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第23話 白衣の男

ー/ー



夜は、思っていたより深くならなかった。

白い家の方角を見れば、まだ薄く灯りが残っている。
鐘が鳴ったあとの夜はもっと沈んでいるものだと、セシアは勝手に思っていた。

だが実際には違う。あの家の夜は静かなまま動いている。昼の顔を崩さないまま、底だけを回し続けている。

貸部屋を出る前、リゼは短く言った。

「今度は一人だけ。狙うのはそこだけ」

ミナもエナも、止めなかった。

止める余裕がないのだと、セシアには分かった。
ここで戻らなければ、ルイかトマのどちらかが今夜のうちに消えるかもしれない。
そのことを、二人とももう知っている。

裏通りを抜け、白い家の裏手へ回る。

今度は正面の様子を見に行かない。
搬入口と側面の通路だけを狙う。

夜風は冷たかったが、地下を思えばまだましだった。

白い家の壁に近づくほど、空気が乾いていく。人がいるはずなのに、人の匂いが薄い。薬と布と石の匂いばかりが残っている。

搬入口の近くには、昼間見た箱とは別の木箱が積み直されていた。蓋の合っていないものからは白布の端が覗き、細い革紐の束が見えている。

人を縛るためのものなのか、荷をまとめるためのものなのか、考えたくなかった。

リゼが影の中で足を止める。

「さっきより人が減ってる」

その声は低い。

「減ったってことは、もう奥へ流れてる」

セシアは頷いた。

台所奥のルートへ入る。
水場には誰もいない。
灯りだけが、壁際の桶を白く照らしている。

鍵穴へ差し込まれる金具のかすかな音。
扉が開き、冷たい空気が流れ出る。

二人は言葉を交わさず、地下へ下りた。

今夜の地下は、さっきより静かだった。

静かなのに、人の気配は濃い。
誰かが動き終えたあとの空気。
もう何人かが選ばれたあとかもしれないと、考えてしまう。

胸の奥へ、かすかなものが落ちる。

『……こわい』

小さい。
けれど、近い。

セシアは立ち止まりそうになる足を、どうにか前へ運ぶ。

「……右です」

囁くと、リゼがすぐに壁沿いの暗がりへ滑る。
その先に、白い布で半分隠された細い通路があった。待機室や白い部屋へ続く道とは少し違う、搬入口側へ抜ける脇の流れだろう。

エナが言っていた“奥の部屋”は、この先にあるはずだった。

人の話し声が聞こえる。

「早くしろ。上で待たせるな」

「十九が抜けた分、順番がずれてる」

「二十六は」

「先に移す。白い方が先に見たがってる」

二十六。

記録で見た番号だった。
セシアの背中が強く冷える。

その時、布の向こうから白くない服の男が一人出てきた。何かを書いた板を手にしている。

リゼが一瞬でセシアの肩を押し、壁際の窪みへ沈む。

男は二人のすぐ前を通り過ぎた。
灯りが頬をかすめる。
あと一歩近ければ見つかっていただろう。

息を止めたままやり過ごす。

足音が遠ざかってから、リゼが目だけで合図した。

進む。

脇通路の先に、小さな部屋があった。

扉は半開き。
中には灯りが一つだけ吊られ、壁際に箱と布束が置かれている。寝台はない。待たせるためだけの部屋だとすぐに分かった。

そして、その部屋の隅に、ひとりの子どもがいた。

壁際に寄せられるように座っている。年はエナと同じくらいか、少し下か。
痩せていて、手首が細い。呼ばれればすぐ立たされるように、靴も履かされたままだった。

『……だれ』

胸の奥へ声が落ちる。

セシアはゆっくり近づく。

「……ルイですか」

子どもの肩がびくりと揺れた。

「なんで」

声になったのはそれだけだった。

セシアはしゃがみ込み、祈祷書を抱えたまま小さく言う。

「迎えに来ました」

ルイの目が大きく揺れる。

信じていない。
でも、信じたくないわけでもない。
その揺れ方だった。

「今なら出られます」

手を差し出す。

ルイはすぐには動けなかった。
それでも、遠くで扉の音がした瞬間、小さく息を呑み、ようやくその手を重ねた。

冷たい。

子どもの手なのに、冷たすぎる。

リゼが先に通路を確かめる。

「いくよ」

二人は部屋を出た。

連れ去るなら、搬入口側から外へ出るのが一番近い。
だがその時、通路の先で人影が止まった。

白い上着だった。

夜の地下の灯りを受けても、その布だけはやけに白く見える。
痩せている。背が高い。整った顔立ちをしていて、医者にも司祭にも見える。怒ってはいない。むしろ静かで、清潔だった。

