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第14話 選別の跡

ー/ー



白い家を離れても、ミナの文字が頭から離れなかった。

いいこにするから、ここからだして。

たどたどしい字。
かすれた線。
書いた時にどれほど焦っていたのかまで、紙の上に残っている気がした。

セシアは紙を折り直し、祈祷書の間へそっと挟んだ。

エルナの紙片と、少し似ていると思う。
残されたもの。
消されそうになったもの。
そして、拾ってしまったもの。

町外れの壊れた石壁の陰で、リゼが腕を組んだまま白い家を見ていた。夕方にはまだ早いが、陽は少し傾き始めていて、白い壁の片側に細い影が落ちている。

「で」

リゼが言った。

「戻る?」

セシアはすぐには答えられなかった。

戻る。
つまり、あの建物の中へもう一度入って、今度は見舞い客の顔ではなく、探る側として歩くということだ。

危ない。

分かっている。
さっきの白い上着の男の目を思い出すだけで、喉がひりついた。

それでも、ここで背を向けることはできないとも思っていた。

「……戻ります」

言うと、胸の奥が少しだけ重くなる。
怖さが消えたわけではない。
ただ、それでも言わなければならない言葉になっていた。

リゼは短く頷いた。

「だろうね」

「止めないんですか」

「止めて止まるような性格じゃないだろ」

その答えに、セシアは少しだけ黙る。

たしかに、止められても今は止まれない気がした。
エルナの時もそうだった。見てしまったものを、なかったことにはできない。

リゼは石壁から背を離し、膝のあたりの土を払った。

「ただし、正面からは戻らない」

「……はい」

「見舞い客を二回やるには無理があるし、あの白い上着にも顔を覚えられてるかもしれない」

セシアは白い家を見た。

門は正面にひとつ。庭は開けていて隠れにくい。正面から入れば、今度は確実に誰かの目に留まるだろう。

「裏手の小屋のあたり、まだ見れてない場所あったよね」

「物置の……」

「うん。あそこから中に繋がる何かがあるかもしれない」

リゼの考え方はいつも現実的だった。
見えないものより、まず見えるものを繋いでいく。

それが今のセシアには心強い。

「暗くなるまで待つ?」

セシアが聞くと、リゼは少し考えてから首を振った。

「暗くなると今度は向こうの見回りが変わる可能性がある。」

そういう判断がすぐにできるのは、リゼが“外”で生きてきた人間だからだろう。

セシアは頷いた。

「分かりました」

「で、もう一個」

リゼが視線を向けてくる。

「中に入ったら、変だと思うものをすぐ口に出す」

セシアは少し迷った。

「……口に出す前に、考えてしまいます」

「それだと遅い。今回は、見つからないことと、拾うことを両方やらないといけない」

リゼは珍しく、少しだけ強い口調だった。

「セシアにしか分からない違和感があるなら、それはあんたの役目。私は数とか物とか、人の動きの方を見る」

その言葉に、セシアは小さく息を吸った。

役目。

その言い方が、胸の奥に落ちる。

白祈院では、役目という言葉はもっと重たかった。

祈ること。
耐えること。
選ばれるために整えること。

でも今、リゼが言う役目は少し違う。
自分にしか見えないものを見て、伝えること。
それは押しつけられた役目ではなく、今の自分にできることの話だった。

「……分かりました」

そう言うと、リゼは少しだけ口元を緩めた。

「よし」

白い家の裏手へ回るのは、正面から行くより難しくなかった。町外れの建物そのものが人目から外れているし、背後には荒れた空き地と、低い木立が続いている。そこを使えば、庭に出ずとも側面の小屋近くまで寄れる。

