第12話 白い家
ー/ー町の東外れへ向かうにつれて、道は目に見えて荒れていった。
石畳はいつの間にか途切れ、踏み固められた土に変わっている。道の脇には崩れた塀や、使われなくなった井戸、放置された荷車がいくつも転がっていた。壁の剥がれた家がぽつぽつと並び、人影は少ない。たまに誰かとすれ違っても、皆どこか急ぎ足で、こちらを見るとすぐに目を逸らす。
表通りの賑わいは、もう届かない。
風の音と、遠くで鳴く鳥の声だけが、やけに広く聞こえる。
「……この辺、空気が変だね」
前を歩きながら、リゼが小さく言った。
「人が少ないっていうより、避けられてる感じ」
セシアは答えずに頷いた。
たしかにそうだった。
人が住んでいないわけではない。洗濯物もあるし、煙突から煙が上がっている家もある。生活の痕跡はあるのに、人の気配だけが薄い。
近づかないようにしている。
そういう空気が、この辺り一帯に張りついていた。
やがて、視界の先に白い建物が見えてくる。
他の建物よりも一回り大きく、やけに整っている。壁は白く塗られ、窓枠も歪んでいない。庭木まで手入れされていて、この荒れた土地の中ではそこだけが浮いて見えた。
「……あれですね」
セシアが呟くと、リゼも足を止めて建物を見上げた。
「たぶんね」
短い返事だった。
けれど、その声にはわずかに警戒が混じっていた。
白い壁。
きれいに整えられた小道。
小さな十字の印。
療養院、と聞いて想像していたより、ずっとちゃんとしている。
いや、ちゃんとしすぎている。
ここだけ、別の場所から切り取ってきたみたいに。
セシアの胸の奥に、嫌な感覚が落ちてきた。
見覚えがある。
こういう白さを、知っている。
「……似てる」
気づけば、声が漏れていた。
「何が?」
リゼが聞く。
セシアは少しだけ迷ってから答えた。
「白祈院に」
その言葉に、リゼはすぐには何も返さなかった。
ただ、建物を見つめる目が少しだけ細くなる。
「……あんまり嬉しくない例えだね」
「はい」
門は開いていた。
見張りもいない。
誰でも入れそうに見える。
だが中へ足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
音が、少ない。
風は吹いている。
葉も揺れている。
それなのに、葉擦れの音が遠い。自分たちの足音だけが、やけに大きく聞こえた。
セシアは思わず肩を強張らせる。
静かだ。
ただ静かなのではなく、音が消されているみたいな静かさだった。
白祈院の廊下を思い出す。
朝の祈りの前。
夜の見回りの後。
誰もいないはずなのに、誰かに見られている気がした、あの静けさ。
庭の奥に、子どもたちがいた。
三人。
小さな椅子に腰かけ、同じ方向を向いている。
遊んでいるわけでもなく、話しているわけでもない。
ただ、並んで座っている。
近づくと、一斉に顔が上がった。
視線が揃う。
そして、笑う。
その瞬間、セシアの背中に薄い寒気が走った。
子どもたちは、こんなふうに笑わない。
もっとばらばらで、もっと気まぐれで、もっと唐突だ。
目の前の笑みは、どこか“作られている”。
「こんにちは」
セシアが声をかける。
「こんにちは」
三人が、ほとんど同じ調子で返した。
ほんのわずかにずれているのに、揃いすぎている。
セシアは思わず口を閉ざす。
リゼが一歩前に出た。
「ここ、療養院で合ってる?」
「はい」
「優しい人がいます」
「病気の人がいます」
「静かです」
返ってくる言葉まで整いすぎていた。
セシアは視線を逸らす。
この感じを知っている。
正しい答えだけを返す人間の空気。
白祈院でも、何度も見た。
叱られないために。
選ばれるために。
間違えないために。
子どもが子どもらしくいられなくなる空気だ。
「ルナって人、いる?」
リゼが聞く。
三人は一瞬だけ黙り、それから一人が言った。
「います」
もう一人が続ける。
「中に」
三人目が言う。
「案内します」
立ち上がる動作まで揃っていた。
セシアは無意識に、祈祷書を抱き直しかける。
途中で止めた。
それを見て、リゼがちらりとこちらを見たが、何も言わなかった。
建物の中に入る。
白い廊下だった。
壁も、床も、扉も、どこか磨き上げられていて、光が薄く反射している。清潔ではある。だが、その清潔さが妙に冷たかった。