それが余計に気味が悪い。

「……夜更けの見舞い客が多い日だ」

男はそう言って、セシアたちを見た。

声も穏やかだった。
怒鳴らない。
だからこそ、ここから先へ進んではいけないという圧だけが濃かった。

リゼがルイを自分の後ろへ引く。

「どいてくれない?」

「そういうわけにはいかない」

男の目が、ルイではなく先にセシアへ向く。

その視線に、セシアは足を止めそうになる。
見られている。
選ぶ側の目で。

「その子を離してください」

どうにか言うと、男はほんのわずかに首を傾げた。

「離して、どうする」

「連れていきます」

「連れていけると思うのかい」

問いかけでありながら、答えを求めていない声だった。

男は静かなまま、セシアを見ている。
顔の奥に、薄い違和感が浮かんだ。

覚えがある、という顔だ。

「……ああ」

小さく息をつくように、男が言う。

「白祈院の子だったね」

その一言で、セシアの背中に冷たいものが走った。

リゼの気配も鋭くなる。

男は続ける。

「記録で見ていた。移送見送りのまま、消えた子」

消えた。

その言い方に、セシアの喉が焼けるように痛む。

逃げたのではなく、消えた子。
仕組みの側から見れば、そういうことなのだ。

「君なら、分かるはずだ」

男の声はなおも穏やかだった。

「選ぶことは、慈悲だ。全てを同じように扱う方が残酷だと」

その言葉が、セシアにはあまりにも白祈院らしく聞こえた。

正しそうな顔。
静かな声。
救いのように言う。

でも、その実、名前を奪い、番号で呼び、子どもを上へ送っている。

「……それを、慈悲とは言いません」

絞り出すようにセシアが言うと、男は少しだけ目を細めた。

「なら、何と言う?」

答える前に、リゼが動いた。

通路脇の木箱を蹴り出す。
箱が床を滑り、男の足を止める。

「問答してる場合じゃない」

ルイの背を押し、リゼが先導する。
セシアも反射的に走り出した。

男は追ってこなかった。
だが、その代わりに後ろで低い声が上がる。

「止めろ」

短い一言で十分だった。
通路の向こうから足音がいくつも重なってくる。

搬入口の手前まで走る。
箱の影。
半開きの扉。
外気。

もう少しで外へ出られる、その瞬間だった。

通路の先から別の男が現れる。

白くない服。鍵束を持っている。夜勤の管理役だ。

リゼが舌打ちする。

セシアはルイの手を引いたまま、反対側の狭い脇路地へ身体を押し込んだ。
箱と壁のあいだ、ひとが一人通れるかどうかの隙間。

「こっち!」

三人で身を滑らせる。

服が引っかかる。
箱が揺れる。
だが倒れない。

管理役の男が気づいた時には、すでに角を曲がっていた。

裏手の塀を越え、湿った地面に飛び降りる。
ルイの足がもつれ、セシアも一緒に膝をついた。痛みが走るが、止まっている暇はない。

背後で声が上がる。

「いたぞ!」

白い家からはまだ近い。
逃げなければならない。

リゼが先を走り、裏通りの暗がりへ入る。
セシアはルイの手を離さず、その背を追った。

ようやく白い家の灯りが見えなくなったところで、三人は足を止める。

ルイは息を切らしたまま、壁に背をついていた。
まだ何も言えない。
ただ目だけが大きく開いている。

セシアも同じだった。

白い上着の男の声が、まだ耳の奥に残っている。

白祈院の子だったね。

あの場所は、自分を見ていた。
知らないうちに、自分も向こうから見返されていた。

リゼが先に呼吸を整え、低く言う。

「……ルイは出せた」

事実を確認するみたいな声だった。

「でも、トマはまだ下」

セシアは頷く。

胸の奥へ、また小さなものが落ちてくる。

『……いる』

トマか、別の子か、もう分からない。
でも、白い家の底にまだ名前が残っていることだけは、はっきりしていた。

「戻るなら、次はあの男を越えないといけない」

リゼが言う。

白い上着の男。
静かで、丁寧で、善意の顔をした敵。

セシアは祈祷書を強く抱えた。

ページの間には、持ち出した記録がある。
自分の名前も、ミナも、エナも、ルイも、トマも。

名前が残っている。
だから終われない。