二人は物音を立てないように、崩れた塀や伸びた草の陰を拾って進んだ。

近づくほど、やはりあの“静かさ”が戻ってくる。

風の音が遠い。
中に人がいるはずなのに、生活の音がしない。

白い家の側面へ回り込む。

ついさっき見たばかりの、あの物置小屋が見えた。扉は半分閉まり、洗濯桶や古い椅子が脇に寄せられている。

「先にあそこ」

リゼが囁く。

セシアも頷いた。

小屋の中はさっきと同じように、狭く、雑然としていた。掃除道具、毛布、壊れた箱。表向きはただの物置だ。

だが、一度知ってしまえば違って見える。

隠し床の位置。
擦れた跡。
置かれた物の不自然な寄せ方。

リゼはすぐに床板の継ぎ目を見つけ、指を差し入れる。

「手伝って」

二人で持ち上げると、板は思ったよりも軽く浮いた。

その下の空間を改めて覗き込む。

さっき気づかなかったものもあった。

奥に、さらに薄い板がある。

「……まだある」

リゼが低く言う。

その板をずらすと、奥行きの浅い収納がもう一段出てきた。

そこに入っていたのは、紙束だった。

紐で雑に括られている。
端は湿気で波打ち、何枚かは破れている。

セシアの胸の奥がざわつく。

こういう束を、知っている。

白祈院の記録庫。
候補生の名簿。
管理表。

リゼが紙束を取り出し、ざっとめくる。目の動きが速い。

「……やっぱり、一覧だ」

セシアも横から覗き込んだ。

そこには名前が並んでいた。

年齢。
体調。
反応。
観察。

形式は白祈院の記録と少し違う。だが、本質はよく似ていた。

たとえば、こう書かれている。

――ルナ 十八 長期療養 反応継続観察

その下に別の名前。

――ミナ 七 保留

セシアの指先が震える。

「……ありました」

かすれる声で言う。

ミナ。

名簿には、ある。

さっき廊下の一覧板にはなかった名前が、ここにはある。

「表の板は、見せる用。こっちは隠す用ってことか」

リゼの声が低くなる。

セシアはその文字を見つめたまま、次の行を追った。

他にも名前がある。

聞いたことのない子どもたち。
その隣に書かれた短い言葉。

保留
移送
経過観察
不適
反応薄

息が詰まる。

白祈院と、似すぎている。

違う施設。違う町。違う人間。
それなのに、使われている言葉があまりにも同じだった。

人を、人としてではなく、選別するための言葉。

「……これ」

セシアが紙を指す。

「白祈院の記録と、近いです」

リゼは紙束を一枚抜き出した。

そこには別の手で追記がされていた。

上位照会済
適合候補のみ移送対象

その文字を見た瞬間、セシアの背中が冷えた。

上位。

白祈院でも、そういう言い方があった。
上からの判断。
上に通す。
上の方が見ている。

顔のないもの。
でも、確かに自分たちの上にいるもの。

リゼが舌打ちした。

「ただの療養院じゃないのは間違いないね」

「……はい」

セシアは紙束を見つめたまま呟く。

「選んでる」

その言葉が、自分でも驚くほど自然に出た。

病人を見る場所。
子どもを保護する場所。
そんな顔をしていて、実際には違う。

ここでもまた、人がふるい分けられている。

その時だった。

胸の奥に、ふっと落ちてくるものがあった。

ミナの時のように、薄い。
だが、はっきりと嫌な感じがする。

『……いや』

セシアは顔を上げた。

小屋の奥ではない。
もっと建物の中からだ。

『……いや』

今度は少しだけ近い。

「セシア?」

リゼがこちらを見る。

「……聞こえます」

「誰?」

「分かりません。でも……子ども、だと思います」

そして、もうひとつ分かることがあった。

「……下です」

「下?」

「建物の、下の方」

言いながら自分でもぞっとする。

白い家の下。

地下。
あるいは、床下。

リゼの目が鋭くなる。

小屋の床。
建物の基礎。
つながっているのかもしれない。

「他に通路がある」

リゼが小さく言った。

「この隠し場所、書類だけのために作るには変だ」

セシアも頷いた。

たしかにそうだ。
紙束を隠すだけなら、こんな小さな生活痕は必要ない。

ここには、子どもがいた。
しかも一時的ではない。

置かれていた。

その時、外で砂利を踏む音がした。

二人とも一瞬で動きを止める

人が来る。