生活の匂いがしない。
薬草の匂いも、食事の匂いも、汗の匂いも、ほとんどない。
人が生きていれば、本来あるはずのものが、薄い。
廊下の左右にはいくつもの扉が並んでいる。だが、その数のわりに、人の気配が少なかった。
視線がひとつ、扉の隙間に止まる。
わずかに開いた部屋。
セシアは足を止めた。
「……セシア?」
リゼが小さく呼ぶ。
「少しだけ」
自分でも理由は分からなかった。
ただ、その部屋を通り過ぎてはいけない気がした。
扉にそっと触れる。
少しだけ押す。
軋んだ音とともに、部屋の中が見えた。
空だった。
小さなベッドが二つ
机
椅子
窓辺に置かれた、乾いた花
それだけなら何もおかしくない。
けれど、床の隅に小さな靴が揃えて置かれているのが見えた。
子どものものだ。
しかも片方だけではない。ちゃんと、左右揃っている。
まるで、また戻ってくる前提で置かれているみたいに。
セシアの喉がわずかに詰まる。
人はいない。
でも、いなくなった感じがしない。
「……使ってた部屋だね」
リゼが低く言った。
「でも今はいない」
その言い方が、胸の奥に引っかかった。
いない。
まだ、その違和感には名前がつかない。
けれど、確かに何かが足りない。
案内していた子どもたちは、振り返りもせずに先へ進んでいる。
まるで、二人が寄り道することも最初から想定しているみたいに。
セシアは扉を閉めた。
廊下へ戻る。
そのまま少し進んだところで、今度は逆側の扉の前で足が止まった。
こちらは閉まっている。
けれど、扉の下の隙間から、紙切れのようなものが見えていた。
何気なく拾い上げる。
小さな紙片だった。
文字はほとんど擦れている。
だが、かろうじて読める部分があった。
――よい子は静かに待ちましょう
それだけ。
どこにでもある言葉だ。
それなのに、ひどく冷たく見えた。
「何それ」
リゼが覗き込む。
「……分かりません」
セシアは紙を見つめたまま答えた。
でも、分かる気がする。
ここでどう振る舞えばいいかを教えるための紙だ。
そしてそういうものがある場所では、大抵、誰かが自分のままではいられない。
「……あとで持ってく?」
「いえ、今は」
セシアは紙を元の位置に戻した。
証拠になるほどのものではない。
でも、この場所の匂いだけは、確実に増えていく。
やがて、案内していた子どもたちが一つの扉の前で止まった。
「ここです」
ノックもなく、扉が開かれる。
中は簡素な部屋だった。
小さなベッド。
机。
椅子。
薄いカーテン。
窓から入る白い光。
そして、そのベッドの上に、ひとりの女性が横たわっていた。
年の頃は十八前後だろうか。
セシアより明らかに年上のはずなのに、伏せたままの姿はひどく弱々しく見える。頬は痩せ、手首は細く、長い髪が枕に静かに広がっていた。
呼吸は浅い。
生きている。でも、その生き方があまりにも薄い。
「……ルナさん」
セシアが小さく呼びかける。
返事はない。
眠っているのか、それとも意識が浅いのか、分からない。
セシアはゆっくりとベッドに近づいた。
その瞬間だった。
胸の奥に、重いものが落ちてくる。
『……ルナ』
声。
はっきりと分かる。
セドだ。
断片が流れ込んでくる。
夜の空気。
走る足。
握りしめた袋。
息を切らしながら、それでも前へ進もうとする感覚。
――待っててくれ
その言葉が、胸の奥に刺さる。
セシアは震える指で、袋の中から銀飾りを取り出した。
花の形をした、小さな銀の飾り。
ルナへ。
裏に刻まれた文字を、親指でなぞる。
高価なものではない。
けれど、誰かのために選ばれたものだ。
それを、そっとルナの手のそばに置く。
触れられるくらいの距離に。
その瞬間。
胸の奥にあった重さが、静かにほどけた。
完全に消えたわけではない。
でも、さっきまで引っかかっていたものが、ひとつだけ正しい場所へ戻った感覚がある。
「……届いた、と思います」
自分でも驚くほど、静かな声だった。
リゼは何も言わなかった。
ただ、少しだけ視線を落とす。
ルナの手は細く、白かった。
その指先は微かに震えたようにも見えたが、気のせいかもしれない。
セシアはしばらく、その手元を見つめていた。
この人は、ここで何を待っていたのだろう。
