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第13話 いない子ども

ー/ー



白い家を出てからも、セシアはしばらく振り返ることができなかった。

門をくぐり、庭を抜け、外の土道に戻ってもなお、背中の奥にあの静けさが張りついている。

風の音がする。
鳥の声も聞こえる。
なのに、まだ耳の奥が詰まったみたいだった。

「……大丈夫か?」

隣を歩きながら、リゼが低く聞く。

セシアは少し遅れて頷いた。

「……たぶん」

「たぶんね」

それ以上は追及してこない。

ありがたかった。

言葉にしようとすると、あの建物の中にあった違和感が、まだうまく輪郭を持たないまま胸の奥で広がってしまいそうだったからだ。

町外れの道は静かだった。

少し先に、半ば崩れた石壁があり、その影に腰を下ろせそうな場所があった。リゼが顎で示す。

「いったん整理しよっか」

セシアは素直に頷いた。

壁際に腰を下ろす。土の冷たさが衣越しに伝わってきた。

白い家は少し離れた位置からでもよく見える。
整った白壁。
閉じた窓。
穏やかすぎる外観。

何も知らない人が見れば、きっと“いい場所”に見えるだろう。

それが余計に気味悪かった。

「……で?」

リゼが腕を組む。

「なにが変だった?」

セシアはすぐには答えられなかった。

頭の中にあるものを、言葉へ変えるのが難しい。

「……全部、です」

「全部」

「静かすぎました。子どもたちも……変でした」

「うん」

「あと、部屋の数と……気配が、合ってない感じがして」

そこまで言ってから、自分でも少しだけ驚く。

気配が合っていない

曖昧な言い方だ。
でも、それがいちばん近かった。

リゼはふっと目を細めた。

「それは、私も思った」

セシアが顔を上げる。

「リゼも?」

「うん。子ども、三人いたでしょ」

「はい」

「でも、子ども用の椅子は庭に四つあった」

セシアは息を呑んだ。

見ていなかった。
いや、見ていたのかもしれない。けれど、意識に残るほどは見ていなかった。

「あと、廊下の部屋数に対して、生活音が少なすぎる」

リゼは指を折る。

「使ってる気配のある部屋はあった。子どもの靴もあった。けど、今そこに“いる人数”が足りない」

言葉にされると、違和感が少しずつ形になる。

数が合っていない。

白祈院でも、そういうことはあった。

並ぶはずの食器が一つ少ない。
祈りの席が、いつの間にか一つ空いている。
寝台の数と、夜の息遣いの数が合わない。

でも誰も、それを口にしない。

そういう場所だった。

「……あそこも、同じです」

セシアが小さく言うと、リゼは頷いた。

「たぶんね。問題は、何がどう消えてるかだ」

その時だった。

胸の奥に、ふっと何かが落ちた。

セシアは思わず顔を上げる。

白い家の門のあたり。

誰かがいる。

小さな影。

じっと、こちらを見ている。

「……どうした」

リゼが気づく。

セシアは白い家を指さした。

「あそこ……」

リゼも視線を向ける。

だが、眉を寄せただけだった。

「何もいないけど」

その一言に、セシアの背筋が冷える。

やはり、そうなのだ。

自分にだけ見えている。

門のそばに立っているのは、小さな子どもだった。

七つか、八つくらい。
白い服。
痩せた手足。
じっとこちらを見ている。

でも、その輪郭はどこか薄い。

陽の中にいるのに、影みたいに見える。

セシアは立ち上がった。

「セシア」

「……います」

自分でも、声が少し掠れているのが分かる。

「子どもが」

リゼが一瞬だけ息を止めた。

「……行くの?」

「はい」

迷う理由はなかった。

むしろ、見えてしまった以上、放っておけなかった。

白い家へ戻る。

門のところにいた子どもは、逃げるでもなく、そのまま立っている。

近づくにつれて、胸の奥の感覚が強くなる。

悲鳴ではない。
怒りでもない。

