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第22話 連れ去られる夜

ー/ー



裏通りの貸部屋へ戻った時には、夜はもう半分以上過ぎていた。

扉を閉めた途端、外の冷たさとは違う息苦しさが部屋の中に満ちる。

狭い。湿っている。空気もよくない。
けれど、今はその狭さがかえってありがたかった。誰の目も届かないというだけで、ここは白い家の下よりずっとましだ。

ミナは物音がした瞬間に立ち上がっていた。

扉が開き、セシアたちの後ろからもう一つ小さな影が入ってきたのを見た瞬間、目を見開く。

「……エナ」

その名を呼ばれた子は、すぐには返事ができなかった。

呼ばれたこと自体が信じられないような顔をしている。

肩は震え、息は浅い。白い部屋から引き出された時よりも、今の方がかえって混乱しているのかもしれなかった。

セシアは扉の内側へ背を預け、一度だけ大きく息を吐く。

足がまだ少し震えている。祈祷書の間に挟んだ紙の感触が、胸元で妙に生々しかった。

リゼが先に部屋の中を見回した。

「追っては来てないよ。少なくとも今は」

その言葉を聞いて、ようやくミナが小さく息をつく。

だがエナは立ったままだった。部屋の中へ入ったのに、どこへ身体を置けばいいのか分からないように。

「……座ってください」

セシアが寝台を示すと、エナは少しだけ身を縮めた。

「怒られない?」

その問いが胸に刺さる。

「怒る人はいません」

「……ほんとに?」

「はい」

それでもエナはすぐには動けなかった。結局、ミナが寝台の端を少しずらし、小さく手招きして、ようやく隣へ腰を下ろした。

その仕草はぎこちなかったが、地下の静けさよりはずっと人間らしかった。

リゼは窓際へ行き、外の様子をもう一度確かめてから机へ戻る。セシアは祈祷書を開き、挟んでいた紙を取り出した。

エナの記録。
ミナの記録。
トマ。
上位照会の紙。
そして、自分の名前。

部屋の灯りは弱い。だが、それでも文字は読めた。

リゼが紙を見下ろし、低く言う。

「今夜の二件のうち一件はエナだった」

エナの肩がびくりと揺れる。

「二件……?」

「記録にあった」

セシアが答える。

「今夜、二人を見る予定だったみたいです」

エナは唇を引き結んだまま、言葉を探していた。やがて、かすかな声で言う。

「じゃあ、もう一人……」

名前を出さなくても分かった。

トマか、ルイか。
あるいは番号で呼ばれていた二十六。

セシアは上位照会の紙を見た。

十九 今夜確認
二十六 保留解除照会中

十九はエナだった。
なら、二十六は。

「ミナ」

リゼが顔を上げる。

「二十六って、誰か分かる?」

ミナは強く首を振った。

「わからない」

名前を剥がしてから見る。
選ぶ側にとっては、その方が都合がいいのだろう。

「二十六が誰か、顔を見れば分かる?」

ミナは少し迷ってから頷いた。

「たぶん」

リゼは机の端を指で叩いた。

「今夜のうちに動かされる可能性がある」

「でも……さっき一人抜けたら、もう終わりじゃないんですか」

セシアが聞くと、リゼは首を振った。

「普通ならそうかもね。でも、あっちは今夜の分を上に送るつもりだった。エナが抜けたなら、順番を詰めてでももう一件動かす可能性がある」

白い家の側にとって、今夜はその日なのだ。ひとつ取りこぼしたからやめる、という優しさはない。

エナが小さく言った。

「……鐘が鳴った夜は、下を空にしたがる」

部屋の空気が一段冷える。

「空に?」

セシアが聞くと、エナは膝の上で指を握り合わせた。

「いつもじゃないけど……見られた子が残ると、次の日にいなくなることが多い」

「どこへ?」

問い返しても、エナは首を振るだけだった。

「わからない。白い部屋から戻る子もいた。でも、戻らない子もいた」

ミナが小さく呟く。

