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第19話 底にある印

ー/ー



夜が完全に落ちるのを待ってから、二人は部屋を出た。

ミナは寝台の端に座ったまま、祈るように毛布を握っていた。
リゼは扉を閉める前に、低い声で言う。

「鍵をかけて、誰が来ても開けない。私たちが戻るまで、窓にも寄らない。いい?」

ミナは小さく頷いた。
その頷きにはまだ怯えが残っていたが、昼間のような震えは少なかった。

セシアは扉の前で一度だけ振り返る。

「……エナのこと、必ず見つけます」

ミナはすぐには答えなかった。
けれど、少ししてから、かすれた声で言った。

「……お願い」

その一言を背に、二人は夜の通りへ滑り出した。

町外れは、昼よりも静かだった。

灯りはある。
息を潜めた生活の気配も、遠くには残っている。
それでも白い家のある方角だけは、夜の中で別の静けさをまとっていた。

音が少ない。
人がいないのではなく、近づかないようにしている静けさだ。

リゼは足を止めずに囁く。

「正面は見張りが増えてる。裏手から回る」

「搬入口の方ですね」

「うん。鐘が鳴いた日は、箱も人も動く。紛れるなら今の方がいい」

ミナが指していた建物の側面
裏手のさらに先へ向かう

そこは正面の白い整い方とは違っていた。

塀は低く、壁際には木箱や空樽が寄せられている。
荷を一時的に置く場所なのだろう。
土は何度も踏み固められ、夜の湿り気の下に、古い車輪の跡が残っていた。

白い家の中から、かすかな物音が漏れてくる。

扉の開閉。
足音。
短い声。

昼間には聞こえなかったものだ。

それだけで、この家が今夜“開いている”と分かる。

リゼが壁際の影にしゃがみ込む。

セシアも並んで身を沈めた。

搬入口の近くには半開きの扉があり、その前を白くない服の女が一人、空の籠を持って通り過ぎた。
続けて白い上着の男が出てくる。

中を見回し、何事もないと確認したように、また戻る。

少し間が空く。

次は荷を運ぶ男が二人。木箱を抱えて入り、しばらくして手ぶらで出てきた。

リゼが小さく息を吐く。

「行ける」

扉が閉まる前に、二人は影から影へ滑った。

白い家の中は、夜なのに明るすぎた。

壁にかけられた灯りは強くない。
それでも廊下の白さが光を拾い、薄く発光しているように見える。

昼間に入った時よりも気配は多いのに、うるさくはない。
誰もが必要以上の声を出さないからだ。

やり方が、白祈院に似ていて嫌だった。

搬入口から入ってすぐの場所には、大小の木箱が積まれていた。

いくつかは蓋が少し開いており、中に布や瓶が見える。

薬草の匂い。乾いたパン。包帯。だがそれだけではない。

箱のひとつには、細い革紐の束と、小さな木札が入っていた。

番号だけが打たれている。

名前はない。

セシアの喉がきつく締まる。

「……札」

 囁くと、リゼが一目だけ見て小さく頷いた。

「あとで。今は道」

二人は荷箱の陰を使い、台所へ続く廊下へ出た。

昼間ミナが言っていた通り、水場の近くに扉がある。表向きは倉庫か、使用人用の通路にしか見えない小さな扉だった。

白い上着の男ではなく、白くない服の中年の女がそこで立ち止まり、腰の鍵を使って中へ入っていく。

夜勤の鍵持ち。

昼間に聞いた情報とぴたりと重なる。

セシアは呼吸を浅くした。

女が戻ってきて通り過ぎるまで待つ。

リゼは足音が完全に遠ざかったのを確かめてから、扉へ寄った。

「この鍵穴、古い」

