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第18話 鐘の合図

ー/ー



昼を過ぎたころから、町の空気が少しずつ変わりはじめた。

大きな騒ぎが起きたわけではない。
誰かが声を張り上げるわけでもなければ、門が閉じられるわけでもない。

ただ、白い家のある方角へ目を向ける人間が増えた。

そして、目を向けたあとは、すぐに逸らす人間も増えた。

セシアは裏通りの古い倉庫の陰から、白い家まで続く道を見ていた。

朝のうちに借りた部屋から少し移動し、今は人の流れを横から見られる位置にいる。
近すぎず、遠すぎず。隠れるには悪くない場所だ。

隣では、リゼが崩れた木箱の上にしゃがみ込んだまま、無造作に通りを眺めている。

「……また一人」

低く呟いた声に、セシアも視線を動かした。

白い上着の男が、白い家の門をくぐっていく。朝から数えて、これで四人目だった。全員が同じ上着というわけではない。肩のあたりの縁取りが違う者もいるし、腰に下げた鍵束の数も違う。

けれど、町の人間とも、普通の職員とも違う歩き方をしていた。

「増えてますね」

「うん。見張りだけじゃない」

リゼは短く答える。

「中で回す側の人間も入ってる」

その言い方に、セシアの背中が少しだけ冷えた。

白い家は今日、ただ警戒しているだけではない。
何かを動かす準備に入っている。

それが、遠目にも分かる。

通りを一台の荷車が通った。

午前中に見たものとは別の荷車だった。今度は荷台に布がかけられていて、中身は見えない。

白い家の前で一度止まり、門の脇にいた白い上着の男と短く言葉を交わしたあと、門の内側へ消えていく。

御者は町の人間らしかったが、顔を上げようとしない。用が済んだらすぐ帰るつもりなのか、鞭を握る手だけが妙に硬かった。

「……あれもですか」

「たぶんね」

リゼは木箱の端を指で叩く。

「食料だけ運ぶなら、あそこまで確認しない。しかも昼のうちから二台目だ」

白い家の門は、昼の光の下でも静かだった。
開いている。
誰でも入れそうに見える。
それなのに、今はそこに見えない線が張られている気がする。

セシアは視線を外した。

あの門をくぐった先には、白く整えられた廊下がある。静かすぎる庭がある。子どもたちの揃いすぎた声がある。そして、その下には、石の匂いのする暗い部屋がある。

昼間の光の中で見ているはずなのに、胸の奥に残っているのは地下の冷たさばかりだった。

「少し離れるよ」

リゼが立ち上がる。

「ここに居続けると、今度はこっちが目立つ」

セシアは頷いた。

二人は人の流れに紛れるように通りを移動した。表へ出すぎず、裏へ寄りすぎず。白い家を正面から見ない位置を拾って、少しずつ角度を変えていく。

その途中で、いくつかの声を耳にする。

「……また箱が増えたな」

荷運びの男が、店先で煙草をくわえながら呟いていた。

「白いとこか?」

「ほかにどこがある」

「薬でも運んでるのかね」

「薬にしては重そうだったぞ」

言いかけて、男はふいに口を閉ざした。通りの向こうを白い上着の人間が横切ったからだ。

別の路地では、井戸端で話していた女たちがいた。

「昼なのに、また来てるわ」

「白い人?」

「そう。朝も見た」

「何かあったのかしら」

その問いに、年上の女が小さく首を振る。

「……あんまり言わない方がいいよ」

その声は責めるものではなかった。
ただ、慣れている声だった。

触れないことに慣れている。

セシアは歩きながら、町の人たちが白い家をどう見ているのかを少しずつ理解しはじめていた。

知らないのではない。
知っている。
けれど、知っているまま触れないことを選んでいる。

それがこの町で生きるためのやり方なのだ。

白い家の側に立てば、面倒に巻き込まれる。
誰かが消えても、知らないふりをしていた方が楽だ。

そういう沈黙が、この町には根づいている。

夕方前、二人は一度部屋へ戻った。

扉を閉めると、外のざわめきが少し遠くなる。

ミナは窓際に座ったまま、膝を抱えていた。朝より顔色はましだったが、窓の外へ目を向けるたびに身体のどこかが小さく強張る。

「どうでしたか」

セシアが声をかけると、ミナはゆっくりと振り返った。

「……多い」

「白い人が?」

「うん」

その返事に、リゼが机の上へ紙を広げる。朝書き足した地図と、そこに重ねた印だ。

