さい」
「ああ」
「それまでたくさん旅をして、また僕に聞かせて下さいね」
 眩しい笑顔の少年と、静かに見守る牧師に小さく手を上げ、クロードは再び旅の道へと戻っていった。
━ 終 ━