表示設定
表示設定
目次 目次




第31話 本舎へ続く名

ー/ー



四人が揃っても、部屋の中は少しも明るくならなかった。

ミナは毛布を肩にかけたまま、寝台の端で膝を抱えている。

エナは壁にもたれ、眠っているようでいて、物音がするたびに指先がわずかに強張った。

ルイは水袋を握ったまま床へ座り込み、トマは布をかけられたまま、まだ夢の底から戻りきらない顔で天井を見ていた。

古い染物屋の二階には、夜明けの白さだけが少しずつ溜まりはじめている。

その淡い明るさの中で、机代わりの木箱の上に広げた紙だけが、妙に生々しく見えた。

白い家から持ち出した記録。
北舎で見た流れ。
そして荷車の札に残っていた二文字。

本舎。

リゼはその札を、何度も黙って見返していた。
全部が読めたわけではない。けれど、その二文字だけで十分だった。

「北舎で終わりじゃなかった」

独り言のように、リゼが言う。

セシアは祈祷書を抱えたまま頷いた。

「……はい」

白い流れは、まだ続いている

四人の名前を取り返した。
それでも終わらないのは、本舎があるからだ。

白い家が入口で、北舎が一夜の留め置きだとすれば、本舎はもっと奥だ。
記録が集まり、名が消され、送られた先がそこで決まるのかもしれない。

そう思うだけで、胸の奥が重くなる。

「……その本舎、白い家みたいなとこ?」

ミナが小さく聞いた。

セシアは少しだけ言葉を選ぶ。

「白いです。でも、白い家とは少し違いました」

「ちがう?」

「静かすぎました」

それしか言えなかった。

白い家にも静けさはあった。
北舎にもあった。
けれど本舎の静けさは、そのどちらとも違う。

人を隠すための静けさではなく、もう何度も同じことを繰り返してきた場所の静けさ。
そこにあるのが当たり前になってしまった静けさだった。

エナが膝の上の手を強く握る。

「……子ども、いた?」

その問いに、セシアはすぐ頷いた。

「いました」

エナの顔が少しだけ強張る。

「一人じゃありません。もっと、いました」

ルイが息を呑む。
ミナは目を伏せ、トマだけがじっとセシアを見た。

「……棚も、ありました」

セシアは続ける。

「白い家の記録室より、もっと大きい棚です。紙がたくさんあって……白い家だけじゃないみたいでした」

言いながら、自分でもそれがどれほど重いことかを改めて感じる。

白い家は特別ではなかった。
本舎へ繋がる入口のひとつにすぎない。
なら、この町の外にも、似たような白い家があるのかもしれない。

その可能性まで見えてしまった以上、本舎はただの建物じゃない。

リゼが地図を木箱の上へ引き寄せた。
木炭で引いた線が、白い家から北舎へ、北舎から本舎へと細く続いている。

「今のところ分かってるのはこれだけ」

木炭の先で順に叩いていく。

「白い家で選ぶ。北舎で留める。で、その先が本舎」

次に、持ち帰った紙束のひとつをめくる。

「北舎から本舎に行く荷がある。帳面もある。札もある。記録も流れてる」

セシアも頷く。

「本舎で……全部をまとめてるのかもしれません」

言った瞬間、トマが小さく身じろぎした。

「まとめる……?」

「名前を、です」

セシアは祈祷書へ手を置く。

「残す名前と、消す名前を」

その言葉に、部屋が一段深く静かになった。

ルイが小さく首を横に振る。

「そんなの……」

「嫌ですよね」

セシアが答えると、ルイは黙った。

嫌だと口にするまでもなく、あまりにもそのままだったからだろう。

しばらく誰も喋らなかった。

窓の隙間から入る朝の光が少しずつ強くなる。
町はたぶん、もう起きはじめている。
白い家も、北舎も、何事もなかった顔で朝を迎えているのだろう。

その時、階下で小さく戸が鳴った。

全員の身体が強張る。

リゼが一瞬で立ち上がり、階段口の陰へ寄る。
セシアも祈祷書を抱え直した。
ミナとエナは息を殺し、ルイが反射的にトマの方へ寄る。

もう一度、木が鳴る。

今度は風ではなかった。
誰かが外の戸に触れた音だ。

リゼが戻ってくる。
足音はない。
でも、その顔つきは変わっていた。

「……誰か見てる」

低い声だった。