小さく言って、腰から細い金具を出す。

セシアは思わず目を見開いた。

「そんなものまで……」

「必要なものだけって言ったでしょ。これは必要なものだよ」

囁きながら金具を差し込み、二、三度手首を返す。

鈍い手応え。
次いで、ごく小さな音。

扉が開く。

中から、ひやりとした空気が流れてきた。

石と湿り気の匂い。

地下への入り口だ。

二人は目を合わせ、言葉なく中へ入る。

階段は狭く、下へ行くほど空気が冷たくなった。

壁は白く塗られていない。むき出しの石だ。

白い家の上の“正しい顔”がここで剥がれ落ちているようだった。

階段の途中で、セシアの胸の奥へ小さなものが落ちる。

『……さむい』

声だった。

昼間より近い。
壁越しに滲んでくるような、かすれた声。

セシアが立ち止まる。

「……こっちです」

階段を下りきった先、右手の暗がりへ指を向ける。
リゼはすぐに動いた。

地下の通路は思っていたより広かった。ひとが二人並んで歩ける程度の幅があり、ところどころに灯りがかけられている。

隠すためというより、ちゃんと使うために作られた空間だと分かる。

曲がり角の向こうから、低い声が聞こえた。

「今夜は二人だ」

「上からの順番は?」

「あとで渡される」

二人とも白い上着ではない。
ただ、その声色には慣れがあった。

リゼがセシアの肩を軽く押し、壁際の窪みに身を潜める。
男たちが通り過ぎる。手には鍵束と、薄い板を挟んだ書類。

その背が見えなくなってから、リゼが口の端だけ動かした。

「回してる側だね」

「……はい」

上からの順番。

その言葉が嫌だった。

人の名前ではなく、順番で呼ぶ場所。

地下通路の先に、低く開けた空間が見えた。
扉はない。代わりに白い布が片側へ寄せられている。

セシアの胸がざわつく。

近づくほど、気配が増える。
泣き声ではない。
もっと押し殺された、息の浅い気配。

布の陰から中を覗き、セシアは息を呑んだ。

そこは地下の待機室だった。

小さな寝台が壁沿いに並び、六つ。
そのうち四つには、子どもがいた。

起きている子。眠らされているように動かない子。膝を抱えたまま壁を見ている子。

みんな静かすぎる。

部屋の中央には小さな机があり、その上に木札が並べられていた。札には番号だけが刻まれている。名前ではない。

寝台の足元にも、同じ番号札。

名前の代わりに番号で置かれている。

セシアの背中に寒気が走る。

この子たちは、もう半分“物”のように扱われている。

その時、ひとりの子がこちらを見た。

年はミナより少し上だろうか。
痩せた頬、乾いた唇。
だが目だけは、まだ死んでいなかった。

その目が、セシアの祈祷書へ落ちる。

『……それ、なに』

声ではなかった。
でも、確かに落ちてきた。

セシアの喉が震える。

「……名前を残すものです」

ほとんど息のような声で答える。

その子の目が揺れた。
だが次の瞬間、通路の奥で足音がして、リゼがセシアの腕を引いた。

「今は駄目」

二人は布陰から離れ、さらに奥へ滑る。

待機室の先にはもうひとつ扉があった。

ここだけは白く塗られている。地下なのに、そこだけが上の白さを持ち込んでいた。

鍵はかかっていない。

リゼがそっと押し開ける。

中は広くはなかった。
だが、ここだけ空気が違った。

石床の中央に低い台。
台の両側に細い燭台。
壁際には小さな椅子が二脚、向かい合わせに置かれている。
机の上には白布がかけられ、その上に木札と小瓶と、何かを記すための板。

