第17話 残り火
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町に朝日が差し込む少し前、セシアたちは町外れの壊れた物置を離れた。
空はまだ薄暗く、通りにはほとんど人がいない。夜の冷えが残る中を、三人はできるだけ足音を殺して進んだ。
ミナはまだ足元がおぼつかず、何度かつまずきかけたが、そのたびにセシアが支え、リゼが周囲を見た。
幸い、すれ違う者はほとんどいなかった。
町の外れにある古びた貸部屋へ辿り着いた時、ようやく三人は小さく息をついた。
壁は薄く、床板は軋み、湿った空気もこもっている。
けれど、昨夜までいた壊れた物置よりはずっとましだった。
ミナは奥の寝台へ座るなり、ほとんど倒れこむように眠った。
リゼは窓際の椅子に逆向きに腰掛け、頬杖をついて通りを眺めていた。朝の気配が少しずつ町へ広がっていく。セシアは窓から少し離れた場所に立ったまま、祈祷書を抱えていた。
「……朝になったら、何か変わると思ってた?」
不意にリゼが言う。
セシアは少しだけ考えた。
「……少しだけ」
「何が」
「昨夜のことが、もう少し遠くなるかと」
言ってから、自分でも曖昧な答えだと思った。けれどリゼは笑わなかった。
「なら残念」
短くそう言って、窓の外へ顎をしゃくる。
「むしろ近くなってる」
セシアもそちらを見た。
白い家へ向かう通りの先に、朝から人影がある。町の人間ではない。歩き方が違う。
白い上着を着た男が二人、建物の前を行き来していた。少なくとも、ただの見舞い客や職員の動きではない。見張っている。しかも、昨夜までより露骨に。
「……増えてます」
「うん。昨夜のこと、気づいてる」
当然だ。地下の部屋が空だったことも、隠し通路が使われたことも、誰かが中へ入り、誰かが抜けたことも、今朝には全部分かっているはずだった。
「正面は無理ですね」
「最初からそのつもりはないけどね」
リゼは頬杖を外し、椅子をくるりと回してセシアの方を向いた。
「今やるのは、突っ込むことじゃなくて観察」
その言い方が妙に雑で、セシアは少しだけ口を閉じる。
「……分かっています」
「その顔は、分かってる顔じゃないけど」
「そんな顔してますか」
「してる」
短く返され、セシアは言い返せなくなった。
自分でも少し、焦っているのは分かっていた。地下にはまだ残っている。昨夜の時点で、それははっきりしていた。
でも、だからといって今すぐ飛び込めるわけでもない。
焦りだけでは、また失敗する。
それも分かっている。
「今日はどう入るかじゃなくて、どこが生きてるかを見る日」
リゼはそう言って、机の上に置いた紙切れを指で押さえた。
そこには簡単な地図が描かれている。町の外れ。白い家。裏手の小屋。細い路地。昨夜逃げた方向。雑だが、必要なものだけはちゃんとある。
「見張りの数。出入りの時間。箱が入る場所。地下へ下りる人間。そういうのを拾う」
セシアは頷く。
その時、寝台の方で小さな物音がした。ミナが目を覚ましたらしい。毛布の端を握ったまま、こちらを見ている。
昨夜ほどの怯えはない。けれど、まだ完全に警戒が解けた目でもなかった。
「……おはようございます」
セシアが声をかけると、ミナは少しだけ迷ってから、小さく頷いた。
「……おはよう」
その返事だけで、昨夜より少しだけ、ここにいる感じがした。
リゼが立ち上がり、部屋の隅に置いていた固いパンと薄いスープを持ってくる。
「食べる?」
ミナは一瞬だけ身を縮めたが、すぐに小さく頷いた。受け取る手つきはまだ遠慮がちだった。
セシアは寝台のそばへ椅子を寄せる。
「……少し、聞いてもいいですか」
ミナは器を両手で持ったまま、こくりと頷いた。
「白い家には、朝と夜で違いがありますか」
「……違う」
「どんなふうに?」
ミナは少し考えてから答えた。
「朝は、ふつうの人が多い」
「ふつうの人?」
「白くない服の人。ごはん持ってくる人とか、掃除の人とか」
表向きの職員だろう。
「じゃあ白い人は?」
「昼すぎから、たまに来る」
リゼが横から口を挟む。
「毎日?」
「……たぶん」
「何人くらい」
「二人か、三人」
白い上着の男たちは、常駐ではない可能性がある。少なくとも施設全体を四六時中回しているわけではない。それなら、隙はある。