「入ってはこない。でも、表を一度確かめてる」

ミナの顔から血の気が引く。

「白い人?」

「見えなかった。でも、町の人の歩き方じゃない」

それだけで十分だった。

白い家側が、本格的に探しはじめている。
四人も抜ければ当然だ。
北舎からもトマが消えた。
本舎まで報告が行っていれば、もうこの町に長くいられるはずがない。

セシアは思わず言った。

「……本舎へ行くなら、今しかないかもしれません」

口にしてから、自分でもそれが半分本音だと分かった。

今ならまだ、向こうも混乱している。
今ならまだ、白い流れの奥へ踏み込めるかもしれない。

けれど次の瞬間、リゼがはっきりと首を振る。

「逆」

「え」

「今、本舎へ向かったら四人を置くことになるよ」

その一言で、喉が詰まる。

たしかにそうだった。

本舎に行くなら、二人で動くしかない。
四人をここへ残せば、見つかった時に終わる。
連れていけば、潜れない。

「今は、あの流れを壊すより先に、この子たちを町から出す」

リゼの声は冷静だった。

「そっちの方が先」

セシアは何も言えなかった。

本舎へ行きたい。
終わらせたい。
白い家も、北舎も、本舎も、このまま残したくない。

でも、その思いのすぐ横に、ミナたちの顔がある。

ミナ。
エナ。
ルイ。
トマ。

やっとここまで連れ出した四人を、また白い流れの近くへ置き去りにするのか。

それを考えた瞬間、胸の奥の何かが静かに折れた。

「……そうですね」

掠れた声で言う。

「今は、この子たちです」

その言葉は、悔しさごと本当だった。

リゼが一度だけ頷く。

「今夜中に、ここを捨てる」

ミナが顔を上げる。

「……また逃げるの?」

「逃げる」

リゼは迷いなく答えた。

「でも今度は、隠れるためだけじゃない。町ごと捨てる」

その言葉に、ルイの目が少しだけ開いた。
エナも、トマも、言葉の意味をゆっくりと飲み込んでいる顔だった。

町を捨てる。
白い家も、北舎も、本舎もあるこの場所を離れる。

セシアは祈祷書を開いた。

頁に並ぶ四つの名前を見る。

 ミナ。
 エナ。
 ルイ。
 トマ。

ここにある限り、消えてはいない。
でも、ここにあるだけでは足りない。

「……ごめんなさい」

ぽつりと漏れる。

誰に向けたのか、自分でも分からなかった。
本舎の奥に残っているかもしれない名前たちか。
この流れを断ち切れない自分自身か。

すると、ミナが小さく首を振った。

「……ちがう」

セシアが顔を上げる。

ミナは毛布を握ったまま、でもはっきりと言った。

「いまは、わたしたちだから」

その声は震えていた。
けれど、逃げたいだけの声ではなかった。

エナも、目を伏せたまま続ける。

「ここにいて、また戻るのは、いや」

ルイが小さく頷く。

トマだけは少し遅れて、でも確かに言った。

「……名前、消えなかったから」

それだけで十分だった。

セシアは祈祷書を閉じる。

本舎はまだ残っている。
白い流れも終わっていない。
この世界の根っこを、自分ひとりで変えられるわけじゃない。

それでも今、守れる名前が四つある。

それを手放す理由は、もうどこにもなかった。

リゼが立ち上がる。

「日が沈む前に動く。今度は北じゃなく、西」

「西?」

「村はずれに、前に見た空き家がある。畑は死んでるけど、水はある」

その言い方に、セシアは少しだけ息を呑む。

逃げる先が、ただの道ではなく、暮らせるかもしれない場所として示された気がしたからだ。

「そこで落ち着けるかは分かんない。でも、少なくとも今夜を越えるには足りる」

それでよかった。

今は、世界より先に、今日を越えなければならない。

セシアは立ち上がる。

祈祷書を胸へ押し当てる。
まだ熱はない。
でも、重さはちゃんとあった。

地図の上には、白い家から北舎、本舎へ続く線が残っている。
その線を消すことはできない。
けれど、そこから四つの名前だけは引き剥がせた。

それで十分だとは思わない。
でも、今はそれしか選べない。

セシアは地図から目を離し、四人を見た。

「行きましょう」

その言葉に、誰も逆らわなかった。


スタンプを贈って作者を応援しよう!