「……ルイかも」

その名に、セシアも祈祷書へ視線を落とした。

ルイ。
トマ。
まだ白い家の下にいる名前。

今夜一人連れ出せたからといって、それで終わりにはならない。

リゼは机の上へ地図を広げる。今夜、白い家の中を通って見た通路の形を、新しい線で足していく。

「表からじゃ間に合わない。台所奥の階段をもう一回使うとしても、あっちはもう警戒してる」

「搬入口は」

セシアが言うと、リゼは頷いた。

「そこが一番可能性ある」

箱を運ぶ流れ。
側面の扉。
正面より人目が少なく、夜でも出入りがある。

「問題は、どこで連れ出すか」

リゼの指が、地図の建物脇をなぞる。

「地下で奪い返すより、上へ出る途中か、出た直後の方がまだ動かしやすい」

エナが小さく顔を上げた。

「……白い部屋のあと、すぐじゃない」

「どういうこと?」

「白い部屋で見られたら、一回、奥の部屋へ入れられる」

セシアとリゼが同時にそちらを見る。

エナは言葉を選ぶように続けた。

「狭い部屋。白くない。……箱とか、布とか置いてる方の近く」

搬入口の近くかもしれない。

「そこで待たされるの?」

「うん。すぐじゃない。上から来るまで」

リゼの目が細くなる。

「それならいけるかも」

セシアの胸が強く打つ。

今夜、もう一度行く。
今度は地下の奥ではなく、連れ去られる途中を狙う。

そう考えた瞬間、また胸の奥へ声が落ちてきた。

『……さむい』

小さく、遠い。
けれどまだ消えていない。

セシアは目を閉じる。

地下の石床。
待機室の寝台。
目だけで追ってきた子ども。

置いてきてしまったものが、まだそこにある。

「……行きます」

自分でも驚くほどすぐに言葉が出た。

リゼは止めなかった。

ただ、机の上の地図を折りたたみながら言う。

「さすがにもう次はない。今度は短くやる。狙うのは一人。欲張ると全部落とす」

その現実的な言い方が、逆にありがたかった。

セシアは頷く。

全員を今夜救えないことは、もう分かっている。
それが、次に連れていかれる一人を見送る理由にはならない。

ミナが毛布の端を握ったまま、ぽつりと聞く。

「……戻るの?」

「戻ります」

セシアは迷わず答えた。

「今夜のうちに」

エナの顔がこわばる。

「無理だよ」

その声は震えていた。

「今、白い家の中、みんな怒ってる。見つかったら……」

それ以上は言えなかったらしい。唇を噛んで俯く。

セシアは少しだけ考えてから、祈祷書を開いた。

そこに書いてある名前を、エナとミナへ見せる。

ミナ
エナ
トマ
ルイ

短い名だけの、まだ薄いページ。

「ここにあります」

エナがじっと見る。

「……なにが」

「消したくないものです」

静かに言う。

「名前が残っているなら、まだ間に合います」

エナはすぐには答えなかった。
けれど、その目が少しだけ揺れる。

「……わたし、選ばれるの、こわかった」

ふいに落ちた言葉に、セシアは息を止めた。

さっきまで、選ばれることを救いだと思っていた子が、今ようやくその怖さを言葉にしたのだ。

「外に行けるって、ずっと言われてた」

エナの声は小さい。

「でも白い部屋に入ったら……帰れない気がした」

その感覚は、セシアにも分かる気がした。

あそこは何かを決める場所だ。
そして決められた側は、自分のままで戻ってはこられない。

リゼが立ち上がる。

「じゃあ決まり。今から少しだけ休む。鐘の二度目か、荷の動きが出たら行く」

短い指示だった。

「エナ、あんたは奥の部屋の位置と、そこまでの道順をもう一回思い出しておいて」

「……うん」

「ミナは待機室の寝台の並び。誰がどこにいたか、分かる範囲でいい」

二人は小さく頷いた。

セシアは窓際へ寄る。

白い家は夜の中で、まだ何もなかったような顔をしていた。

けれど、その底では今も誰かが順番を待たされている。