「朝から見た分、全部足すよ」

門の前の見張り。
昼に増えた白い上着。
荷車の回数。
建物の側面へ消えた人間。

書き込みが増えるにつれて、白い家の形が少しずつ違って見えてくる。建物そのものは変わらないのに、人の流れが変わるだけで中身の輪郭が浮いてくる。

「ミナ」

リゼが目を上げる。

「今日みたいな日は、前にもあった?」

ミナは少しだけ迷ってから頷いた。

「……ある」

「どんな日だった」

すぐには答えない。
ミナは膝の上の指をゆっくり握り、それから小さな声で言う。

「鐘が鳴る日」

部屋が静かになった。

セシアは息を浅くする。

さっき聞いた言葉が、ここで現実の重さを持って返ってきた。

「朝から、こういう感じなんですか」

「……前の日から、ちょっと変」

「何が変なんですか」

セシアが聞くと、ミナは少しずつ言葉を探しながら続けた。

「人が多い」

「白い人?」

「うん。それと、箱も」

やはり箱。

リゼが紙の端を軽く叩く。

「ほかには」

「みんな、静か」

その言い方は曖昧だったが、セシアにはよく分かった。

白い家の中が、という意味でもあり、町の空気全体が、という意味でもあるのだろう。

「祈らされるのも、そういう日ですか」

ミナが頷く。

「いい子でいます、って」

その言葉が落ちた瞬間、セシアの脳裏に白祈院の光景が浮かんだ。


“いい子”という言葉が、どうしてこんなにも冷たく聞こえるのか、今なら分かる。

それは優しさの言葉ではなく、選びやすくするための言葉だからだ。

「白い人が見に来るんですよね」

セシアがそう続けると、ミナはまた頷いた。

「下まで来る」

「その日のうちに、誰か連れていかれる?」

「……うん」

かすれた返事だった。

「いつも決まってるわけじゃないけど……鳴った日は、誰かいなくなる」

部屋の空気がひとつ重くなる。

セシアは祈祷書へ手を伸ばしかけて、途中で止めた。今ここで名前を確かめても、増えるのは焦りだけだと思ったからだ。

その代わりに、窓の外へ目を向ける。

日が傾き始めていた。白い家の壁が、夕方の光を受けて少し青白く見える。昼間よりも静かで、昼間よりも遠い。けれどその沈黙の下で、確実に何かが進んでいる。

やがて、通りの向こうからまた車輪のきしむ音がした。

セシアもリゼも、同時に窓へ寄る。

今度の荷車は、午前中のものより小さかった。箱の数も少ない。だが、白い家の前で止まったあと、すぐに正面の門を使わず、建物の側面へ回っていく。

「……搬入口の方ですね」

セシアが言う。

「うん」

リゼの目が鋭くなる。

「やっぱり使い分けてる」

表から入るもの
側面から入るもの
裏から運ぶもの

白い家は、ただ閉ざされた場所なのではない。ちゃんと人を選び、人を流し、必要なものを入れ、不要になったものを出す。

その運用の気配が、今日一日ではっきりした。

「……今日一日で全部は分かりませんね」

セシアが小さく言うと、リゼは頷く。

「うん。でも、分からなくていいとこまで来た」

「え」

「今日必要なのは、正確な全体図じゃない」

リゼは窓の外から目を離さずに言う。

「今夜、動くかどうかだけ」

その言葉が落ちた直後だった。

遠くで、低く重い音が鳴った。

――ゴォン

白い家の方角だった。

町の中心の鐘とは違う。もっと低くて、もっと嫌な重みのある音。

ミナの肩がびくりと跳ねる。

「……鳴った」

その声は、ほとんど息に近かった。

セシアの指先が冷える。

もう観察だけでは済まない。

今日がその日だと、はっきりした。

ミナが唇を震わせながら言う。

「……エナ、かも」

セシアの胸が強く締まる。

書き留めた名前。
まだ地下にある名前。
今夜、消えるかもしれない名前。

リゼがゆっくり窓から離れた。
その目から迷いは消えている。

「決まりだね」

軽い口調だった。
でも、その声はもう昼のものではない。

「今夜、入る」

セシアは祈祷書を抱え直した。

怖い。
それは消えない。

けれどそれ以上に、ここで見送る方が嫌だった。

「行きます」

短く、はっきりと言う。

今度は助けに行くだけじゃない。
白い家の底で、何が行われているのかを見に行く。
そしてできるなら、そこで止める。

リゼが小さく笑う。

「そう言うと思った」

机の上の紙を折りたたみ、腰に差し込む。

「じゃあ今夜は、取りこぼさないように行くよ」