もっと薄くて、もっと弱い。

今にも消えそうなもの。

「……こんにちは」

セシアが声をかける。

子どもは口を開いた。

だが、声は出ない。

その代わりに、胸の奥へ言葉が落ちてくる。

『……ここじゃない』

セシアの指先が震えた。

『……ここじゃない』

同じ言葉が、もう一度落ちる。

声ではない。

けれど、言葉だった。

「……何が」

思わず問い返す。

子どもは答えない。

ただ、じっとこちらを見ている。

その目は、庭で笑っていた子どもたちと違っていた。

揃いすぎた笑みも、整えられた言葉もない。
ただ、薄くて、ひどく静かな目。

「……セシア」

リゼが横に並ぶ。

「聞こえる?」

セシアは頷いた。

「はい……でも、うまく」

その瞬間、子どもがすっと後ろへ下がる。

逃げるわけではない。

誘うように。

建物の横手へ向かって歩いていく。

「待って」

セシアが思わず追いかける。

白い家の側面へ回る。

そこは表から見えにくい、半ば死角になった場所だった。庭木が少し伸び、物置らしい小屋があり、洗濯桶や壊れた椅子が雑に積まれている。

子どもはその小屋の前で止まった。

そして、こちらを振り返る。

『……いない』

また、その言葉。

セシアの喉がきつく締まる。

「……誰が」

『……いない』

『……いない』

繰り返されるたびに、胸の奥がざらつく。

その言葉は感情ではなく、事実だけを置いていく。

だからこそ、ひどく重い。

リゼが小屋の扉に手をかける。

「開いてる」

中は狭かった。

掃除道具、古い箱、壊れた椅子、使われなくなったらしい毛布。

ぱっと見では、ただの物置にしか見えない。

だが、セシアの視線はすぐに床へ落ちた。

埃の積もり方が、不自然だ。

ほとんど使われていないように見えるのに、一部だけ擦れた跡がある。

「……これ」

セシアが指さす。

リゼがしゃがみ込んだ。

「床、動くね」

板の継ぎ目に、爪を引っかける。

少し力を入れると、床板の一部が持ち上がった。

その下にあったのは、狭い収納のような空間だった。

中は空ではない。

小さな毛布。
木の積み木。
折れた人形の腕。
それから、何枚かの紙。

セシアの呼吸が浅くなる。

これは物置ではない。

隠された子ども部屋みたいだった。

「……なんでこんなとこに」

リゼの声が低くなる。

セシアは紙を一枚、そっと拾い上げた。

薄く、汚れている。
文字は子どもの筆跡だった。

たどたどしい文字で、名前が書いてある。

ミナ

その下に、もう一行。

いいこにするから、ここからだして

セシアの指が強張る。

息が止まりそうになる。

その瞬間、胸の奥へ、鋭く落ちてくる。

『……ミナ』

子どもの視線が、自分の手元へ向いている。

この子だ。

この紙を書いたのは。

セシアはゆっくり顔を上げた。

「……あなたの名前ですか」

子どもは口を開く。

声は出ない。

でも、今度ははっきりと落ちてきた。

『……ミナ』

その瞬間、何かが繋がった。

名前。

いないのに、ここにいるもの。

セシアは立ち上がり、白い家の中へ向かった。

「セシア!」

リゼが慌てて追う。

だが、止めなかった。

廊下へ戻る。

足音が大きく響く。

静かすぎる白い空気が、今はもう違って見えた。

まるで、何かを覆い隠すための静けさだ。

壁際に掛けられた板がある。

さっき見た、患者の一覧。

整然と名前が並んでいる。

セシアはそこへ駆け寄った。

上から順に目で追う。

ルナ。
エルマ。
ユディ。
カル。
ミリア。

どこにもない。

もう一度見る。

それでも、ない。

「……いません」

小さく呟いた。

「何が?」

背後から声がした。

振り返る。

白い服の女職員が立っていた。

柔らかい笑みを浮かべている。

だがその笑みもまた、どこか整いすぎている。

セシアは一瞬、言葉を失う。

でも、胸の奥に残る“ミナ”という名前が、口を開かせた。

