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第25話 流れの先

ー/ー



夜が明ける少し前に、リゼは一度だけ仮眠を取った。

ほんの短い間だった。椅子に座ったまま目を閉じただけで、深く眠ったわけではない。セシアも似たようなものだった。寝台の端に腰を下ろしたまま、祈祷書を抱え、目を閉じても白い部屋の灯りばかりが浮かぶ。

白い上着の男の声。
白祈院の子だったね、という言い方。
ルイの冷たい手。
トマの名前。

どれもまだ夜の中にある。

窓の外がうっすらと白み、町が一日の呼吸を始める気配を見せたところで、リゼが目を開けた。

「移るよ」

それだけだった。

だが、逆らえる声ではなかったし、逆らう理由もなかった。

この部屋はもう長く使えない。
白い家の側が本気で探せば、裏通りの貸部屋などすぐに洗われる。

ミナも、エナも、ルイも、何も言わなかった。

三人とも、眠れていない顔をしている。
それでももう、言われる前から立ち上がる準備をしていた。

リゼは部屋の中を手早く片づけた。地図、紙束、余ったパン、水袋、布。必要なものだけを小さくまとめ、何ひとつ残さない。最初から何もなかったみたいに、部屋の中身が薄くなっていく。

セシアは祈祷書へ紙を挟み直した。

ミナ
エナ
ルイ
トマ

それぞれの名前の記録。上位照会の紙。順番表の切れ端。自分の記録。

枚数にすれば大したことはない。
でも、それを持つだけで胸元が重かった。

「顔、隠せる?」

リゼが子どもたちへ問う。

ミナとエナは頷く。ルイは少し遅れて頷いた。
リゼは布袋の中から古い頭巾や擦り切れた上着を出し、三人に順番に渡していく。

「汚れてても我慢。今は目立たない方がいい」

ミナはすぐに頭巾を被った。エナも言われた通りにする。ルイだけは少し手間取ったが、セシアが手を貸すと黙って受け入れた。

外へ出る時、セシアは最後に一度だけ部屋を振り返った。

誰かの隠れ場所だった痕跡が、どこにも残っていない。

それでいいのだと思う。
残すべきものは、こういう場所ではない。

朝の町は、夜よりも正直だった。

リゼは子ども三人を前後に挟み込むようにして歩かせた。
セシアは少し遅れて後ろにつく。
何かあれば、その時にしかできないことをするつもりだったが、何も起きない方がいいに決まっている。

