第20話 記録室
ー/ー足音は、白い部屋の前で止まった。
セシアは壁に刻まれた印から目を離せないまま、身体だけが強張った。
リゼが無言でセシアの手首を引く。
白布のかかった棚の陰へ、二人で身を滑り込ませる。布は床すれすれまで垂れていて、外から見ればただの壁にしか見えない。息を殺した直後、扉が開いた。
「順番札は」
「机の上です」
白い部屋へ入ってきたのは二人だった。どちらも白い上着ではない。だが、声に迷いがない。この地下を回している側の人間だとすぐ分かる。
「今夜は二件」
「上からの指示は?」
「ひとつはそのまま。もうひとつは記録を確認してからだ」
紙をめくる音がする。木札が机の上を滑る乾いた音。男の声は低く、淡々としていた。
「十九番は反応が弱い」
「なら保留ですか」
「いや、今夜の分は先に送る。彼らが見る」
人を、人として話していない。
セシアは祈祷書を抱える指先に力が入るのを感じた。歯が鳴りそうになるのを、必死で押さえる。
「もうひとつは」
「記録室の方にも照会が来ている。白祈院の方と合わせて見ろと」
白祈院。
その名が、薄い布一枚向こうから落ちてきた瞬間、セシアの胸が強く打った。
やはり繋がっている。
白い家だけのやり方ではない。
あの白い場所の底と、ここは同じところへ口を開けている。
男のひとりが小さく舌を鳴らす。
「こんな下まで持ち込まなくてもいいだろうに」
「上の指示だ。余計なことは言うな」
椅子が引かれる。紙が束ね直される。
そのあと、足音が近づいた。
布のすぐ前で止まる気配。
セシアは思わず息を止める。
数秒。
永遠みたいに長い沈黙のあと、足音はまた遠ざかった。
「記録室を見たら、台所側から戻る」
「鍵は?」
「預かっている」
扉が閉まる。
完全に気配が消えるまで、二人は動かなかった。
やがてリゼがごく小さく息を吐き、布の端を指で持ち上げる。
「……行った」
セシアもゆっくりと外へ出た。
白い部屋の机の上には、木札が二枚置かれていた。片方には『十九』、もう片方には『二十六』とだけ刻まれている。名前はどこにもない。
その無機質さが嫌で、セシアはすぐに視線を逸らした。
「記録室」
リゼが低く言う。
白い部屋の奥、白布の陰に細い扉があった。
さっきの男たちが言っていた場所だろう。鍵は掛かっていない。
急いでいたのか、それとも中に誰もいないと思っているのか。
リゼが扉をそっと押し開ける。
中は狭い通路だった。石壁のままの空間に、板張りの床だけが不自然にきちんとしている。歩けば音が鳴りやすいと分かるつくりで、二人はさらに慎重になった。
通路の先に、小さな部屋がある。
扉は半開きだった。
セシアはその中を見た瞬間、一歩だけ足を止めた。
記録室だった。
狭い部屋に似つかわしくないほど多くの棚が並び、そのすべてに紙束と木板と小箱が詰め込まれている。
紙の匂い、古いインクの匂い、乾いた薬草の残り香。白祈院の記録庫よりは小さい。けれど、空気がよく似ていた。
残すためではない。
管理するための部屋。
「……うわ」
リゼが小さく漏らした声には、呆れと警戒が混じっていた。
「想像よりずっとちゃんとしてる」
セシアは手前の棚へ近づく。
束ねられた紙の上端に、簡単な札が差し込まれている。
年少。
保留。
移送待ち。
経過観察。
短い言葉ばかりだった。だが、その短さが嫌だった。子どもたちが、最初から誰かではなく分類として置かれている。
リゼは別の棚を見ている。
「こっちは物資。薬、食料、布……」
その向こうの段で指が止まる。
「……木札もある」
番号札だろう。
白い部屋の机や待機室で見たものと同じ種類の。
セシアは目の前の束から一枚を抜き取った。
紙は薄く、端が少し擦れている。そこには名前と年齢、簡単な所見、短い追記が書かれていた。
ミナ 七
反応観察継続
保留
白衣照会前
セシアの指先が冷たくなる。
名前はある。
ちゃんとある。
それなのに、上の一覧板にはなかった。