「地下へ行くのは、その人たちだけですか」
セシアが聞くと、ミナは少しだけ首を振った。
「ううん。夜は、別の人も行く」
「別の人?」
「白くないけど、鍵持ってる人」
リゼが机の方で軽く指を鳴らした。
「夜勤の管理係、ってとこか」
白い家の表向きの運用を回している人間と、選別に関わる人間が分かれているのかもしれない。その方が隠しやすい。
「地下へ行く入口は、小屋だけじゃないですよね」
その問いに、ミナははっきり頷いた。
「うん」
セシアとリゼの視線が揃う。そこは、今いちばん欲しかった情報だ。
「どこにあるんですか」
ミナは器を置き、少しだけ身を縮める。
「……台所の奥」
「台所?」
「水を汲むところの近く。扉があるの」
リゼがすぐに地図へ書き込む。
「外から入れる?」
「……わかんない。中からしか見てない」
それでも十分だった。少なくとも、地下へ行く正規ルートが小屋以外にある。それだけで次の潜入の組み立てが変わる。
セシアは少し間を置いてから言った。
「鐘が鳴る前の日って、何か違いますか」
ミナの手がわずかに止まった。
「……ちょっと、変」
「何が変なんですか」
「みんな、よく祈らされる」
やはり、と思う。
「それから……白い人が、下まで見に来る」
セシアの指先が少し冷たくなる。
「誰を見るんですか」
「……順番に」
その一言で、十分だった。
ミナは続ける。
「顔見て、手見て、立たせて……ちょっと歩かせたりする」
品定めだと、セシアは思った。
その想像が嫌で、喉の奥が少し苦くなる。
白祈院でも、似たような視線を感じたことがある。
表向きには体調確認や祝福の反応を見るという形だったが、本質は同じだったのかもしれない。
「……誰が連れていかれるか、分かることはありますか」
ミナは目を伏せる。
「……分かんない」
それから、少しだけ声を細くする。
「でも、いい子って言われた子が多い」
その言葉に、セシアは何も言えなくなる。
いい子。
白い場所で、その言葉ほど信用できないものはない。
リゼが低く息を吐いた。
「なるほどね」
机の上の紙に、さらに何かを書き込む。
「じゃあ、白い家の動きはこうだ。朝は普通の職員。昼から白い上着が出入り。夜は鍵持ちが地下を回す。鐘の前日は祈らせて、白い連中が直接見に来る」
指先で机を軽く叩く。
「で、その夜に誰かが消える」
ミナは小さく頷いた。
セシアも、頭の中でひとつずつ整理していく。見えてきた。まだ全部ではない。でも、白い家の底に降りるための線が少しずつ繋がっていく。
その時、窓の外で荷車の音がした。
リゼがすぐに身を起こし、窓際へ寄る。
「……来た」
セシアも隙間から外を見る。
白い家の方角へ、古びた荷車が一台向かっていた。荷台には木箱が積まれ、御者の横には白い上着の男が一人座っている。もう一人、後ろを歩いている男もいる。
「朝から……?」
「いや、これは逆にいい」
リゼの目が少し鋭くなる。
「荷が入るなら、出る時もある」
「何がですか」
「色々」
リゼはそう言ってから、ミナを見る。
「食料はどこから入るか分かる?」
ミナは少し考えてから答えた。
「……裏から持ってくる人、見たことある」
「小屋の方?」
「ううん。もっと向こう」
指差したのは、建物の側面や裏手のさらに先だ。そこには昨日まで注意が向いていなかった。
「搬入口が別にある」
リゼが呟く。
白い家は思っていたより、ずっと施設として完成している。
表向きの顔、裏の流れ、地下へのルート、選別の夜。全部がちゃんと組まれている。だからこそ、崩すには順番がいる。
セシアは窓の外に目を向けた。
白い家は朝の光の中で、何もなかったような顔で立っている。
穏やかで、静かで、正しそうに見える建物だ。
けれどその底には、まだ声が残っている。
昨夜助け出せたのは、たった一つの火だけだ。
それでも、その火はまだ消えていない。
しばらく沈黙が落ちたあと、ミナがぽつりと言った。
「……鐘が鳴る夜は、連れていかれる子がいる」
その声は小さかったのに、部屋の空気を変えるには十分だった。
セシアは祈祷書を抱え直す。
名前を残した。
でも、まだそこにいる名前がある。
次に鐘が鳴く夜までに、動き方を決めなければならない。