セドを。
贈り物を。
それとも、もっと別の何かを。
考えたところで答えは出ない。
けれど、胸の奥に残る感覚がひとつだけあった。
この人は、ただ病気なだけじゃない。
うまく言葉にできない。
でもそう感じた。
弱っている。
けれど、それだけではない。
何かが、削られている。
その時だった。
背後で、かすかな気配が立った。
振り返る。
扉の向こう、廊下の先に、白い上着の男が立っていた。
無言で、こちらを見ている。
神殿の印。
あの白い連中。
男は何も言わない。
だが、その視線だけで十分だった。
セシアの背中に、冷たいものが走る。
その目を知っている。
選ぶ側の目だ。
白祈院で、何度も見た。
祈りの時間。
診察の後。
名前を呼ばれる前。
人を見る目ではない。
使えるかどうかを測る目だ。
セシアの喉がきつく締まる。
ここは療養院ではない。
少なくとも、それだけの場所ではない。
白祈院と同じ匂いがする。
人を集めて、並べて、静かにして、選ぶ場所。
セシアの口から、言葉が零れた。
「……ここも」
声が震える。
「同じです」
小さな声だった。
でも、それは確信だった。
リゼが男から目を逸らさないまま、低く返す。
「……ああ」
短い一言。
それだけで十分だった。
二人とも、同じものを見ている。
整えられた白い建物。
静かな子どもたち。
空いているはずなのに生活の痕跡が残る部屋。
正しい答えしか返さない空気。
そして、あの視線。
ここには、何かがある。
拾われなかった祈りが、ここにも積み上がっている。
男はしばらくこちらを見ていたが、やがて低い声で言った。
「見舞いなら、長居は不要だ」
穏やかな口調だった。
だが、その中に拒絶がある。
これ以上、見るな。
触れるな。
知るな。
そう言われているのと同じだった。
リゼが先に笑った。
「そうするよ。病人に悪いしね」
軽い調子で返す。
そのままセシアの肩を軽く押す。
「行こ」
セシアは最後にもう一度だけ、ルナを見た。
銀飾りは、手のそばにある。
小さく、静かに光っている。
それを確かめてから、部屋を出た。
廊下へ戻る。
さっきまでと同じ白い空気のはずなのに、今はもう別の場所に見えた。
案内していた子どもたちは、いつの間にかいなくなっていた。
気配だけが、薄く残っている。
出口へ向かう途中、セシアはもう一度だけ、さっき見た空き部屋の前を通った。
扉は閉まっている。
何も変わっていないはずなのに、どうしても目が離せなかった。
ここにも誰かがいた。
その感覚だけが、まだ消えない。
外へ出ると、ようやく風の音が戻ってきた。
それだけで、胸の奥の圧迫感が少しだけ薄れる。
セシアは門の前で立ち止まり、振り返った。
白い壁
整えられた庭
穏やかな外観
何も知らない人間が見れば、きっと善意の場所に見える。
だからこそ、余計に嫌だった。
「……嫌な顔してる」
隣で、リゼがぼそりと言った。
「してますか」
「してる。かなり」
セシアは自分の頬に触れた。
うまく笑えそうにないことだけは分かる。
「……あそこ」
声にすると、胸の奥が少しだけざらついた。
「ただの療養院じゃないです」
「うん」
「何か、隠してます」
「たぶんそうだね」
リゼは白い建物を見上げる。
その目はいつもより少し鋭かった。
「で、問題は何を隠してるかだね」
セシアは頷く。
胸の奥に残っている違和感は、まだ形になっていない。
でも、消えない。
あの空き部屋。
あの子どもたち。
あの白い上着の男。
何かが、数として合っていない。
そういう感覚だけが、じわじわと広がっていく。
「……もう少し見たいです」
セシアが言うと、リゼが横目で見る。
「珍しく前のめりだね」
「放っておくと、たぶん後悔します」
そう口にした瞬間、自分でもそれが本音だと分かった。
リゼはほんの少しだけ笑う。
「いいね」
軽い声だった。
「そういうの、嫌いじゃない」
セシアは何も返せなかった。
ただ、白い建物から目を逸らさなかった。
あの中には、まだ拾われていないものがある。
そんな気がしてならなかった。
石畳はいつの間にか途切れ、踏み固められた土に変わっている。道の脇には崩れた塀や、使われなくなった井戸、放置された荷車がいくつも転がっていた。壁の剥がれた家がぽつぽつと並び、人影は少ない。たまに誰かとすれ違っても、皆どこか急ぎ足で、こちらを見るとすぐに目を逸らす。