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夜は、思っていたより深くならなかった。
白い家の方角を見れば、まだ薄く灯りが残っている。
鐘が鳴ったあとの夜はもっと沈んでいるものだと、セシアは勝手に思っていた。
だが実際には違う。あの家の夜は静かなまま動いている。昼の顔を崩さないまま、底だけを回し続けている。
貸部屋を出る前、リゼは短く言った。
「今度は一人だけ。狙うのはそこだけ」
ミナもエナも、止めなかった。
止める余裕がないのだと、セシアには分かった。
ここで戻らなければ、ルイかトマのどちらかが今夜のうちに消えるかもしれない。
そのことを、二人とももう知っている。
裏通りを抜け、白い家の裏手へ回る。
今度は正面の様子を見に行かない。
搬入口と側面の通路だけを狙う。
夜風は冷たかったが、地下を思えばまだましだった。
白い家の壁に近づくほど、空気が乾いていく。人がいるはずなのに、人の匂いが薄い。薬と布と石の匂いばかりが残っている。
搬入口の近くには、昼間見た箱とは別の木箱が積み直されていた。蓋の合っていないものからは白布の端が覗き、細い革紐の束が見えている。
人を縛るためのものなのか、荷をまとめるためのものなのか、考えたくなかった。
リゼが影の中で足を止める。
「さっきより人が減ってる」
その声は低い。
「減ったってことは、もう奥へ流れてる」
セシアは頷いた。
台所奥のルートへ入る。
水場には誰もいない。
灯りだけが、壁際の桶を白く照らしている。
鍵穴へ差し込まれる金具のかすかな音。
扉が開き、冷たい空気が流れ出る。
二人は言葉を交わさず、地下へ下りた。
今夜の地下は、さっきより静かだった。
静かなのに、人の気配は濃い。
誰かが動き終えたあとの空気。
もう何人かが選ばれたあとかもしれないと、考えてしまう。
胸の奥へ、かすかなものが落ちる。
『……こわい』
小さい。
けれど、近い。
セシアは立ち止まりそうになる足を、どうにか前へ運ぶ。
「……右です」
囁くと、リゼがすぐに壁沿いの暗がりへ滑る。
その先に、白い布で半分隠された細い通路があった。待機室や白い部屋へ続く道とは少し違う、搬入口側へ抜ける脇の流れだろう。
エナが言っていた“奥の部屋”は、この先にあるはずだった。
人の話し声が聞こえる。
「早くしろ。上で待たせるな」
「十九が抜けた分、順番がずれてる」
「二十六は」
「先に移す。白い方が先に見たがってる」
二十六。
記録で見た番号だった。
セシアの背中が強く冷える。
その時、布の向こうから白くない服の男が一人出てきた。何かを書いた板を手にしている。
リゼが一瞬でセシアの肩を押し、壁際の窪みへ沈む。
男は二人のすぐ前を通り過ぎた。
灯りが頬をかすめる。
あと一歩近ければ見つかっていただろう。
息を止めたままやり過ごす。
足音が遠ざかってから、リゼが目だけで合図した。
進む。
脇通路の先に、小さな部屋があった。
扉は半開き。
中には灯りが一つだけ吊られ、壁際に箱と布束が置かれている。寝台はない。待たせるためだけの部屋だとすぐに分かった。
そして、その部屋の隅に、ひとりの子どもがいた。
壁際に寄せられるように座っている。年はエナと同じくらいか、少し下か。
痩せていて、手首が細い。呼ばれればすぐ立たされるように、靴も履かされたままだった。
『……だれ』
胸の奥へ声が落ちる。
セシアはゆっくり近づく。
「……ルイですか」
子どもの肩がびくりと揺れた。
「なんで」
声になったのはそれだけだった。
セシアはしゃがみ込み、祈祷書を抱えたまま小さく言う。
「迎えに来ました」
ルイの目が大きく揺れる。
信じていない。
でも、信じたくないわけでもない。
その揺れ方だった。
「今なら出られます」
手を差し出す。
ルイはすぐには動けなかった。
それでも、遠くで扉の音がした瞬間、小さく息を呑み、ようやくその手を重ねた。
冷たい。
子どもの手なのに、冷たすぎる。
リゼが先に通路を確かめる。
「いくよ」
二人は部屋を出た。
連れ去るなら、搬入口側から外へ出るのが一番近い。
だがその時、通路の先で人影が止まった。
白い上着だった。