存在させる記録と、隠す記録を分けているのだ。
「リゼ」
低く呼ぶと、リゼがすぐ隣へ来た。
「見つけた?」
「……ミナです」
紙を見たリゼの顔つきが硬くなる。
「やっぱり、上に出してないだけだね」
セシアはもう一枚引き抜く。
エナ 八
反応安定
候補
今夜照会
息が止まりそうになる。
「……エナ」
ミナが名前を口にした時より、今の方が重かった。
紙に書かれた名前は、現実を逃がしてくれない。
さらにもう一枚。
トマ 九
反応薄
保留継続
その下の束にも、同じような紙が並んでいる。名前。年齢。短い所見。
決められた言葉。
保留。
候補
移送
不適
そのすべてが、人に使われている。
セシアの喉の奥が苦くなる。
白祈院で見た記録も、たぶん本質は同じだったのだと、今になって思い知らされる。あの時は意味が分からなかった。分からないまま、自分もその中に並べられていた。
リゼが別の束を抜き取った。
「これ、見て」
差し出された紙には、少し違う書式が使われていた。上端に印があり、文字の並びも地下の記録とは違う。
上位照会済
適合候補のみ移送対象
その下に複数の番号が並び、その横に短い追記がある。
十九 今夜確認
二十六 保留解除照会中
「……上位」
セシアが掠れた声で言うと、リゼが頷く。
「白い家の中で全部決めてるわけじゃない」
分かっていたことが、紙の上で現実になる。
白い家は末端だ。
ここで見て、留めて、振り分ける。
その先にもっと上がある。
セシアは棚の奥に差し込まれていた、さらに古い束へ手を伸ばした。
紙の色が少し違う。
白い家のものではなく、どこか別の場所から来たもののように見える。
引き抜く。
そこにあった印で、息が止まった。
白祈院で見たものに、よく似た印だった。完全に同じではない。だが、円を欠いた白い輪と、細い縦線の刻み。その形を、セシアは見間違えようがなかった。
紙の上には、白祈院側の書式らしい文字が並んでいた。
候補記録。
反応照会。
留置継続。
目が滑る。
読んではいけない気がした。
でも、読まずにはいられなかった。
何枚かをめくった、その先で、指が止まる。
セシア・エルシオン
名前が、あった。
紙を持つ手が震える。
視界の端が少しだけ暗くなる。
そこには簡単な所見しか書かれていない。
反応残留
継続観察
現時点移送見送り
たったそれだけなのに、足元が揺らぐ。
自分の名前がここにある。
白祈院の記録が、この地下へ来ている。
つまり、あの場所にいた自分もまた、こうして“照会される側”だったのだ。
「……セシア」
リゼの声で、かろうじて意識が戻る。
セシアは答えられなかった。
紙から目を離せない。
見送り。
その言葉が嫌だった。
移送されなかったことが救いだったのか、ただ先送りされただけなのかも分からない。
白祈院にいた時、自分がなぜあの場所に留め置かれていたのか。
なぜ誰かは消え、誰かは残り、誰かは選ばれていったのか。
その一端が、今ここにある。
「持つ?」
リゼが小さく聞く。
セシアは迷わず頷いた。
「……はい」
この紙を置いていけない。
置いていけば、また誰かに閉じられてしまう気がした。
リゼはすばやく周囲を見回し、持ち出すべきものを絞る。
「全部は無理。ミナ、エナ、トマ……あとその照会票。上位のやつも一枚」
必要なものだけを抜く手つきに無駄がない。
セシアも震える手で紙を整えた。
その時、通路の奥で鍵の触れ合う音がした。
二人とも動きを止める。
近い。
今度はさっきよりも近く、しかもまっすぐこちらへ向かってきている。
「戻るよ」
リゼが囁く。
セシアは紙を祈祷書に挟み、胸に押し当てた。
部屋を出る。
通路へ戻る。
板張りの床が小さく鳴る。
足音がさらに近づく。
逃げ切れるかは分からない。
けれど、もう戻るしかない。
白い家の地下で、名前より先に札が置かれていた。
そして、その先にある記録室で、自分の名前まで見つけてしまった。
今夜はまだ終わらない。