表通りの賑わいは、もう届かない。
風の音と、遠くで鳴く鳥の声だけが、やけに広く聞こえる。
「……この辺、空気が変だね」
前を歩きながら、リゼが小さく言った。
「人が少ないっていうより、避けられてる感じ」
セシアは答えずに頷いた。
たしかにそうだった。
人が住んでいないわけではない。洗濯物もあるし、煙突から煙が上がっている家もある。生活の痕跡はあるのに、人の気配だけが薄い。
近づかないようにしている。
そういう空気が、この辺り一帯に張りついていた。
やがて、視界の先に白い建物が見えてくる。
他の建物よりも一回り大きく、やけに整っている。壁は白く塗られ、窓枠も歪んでいない。庭木まで手入れされていて、この荒れた土地の中ではそこだけが浮いて見えた。
「……あれですね」
セシアが呟くと、リゼも足を止めて建物を見上げた。
「たぶんね」
短い返事だった。
けれど、その声にはわずかに警戒が混じっていた。
白い壁。
きれいに整えられた小道。
小さな十字の印。
療養院、と聞いて想像していたより、ずっとちゃんとしている。
いや、ちゃんとしすぎている。
ここだけ、別の場所から切り取ってきたみたいに。
セシアの胸の奥に、嫌な感覚が落ちてきた。
見覚えがある。
こういう白さを、知っている。
「……似てる」
気づけば、声が漏れていた。
「何が?」
リゼが聞く。
セシアは少しだけ迷ってから答えた。
「白祈院に」
その言葉に、リゼはすぐには何も返さなかった。
ただ、建物を見つめる目が少しだけ細くなる。
「……あんまり嬉しくない例えだね」
「はい」
門は開いていた。
見張りもいない。
誰でも入れそうに見える。
だが中へ足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
音が、少ない。
風は吹いている。
葉も揺れている。
それなのに、葉擦れの音が遠い。自分たちの足音だけが、やけに大きく聞こえた。
セシアは思わず肩を強張らせる。
静かだ。
ただ静かなのではなく、音が消されているみたいな静かさだった。
白祈院の廊下を思い出す。
朝の祈りの前。
夜の見回りの後。
誰もいないはずなのに、誰かに見られている気がした、あの静けさ。
庭の奥に、子どもたちがいた。
三人。
小さな椅子に腰かけ、同じ方向を向いている。
遊んでいるわけでもなく、話しているわけでもない。
ただ、並んで座っている。
近づくと、一斉に顔が上がった。
視線が揃う。
そして、笑う。
その瞬間、セシアの背中に薄い寒気が走った。
子どもたちは、こんなふうに笑わない。
もっとばらばらで、もっと気まぐれで、もっと唐突だ。
目の前の笑みは、どこか“作られている”。
「こんにちは」
セシアが声をかける。
「こんにちは」
三人が、ほとんど同じ調子で返した。
ほんのわずかにずれているのに、揃いすぎている。
セシアは思わず口を閉ざす。
リゼが一歩前に出た。
「ここ、療養院で合ってる?」
「はい」
「優しい人がいます」
「病気の人がいます」
「静かです」
返ってくる言葉まで整いすぎていた。
セシアは視線を逸らす。
この感じを知っている。
正しい答えだけを返す人間の空気。
白祈院でも、何度も見た。
叱られないために。
選ばれるために。
間違えないために。
子どもが子どもらしくいられなくなる空気だ。
「ルナって人、いる?」
リゼが聞く。
三人は一瞬だけ黙り、それから一人が言った。
「います」
もう一人が続ける。
「中に」
三人目が言う。
「案内します」
立ち上がる動作まで揃っていた。
セシアは無意識に、祈祷書を抱き直しかける。
途中で止めた。
それを見て、リゼがちらりとこちらを見たが、何も言わなかった。
建物の中に入る。
白い廊下だった。
壁も、床も、扉も、どこか磨き上げられていて、光が薄く反射している。清潔ではある。だが、その清潔さが妙に冷たかった。
生活の匂いがしない。
薬草の匂いも、食事の匂いも、汗の匂いも、ほとんどない。
人が生きていれば、本来あるはずのものが、薄い。
廊下の左右にはいくつもの扉が並んでいる。だが、その数のわりに、人の気配が少なかった。