「……この子が」

自分でも驚くほど、まっすぐな声だった。

「ここに、いません」

女の笑みが、ほんのわずかに揺れる。

すぐに元へ戻る。

「どの子のことを仰っているのか分かりません」

優しい声だった。

優しすぎる声だった。

セシアは一覧板を指さす。

「ここに、名前がありません」

女は首を傾げる。

「ここにいる子は、全員そこに載っていますよ」

その言い方が、白祈院の修女たちと重なった。

いません。
知りません。
そのような記録はありません。

なかったことにするための声だ。

セシアの喉が熱くなる。

「……でも」

言葉が震える。

「いました」

女の笑みが消えることはなかった。

ただ、その目だけが少し冷たくなる。

「お疲れのようですね」

その瞬間、リゼがセシアの腕を引いた。

「行こう」

低く、短い声だった。

セシアは反射的に従う。

女は追ってこなかった。

ただ、あの整った笑みのまま、二人を見送っている。

外へ出る。

風が頬に当たった瞬間、ようやく息ができた。

門の外まで出て、セシアはその場に立ち止まる。

胸が苦しい。

怖い。
でも、それだけじゃない。

怒りに近いものが、じわじわと奥から上がってくる。

「……見たのか?」

リゼが小さく聞く。

セシアは頷いた。

「……いました」

「うん」

「でも、いませんでした」

自分でも矛盾したことを言っているのは分かる。
けれど、それがいちばん正しかった。

「名前が、消えてるんです」

リゼは黙って聞いている。

セシアは握っていた紙を見下ろした。

ミナ
いいこにするから、ここからだして

それだけの短い言葉が、胸に重い。

「……白祈院と同じです」

セシアが言うと、リゼが低く返す。

「だろうね」

「ここでも、消してます」

リゼは白い家を見上げた。

「じゃあ次は、“どうやって消してるか”を見つける番だ」

セシアは頷いた。

もう、迷いはなかった。

ここには“いない子ども”がいる。

それはただの怪異じゃない。
誰かが、消したものだ。

だからこそ、拾わなければいけない。

セシアは白い建物から目を逸らさなかった。

あの中には、まだ名前を失ったものがいる。

そう思うと、胸の奥のざらつきが、今度ははっきりとした意志へ変わっていった。


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白い家を出てからも、セシアはしばらく振り返ることができなかった。
門をくぐり、庭を抜け、外の土道に戻ってもなお、背中の奥にあの静けさが張りついている。
風の音がする。
鳥の声も聞こえる。
なのに、まだ耳の奥が詰まったみたいだった。
「……大丈夫か?」
隣を歩きながら、リゼが低く聞く。
セシアは少し遅れて頷いた。
「……たぶん」
「たぶんね」
それ以上は追及してこない。
ありがたかった。
言葉にしようとすると、あの建物の中にあった違和感が、まだうまく輪郭を持たないまま胸の奥で広がってしまいそうだったからだ。
町外れの道は静かだった。
少し先に、半ば崩れた石壁があり、その影に腰を下ろせそうな場所があった。リゼが顎で示す。
「いったん整理しよっか」
セシアは素直に頷いた。
壁際に腰を下ろす。土の冷たさが衣越しに伝わってきた。
白い家は少し離れた位置からでもよく見える。
整った白壁。
閉じた窓。
穏やかすぎる外観。
何も知らない人が見れば、きっと“いい場所”に見えるだろう。
それが余計に気味悪かった。
「……で?」
リゼが腕を組む。
「なにが変だった?」
セシアはすぐには答えられなかった。
頭の中にあるものを、言葉へ変えるのが難しい。
「……全部、です」
「全部」
「静かすぎました。子どもたちも……変でした」
「うん」
「あと、部屋の数と……気配が、合ってない感じがして」
そこまで言ってから、自分でも少しだけ驚く。
気配が合っていない
曖昧な言い方だ。
でも、それがいちばん近かった。
リゼはふっと目を細めた。