リゼが紙束を手早くまとめ、何枚かだけを抜き取った。全部は持てないし、なくなればすぐ気づかれる。

抜き取ったのは、

ミナの記載がある頁
上位照会の追記がある頁
もう一枚、移送対象一覧の一部

それだけだった。

紙束は元の位置に戻し、隠し板を閉じる。

床板を戻す。

その間にも足音は近づいてくる。

小屋の前で止まった。

セシアの喉がひりつく。

扉の向こうに、影が差した。

「誰かいるの?」

女の声だった。

柔らかい。
だが、その柔らかさが不自然に整っている。

さっき廊下で会った女職員だと、すぐに分かった。

リゼが目だけで合図する。

黙る。

セシアは息を潜めた。

数秒。
あるいは、もっと長かったのかもしれない。

女は扉には手をかけなかった。

ただ、小屋の外に立ったまま、ゆっくりと言う。

「出てきなさい」

その声音に、背筋が冷える。

怒鳴っていない。
なのに逆らえない感じがある。

白祈院の修女とよく似た声だ。

命令ではなく、従うのが当然だと思っている声。

セシアの指先が小さく震えた。

だがその瞬間、リゼが小屋の反対側、壊れた板壁を無言で指す。

さっきは気づかなかったが、奥の壁板が一枚だけ浮いていた。

逃げ道だ。

セシアはごく小さく頷く。

音を立てないように板を押し、二人でその隙間から体を滑らせる。外は建物と塀のあいだの狭い空間だった。雑草と土と、使われていない桶。

女職員はまだ小屋の正面にいる。

「出てこないのなら、開けますよ」

その言葉を背中に聞きながら、二人は塀沿いにしゃがんだまま離れた。

心臓がうるさい。

紙が服の内側で擦れる感触だけが、妙に生々しい。

塀の影を抜け、庭木の裏まで来てようやく息ができた。

その時、小屋の扉が開く音がした。

見つかっただろうか、とセシアは思う。

だがもう、戻れない。

リゼが手首を掴む。

「今は離れる」

有無を言わせない声だった。

セシアも頷く。

門を使わず、裏手の低い塀を越えて外へ出る。草に足を取られそうになりながら、町外れの空き地まで走った。

さすがに白い家が見えなくなるところまで来て、リゼがようやく立ち止まる。

二人とも息が上がっていた。

セシアは膝に手をつき、呼吸を整えようとする。胸が痛い。心臓がまだ早い。

リゼは先に顔を上げた。

「見た?」

「……はい」

「何が一番まずかった」

その聞き方に、セシアは少しだけ息を整えてから答える。

「……名前があるのに、表には出てないこと」

「うん」

「あと……保留とか、不適とか」

その言葉を口にするだけで嫌だった。

「人じゃなくて、印みたいに扱ってる」

リゼは短く頷いた。

「それと、“上位照会済”」

紙を一枚引き抜いて見せる。

「こいつが一番嫌なやつだね」

セシアはそれを見つめた。

上位
移送対象
適合候補

白祈院だけじゃない。
やはり、もっと広く繋がっている。

「……ここも、選別の場所なんですね」

呟くと、自分の声が少しだけ遠く聞こえた。

療養院ではない。
保護施設でもない。
あるいは、そういう顔をしているだけで、本当は違う。

病人も。
子どもも。
そこでただ看られているわけじゃない。

見られて、測られて、選ばれている。

その構造が、白祈院の外にもある。

はっきりした。

その時、胸の奥へもう一度、薄い声が落ちてきた。

『……いや』

さっきと同じ、子どもの声。

下から響くみたいに。

セシアははっと顔を上げた。

「……まだいます」

「誰が」

「建物の下に」

リゼの表情が変わる。

「地下に閉じ込めてるってこと?」

「たぶん……」

分からない。
でも、その声はまだ消えていない。

ルナの時みたいに、届いて終わる感じではなかった。

そこにいる。
まだ、今も。

リゼがゆっくり息を吐く。

「じゃあ次は決まりだ」

「……はい」

「潜る」

短い言葉だった。

けれど、それで十分だった。

セシアは白い家の方角を見た。

夕方の光の中で、あの建物は相変わらず穏やかに見える。何も悪いことなどしていないような顔で、白く立っている。

だからこそ、ひどく恐ろしい。

見つけたのは、たった数枚の紙と、数の合わない痕跡だけだ。
それでももう、偶然では済まない。

ここには跡がある。
選別の跡が。

セシアは祈祷書を抱え直した。

中にはエルナの紙片。
ミナの紙。