裏通りを二本抜け、古い染物屋の跡らしい建物へ入った。

表の看板は剥がれ、窓は半分板で塞がれている。中は薄暗く、布を染めた名残の匂いがかすかに残っていた。人が住んでいるようには見えないが、雨風を避けるだけなら十分だ。

「前に使ってた」

リゼがそう言う。

何に、とは聞かない。
今は場所があることの方が大きかった。

子どもたちを二階へ上げ、そこでようやく全員が少しだけ息を吐く。

朝の光は板張りの隙間から細く差し込むだけで、部屋の中はまだ半分夜のようだった。

ルイは壁際に座り込んだまま動かない。エナは窓のない方を選んで座り、ミナだけが落ち着かない様子で辺りを見回していた。

「ここなら、すぐには見つからない」

リゼが言うと、ミナは小さく頷いた。

セシアは祈祷書を開き、持ってきた紙を机代わりの古箱の上へ並べた。

白い家で拾った紙は、夜の間よりも朝の光の下で、いっそう冷たく見える。

リゼが向かいに腰を下ろす。

「順番にいくよ。まず、白い家の中で分かったこと」

木炭の短い切れ端を取り出し、箱の蓋の裏へ簡単に書き始める。

「台所奥の階段。搬入口。白い部屋。待機室。記録室。そこまではもう見た」

線が増える。
点と点が結ばれていく。

「で、今必要なのは、その先だ」

リゼの指が、上位照会の紙を叩いた。

セシアはそれを引き寄せる。

上位照会済
適合候補のみ移送対象

短い言葉だけなのに、その先にあるものを想像すると息が苦しくなる。

「上位が、どこか」

セシアが言うと、リゼが頷いた。

「うん。白い家だけ潰しても、そこが残ってたら同じことが続く」

ミナもエナも、ルイも、紙をじっと見ていた。

自分のことが書かれている。
名前や番号や、理解しきれない言葉で。
その事実が、この子たちにどう見えているのか、セシアにはまだ分からない。

エナが、かすかに声を出した。

「……これ、どこに行くの」

セシアは少し迷ってから答える。

「まだ分かっていません」

嘘はつきたくなかった。

「でも、白い家より先があることは確かです」

エナは俯く。

「戻る子、少なかった」

その言い方が嫌だった。
少なかった、ではなく、ほとんど戻らなかったのだろう。

ルイが、小さく続ける。

「荷車の音、したことある」

セシアとリゼの視線が向く。

「いつ?」

「夜のあと。朝より前」

言葉が少ない。けれど、今はそれで十分だった。

エナも頷く。

「白い部屋のあと、すぐじゃない。……少し置かれて、それから音がした」

リゼが木炭を動かす。

「なら、白い家から外へ出す時刻は夜明け前か、朝まだき」

今、自分たちがこうして場所を移ったのと似た時間だ。

町が目を開ききる前。
人の流れがまだ薄く、見て見ぬふりもしやすい時間。

セシアはもう一枚、白祈院由来の印が入った紙を見た。

紙の端に、小さく押された印。
欠けた白い輪と、細い刻み。

その下の文字は、ほとんどが記号に近い。
だが、何度も見ているうちに、ひとつだけ同じ並びがあることに気づいた。

「……リゼ、これ」

差し出すと、リゼが受け取る。

「何かある?」

「この印の下の文字、こっちにもあります」

セシアは自分の記録と、エナの記録を並べた。
書式は違う。紙の古さも違う。
でも、末尾にある二文字が同じだった。

「……『北舎』?」

リゼが眉を寄せる。

完全にそう読めるかは分からない。文字の癖が強い。
けれど、白祈院由来の紙にも、白い家の照会票にも、その並びがある。

「舎、って、建物のことですよね」

セシアが言うと、リゼは頷く。

「たぶんね。北の建物か、北側の受け口か」

それだけでは場所は絞れない。
でも、初めて“先”に触れた感じがした。

白い家の先にあるものは、ただの概念ではない。
どこかに、実際の場所としてある。

その時、階下で物音がした。

全員の肩が揺れる。

リゼがすぐに立ち上がり、手で静かにしろと合図する。
階段のきしみ。
だが一度だけで止まった。

しばらく待っても、続きはない。

風だろうか。
古い建物だから、そういうこともある。
それでも、全員が息を詰めたままだった。

やがてリゼが小さく息を吐く。

「……大丈夫」

それを聞いて、ルイがようやく肩から力を抜いた。

セシアはその様子を見て、改めて思う。

この子たちは、まだ完全に外へ出られていない。
白い家から離れても、身体の中にはまだあの底が残っている。

それなら、自分も同じなのかもしれない。

白祈院から逃げても、記録はまだ繋がっていた。
白い上着の男は自分を知っていた。
つまり、自分の名前もまた、どこかの棚にまだ残っている。

「……セシア」

ミナが小さく呼ぶ。

「トマも、ここに書いて」

差し出されたのは、木炭の短い切れ端だった。

セシアは少しだけ目を見開く。