空はまだ薄暗く、通りにはほとんど人がいない。夜の冷えが残る中を、三人はできるだけ足音を殺して進んだ。
ミナはまだ足元がおぼつかず、何度かつまずきかけたが、そのたびにセシアが支え、リゼが周囲を見た。
幸い、すれ違う者はほとんどいなかった。
町の外れにある古びた貸部屋へ辿り着いた時、ようやく三人は小さく息をついた。
壁は薄く、床板は軋み、湿った空気もこもっている。
けれど、昨夜までいた壊れた物置よりはずっとましだった。
ミナは奥の寝台へ座るなり、ほとんど倒れこむように眠った。
リゼは窓際の椅子に逆向きに腰掛け、頬杖をついて通りを眺めていた。朝の気配が少しずつ町へ広がっていく。セシアは窓から少し離れた場所に立ったまま、祈祷書を抱えていた。
「……朝になったら、何か変わると思ってた?」
不意にリゼが言う。
セシアは少しだけ考えた。
「……少しだけ」
「何が」
「昨夜のことが、もう少し遠くなるかと」
言ってから、自分でも曖昧な答えだと思った。けれどリゼは笑わなかった。
「なら残念」
短くそう言って、窓の外へ顎をしゃくる。
「むしろ近くなってる」
セシアもそちらを見た。
白い家へ向かう通りの先に、朝から人影がある。町の人間ではない。歩き方が違う。
白い上着を着た男が二人、建物の前を行き来していた。少なくとも、ただの見舞い客や職員の動きではない。見張っている。しかも、昨夜までより露骨に。
「……増えてます」
「うん。昨夜のこと、気づいてる」
当然だ。地下の部屋が空だったことも、隠し通路が使われたことも、誰かが中へ入り、誰かが抜けたことも、今朝には全部分かっているはずだった。
「正面は無理ですね」
「最初からそのつもりはないけどね」
リゼは頬杖を外し、椅子をくるりと回してセシアの方を向いた。
「今やるのは、突っ込むことじゃなくて観察」
その言い方が妙に雑で、セシアは少しだけ口を閉じる。
「……分かっています」
「その顔は、分かってる顔じゃないけど」
「そんな顔してますか」
「してる」
短く返され、セシアは言い返せなくなった。
自分でも少し、焦っているのは分かっていた。地下にはまだ残っている。昨夜の時点で、それははっきりしていた。
でも、だからといって今すぐ飛び込めるわけでもない。
焦りだけでは、また失敗する。
それも分かっている。
「今日はどう入るかじゃなくて、どこが生きてるかを見る日」
リゼはそう言って、机の上に置いた紙切れを指で押さえた。
そこには簡単な地図が描かれている。町の外れ。白い家。裏手の小屋。細い路地。昨夜逃げた方向。雑だが、必要なものだけはちゃんとある。
「見張りの数。出入りの時間。箱が入る場所。地下へ下りる人間。そういうのを拾う」
セシアは頷く。
その時、寝台の方で小さな物音がした。ミナが目を覚ましたらしい。毛布の端を握ったまま、こちらを見ている。
昨夜ほどの怯えはない。けれど、まだ完全に警戒が解けた目でもなかった。
「……おはようございます」
セシアが声をかけると、ミナは少しだけ迷ってから、小さく頷いた。
「……おはよう」
その返事だけで、昨夜より少しだけ、ここにいる感じがした。
リゼが立ち上がり、部屋の隅に置いていた固いパンと薄いスープを持ってくる。
「食べる?」
ミナは一瞬だけ身を縮めたが、すぐに小さく頷いた。受け取る手つきはまだ遠慮がちだった。
セシアは寝台のそばへ椅子を寄せる。
「……少し、聞いてもいいですか」
ミナは器を両手で持ったまま、こくりと頷いた。
「白い家には、朝と夜で違いがありますか」
「……違う」
「どんなふうに?」
ミナは少し考えてから答えた。
「朝は、ふつうの人が多い」
「ふつうの人?」
「白くない服の人。ごはん持ってくる人とか、掃除の人とか」
表向きの職員だろう。
「じゃあ白い人は?」
「昼すぎから、たまに来る」
リゼが横から口を挟む。
「毎日?」
「……たぶん」
「何人くらい」
「二人か、三人」
白い上着の男たちは、常駐ではない可能性がある。少なくとも施設全体を四六時中回しているわけではない。それなら、隙はある。
「地下へ行くのは、その人たちだけですか」
セシアが聞くと、ミナは少しだけ首を振った。
「ううん。夜は、別の人も行く」
「別の人?」
「白くないけど、鍵持ってる人」