そして今、白い家の記録の一部も加わった。

拾ってしまったものが、増えていく。

それは重い。
でも、手放したくはなかった。

「……行きましょう」

セシアが言うと、リゼが軽く顎を引く。

「今日は宿取る。夜に備える」

「夜に…」

「地下に行くなら、昼より夜でしょ」

たしかにそうだ。

怖いと思う。
でも、引き返す気持ちはもうほとんどなかった。

白い家の下には、まだいないものがいる。

名前を失ったまま、消されかけているものがいる。

それを知ってしまった以上、もう見ないふりはできない。

夕方の風が、町外れの草を揺らしていた。


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白い家を離れても、ミナの文字が頭から離れなかった。
いいこにするから、ここからだして。
たどたどしい字。
かすれた線。
書いた時にどれほど焦っていたのかまで、紙の上に残っている気がした。
セシアは紙を折り直し、祈祷書の間へそっと挟んだ。
エルナの紙片と、少し似ていると思う。
残されたもの。
消されそうになったもの。
そして、拾ってしまったもの。
町外れの壊れた石壁の陰で、リゼが腕を組んだまま白い家を見ていた。夕方にはまだ早いが、陽は少し傾き始めていて、白い壁の片側に細い影が落ちている。
「で」
リゼが言った。
「戻る?」
セシアはすぐには答えられなかった。
戻る。
つまり、あの建物の中へもう一度入って、今度は見舞い客の顔ではなく、探る側として歩くということだ。
危ない。
分かっている。
さっきの白い上着の男の目を思い出すだけで、喉がひりついた。
それでも、ここで背を向けることはできないとも思っていた。
「……戻ります」
言うと、胸の奥が少しだけ重くなる。
怖さが消えたわけではない。
ただ、それでも言わなければならない言葉になっていた。
リゼは短く頷いた。
「だろうね」
「止めないんですか」
「止めて止まるような性格じゃないだろ」
その答えに、セシアは少しだけ黙る。
たしかに、止められても今は止まれない気がした。
エルナの時もそうだった。見てしまったものを、なかったことにはできない。
リゼは石壁から背を離し、膝のあたりの土を払った。
「ただし、正面からは戻らない」
「……はい」
「見舞い客を二回やるには無理があるし、あの白い上着にも顔を覚えられてるかもしれない」
セシアは白い家を見た。
門は正面にひとつ。庭は開けていて隠れにくい。正面から入れば、今度は確実に誰かの目に留まるだろう。
「裏手の小屋のあたり、まだ見れてない場所あったよね」
「物置の……」
「うん。あそこから中に繋がる何かがあるかもしれない」
リゼの考え方はいつも現実的だった。
見えないものより、まず見えるものを繋いでいく。
それが今のセシアには心強い。
「暗くなるまで待つ?」
セシアが聞くと、リゼは少し考えてから首を振った。
「暗くなると今度は向こうの見回りが変わる可能性がある。」
そういう判断がすぐにできるのは、リゼが“外”で生きてきた人間だからだろう。
セシアは頷いた。
「分かりました」
「で、もう一個」
リゼが視線を向けてくる。
「中に入ったら、変だと思うものをすぐ口に出す」
セシアは少し迷った。
「……口に出す前に、考えてしまいます」
「それだと遅い。今回は、見つからないことと、拾うことを両方やらないといけない」
リゼは珍しく、少しだけ強い口調だった。
「セシアにしか分からない違和感があるなら、それはあんたの役目。私は数とか物とか、人の動きの方を見る」
その言葉に、セシアは小さく息を吸った。
役目。
その言い方が、胸の奥に落ちる。
白祈院では、役目という言葉はもっと重たかった。
祈ること。
耐えること。
選ばれるために整えること。
でも今、リゼが言う役目は少し違う。
自分にしか見えないものを見て、伝えること。
それは押しつけられた役目ではなく、今の自分にできることの話だった。
「……分かりました」
そう言うと、リゼは少しだけ口元を緩めた。
「よし」
白い家の裏手へ回るのは、正面から行くより難しくなかった。町外れの建物そのものが人目から外れているし、背後には荒れた空き地と、低い木立が続いている。そこを使えば、庭に出ずとも側面の小屋近くまで寄れる。
二人は物音を立てないように、崩れた塀や伸びた草の陰を拾って進んだ。
近づくほど、やはりあの“静かさ”が戻ってくる。