次のエピソードへ進む 第32話 追われる夜


みんなのリアクション



おすすめ作品を読み込み中です…



四人が揃っても、部屋の中は少しも明るくならなかった。
ミナは毛布を肩にかけたまま、寝台の端で膝を抱えている。
エナは壁にもたれ、眠っているようでいて、物音がするたびに指先がわずかに強張った。
ルイは水袋を握ったまま床へ座り込み、トマは布をかけられたまま、まだ夢の底から戻りきらない顔で天井を見ていた。
古い染物屋の二階には、夜明けの白さだけが少しずつ溜まりはじめている。
その淡い明るさの中で、机代わりの木箱の上に広げた紙だけが、妙に生々しく見えた。
白い家から持ち出した記録。
北舎で見た流れ。
そして荷車の札に残っていた二文字。
本舎。
リゼはその札を、何度も黙って見返していた。
全部が読めたわけではない。けれど、その二文字だけで十分だった。
「北舎で終わりじゃなかった」
独り言のように、リゼが言う。
セシアは祈祷書を抱えたまま頷いた。
「……はい」
白い流れは、まだ続いている
四人の名前を取り返した。
それでも終わらないのは、本舎があるからだ。
白い家が入口で、北舎が一夜の留め置きだとすれば、本舎はもっと奥だ。
記録が集まり、名が消され、送られた先がそこで決まるのかもしれない。
そう思うだけで、胸の奥が重くなる。
「……その本舎、白い家みたいなとこ?」
ミナが小さく聞いた。
セシアは少しだけ言葉を選ぶ。
「白いです。でも、白い家とは少し違いました」
「ちがう?」
「静かすぎました」
それしか言えなかった。
白い家にも静けさはあった。
北舎にもあった。
けれど本舎の静けさは、そのどちらとも違う。
人を隠すための静けさではなく、もう何度も同じことを繰り返してきた場所の静けさ。
そこにあるのが当たり前になってしまった静けさだった。
エナが膝の上の手を強く握る。
「……子ども、いた?」
その問いに、セシアはすぐ頷いた。
「いました」
エナの顔が少しだけ強張る。
「一人じゃありません。もっと、いました」
ルイが息を呑む。
ミナは目を伏せ、トマだけがじっとセシアを見た。
「……棚も、ありました」
セシアは続ける。
「白い家の記録室より、もっと大きい棚です。紙がたくさんあって……白い家だけじゃないみたいでした」
言いながら、自分でもそれがどれほど重いことかを改めて感じる。
白い家は特別ではなかった。
本舎へ繋がる入口のひとつにすぎない。
なら、この町の外にも、似たような白い家があるのかもしれない。
その可能性まで見えてしまった以上、本舎はただの建物じゃない。
リゼが地図を木箱の上へ引き寄せた。
木炭で引いた線が、白い家から北舎へ、北舎から本舎へと細く続いている。
「今のところ分かってるのはこれだけ」
木炭の先で順に叩いていく。
「白い家で選ぶ。北舎で留める。で、その先が本舎」
次に、持ち帰った紙束のひとつをめくる。
「北舎から本舎に行く荷がある。帳面もある。札もある。記録も流れてる」
セシアも頷く。
「本舎で……全部をまとめてるのかもしれません」
言った瞬間、トマが小さく身じろぎした。
「まとめる……?」
「名前を、です」
セシアは祈祷書へ手を置く。
「残す名前と、消す名前を」
その言葉に、部屋が一段深く静かになった。
ルイが小さく首を横に振る。
「そんなの……」
「嫌ですよね」
セシアが答えると、ルイは黙った。
嫌だと口にするまでもなく、あまりにもそのままだったからだろう。
しばらく誰も喋らなかった。
窓の隙間から入る朝の光が少しずつ強くなる。
町はたぶん、もう起きはじめている。
白い家も、北舎も、何事もなかった顔で朝を迎えているのだろう。
その時、階下で小さく戸が鳴った。
全員の身体が強張る。
リゼが一瞬で立ち上がり、階段口の陰へ寄る。
セシアも祈祷書を抱え直した。
ミナとエナは息を殺し、ルイが反射的にトマの方へ寄る。
もう一度、木が鳴る。
今度は風ではなかった。
誰かが外の戸に触れた音だ。
リゼが戻ってくる。
足音はない。
でも、その顔つきは変わっていた。