リゼが机の方で軽く指を鳴らした。
「夜勤の管理係、ってとこか」
白い家の表向きの運用を回している人間と、選別に関わる人間が分かれているのかもしれない。その方が隠しやすい。
「地下へ行く入口は、小屋だけじゃないですよね」
その問いに、ミナははっきり頷いた。
「うん」
セシアとリゼの視線が揃う。そこは、今いちばん欲しかった情報だ。
「どこにあるんですか」
ミナは器を置き、少しだけ身を縮める。
「……台所の奥」
「台所?」
「水を汲むところの近く。扉があるの」
リゼがすぐに地図へ書き込む。
「外から入れる?」
「……わかんない。中からしか見てない」
それでも十分だった。少なくとも、地下へ行く正規ルートが小屋以外にある。それだけで次の潜入の組み立てが変わる。
セシアは少し間を置いてから言った。
「鐘が鳴る前の日って、何か違いますか」
ミナの手がわずかに止まった。
「……ちょっと、変」
「何が変なんですか」
「みんな、よく祈らされる」
やはり、と思う。
「それから……白い人が、下まで見に来る」
セシアの指先が少し冷たくなる。
「誰を見るんですか」
「……順番に」
その一言で、十分だった。
ミナは続ける。
「顔見て、手見て、立たせて……ちょっと歩かせたりする」
品定めだと、セシアは思った。
その想像が嫌で、喉の奥が少し苦くなる。
白祈院でも、似たような視線を感じたことがある。
表向きには体調確認や祝福の反応を見るという形だったが、本質は同じだったのかもしれない。
「……誰が連れていかれるか、分かることはありますか」
ミナは目を伏せる。
「……分かんない」
それから、少しだけ声を細くする。
「でも、いい子って言われた子が多い」
その言葉に、セシアは何も言えなくなる。
いい子。
白い場所で、その言葉ほど信用できないものはない。
リゼが低く息を吐いた。
「なるほどね」
机の上の紙に、さらに何かを書き込む。
「じゃあ、白い家の動きはこうだ。朝は普通の職員。昼から白い上着が出入り。夜は鍵持ちが地下を回す。鐘の前日は祈らせて、白い連中が直接見に来る」
指先で机を軽く叩く。
「で、その夜に誰かが消える」
ミナは小さく頷いた。
セシアも、頭の中でひとつずつ整理していく。見えてきた。まだ全部ではない。でも、白い家の底に降りるための線が少しずつ繋がっていく。
その時、窓の外で荷車の音がした。
リゼがすぐに身を起こし、窓際へ寄る。
「……来た」
セシアも隙間から外を見る。
白い家の方角へ、古びた荷車が一台向かっていた。荷台には木箱が積まれ、御者の横には白い上着の男が一人座っている。もう一人、後ろを歩いている男もいる。
「朝から……?」
「いや、これは逆にいい」
リゼの目が少し鋭くなる。
「荷が入るなら、出る時もある」
「何がですか」
「色々」
リゼはそう言ってから、ミナを見る。
「食料はどこから入るか分かる?」
ミナは少し考えてから答えた。
「……裏から持ってくる人、見たことある」
「小屋の方?」
「ううん。もっと向こう」
指差したのは、建物の側面や裏手のさらに先だ。そこには昨日まで注意が向いていなかった。
「搬入口が別にある」
リゼが呟く。
白い家は思っていたより、ずっと施設として完成している。
表向きの顔、裏の流れ、地下へのルート、選別の夜。全部がちゃんと組まれている。だからこそ、崩すには順番がいる。
セシアは窓の外に目を向けた。
白い家は朝の光の中で、何もなかったような顔で立っている。
穏やかで、静かで、正しそうに見える建物だ。
けれどその底には、まだ声が残っている。
昨夜助け出せたのは、たった一つの火だけだ。
それでも、その火はまだ消えていない。
しばらく沈黙が落ちたあと、ミナがぽつりと言った。
「……鐘が鳴る夜は、連れていかれる子がいる」
その声は小さかったのに、部屋の空気を変えるには十分だった。
セシアは祈祷書を抱え直す。
名前を残した。
でも、まだそこにいる名前がある。
次に鐘が鳴く夜までに、動き方を決めなければならない。
みんなのリアクション
まだリアクションはありません。最初の一歩を踏み出しましょう!
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