白い家は、何もなかったような顔で夕方を越えていく。
けれどその下では、もう鐘が鳴った。

今夜、白い家の底へ入る。

その決意だけが、部屋の中で静かに固まっていった。


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昼を過ぎたころから、町の空気が少しずつ変わりはじめた。
大きな騒ぎが起きたわけではない。
誰かが声を張り上げるわけでもなければ、門が閉じられるわけでもない。
ただ、白い家のある方角へ目を向ける人間が増えた。
そして、目を向けたあとは、すぐに逸らす人間も増えた。
セシアは裏通りの古い倉庫の陰から、白い家まで続く道を見ていた。
朝のうちに借りた部屋から少し移動し、今は人の流れを横から見られる位置にいる。
近すぎず、遠すぎず。隠れるには悪くない場所だ。
隣では、リゼが崩れた木箱の上にしゃがみ込んだまま、無造作に通りを眺めている。
「……また一人」
低く呟いた声に、セシアも視線を動かした。
白い上着の男が、白い家の門をくぐっていく。朝から数えて、これで四人目だった。全員が同じ上着というわけではない。肩のあたりの縁取りが違う者もいるし、腰に下げた鍵束の数も違う。
けれど、町の人間とも、普通の職員とも違う歩き方をしていた。
「増えてますね」
「うん。見張りだけじゃない」
リゼは短く答える。
「中で回す側の人間も入ってる」
その言い方に、セシアの背中が少しだけ冷えた。
白い家は今日、ただ警戒しているだけではない。
何かを動かす準備に入っている。
それが、遠目にも分かる。
通りを一台の荷車が通った。
午前中に見たものとは別の荷車だった。今度は荷台に布がかけられていて、中身は見えない。
白い家の前で一度止まり、門の脇にいた白い上着の男と短く言葉を交わしたあと、門の内側へ消えていく。
御者は町の人間らしかったが、顔を上げようとしない。用が済んだらすぐ帰るつもりなのか、鞭を握る手だけが妙に硬かった。
「……あれもですか」
「たぶんね」
リゼは木箱の端を指で叩く。
「食料だけ運ぶなら、あそこまで確認しない。しかも昼のうちから二台目だ」
白い家の門は、昼の光の下でも静かだった。
開いている。
誰でも入れそうに見える。
それなのに、今はそこに見えない線が張られている気がする。
セシアは視線を外した。
あの門をくぐった先には、白く整えられた廊下がある。静かすぎる庭がある。子どもたちの揃いすぎた声がある。そして、その下には、石の匂いのする暗い部屋がある。
昼間の光の中で見ているはずなのに、胸の奥に残っているのは地下の冷たさばかりだった。
「少し離れるよ」
リゼが立ち上がる。
「ここに居続けると、今度はこっちが目立つ」
セシアは頷いた。
二人は人の流れに紛れるように通りを移動した。表へ出すぎず、裏へ寄りすぎず。白い家を正面から見ない位置を拾って、少しずつ角度を変えていく。
その途中で、いくつかの声を耳にする。
「……また箱が増えたな」
荷運びの男が、店先で煙草をくわえながら呟いていた。
「白いとこか?」
「ほかにどこがある」
「薬でも運んでるのかね」
「薬にしては重そうだったぞ」
言いかけて、男はふいに口を閉ざした。通りの向こうを白い上着の人間が横切ったからだ。
別の路地では、井戸端で話していた女たちがいた。
「昼なのに、また来てるわ」
「白い人?」
「そう。朝も見た」
「何かあったのかしら」
その問いに、年上の女が小さく首を振る。
「……あんまり言わない方がいいよ」
その声は責めるものではなかった。
ただ、慣れている声だった。
触れないことに慣れている。
セシアは歩きながら、町の人たちが白い家をどう見ているのかを少しずつ理解しはじめていた。
知らないのではない。
知っている。
けれど、知っているまま触れないことを選んでいる。
それがこの町で生きるためのやり方なのだ。
白い家の側に立てば、面倒に巻き込まれる。
誰かが消えても、知らないふりをしていた方が楽だ。
そういう沈黙が、この町には根づいている。
夕方前、二人は一度部屋へ戻った。
扉を閉めると、外のざわめきが少し遠くなる。
ミナは窓際に座ったまま、膝を抱えていた。朝より顔色はましだったが、窓の外へ目を向けるたびに身体のどこかが小さく強張る。
「どうでしたか」
セシアが声をかけると、ミナはゆっくりと振り返った。
「……多い」
「白い人が?」
「うん」
その返事に、リゼが机の上へ紙を広げる。朝書き足した地図と、そこに重ねた印だ。