「……誰か見てる」
低い声だった。
「入ってはこない。でも、表を一度確かめてる」
ミナの顔から血の気が引く。
「白い人?」
「見えなかった。でも、町の人の歩き方じゃない」
それだけで十分だった。
白い家側が、本格的に探しはじめている。
四人も抜ければ当然だ。
北舎からもトマが消えた。
本舎まで報告が行っていれば、もうこの町に長くいられるはずがない。
セシアは思わず言った。
「……本舎へ行くなら、今しかないかもしれません」
口にしてから、自分でもそれが半分本音だと分かった。
今ならまだ、向こうも混乱している。
今ならまだ、白い流れの奥へ踏み込めるかもしれない。
けれど次の瞬間、リゼがはっきりと首を振る。
「逆」
「え」
「今、本舎へ向かったら四人を置くことになるよ」
その一言で、喉が詰まる。
たしかにそうだった。
本舎に行くなら、二人で動くしかない。
四人をここへ残せば、見つかった時に終わる。
連れていけば、潜れない。
「今は、あの流れを壊すより先に、この子たちを町から出す」
リゼの声は冷静だった。
「そっちの方が先」
セシアは何も言えなかった。
本舎へ行きたい。
終わらせたい。
白い家も、北舎も、本舎も、このまま残したくない。
でも、その思いのすぐ横に、ミナたちの顔がある。
ミナ。
エナ。
ルイ。
トマ。
やっとここまで連れ出した四人を、また白い流れの近くへ置き去りにするのか。
それを考えた瞬間、胸の奥の何かが静かに折れた。
「……そうですね」
掠れた声で言う。
「今は、この子たちです」
その言葉は、悔しさごと本当だった。
リゼが一度だけ頷く。
「今夜中に、ここを捨てる」
ミナが顔を上げる。
「……また逃げるの?」
「逃げる」
リゼは迷いなく答えた。
「でも今度は、隠れるためだけじゃない。町ごと捨てる」
その言葉に、ルイの目が少しだけ開いた。
エナも、トマも、言葉の意味をゆっくりと飲み込んでいる顔だった。
町を捨てる。
白い家も、北舎も、本舎もあるこの場所を離れる。
セシアは祈祷書を開いた。
頁に並ぶ四つの名前を見る。
 ミナ。
 エナ。
 ルイ。
 トマ。
ここにある限り、消えてはいない。
でも、ここにあるだけでは足りない。
「……ごめんなさい」
ぽつりと漏れる。
誰に向けたのか、自分でも分からなかった。
本舎の奥に残っているかもしれない名前たちか。
この流れを断ち切れない自分自身か。
すると、ミナが小さく首を振った。
「……ちがう」
セシアが顔を上げる。
ミナは毛布を握ったまま、でもはっきりと言った。
「いまは、わたしたちだから」
その声は震えていた。
けれど、逃げたいだけの声ではなかった。
エナも、目を伏せたまま続ける。
「ここにいて、また戻るのは、いや」
ルイが小さく頷く。
トマだけは少し遅れて、でも確かに言った。
「……名前、消えなかったから」
それだけで十分だった。
セシアは祈祷書を閉じる。
本舎はまだ残っている。
白い流れも終わっていない。
この世界の根っこを、自分ひとりで変えられるわけじゃない。
それでも今、守れる名前が四つある。
それを手放す理由は、もうどこにもなかった。
リゼが立ち上がる。
「日が沈む前に動く。今度は北じゃなく、西」
「西?」
「村はずれに、前に見た空き家がある。畑は死んでるけど、水はある」
その言い方に、セシアは少しだけ息を呑む。
逃げる先が、ただの道ではなく、暮らせるかもしれない場所として示された気がしたからだ。
「そこで落ち着けるかは分かんない。でも、少なくとも今夜を越えるには足りる」
それでよかった。
今は、世界より先に、今日を越えなければならない。
セシアは立ち上がる。
祈祷書を胸へ押し当てる。
まだ熱はない。
でも、重さはちゃんとあった。
地図の上には、白い家から北舎、本舎へ続く線が残っている。
その線を消すことはできない。
けれど、そこから四つの名前だけは引き剥がせた。
それで十分だとは思わない。
でも、今はそれしか選べない。
セシアは地図から目を離し、四人を見た。
「行きましょう」
その言葉に、誰も逆らわなかった。