儀式の場に見えた。

あるいは、選ぶための場。

セシアの視線が、台の向こうに吸い寄せられる。

壁に、紋章があった。

完全に同じではない。
けれど、似ている。

白祈院の祈祷室の奥に、古い飾りとしてかけられていた印。
円を欠いた白い輪に、細い縦線が三本。そこへ小さな枝のような刻みが入っている。

忘れようとしても忘れられない印だった。

目に入った瞬間、白祈院の白い廊下が頭の中で重なる。

セシアの喉から、掠れた息が漏れた。

「……これ」

リゼが振り返る。

「知ってる?」

セシアはすぐには答えられなかった。

知っている。
でも、それを認めるのが嫌だった。

「……白祈院で、見たことがあります」

ようやく絞り出す。

「まったく同じでは、ないです。でも……似ています」

リゼの目が鋭くなる。

この地下室が、ただ白い家の独断で動いているわけではない。
もっと上と、もっと白い場所と繋がっている。

その証拠が、目の前にある。

その時、通路の方からまた足音が近づいた。

今度は二人ではない。
三人分。

しかも、待機室の前で止まる気配ではなかった。

この部屋へ来る。

リゼが一瞬で判断する。

「下がるよ」

セシアは頷いた。
だが、視線は紋章から離れなかった。

見つけてしまった。
白祈院と白い家が、同じ底に繋がっている証。

今夜の潜入はまだ終わらない。
むしろここからなのだと思った。


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夜が完全に落ちるのを待ってから、二人は部屋を出た。
ミナは寝台の端に座ったまま、祈るように毛布を握っていた。
リゼは扉を閉める前に、低い声で言う。
「鍵をかけて、誰が来ても開けない。私たちが戻るまで、窓にも寄らない。いい?」
ミナは小さく頷いた。
その頷きにはまだ怯えが残っていたが、昼間のような震えは少なかった。
セシアは扉の前で一度だけ振り返る。
「……エナのこと、必ず見つけます」
ミナはすぐには答えなかった。
けれど、少ししてから、かすれた声で言った。
「……お願い」
その一言を背に、二人は夜の通りへ滑り出した。
町外れは、昼よりも静かだった。
灯りはある。
息を潜めた生活の気配も、遠くには残っている。
それでも白い家のある方角だけは、夜の中で別の静けさをまとっていた。
音が少ない。
人がいないのではなく、近づかないようにしている静けさだ。
リゼは足を止めずに囁く。
「正面は見張りが増えてる。裏手から回る」
「搬入口の方ですね」
「うん。鐘が鳴いた日は、箱も人も動く。紛れるなら今の方がいい」
ミナが指していた建物の側面
裏手のさらに先へ向かう
そこは正面の白い整い方とは違っていた。
塀は低く、壁際には木箱や空樽が寄せられている。
荷を一時的に置く場所なのだろう。
土は何度も踏み固められ、夜の湿り気の下に、古い車輪の跡が残っていた。
白い家の中から、かすかな物音が漏れてくる。
扉の開閉。
足音。
短い声。
昼間には聞こえなかったものだ。
それだけで、この家が今夜“開いている”と分かる。
リゼが壁際の影にしゃがみ込む。
セシアも並んで身を沈めた。
搬入口の近くには半開きの扉があり、その前を白くない服の女が一人、空の籠を持って通り過ぎた。
続けて白い上着の男が出てくる。
中を見回し、何事もないと確認したように、また戻る。
少し間が空く。
次は荷を運ぶ男が二人。木箱を抱えて入り、しばらくして手ぶらで出てきた。
リゼが小さく息を吐く。
「行ける」
扉が閉まる前に、二人は影から影へ滑った。
白い家の中は、夜なのに明るすぎた。
壁にかけられた灯りは強くない。
それでも廊下の白さが光を拾い、薄く発光しているように見える。
昼間に入った時よりも気配は多いのに、うるさくはない。
誰もが必要以上の声を出さないからだ。
やり方が、白祈院に似ていて嫌だった。
搬入口から入ってすぐの場所には、大小の木箱が積まれていた。
いくつかは蓋が少し開いており、中に布や瓶が見える。
薬草の匂い。乾いたパン。包帯。だがそれだけではない。
箱のひとつには、細い革紐の束と、小さな木札が入っていた。
番号だけが打たれている。
名前はない。
セシアの喉がきつく締まる。
「……札」
 囁くと、リゼが一目だけ見て小さく頷いた。
「あとで。今は道」
二人は荷箱の陰を使い、台所へ続く廊下へ出た。
昼間ミナが言っていた通り、水場の近くに扉がある。表向きは倉庫か、使用人用の通路にしか見えない小さな扉だった。
白い上着の男ではなく、白くない服の中年の女がそこで立ち止まり、腰の鍵を使って中へ入っていく。
夜勤の鍵持ち。
昼間に聞いた情報とぴたりと重なる。
セシアは呼吸を浅くした。
女が戻ってきて通り過ぎるまで待つ。
リゼは足音が完全に遠ざかったのを確かめてから、扉へ寄った。