視線がひとつ、扉の隙間に止まる。
わずかに開いた部屋。
セシアは足を止めた。
「……セシア?」
リゼが小さく呼ぶ。
「少しだけ」
自分でも理由は分からなかった。
ただ、その部屋を通り過ぎてはいけない気がした。
扉にそっと触れる。
少しだけ押す。
軋んだ音とともに、部屋の中が見えた。
空だった。
小さなベッドが二つ
机
椅子
窓辺に置かれた、乾いた花
それだけなら何もおかしくない。
けれど、床の隅に小さな靴が揃えて置かれているのが見えた。
子どものものだ。
しかも片方だけではない。ちゃんと、左右揃っている。
まるで、また戻ってくる前提で置かれているみたいに。
セシアの喉がわずかに詰まる。
人はいない。
でも、いなくなった感じがしない。
「……使ってた部屋だね」
リゼが低く言った。
「でも今はいない」
その言い方が、胸の奥に引っかかった。
いない。
まだ、その違和感には名前がつかない。
けれど、確かに何かが足りない。
案内していた子どもたちは、振り返りもせずに先へ進んでいる。
まるで、二人が寄り道することも最初から想定しているみたいに。
セシアは扉を閉めた。
廊下へ戻る。
そのまま少し進んだところで、今度は逆側の扉の前で足が止まった。
こちらは閉まっている。
けれど、扉の下の隙間から、紙切れのようなものが見えていた。
何気なく拾い上げる。
小さな紙片だった。
文字はほとんど擦れている。
だが、かろうじて読める部分があった。
――よい子は静かに待ちましょう
それだけ。
どこにでもある言葉だ。
それなのに、ひどく冷たく見えた。
「何それ」
リゼが覗き込む。
「……分かりません」
セシアは紙を見つめたまま答えた。
でも、分かる気がする。
ここでどう振る舞えばいいかを教えるための紙だ。
そしてそういうものがある場所では、大抵、誰かが自分のままではいられない。
「……あとで持ってく?」
「いえ、今は」
セシアは紙を元の位置に戻した。
証拠になるほどのものではない。
でも、この場所の匂いだけは、確実に増えていく。
やがて、案内していた子どもたちが一つの扉の前で止まった。
「ここです」
ノックもなく、扉が開かれる。
中は簡素な部屋だった。
小さなベッド。
机。
椅子。
薄いカーテン。
窓から入る白い光。
そして、そのベッドの上に、ひとりの女性が横たわっていた。
年の頃は十八前後だろうか。
セシアより明らかに年上のはずなのに、伏せたままの姿はひどく弱々しく見える。頬は痩せ、手首は細く、長い髪が枕に静かに広がっていた。
呼吸は浅い。
生きている。でも、その生き方があまりにも薄い。
「……ルナさん」
セシアが小さく呼びかける。
返事はない。
眠っているのか、それとも意識が浅いのか、分からない。
セシアはゆっくりとベッドに近づいた。
その瞬間だった。
胸の奥に、重いものが落ちてくる。
『……ルナ』
声。
はっきりと分かる。
セドだ。
断片が流れ込んでくる。
夜の空気。
走る足。
握りしめた袋。
息を切らしながら、それでも前へ進もうとする感覚。
――待っててくれ
その言葉が、胸の奥に刺さる。
セシアは震える指で、袋の中から銀飾りを取り出した。
花の形をした、小さな銀の飾り。
ルナへ。
裏に刻まれた文字を、親指でなぞる。
高価なものではない。
けれど、誰かのために選ばれたものだ。
それを、そっとルナの手のそばに置く。
触れられるくらいの距離に。
その瞬間。
胸の奥にあった重さが、静かにほどけた。
完全に消えたわけではない。
でも、さっきまで引っかかっていたものが、ひとつだけ正しい場所へ戻った感覚がある。
「……届いた、と思います」
自分でも驚くほど、静かな声だった。
リゼは何も言わなかった。
ただ、少しだけ視線を落とす。
ルナの手は細く、白かった。
その指先は微かに震えたようにも見えたが、気のせいかもしれない。
セシアはしばらく、その手元を見つめていた。
この人は、ここで何を待っていたのだろう。
セドを。
贈り物を。
それとも、もっと別の何かを。
考えたところで答えは出ない。
けれど、胸の奥に残る感覚がひとつだけあった。
この人は、ただ病気なだけじゃない。
うまく言葉にできない。
でもそう感じた。
弱っている。
けれど、それだけではない。