風の音が遠い。
中に人がいるはずなのに、生活の音がしない。
白い家の側面へ回り込む。
ついさっき見たばかりの、あの物置小屋が見えた。扉は半分閉まり、洗濯桶や古い椅子が脇に寄せられている。
「先にあそこ」
リゼが囁く。
セシアも頷いた。
小屋の中はさっきと同じように、狭く、雑然としていた。掃除道具、毛布、壊れた箱。表向きはただの物置だ。
だが、一度知ってしまえば違って見える。
隠し床の位置。
擦れた跡。
置かれた物の不自然な寄せ方。
リゼはすぐに床板の継ぎ目を見つけ、指を差し入れる。
「手伝って」
二人で持ち上げると、板は思ったよりも軽く浮いた。
その下の空間を改めて覗き込む。
さっき気づかなかったものもあった。
奥に、さらに薄い板がある。
「……まだある」
リゼが低く言う。
その板をずらすと、奥行きの浅い収納がもう一段出てきた。
そこに入っていたのは、紙束だった。
紐で雑に括られている。
端は湿気で波打ち、何枚かは破れている。
セシアの胸の奥がざわつく。
こういう束を、知っている。
白祈院の記録庫。
候補生の名簿。
管理表。
リゼが紙束を取り出し、ざっとめくる。目の動きが速い。
「……やっぱり、一覧だ」
セシアも横から覗き込んだ。
そこには名前が並んでいた。
年齢。
体調。
反応。
観察。
形式は白祈院の記録と少し違う。だが、本質はよく似ていた。
たとえば、こう書かれている。
――ルナ 十八 長期療養 反応継続観察
その下に別の名前。
――ミナ 七 保留
セシアの指先が震える。
「……ありました」
かすれる声で言う。
ミナ。
名簿には、ある。
さっき廊下の一覧板にはなかった名前が、ここにはある。
「表の板は、見せる用。こっちは隠す用ってことか」
リゼの声が低くなる。
セシアはその文字を見つめたまま、次の行を追った。
他にも名前がある。
聞いたことのない子どもたち。
その隣に書かれた短い言葉。
保留
移送
経過観察
不適
反応薄
息が詰まる。
白祈院と、似すぎている。
違う施設。違う町。違う人間。
それなのに、使われている言葉があまりにも同じだった。
人を、人としてではなく、選別するための言葉。
「……これ」
セシアが紙を指す。
「白祈院の記録と、近いです」
リゼは紙束を一枚抜き出した。
そこには別の手で追記がされていた。
上位照会済
適合候補のみ移送対象
その文字を見た瞬間、セシアの背中が冷えた。
上位。
白祈院でも、そういう言い方があった。
上からの判断。
上に通す。
上の方が見ている。
顔のないもの。
でも、確かに自分たちの上にいるもの。
リゼが舌打ちした。
「ただの療養院じゃないのは間違いないね」
「……はい」
セシアは紙束を見つめたまま呟く。
「選んでる」
その言葉が、自分でも驚くほど自然に出た。
病人を見る場所。
子どもを保護する場所。
そんな顔をしていて、実際には違う。
ここでもまた、人がふるい分けられている。
その時だった。
胸の奥に、ふっと落ちてくるものがあった。
ミナの時のように、薄い。
だが、はっきりと嫌な感じがする。
『……いや』
セシアは顔を上げた。
小屋の奥ではない。
もっと建物の中からだ。
『……いや』
今度は少しだけ近い。
「セシア?」
リゼがこちらを見る。
「……聞こえます」
「誰?」
「分かりません。でも……子ども、だと思います」
そして、もうひとつ分かることがあった。
「……下です」
「下?」
「建物の、下の方」
言いながら自分でもぞっとする。
白い家の下。
地下。
あるいは、床下。
リゼの目が鋭くなる。
小屋の床。
建物の基礎。
つながっているのかもしれない。
「他に通路がある」
リゼが小さく言った。
「この隠し場所、書類だけのために作るには変だ」
セシアも頷いた。
たしかにそうだ。
紙束を隠すだけなら、こんな小さな生活痕は必要ない。
ここには、子どもがいた。
しかも一時的ではない。
置かれていた。
その時、外で砂利を踏む音がした。
二人とも一瞬で動きを止める
人が来る。
リゼが紙束を手早くまとめ、何枚かだけを抜き取った。全部は持てないし、なくなればすぐ気づかれる。
抜き取ったのは、
ミナの記載がある頁
上位照会の追記がある頁
もう一枚、移送対象一覧の一部
それだけだった。
紙束は元の位置に戻し、隠し板を閉じる。
床板を戻す。
その間にも足音は近づいてくる。
小屋の前で止まった。
セシアの喉がひりつく。