「この鍵穴、古い」
小さく言って、腰から細い金具を出す。
セシアは思わず目を見開いた。
「そんなものまで……」
「必要なものだけって言ったでしょ。これは必要なものだよ」
囁きながら金具を差し込み、二、三度手首を返す。
鈍い手応え。
次いで、ごく小さな音。
扉が開く。
中から、ひやりとした空気が流れてきた。
石と湿り気の匂い。
地下への入り口だ。
二人は目を合わせ、言葉なく中へ入る。
階段は狭く、下へ行くほど空気が冷たくなった。
壁は白く塗られていない。むき出しの石だ。
白い家の上の“正しい顔”がここで剥がれ落ちているようだった。
階段の途中で、セシアの胸の奥へ小さなものが落ちる。
『……さむい』
声だった。
昼間より近い。
壁越しに滲んでくるような、かすれた声。
セシアが立ち止まる。
「……こっちです」
階段を下りきった先、右手の暗がりへ指を向ける。
リゼはすぐに動いた。
地下の通路は思っていたより広かった。ひとが二人並んで歩ける程度の幅があり、ところどころに灯りがかけられている。
隠すためというより、ちゃんと使うために作られた空間だと分かる。
曲がり角の向こうから、低い声が聞こえた。
「今夜は二人だ」
「上からの順番は?」
「あとで渡される」
二人とも白い上着ではない。
ただ、その声色には慣れがあった。
リゼがセシアの肩を軽く押し、壁際の窪みに身を潜める。
男たちが通り過ぎる。手には鍵束と、薄い板を挟んだ書類。
その背が見えなくなってから、リゼが口の端だけ動かした。
「回してる側だね」
「……はい」
上からの順番。
その言葉が嫌だった。
人の名前ではなく、順番で呼ぶ場所。
地下通路の先に、低く開けた空間が見えた。
扉はない。代わりに白い布が片側へ寄せられている。
セシアの胸がざわつく。
近づくほど、気配が増える。
泣き声ではない。
もっと押し殺された、息の浅い気配。
布の陰から中を覗き、セシアは息を呑んだ。
そこは地下の待機室だった。
小さな寝台が壁沿いに並び、六つ。
そのうち四つには、子どもがいた。
起きている子。眠らされているように動かない子。膝を抱えたまま壁を見ている子。
みんな静かすぎる。
部屋の中央には小さな机があり、その上に木札が並べられていた。札には番号だけが刻まれている。名前ではない。
寝台の足元にも、同じ番号札。
名前の代わりに番号で置かれている。
セシアの背中に寒気が走る。
この子たちは、もう半分“物”のように扱われている。
その時、ひとりの子がこちらを見た。
年はミナより少し上だろうか。
痩せた頬、乾いた唇。
だが目だけは、まだ死んでいなかった。
その目が、セシアの祈祷書へ落ちる。
『……それ、なに』
声ではなかった。
でも、確かに落ちてきた。
セシアの喉が震える。
「……名前を残すものです」
ほとんど息のような声で答える。
その子の目が揺れた。
だが次の瞬間、通路の奥で足音がして、リゼがセシアの腕を引いた。
「今は駄目」
二人は布陰から離れ、さらに奥へ滑る。
待機室の先にはもうひとつ扉があった。
ここだけは白く塗られている。地下なのに、そこだけが上の白さを持ち込んでいた。
鍵はかかっていない。
リゼがそっと押し開ける。
中は広くはなかった。
だが、ここだけ空気が違った。
石床の中央に低い台。
台の両側に細い燭台。
壁際には小さな椅子が二脚、向かい合わせに置かれている。
机の上には白布がかけられ、その上に木札と小瓶と、何かを記すための板。
儀式の場に見えた。
あるいは、選ぶための場。
セシアの視線が、台の向こうに吸い寄せられる。
壁に、紋章があった。
完全に同じではない。
けれど、似ている。
白祈院の祈祷室の奥に、古い飾りとしてかけられていた印。
円を欠いた白い輪に、細い縦線が三本。そこへ小さな枝のような刻みが入っている。
忘れようとしても忘れられない印だった。
目に入った瞬間、白祈院の白い廊下が頭の中で重なる。
セシアの喉から、掠れた息が漏れた。
「……これ」
リゼが振り返る。
「知ってる?」
セシアはすぐには答えられなかった。
知っている。
でも、それを認めるのが嫌だった。
「……白祈院で、見たことがあります」
ようやく絞り出す。
「まったく同じでは、ないです。でも……似ています」
リゼの目が鋭くなる。
この地下室が、ただ白い家の独断で動いているわけではない。
もっと上と、もっと白い場所と繋がっている。
その証拠が、目の前にある。
その時、通路の方からまた足音が近づいた。
今度は二人ではない。
三人分。
しかも、待機室の前で止まる気配ではなかった。
この部屋へ来る。
リゼが一瞬で判断する。
「下がるよ」
セシアは頷いた。
だが、視線は紋章から離れなかった。
見つけてしまった。
白祈院と白い家が、同じ底に繋がっている証。
今夜の潜入はまだ終わらない。
むしろここからなのだと思った。