ミナは続ける。

「この紙じゃなくてもいいから」

木箱の蓋の裏には、リゼが線を引いた簡単な図が残っている。
その隅に、セシアはゆっくりと書いた。

トマ。

その名を見たエナが、ほんの少しだけ息を吐く。
ルイは何も言わなかったが、その視線はずっとそこにあった。

「ここにある限り、消えません」

セシアが言うと、リゼが短く頷く。

「紙は持っていける。名前もね」

それだけで十分だった。

今はまだ、トマを出せていない。
白い家も、上位照会の先も、そのままだ。

でも、追うべき流れは見え始めている。

「白い家から出る荷を見ます」

セシアが言うと、リゼはすぐに返す。

「うん。次は“中”だけじゃなく“外へ出る流れ”を追う」

木炭で書いた『北舎』らしき文字を指先で叩く。

「このあたりを手掛かりに、どこへ送ってるか探る」

白い家だけを見ていても足りない。
記録がどこへ流れるのか。
人がどこへ運ばれるのか。
その先を見なければ、トマを取り戻してもまた同じ場所が生まれる。

窓の隙間から、朝の光が少し強くなった。

夜は完全に終わる。
けれど、底に残るものは終わらない。

セシアは祈祷書を閉じた。
中にはまだ、白い家から持ち出した記録が挟まれている。

ミナ。
エナ。
ルイ。
トマ。
そして自分の名前。
 
残っている。
 
だから、まだ終わりにできない。


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夜が明ける少し前に、リゼは一度だけ仮眠を取った。
ほんの短い間だった。椅子に座ったまま目を閉じただけで、深く眠ったわけではない。セシアも似たようなものだった。寝台の端に腰を下ろしたまま、祈祷書を抱え、目を閉じても白い部屋の灯りばかりが浮かぶ。
白い上着の男の声。
白祈院の子だったね、という言い方。
ルイの冷たい手。
トマの名前。
どれもまだ夜の中にある。
窓の外がうっすらと白み、町が一日の呼吸を始める気配を見せたところで、リゼが目を開けた。
「移るよ」
それだけだった。
だが、逆らえる声ではなかったし、逆らう理由もなかった。
この部屋はもう長く使えない。
白い家の側が本気で探せば、裏通りの貸部屋などすぐに洗われる。
ミナも、エナも、ルイも、何も言わなかった。
三人とも、眠れていない顔をしている。
それでももう、言われる前から立ち上がる準備をしていた。
リゼは部屋の中を手早く片づけた。地図、紙束、余ったパン、水袋、布。必要なものだけを小さくまとめ、何ひとつ残さない。最初から何もなかったみたいに、部屋の中身が薄くなっていく。
セシアは祈祷書へ紙を挟み直した。
ミナ
エナ
ルイ
トマ
それぞれの名前の記録。上位照会の紙。順番表の切れ端。自分の記録。
枚数にすれば大したことはない。
でも、それを持つだけで胸元が重かった。
「顔、隠せる?」
リゼが子どもたちへ問う。
ミナとエナは頷く。ルイは少し遅れて頷いた。
リゼは布袋の中から古い頭巾や擦り切れた上着を出し、三人に順番に渡していく。
「汚れてても我慢。今は目立たない方がいい」
ミナはすぐに頭巾を被った。エナも言われた通りにする。ルイだけは少し手間取ったが、セシアが手を貸すと黙って受け入れた。
外へ出る時、セシアは最後に一度だけ部屋を振り返った。
誰かの隠れ場所だった痕跡が、どこにも残っていない。
それでいいのだと思う。
残すべきものは、こういう場所ではない。
朝の町は、夜よりも正直だった。
リゼは子ども三人を前後に挟み込むようにして歩かせた。
セシアは少し遅れて後ろにつく。
何かあれば、その時にしかできないことをするつもりだったが、何も起きない方がいいに決まっている。
裏通りを二本抜け、古い染物屋の跡らしい建物へ入った。
表の看板は剥がれ、窓は半分板で塞がれている。中は薄暗く、布を染めた名残の匂いがかすかに残っていた。人が住んでいるようには見えないが、雨風を避けるだけなら十分だ。
「前に使ってた」
リゼがそう言う。
何に、とは聞かない。
今は場所があることの方が大きかった。
子どもたちを二階へ上げ、そこでようやく全員が少しだけ息を吐く。
朝の光は板張りの隙間から細く差し込むだけで、部屋の中はまだ半分夜のようだった。
ルイは壁際に座り込んだまま動かない。エナは窓のない方を選んで座り、ミナだけが落ち着かない様子で辺りを見回していた。
「ここなら、すぐには見つからない」
リゼが言うと、ミナは小さく頷いた。
セシアは祈祷書を開き、持ってきた紙を机代わりの古箱の上へ並べた。
白い家で拾った紙は、夜の間よりも朝の光の下で、いっそう冷たく見える。
リゼが向かいに腰を下ろす。
「順番にいくよ。まず、白い家の中で分かったこと」
木炭の短い切れ端を取り出し、箱の蓋の裏へ簡単に書き始める。
「台所奥の階段。搬入口。白い部屋。待機室。記録室。そこまではもう見た」