夜の地下の灯りを受けても、その布だけはやけに白く見える。
痩せている。背が高い。整った顔立ちをしていて、医者にも司祭にも見える。怒ってはいない。むしろ静かで、清潔だった。
それが余計に気味が悪い。
「……夜更けの見舞い客が多い日だ」
男はそう言って、セシアたちを見た。
声も穏やかだった。
怒鳴らない。
だからこそ、ここから先へ進んではいけないという圧だけが濃かった。
リゼがルイを自分の後ろへ引く。
「どいてくれない?」
「そういうわけにはいかない」
男の目が、ルイではなく先にセシアへ向く。
その視線に、セシアは足を止めそうになる。
見られている。
選ぶ側の目で。
「その子を離してください」
どうにか言うと、男はほんのわずかに首を傾げた。
「離して、どうする」
「連れていきます」
「連れていけると思うのかい」
問いかけでありながら、答えを求めていない声だった。
男は静かなまま、セシアを見ている。
顔の奥に、薄い違和感が浮かんだ。
覚えがある、という顔だ。
「……ああ」
小さく息をつくように、男が言う。
「白祈院の子だったね」
その一言で、セシアの背中に冷たいものが走った。
リゼの気配も鋭くなる。
男は続ける。
「記録で見ていた。移送見送りのまま、消えた子」
消えた。
その言い方に、セシアの喉が焼けるように痛む。
逃げたのではなく、消えた子。
仕組みの側から見れば、そういうことなのだ。
「君なら、分かるはずだ」
男の声はなおも穏やかだった。
「選ぶことは、慈悲だ。全てを同じように扱う方が残酷だと」
その言葉が、セシアにはあまりにも白祈院らしく聞こえた。
正しそうな顔。
静かな声。
救いのように言う。
でも、その実、名前を奪い、番号で呼び、子どもを上へ送っている。
「……それを、慈悲とは言いません」
絞り出すようにセシアが言うと、男は少しだけ目を細めた。
「なら、何と言う?」
答える前に、リゼが動いた。
通路脇の木箱を蹴り出す。
箱が床を滑り、男の足を止める。
「問答してる場合じゃない」
ルイの背を押し、リゼが先導する。
セシアも反射的に走り出した。
男は追ってこなかった。
だが、その代わりに後ろで低い声が上がる。
「止めろ」
短い一言で十分だった。
通路の向こうから足音がいくつも重なってくる。
搬入口の手前まで走る。
箱の影。
半開きの扉。
外気。
もう少しで外へ出られる、その瞬間だった。
通路の先から別の男が現れる。
白くない服。鍵束を持っている。夜勤の管理役だ。
リゼが舌打ちする。
セシアはルイの手を引いたまま、反対側の狭い脇路地へ身体を押し込んだ。
箱と壁のあいだ、ひとが一人通れるかどうかの隙間。
「こっち!」
三人で身を滑らせる。
服が引っかかる。
箱が揺れる。
だが倒れない。
管理役の男が気づいた時には、すでに角を曲がっていた。
裏手の塀を越え、湿った地面に飛び降りる。
ルイの足がもつれ、セシアも一緒に膝をついた。痛みが走るが、止まっている暇はない。
背後で声が上がる。
「いたぞ!」
白い家からはまだ近い。
逃げなければならない。
リゼが先を走り、裏通りの暗がりへ入る。
セシアはルイの手を離さず、その背を追った。
ようやく白い家の灯りが見えなくなったところで、三人は足を止める。
ルイは息を切らしたまま、壁に背をついていた。
まだ何も言えない。
ただ目だけが大きく開いている。
セシアも同じだった。
白い上着の男の声が、まだ耳の奥に残っている。
白祈院の子だったね。
あの場所は、自分を見ていた。
知らないうちに、自分も向こうから見返されていた。
リゼが先に呼吸を整え、低く言う。
「……ルイは出せた」
事実を確認するみたいな声だった。
「でも、トマはまだ下」
セシアは頷く。
胸の奥へ、また小さなものが落ちてくる。
『……いる』
トマか、別の子か、もう分からない。
でも、白い家の底にまだ名前が残っていることだけは、はっきりしていた。
「戻るなら、次はあの男を越えないといけない」
リゼが言う。
白い上着の男。
静かで、丁寧で、善意の顔をした敵。
セシアは祈祷書を強く抱えた。
ページの間には、持ち出した記録がある。
自分の名前も、ミナも、エナも、ルイも、トマも。
名前が残っている。
だから終われない。