扉の向こうに、影が差した。
「誰かいるの?」
女の声だった。
柔らかい。
だが、その柔らかさが不自然に整っている。
さっき廊下で会った女職員だと、すぐに分かった。
リゼが目だけで合図する。
黙る。
セシアは息を潜めた。
数秒。
あるいは、もっと長かったのかもしれない。
女は扉には手をかけなかった。
ただ、小屋の外に立ったまま、ゆっくりと言う。
「出てきなさい」
その声音に、背筋が冷える。
怒鳴っていない。
なのに逆らえない感じがある。
白祈院の修女とよく似た声だ。
命令ではなく、従うのが当然だと思っている声。
セシアの指先が小さく震えた。
だがその瞬間、リゼが小屋の反対側、壊れた板壁を無言で指す。
さっきは気づかなかったが、奥の壁板が一枚だけ浮いていた。
逃げ道だ。
セシアはごく小さく頷く。
音を立てないように板を押し、二人でその隙間から体を滑らせる。外は建物と塀のあいだの狭い空間だった。雑草と土と、使われていない桶。
女職員はまだ小屋の正面にいる。
「出てこないのなら、開けますよ」
その言葉を背中に聞きながら、二人は塀沿いにしゃがんだまま離れた。
心臓がうるさい。
紙が服の内側で擦れる感触だけが、妙に生々しい。
塀の影を抜け、庭木の裏まで来てようやく息ができた。
その時、小屋の扉が開く音がした。
見つかっただろうか、とセシアは思う。
だがもう、戻れない。
リゼが手首を掴む。
「今は離れる」
有無を言わせない声だった。
セシアも頷く。
門を使わず、裏手の低い塀を越えて外へ出る。草に足を取られそうになりながら、町外れの空き地まで走った。
さすがに白い家が見えなくなるところまで来て、リゼがようやく立ち止まる。
二人とも息が上がっていた。
セシアは膝に手をつき、呼吸を整えようとする。胸が痛い。心臓がまだ早い。
リゼは先に顔を上げた。
「見た?」
「……はい」
「何が一番まずかった」
その聞き方に、セシアは少しだけ息を整えてから答える。
「……名前があるのに、表には出てないこと」
「うん」
「あと……保留とか、不適とか」
その言葉を口にするだけで嫌だった。
「人じゃなくて、印みたいに扱ってる」
リゼは短く頷いた。
「それと、“上位照会済”」
紙を一枚引き抜いて見せる。
「こいつが一番嫌なやつだね」
セシアはそれを見つめた。
上位
移送対象
適合候補
白祈院だけじゃない。
やはり、もっと広く繋がっている。
「……ここも、選別の場所なんですね」
呟くと、自分の声が少しだけ遠く聞こえた。
療養院ではない。
保護施設でもない。
あるいは、そういう顔をしているだけで、本当は違う。
病人も。
子どもも。
そこでただ看られているわけじゃない。
見られて、測られて、選ばれている。
その構造が、白祈院の外にもある。
はっきりした。
その時、胸の奥へもう一度、薄い声が落ちてきた。
『……いや』
さっきと同じ、子どもの声。
下から響くみたいに。
セシアははっと顔を上げた。
「……まだいます」
「誰が」
「建物の下に」
リゼの表情が変わる。
「地下に閉じ込めてるってこと?」
「たぶん……」
分からない。
でも、その声はまだ消えていない。
ルナの時みたいに、届いて終わる感じではなかった。
そこにいる。
まだ、今も。
リゼがゆっくり息を吐く。
「じゃあ次は決まりだ」
「……はい」
「潜る」
短い言葉だった。
けれど、それで十分だった。
セシアは白い家の方角を見た。
夕方の光の中で、あの建物は相変わらず穏やかに見える。何も悪いことなどしていないような顔で、白く立っている。
だからこそ、ひどく恐ろしい。
見つけたのは、たった数枚の紙と、数の合わない痕跡だけだ。
それでももう、偶然では済まない。
ここには跡がある。
選別の跡が。
セシアは祈祷書を抱え直した。
中にはエルナの紙片。
ミナの紙。
そして今、白い家の記録の一部も加わった。
拾ってしまったものが、増えていく。
それは重い。
でも、手放したくはなかった。
「……行きましょう」
セシアが言うと、リゼが軽く顎を引く。
「今日は宿取る。夜に備える」
「夜に…」
「地下に行くなら、昼より夜でしょ」
たしかにそうだ。
怖いと思う。
でも、引き返す気持ちはもうほとんどなかった。
白い家の下には、まだいないものがいる。
名前を失ったまま、消されかけているものがいる。
それを知ってしまった以上、もう見ないふりはできない。
夕方の風が、町外れの草を揺らしていた。