何かが、削られている。
その時だった。
背後で、かすかな気配が立った。
振り返る。
扉の向こう、廊下の先に、白い上着の男が立っていた。
無言で、こちらを見ている。
神殿の印。
あの白い連中。
男は何も言わない。
だが、その視線だけで十分だった。
セシアの背中に、冷たいものが走る。
その目を知っている。
選ぶ側の目だ。
白祈院で、何度も見た。
祈りの時間。
診察の後。
名前を呼ばれる前。
人を見る目ではない。
使えるかどうかを測る目だ。
セシアの喉がきつく締まる。
ここは療養院ではない。
少なくとも、それだけの場所ではない。
白祈院と同じ匂いがする。
人を集めて、並べて、静かにして、選ぶ場所。
セシアの口から、言葉が零れた。
「……ここも」
声が震える。
「同じです」
小さな声だった。
でも、それは確信だった。
リゼが男から目を逸らさないまま、低く返す。
「……ああ」
短い一言。
それだけで十分だった。
二人とも、同じものを見ている。
整えられた白い建物。
静かな子どもたち。
空いているはずなのに生活の痕跡が残る部屋。
正しい答えしか返さない空気。
そして、あの視線。
ここには、何かがある。
拾われなかった祈りが、ここにも積み上がっている。
男はしばらくこちらを見ていたが、やがて低い声で言った。
「見舞いなら、長居は不要だ」
穏やかな口調だった。
だが、その中に拒絶がある。
これ以上、見るな。
触れるな。
知るな。
そう言われているのと同じだった。
リゼが先に笑った。
「そうするよ。病人に悪いしね」
軽い調子で返す。
そのままセシアの肩を軽く押す。
「行こ」
セシアは最後にもう一度だけ、ルナを見た。
銀飾りは、手のそばにある。
小さく、静かに光っている。
それを確かめてから、部屋を出た。
廊下へ戻る。
さっきまでと同じ白い空気のはずなのに、今はもう別の場所に見えた。
案内していた子どもたちは、いつの間にかいなくなっていた。
気配だけが、薄く残っている。
出口へ向かう途中、セシアはもう一度だけ、さっき見た空き部屋の前を通った。
扉は閉まっている。
何も変わっていないはずなのに、どうしても目が離せなかった。
ここにも誰かがいた。
その感覚だけが、まだ消えない。
外へ出ると、ようやく風の音が戻ってきた。
それだけで、胸の奥の圧迫感が少しだけ薄れる。
セシアは門の前で立ち止まり、振り返った。
白い壁
整えられた庭
穏やかな外観
何も知らない人間が見れば、きっと善意の場所に見える。
だからこそ、余計に嫌だった。
「……嫌な顔してる」
隣で、リゼがぼそりと言った。
「してますか」
「してる。かなり」
セシアは自分の頬に触れた。
うまく笑えそうにないことだけは分かる。
「……あそこ」
声にすると、胸の奥が少しだけざらついた。
「ただの療養院じゃないです」
「うん」
「何か、隠してます」
「たぶんそうだね」
リゼは白い建物を見上げる。
その目はいつもより少し鋭かった。
「で、問題は何を隠してるかだね」
セシアは頷く。
胸の奥に残っている違和感は、まだ形になっていない。
でも、消えない。
あの空き部屋。
あの子どもたち。
あの白い上着の男。
何かが、数として合っていない。
そういう感覚だけが、じわじわと広がっていく。
「……もう少し見たいです」
セシアが言うと、リゼが横目で見る。
「珍しく前のめりだね」
「放っておくと、たぶん後悔します」
そう口にした瞬間、自分でもそれが本音だと分かった。
リゼはほんの少しだけ笑う。
「いいね」
軽い声だった。
「そういうの、嫌いじゃない」
セシアは何も返せなかった。
ただ、白い建物から目を逸らさなかった。
あの中には、まだ拾われていないものがある。
そんな気がしてならなかった。
みんなのリアクション
まだリアクションはありません。最初の一歩を踏み出しましょう!
おすすめ作品を読み込み中です…
作者の他の作品
この作者の他作品はありません。
この作品と似た作品
似た傾向の作品は見つかりませんでした。
この作品を読んだ人が読んでいる作品
読者の傾向からおすすめできる作品がありませんでした。
おすすめ作品は現在準備中です。
おすすめ作品の取得に失敗しました。時間をおいて再度お試しください。