「それは、私も思った」
セシアが顔を上げる。
「リゼも?」
「うん。子ども、三人いたでしょ」
「はい」
「でも、子ども用の椅子は庭に四つあった」
セシアは息を呑んだ。
見ていなかった。
いや、見ていたのかもしれない。けれど、意識に残るほどは見ていなかった。
「あと、廊下の部屋数に対して、生活音が少なすぎる」
リゼは指を折る。
「使ってる気配のある部屋はあった。子どもの靴もあった。けど、今そこに“いる人数”が足りない」
言葉にされると、違和感が少しずつ形になる。
数が合っていない。
白祈院でも、そういうことはあった。
並ぶはずの食器が一つ少ない。
祈りの席が、いつの間にか一つ空いている。
寝台の数と、夜の息遣いの数が合わない。
でも誰も、それを口にしない。
そういう場所だった。
「……あそこも、同じです」
セシアが小さく言うと、リゼは頷いた。
「たぶんね。問題は、何がどう消えてるかだ」
その時だった。
胸の奥に、ふっと何かが落ちた。
セシアは思わず顔を上げる。
白い家の門のあたり。
誰かがいる。
小さな影。
じっと、こちらを見ている。
「……どうした」
リゼが気づく。
セシアは白い家を指さした。
「あそこ……」
リゼも視線を向ける。
だが、眉を寄せただけだった。
「何もいないけど」
その一言に、セシアの背筋が冷える。
やはり、そうなのだ。
自分にだけ見えている。
門のそばに立っているのは、小さな子どもだった。
七つか、八つくらい。
白い服。
痩せた手足。
じっとこちらを見ている。
でも、その輪郭はどこか薄い。
陽の中にいるのに、影みたいに見える。
セシアは立ち上がった。
「セシア」
「……います」
自分でも、声が少し掠れているのが分かる。
「子どもが」
リゼが一瞬だけ息を止めた。
「……行くの?」
「はい」
迷う理由はなかった。
むしろ、見えてしまった以上、放っておけなかった。
白い家へ戻る。
門のところにいた子どもは、逃げるでもなく、そのまま立っている。
近づくにつれて、胸の奥の感覚が強くなる。
悲鳴ではない。
怒りでもない。
もっと薄くて、もっと弱い。
今にも消えそうなもの。
「……こんにちは」
セシアが声をかける。
子どもは口を開いた。
だが、声は出ない。
その代わりに、胸の奥へ言葉が落ちてくる。
『……ここじゃない』
セシアの指先が震えた。
『……ここじゃない』
同じ言葉が、もう一度落ちる。
声ではない。
けれど、言葉だった。
「……何が」
思わず問い返す。
子どもは答えない。
ただ、じっとこちらを見ている。
その目は、庭で笑っていた子どもたちと違っていた。
揃いすぎた笑みも、整えられた言葉もない。
ただ、薄くて、ひどく静かな目。
「……セシア」
リゼが横に並ぶ。
「聞こえる?」
セシアは頷いた。
「はい……でも、うまく」
その瞬間、子どもがすっと後ろへ下がる。
逃げるわけではない。
誘うように。
建物の横手へ向かって歩いていく。
「待って」
セシアが思わず追いかける。
白い家の側面へ回る。
そこは表から見えにくい、半ば死角になった場所だった。庭木が少し伸び、物置らしい小屋があり、洗濯桶や壊れた椅子が雑に積まれている。
子どもはその小屋の前で止まった。
そして、こちらを振り返る。
『……いない』
また、その言葉。
セシアの喉がきつく締まる。
「……誰が」
『……いない』
『……いない』
繰り返されるたびに、胸の奥がざらつく。
その言葉は感情ではなく、事実だけを置いていく。
だからこそ、ひどく重い。
リゼが小屋の扉に手をかける。
「開いてる」
中は狭かった。
掃除道具、古い箱、壊れた椅子、使われなくなったらしい毛布。
ぱっと見では、ただの物置にしか見えない。
だが、セシアの視線はすぐに床へ落ちた。
埃の積もり方が、不自然だ。
ほとんど使われていないように見えるのに、一部だけ擦れた跡がある。
「……これ」
セシアが指さす。
リゼがしゃがみ込んだ。
「床、動くね」
板の継ぎ目に、爪を引っかける。
少し力を入れると、床板の一部が持ち上がった。