セシアは壁に刻まれた印から目を離せないまま、身体だけが強張った。
リゼが無言でセシアの手首を引く。
白布のかかった棚の陰へ、二人で身を滑り込ませる。布は床すれすれまで垂れていて、外から見ればただの壁にしか見えない。息を殺した直後、扉が開いた。
「順番札は」
「机の上です」
白い部屋へ入ってきたのは二人だった。どちらも白い上着ではない。だが、声に迷いがない。この地下を回している側の人間だとすぐ分かる。
「今夜は二件」
「上からの指示は?」
「ひとつはそのまま。もうひとつは記録を確認してからだ」
紙をめくる音がする。木札が机の上を滑る乾いた音。男の声は低く、淡々としていた。
「十九番は反応が弱い」
「なら保留ですか」
「いや、今夜の分は先に送る。彼らが見る」
人を、人として話していない。
セシアは祈祷書を抱える指先に力が入るのを感じた。歯が鳴りそうになるのを、必死で押さえる。
「もうひとつは」
「記録室の方にも照会が来ている。白祈院の方と合わせて見ろと」
白祈院。
その名が、薄い布一枚向こうから落ちてきた瞬間、セシアの胸が強く打った。
やはり繋がっている。
白い家だけのやり方ではない。
あの白い場所の底と、ここは同じところへ口を開けている。
男のひとりが小さく舌を鳴らす。
「こんな下まで持ち込まなくてもいいだろうに」
「上の指示だ。余計なことは言うな」
椅子が引かれる。紙が束ね直される。
そのあと、足音が近づいた。
布のすぐ前で止まる気配。
セシアは思わず息を止める。
数秒。
永遠みたいに長い沈黙のあと、足音はまた遠ざかった。
「記録室を見たら、台所側から戻る」
「鍵は?」
「預かっている」
扉が閉まる。
完全に気配が消えるまで、二人は動かなかった。
やがてリゼがごく小さく息を吐き、布の端を指で持ち上げる。
「……行った」
セシアもゆっくりと外へ出た。
白い部屋の机の上には、木札が二枚置かれていた。片方には『十九』、もう片方には『二十六』とだけ刻まれている。名前はどこにもない。
その無機質さが嫌で、セシアはすぐに視線を逸らした。
「記録室」
リゼが低く言う。
白い部屋の奥、白布の陰に細い扉があった。
さっきの男たちが言っていた場所だろう。鍵は掛かっていない。
急いでいたのか、それとも中に誰もいないと思っているのか。
リゼが扉をそっと押し開ける。
中は狭い通路だった。石壁のままの空間に、板張りの床だけが不自然にきちんとしている。歩けば音が鳴りやすいと分かるつくりで、二人はさらに慎重になった。
通路の先に、小さな部屋がある。
扉は半開きだった。
セシアはその中を見た瞬間、一歩だけ足を止めた。
記録室だった。
狭い部屋に似つかわしくないほど多くの棚が並び、そのすべてに紙束と木板と小箱が詰め込まれている。
紙の匂い、古いインクの匂い、乾いた薬草の残り香。白祈院の記録庫よりは小さい。けれど、空気がよく似ていた。
残すためではない。
管理するための部屋。
「……うわ」
リゼが小さく漏らした声には、呆れと警戒が混じっていた。
「想像よりずっとちゃんとしてる」
セシアは手前の棚へ近づく。
束ねられた紙の上端に、簡単な札が差し込まれている。
年少。
保留。
移送待ち。
経過観察。
短い言葉ばかりだった。だが、その短さが嫌だった。子どもたちが、最初から誰かではなく分類として置かれている。
リゼは別の棚を見ている。
「こっちは物資。薬、食料、布……」
その向こうの段で指が止まる。
「……木札もある」
番号札だろう。
白い部屋の机や待機室で見たものと同じ種類の。
セシアは目の前の束から一枚を抜き取った。
紙は薄く、端が少し擦れている。そこには名前と年齢、簡単な所見、短い追記が書かれていた。
ミナ 七
反応観察継続
保留
白衣照会前
セシアの指先が冷たくなる。
名前はある。
ちゃんとある。
それなのに、上の一覧板にはなかった。
存在させる記録と、隠す記録を分けているのだ。
「リゼ」
低く呼ぶと、リゼがすぐ隣へ来た。