連れ去られる夜だ。

自分が動かなければ、その夜は何事もなく過ぎてしまう。
そして名前だけが、また一つ減る。

セシアは祈祷書を胸へ押し当てた。

紙の感触が、まだそこにある。


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裏通りの貸部屋へ戻った時には、夜はもう半分以上過ぎていた。
扉を閉めた途端、外の冷たさとは違う息苦しさが部屋の中に満ちる。
狭い。湿っている。空気もよくない。
けれど、今はその狭さがかえってありがたかった。誰の目も届かないというだけで、ここは白い家の下よりずっとましだ。
ミナは物音がした瞬間に立ち上がっていた。
扉が開き、セシアたちの後ろからもう一つ小さな影が入ってきたのを見た瞬間、目を見開く。
「……エナ」
その名を呼ばれた子は、すぐには返事ができなかった。
呼ばれたこと自体が信じられないような顔をしている。
肩は震え、息は浅い。白い部屋から引き出された時よりも、今の方がかえって混乱しているのかもしれなかった。
セシアは扉の内側へ背を預け、一度だけ大きく息を吐く。
足がまだ少し震えている。祈祷書の間に挟んだ紙の感触が、胸元で妙に生々しかった。
リゼが先に部屋の中を見回した。
「追っては来てないよ。少なくとも今は」
その言葉を聞いて、ようやくミナが小さく息をつく。
だがエナは立ったままだった。部屋の中へ入ったのに、どこへ身体を置けばいいのか分からないように。
「……座ってください」
セシアが寝台を示すと、エナは少しだけ身を縮めた。
「怒られない?」
その問いが胸に刺さる。
「怒る人はいません」
「……ほんとに?」
「はい」
それでもエナはすぐには動けなかった。結局、ミナが寝台の端を少しずらし、小さく手招きして、ようやく隣へ腰を下ろした。
その仕草はぎこちなかったが、地下の静けさよりはずっと人間らしかった。
リゼは窓際へ行き、外の様子をもう一度確かめてから机へ戻る。セシアは祈祷書を開き、挟んでいた紙を取り出した。
エナの記録。
ミナの記録。
トマ。
上位照会の紙。
そして、自分の名前。
部屋の灯りは弱い。だが、それでも文字は読めた。
リゼが紙を見下ろし、低く言う。
「今夜の二件のうち一件はエナだった」
エナの肩がびくりと揺れる。
「二件……?」
「記録にあった」
セシアが答える。
「今夜、二人を見る予定だったみたいです」
エナは唇を引き結んだまま、言葉を探していた。やがて、かすかな声で言う。
「じゃあ、もう一人……」
名前を出さなくても分かった。
トマか、ルイか。
あるいは番号で呼ばれていた二十六。
セシアは上位照会の紙を見た。
十九 今夜確認
二十六 保留解除照会中
十九はエナだった。
なら、二十六は。
「ミナ」
リゼが顔を上げる。
「二十六って、誰か分かる?」
ミナは強く首を振った。
「わからない」
名前を剥がしてから見る。
選ぶ側にとっては、その方が都合がいいのだろう。
「二十六が誰か、顔を見れば分かる?」
ミナは少し迷ってから頷いた。
「たぶん」
リゼは机の端を指で叩いた。
「今夜のうちに動かされる可能性がある」
「でも……さっき一人抜けたら、もう終わりじゃないんですか」
セシアが聞くと、リゼは首を振った。
「普通ならそうかもね。でも、あっちは今夜の分を上に送るつもりだった。エナが抜けたなら、順番を詰めてでももう一件動かす可能性がある」
白い家の側にとって、今夜はその日なのだ。ひとつ取りこぼしたからやめる、という優しさはない。
エナが小さく言った。
「……鐘が鳴った夜は、下を空にしたがる」
部屋の空気が一段冷える。
「空に?」
セシアが聞くと、エナは膝の上で指を握り合わせた。
「いつもじゃないけど……見られた子が残ると、次の日にいなくなることが多い」
「どこへ?」
問い返しても、エナは首を振るだけだった。
「わからない。白い部屋から戻る子もいた。でも、戻らない子もいた」
ミナが小さく呟く。