「朝から見た分、全部足すよ」
門の前の見張り。
昼に増えた白い上着。
荷車の回数。
建物の側面へ消えた人間。
書き込みが増えるにつれて、白い家の形が少しずつ違って見えてくる。建物そのものは変わらないのに、人の流れが変わるだけで中身の輪郭が浮いてくる。
「ミナ」
リゼが目を上げる。
「今日みたいな日は、前にもあった?」
ミナは少しだけ迷ってから頷いた。
「……ある」
「どんな日だった」
すぐには答えない。
ミナは膝の上の指をゆっくり握り、それから小さな声で言う。
「鐘が鳴る日」
部屋が静かになった。
セシアは息を浅くする。
さっき聞いた言葉が、ここで現実の重さを持って返ってきた。
「朝から、こういう感じなんですか」
「……前の日から、ちょっと変」
「何が変なんですか」
セシアが聞くと、ミナは少しずつ言葉を探しながら続けた。
「人が多い」
「白い人?」
「うん。それと、箱も」
やはり箱。
リゼが紙の端を軽く叩く。
「ほかには」
「みんな、静か」
その言い方は曖昧だったが、セシアにはよく分かった。
白い家の中が、という意味でもあり、町の空気全体が、という意味でもあるのだろう。
「祈らされるのも、そういう日ですか」
ミナが頷く。
「いい子でいます、って」
その言葉が落ちた瞬間、セシアの脳裏に白祈院の光景が浮かんだ。
“いい子”という言葉が、どうしてこんなにも冷たく聞こえるのか、今なら分かる。
それは優しさの言葉ではなく、選びやすくするための言葉だからだ。
「白い人が見に来るんですよね」
セシアがそう続けると、ミナはまた頷いた。
「下まで来る」
「その日のうちに、誰か連れていかれる?」
「……うん」
かすれた返事だった。
「いつも決まってるわけじゃないけど……鳴った日は、誰かいなくなる」
部屋の空気がひとつ重くなる。
セシアは祈祷書へ手を伸ばしかけて、途中で止めた。今ここで名前を確かめても、増えるのは焦りだけだと思ったからだ。
その代わりに、窓の外へ目を向ける。
日が傾き始めていた。白い家の壁が、夕方の光を受けて少し青白く見える。昼間よりも静かで、昼間よりも遠い。けれどその沈黙の下で、確実に何かが進んでいる。
やがて、通りの向こうからまた車輪のきしむ音がした。
セシアもリゼも、同時に窓へ寄る。
今度の荷車は、午前中のものより小さかった。箱の数も少ない。だが、白い家の前で止まったあと、すぐに正面の門を使わず、建物の側面へ回っていく。
「……搬入口の方ですね」
セシアが言う。
「うん」
リゼの目が鋭くなる。
「やっぱり使い分けてる」
表から入るもの
側面から入るもの
裏から運ぶもの
白い家は、ただ閉ざされた場所なのではない。ちゃんと人を選び、人を流し、必要なものを入れ、不要になったものを出す。
その運用の気配が、今日一日ではっきりした。
「……今日一日で全部は分かりませんね」
セシアが小さく言うと、リゼは頷く。
「うん。でも、分からなくていいとこまで来た」
「え」
「今日必要なのは、正確な全体図じゃない」
リゼは窓の外から目を離さずに言う。
「今夜、動くかどうかだけ」
その言葉が落ちた直後だった。
遠くで、低く重い音が鳴った。
――ゴォン
白い家の方角だった。
町の中心の鐘とは違う。もっと低くて、もっと嫌な重みのある音。
ミナの肩がびくりと跳ねる。
「……鳴った」
その声は、ほとんど息に近かった。
セシアの指先が冷える。
もう観察だけでは済まない。
今日がその日だと、はっきりした。
ミナが唇を震わせながら言う。
「……エナ、かも」
セシアの胸が強く締まる。
書き留めた名前。
まだ地下にある名前。
今夜、消えるかもしれない名前。
リゼがゆっくり窓から離れた。
その目から迷いは消えている。
「決まりだね」
軽い口調だった。
でも、その声はもう昼のものではない。
「今夜、入る」
セシアは祈祷書を抱え直した。
怖い。
それは消えない。
けれどそれ以上に、ここで見送る方が嫌だった。
「行きます」
短く、はっきりと言う。
今度は助けに行くだけじゃない。
白い家の底で、何が行われているのかを見に行く。
そしてできるなら、そこで止める。
リゼが小さく笑う。
「そう言うと思った」
机の上の紙を折りたたみ、腰に差し込む。
「じゃあ今夜は、取りこぼさないように行くよ」
白い家は、何もなかったような顔で夕方を越えていく。
けれどその下では、もう鐘が鳴った。
今夜、白い家の底へ入る。
その決意だけが、部屋の中で静かに固まっていった。