その下にあったのは、狭い収納のような空間だった。
中は空ではない。
小さな毛布。
木の積み木。
折れた人形の腕。
それから、何枚かの紙。
セシアの呼吸が浅くなる。
これは物置ではない。
隠された子ども部屋みたいだった。
「……なんでこんなとこに」
リゼの声が低くなる。
セシアは紙を一枚、そっと拾い上げた。
薄く、汚れている。
文字は子どもの筆跡だった。
たどたどしい文字で、名前が書いてある。
ミナ
その下に、もう一行。
いいこにするから、ここからだして
セシアの指が強張る。
息が止まりそうになる。
その瞬間、胸の奥へ、鋭く落ちてくる。
『……ミナ』
子どもの視線が、自分の手元へ向いている。
この子だ。
この紙を書いたのは。
セシアはゆっくり顔を上げた。
「……あなたの名前ですか」
子どもは口を開く。
声は出ない。
でも、今度ははっきりと落ちてきた。
『……ミナ』
その瞬間、何かが繋がった。
名前。
いないのに、ここにいるもの。
セシアは立ち上がり、白い家の中へ向かった。
「セシア!」
リゼが慌てて追う。
だが、止めなかった。
廊下へ戻る。
足音が大きく響く。
静かすぎる白い空気が、今はもう違って見えた。
まるで、何かを覆い隠すための静けさだ。
壁際に掛けられた板がある。
さっき見た、患者の一覧。
整然と名前が並んでいる。
セシアはそこへ駆け寄った。
上から順に目で追う。
ルナ。
エルマ。
ユディ。
カル。
ミリア。
どこにもない。
もう一度見る。
それでも、ない。
「……いません」
小さく呟いた。
「何が?」
背後から声がした。
振り返る。
白い服の女職員が立っていた。
柔らかい笑みを浮かべている。
だがその笑みもまた、どこか整いすぎている。
セシアは一瞬、言葉を失う。
でも、胸の奥に残る“ミナ”という名前が、口を開かせた。
「……この子が」
自分でも驚くほど、まっすぐな声だった。
「ここに、いません」
女の笑みが、ほんのわずかに揺れる。
すぐに元へ戻る。
「どの子のことを仰っているのか分かりません」
優しい声だった。
優しすぎる声だった。
セシアは一覧板を指さす。
「ここに、名前がありません」
女は首を傾げる。
「ここにいる子は、全員そこに載っていますよ」
その言い方が、白祈院の修女たちと重なった。
いません。
知りません。
そのような記録はありません。
なかったことにするための声だ。
セシアの喉が熱くなる。
「……でも」
言葉が震える。
「いました」
女の笑みが消えることはなかった。
ただ、その目だけが少し冷たくなる。
「お疲れのようですね」
その瞬間、リゼがセシアの腕を引いた。
「行こう」
低く、短い声だった。
セシアは反射的に従う。
女は追ってこなかった。
ただ、あの整った笑みのまま、二人を見送っている。
外へ出る。
風が頬に当たった瞬間、ようやく息ができた。
門の外まで出て、セシアはその場に立ち止まる。
胸が苦しい。
怖い。
でも、それだけじゃない。
怒りに近いものが、じわじわと奥から上がってくる。
「……見たのか?」
リゼが小さく聞く。
セシアは頷いた。
「……いました」
「うん」
「でも、いませんでした」
自分でも矛盾したことを言っているのは分かる。
けれど、それがいちばん正しかった。
「名前が、消えてるんです」
リゼは黙って聞いている。
セシアは握っていた紙を見下ろした。
ミナ
いいこにするから、ここからだして
それだけの短い言葉が、胸に重い。
「……白祈院と同じです」
セシアが言うと、リゼが低く返す。
「だろうね」
「ここでも、消してます」
リゼは白い家を見上げた。
「じゃあ次は、“どうやって消してるか”を見つける番だ」
セシアは頷いた。
もう、迷いはなかった。
ここには“いない子ども”がいる。
それはただの怪異じゃない。
誰かが、消したものだ。
だからこそ、拾わなければいけない。
セシアは白い建物から目を逸らさなかった。
あの中には、まだ名前を失ったものがいる。
そう思うと、胸の奥のざらつきが、今度ははっきりとした意志へ変わっていった。