線が増える。
点と点が結ばれていく。
「で、今必要なのは、その先だ」
リゼの指が、上位照会の紙を叩いた。
セシアはそれを引き寄せる。
上位照会済
適合候補のみ移送対象
短い言葉だけなのに、その先にあるものを想像すると息が苦しくなる。
「上位が、どこか」
セシアが言うと、リゼが頷いた。
「うん。白い家だけ潰しても、そこが残ってたら同じことが続く」
ミナもエナも、ルイも、紙をじっと見ていた。
自分のことが書かれている。
名前や番号や、理解しきれない言葉で。
その事実が、この子たちにどう見えているのか、セシアにはまだ分からない。
エナが、かすかに声を出した。
「……これ、どこに行くの」
セシアは少し迷ってから答える。
「まだ分かっていません」
嘘はつきたくなかった。
「でも、白い家より先があることは確かです」
エナは俯く。
「戻る子、少なかった」
その言い方が嫌だった。
少なかった、ではなく、ほとんど戻らなかったのだろう。
ルイが、小さく続ける。
「荷車の音、したことある」
セシアとリゼの視線が向く。
「いつ?」
「夜のあと。朝より前」
言葉が少ない。けれど、今はそれで十分だった。
エナも頷く。
「白い部屋のあと、すぐじゃない。……少し置かれて、それから音がした」
リゼが木炭を動かす。
「なら、白い家から外へ出す時刻は夜明け前か、朝まだき」
今、自分たちがこうして場所を移ったのと似た時間だ。
町が目を開ききる前。
人の流れがまだ薄く、見て見ぬふりもしやすい時間。
セシアはもう一枚、白祈院由来の印が入った紙を見た。
紙の端に、小さく押された印。
欠けた白い輪と、細い刻み。
その下の文字は、ほとんどが記号に近い。
だが、何度も見ているうちに、ひとつだけ同じ並びがあることに気づいた。
「……リゼ、これ」
差し出すと、リゼが受け取る。
「何かある?」
「この印の下の文字、こっちにもあります」
セシアは自分の記録と、エナの記録を並べた。
書式は違う。紙の古さも違う。
でも、末尾にある二文字が同じだった。
「……『北舎』?」
リゼが眉を寄せる。
完全にそう読めるかは分からない。文字の癖が強い。
けれど、白祈院由来の紙にも、白い家の照会票にも、その並びがある。
「舎、って、建物のことですよね」
セシアが言うと、リゼは頷く。
「たぶんね。北の建物か、北側の受け口か」
それだけでは場所は絞れない。
でも、初めて“先”に触れた感じがした。
白い家の先にあるものは、ただの概念ではない。
どこかに、実際の場所としてある。
その時、階下で物音がした。
全員の肩が揺れる。
リゼがすぐに立ち上がり、手で静かにしろと合図する。
階段のきしみ。
だが一度だけで止まった。
しばらく待っても、続きはない。
風だろうか。
古い建物だから、そういうこともある。
それでも、全員が息を詰めたままだった。
やがてリゼが小さく息を吐く。
「……大丈夫」
それを聞いて、ルイがようやく肩から力を抜いた。
セシアはその様子を見て、改めて思う。
この子たちは、まだ完全に外へ出られていない。
白い家から離れても、身体の中にはまだあの底が残っている。
それなら、自分も同じなのかもしれない。
白祈院から逃げても、記録はまだ繋がっていた。
白い上着の男は自分を知っていた。
つまり、自分の名前もまた、どこかの棚にまだ残っている。
「……セシア」
ミナが小さく呼ぶ。
「トマも、ここに書いて」
差し出されたのは、木炭の短い切れ端だった。
セシアは少しだけ目を見開く。
ミナは続ける。
「この紙じゃなくてもいいから」
木箱の蓋の裏には、リゼが線を引いた簡単な図が残っている。
その隅に、セシアはゆっくりと書いた。
トマ。
その名を見たエナが、ほんの少しだけ息を吐く。
ルイは何も言わなかったが、その視線はずっとそこにあった。
「ここにある限り、消えません」
セシアが言うと、リゼが短く頷く。
「紙は持っていける。名前もね」
それだけで十分だった。
今はまだ、トマを出せていない。
白い家も、上位照会の先も、そのままだ。
でも、追うべき流れは見え始めている。
「白い家から出る荷を見ます」
セシアが言うと、リゼはすぐに返す。
「うん。次は“中”だけじゃなく“外へ出る流れ”を追う」
木炭で書いた『北舎』らしき文字を指先で叩く。
「このあたりを手掛かりに、どこへ送ってるか探る」
白い家だけを見ていても足りない。
記録がどこへ流れるのか。
人がどこへ運ばれるのか。
その先を見なければ、トマを取り戻してもまた同じ場所が生まれる。
窓の隙間から、朝の光が少し強くなった。
夜は完全に終わる。
けれど、底に残るものは終わらない。
セシアは祈祷書を閉じた。
中にはまだ、白い家から持ち出した記録が挟まれている。
ミナ。
エナ。
ルイ。
トマ。
そして自分の名前。
残っている。
だから、まだ終わりにできない。