「……ルイかも」
その名に、セシアも祈祷書へ視線を落とした。
ルイ。
トマ。
まだ白い家の下にいる名前。
今夜一人連れ出せたからといって、それで終わりにはならない。
リゼは机の上へ地図を広げる。今夜、白い家の中を通って見た通路の形を、新しい線で足していく。
「表からじゃ間に合わない。台所奥の階段をもう一回使うとしても、あっちはもう警戒してる」
「搬入口は」
セシアが言うと、リゼは頷いた。
「そこが一番可能性ある」
箱を運ぶ流れ。
側面の扉。
正面より人目が少なく、夜でも出入りがある。
「問題は、どこで連れ出すか」
リゼの指が、地図の建物脇をなぞる。
「地下で奪い返すより、上へ出る途中か、出た直後の方がまだ動かしやすい」
エナが小さく顔を上げた。
「……白い部屋のあと、すぐじゃない」
「どういうこと?」
「白い部屋で見られたら、一回、奥の部屋へ入れられる」
セシアとリゼが同時にそちらを見る。
エナは言葉を選ぶように続けた。
「狭い部屋。白くない。……箱とか、布とか置いてる方の近く」
搬入口の近くかもしれない。
「そこで待たされるの?」
「うん。すぐじゃない。上から来るまで」
リゼの目が細くなる。
「それならいけるかも」
セシアの胸が強く打つ。
今夜、もう一度行く。
今度は地下の奥ではなく、連れ去られる途中を狙う。
そう考えた瞬間、また胸の奥へ声が落ちてきた。
『……さむい』
小さく、遠い。
けれどまだ消えていない。
セシアは目を閉じる。
地下の石床。
待機室の寝台。
目だけで追ってきた子ども。
置いてきてしまったものが、まだそこにある。
「……行きます」
自分でも驚くほどすぐに言葉が出た。
リゼは止めなかった。
ただ、机の上の地図を折りたたみながら言う。
「さすがにもう次はない。今度は短くやる。狙うのは一人。欲張ると全部落とす」
その現実的な言い方が、逆にありがたかった。
セシアは頷く。
全員を今夜救えないことは、もう分かっている。
それが、次に連れていかれる一人を見送る理由にはならない。
ミナが毛布の端を握ったまま、ぽつりと聞く。
「……戻るの?」
「戻ります」
セシアは迷わず答えた。
「今夜のうちに」
エナの顔がこわばる。
「無理だよ」
その声は震えていた。
「今、白い家の中、みんな怒ってる。見つかったら……」
それ以上は言えなかったらしい。唇を噛んで俯く。
セシアは少しだけ考えてから、祈祷書を開いた。
そこに書いてある名前を、エナとミナへ見せる。
ミナ
エナ
トマ
ルイ
短い名だけの、まだ薄いページ。
「ここにあります」
エナがじっと見る。
「……なにが」
「消したくないものです」
静かに言う。
「名前が残っているなら、まだ間に合います」
エナはすぐには答えなかった。
けれど、その目が少しだけ揺れる。
「……わたし、選ばれるの、こわかった」
ふいに落ちた言葉に、セシアは息を止めた。
さっきまで、選ばれることを救いだと思っていた子が、今ようやくその怖さを言葉にしたのだ。
「外に行けるって、ずっと言われてた」
エナの声は小さい。
「でも白い部屋に入ったら……帰れない気がした」
その感覚は、セシアにも分かる気がした。
あそこは何かを決める場所だ。
そして決められた側は、自分のままで戻ってはこられない。
リゼが立ち上がる。
「じゃあ決まり。今から少しだけ休む。鐘の二度目か、荷の動きが出たら行く」
短い指示だった。
「エナ、あんたは奥の部屋の位置と、そこまでの道順をもう一回思い出しておいて」
「……うん」
「ミナは待機室の寝台の並び。誰がどこにいたか、分かる範囲でいい」
二人は小さく頷いた。
セシアは窓際へ寄る。
白い家は夜の中で、まだ何もなかったような顔をしていた。
けれど、その底では今も誰かが順番を待たされている。
連れ去られる夜だ。
自分が動かなければ、その夜は何事もなく過ぎてしまう。
そして名前だけが、また一つ減る。
セシアは祈祷書を胸へ押し当てた。
紙の感触が、まだそこにある。