「見つけた?」
「……ミナです」
紙を見たリゼの顔つきが硬くなる。
「やっぱり、上に出してないだけだね」
セシアはもう一枚引き抜く。
エナ 八
反応安定
候補
今夜照会
息が止まりそうになる。
「……エナ」
ミナが名前を口にした時より、今の方が重かった。
紙に書かれた名前は、現実を逃がしてくれない。
さらにもう一枚。
トマ 九
反応薄
保留継続
その下の束にも、同じような紙が並んでいる。名前。年齢。短い所見。
決められた言葉。
保留。
候補
移送
不適
そのすべてが、人に使われている。
セシアの喉の奥が苦くなる。
白祈院で見た記録も、たぶん本質は同じだったのだと、今になって思い知らされる。あの時は意味が分からなかった。分からないまま、自分もその中に並べられていた。
リゼが別の束を抜き取った。
「これ、見て」
差し出された紙には、少し違う書式が使われていた。上端に印があり、文字の並びも地下の記録とは違う。
上位照会済
適合候補のみ移送対象
その下に複数の番号が並び、その横に短い追記がある。
十九 今夜確認
二十六 保留解除照会中
「……上位」
セシアが掠れた声で言うと、リゼが頷く。
「白い家の中で全部決めてるわけじゃない」
分かっていたことが、紙の上で現実になる。
白い家は末端だ。
ここで見て、留めて、振り分ける。
その先にもっと上がある。
セシアは棚の奥に差し込まれていた、さらに古い束へ手を伸ばした。
紙の色が少し違う。
白い家のものではなく、どこか別の場所から来たもののように見える。
引き抜く。
そこにあった印で、息が止まった。
白祈院で見たものに、よく似た印だった。完全に同じではない。だが、円を欠いた白い輪と、細い縦線の刻み。その形を、セシアは見間違えようがなかった。
紙の上には、白祈院側の書式らしい文字が並んでいた。
候補記録。
反応照会。
留置継続。
目が滑る。
読んではいけない気がした。
でも、読まずにはいられなかった。
何枚かをめくった、その先で、指が止まる。
セシア・エルシオン
名前が、あった。
紙を持つ手が震える。
視界の端が少しだけ暗くなる。
そこには簡単な所見しか書かれていない。
反応残留
継続観察
現時点移送見送り
たったそれだけなのに、足元が揺らぐ。
自分の名前がここにある。
白祈院の記録が、この地下へ来ている。
つまり、あの場所にいた自分もまた、こうして“照会される側”だったのだ。
「……セシア」
リゼの声で、かろうじて意識が戻る。
セシアは答えられなかった。
紙から目を離せない。
見送り。
その言葉が嫌だった。
移送されなかったことが救いだったのか、ただ先送りされただけなのかも分からない。
白祈院にいた時、自分がなぜあの場所に留め置かれていたのか。
なぜ誰かは消え、誰かは残り、誰かは選ばれていったのか。
その一端が、今ここにある。
「持つ?」
リゼが小さく聞く。
セシアは迷わず頷いた。
「……はい」
この紙を置いていけない。
置いていけば、また誰かに閉じられてしまう気がした。
リゼはすばやく周囲を見回し、持ち出すべきものを絞る。
「全部は無理。ミナ、エナ、トマ……あとその照会票。上位のやつも一枚」
必要なものだけを抜く手つきに無駄がない。
セシアも震える手で紙を整えた。
その時、通路の奥で鍵の触れ合う音がした。
二人とも動きを止める。
近い。
今度はさっきよりも近く、しかもまっすぐこちらへ向かってきている。
「戻るよ」
リゼが囁く。
セシアは紙を祈祷書に挟み、胸に押し当てた。
部屋を出る。
通路へ戻る。
板張りの床が小さく鳴る。
足音がさらに近づく。
逃げ切れるかは分からない。
けれど、もう戻るしかない。
白い家の地下で、名前より先に札が置かれていた。
そして、その先にある記録室で、自分の名前まで見つけてしまった。
今夜はまだ終わらない。
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