第11話 遺された名
ー/ー町の底は、昼でも薄暗かった。
表通りから二本、三本と路地を外れるたびに、人の気配は減るのに、逆に“見られている感じ”だけが増していく。窓は閉まり、布は汚れ、建物は互いに肩を押し合うみたいに寄り合っていた。
セシアは、そういう場所を歩くこと自体にまだ慣れない。
白祈院の廊下は静かだったが、あれは整えられた静けさだった。
ここにある静けさは、何かを隠すためのものに近い。
息を潜める気配。
聞かないふりをする空気。
見ない方がいいと知っている人間の目。
その全部が、肌にざらつくようにまとわりついてくる。
「前だけ見て」
隣を歩くリゼが小さく言った。
「きょろきょろしてると、余計目立つ」
「……はい」
返事はしたものの、セシアの視線はどうしてもあちこちへ引かれる。壁際に積まれた木箱。半分壊れた看板。昼間から扉の閉まった店。顔を隠したまま通り過ぎる男。どれも白祈院の中にはなかったものばかりだ。
リゼが足を止めたのは、細い路地の奥にある小さな店の前だった。
店、と言っても看板らしい看板はない。入口の上に、すすで黒く汚れた鉄の輪がひとつ吊られているだけだ。扉は半分だけ開いていて、中から古い木と酒と煙の匂いが流れてくる。
「ここ?」
セシアが小声で聞くと、リゼは頷いた。
「質も話も流れるとこ」
つまり、あまり表で堂々と聞けないことを聞く場所なのだろう。
セシアは少しだけ身を固くしたが、リゼはそのまま迷いなく中へ入っていった。
中は思ったより狭かった。
窓が小さいせいで昼間でも薄暗く、奥の棚には瓶や小箱や古い金具が雑多に並んでいる。卓の向こうには、髭面の男が一人。年齢は五十前後だろうか。片目の上に古い傷があり、こちらを見る目だけは妙に澄んでいた。
「朝から珍しい顔だな」
男はそう言って、卓の上の帳面を閉じた。
「売るなら先に出しな」
「売るとは限らないよ」
リゼがそう返すと、男は少しだけ笑った。
「その言い方をするやつは、大抵面倒ごとだ」
セシアは思わず口を閉ざす。
この手のやりとりに口を挟んでいいのか分からない。
リゼは男の前まで進み、布に包んでいた銀飾りを卓の上へ置いた。
「これ、見覚えある?」
男の目が細くなる。
銀飾りを指先でつまみ上げ、表、裏、側面まで順に見ていく。
やがて、裏の刻印に視線が止まった。
表通りから二本、三本と路地を外れるたびに、人の気配は減るのに、逆に“見られている感じ”だけが増していく。窓は閉まり、布は汚れ、建物は互いに肩を押し合うみたいに寄り合っていた。
セシアは、そういう場所を歩くこと自体にまだ慣れない。
白祈院の廊下は静かだったが、あれは整えられた静けさだった。
ここにある静けさは、何かを隠すためのものに近い。
息を潜める気配。
聞かないふりをする空気。
見ない方がいいと知っている人間の目。
その全部が、肌にざらつくようにまとわりついてくる。
「前だけ見て」
隣を歩くリゼが小さく言った。
「きょろきょろしてると、余計目立つ」
「……はい」
返事はしたものの、セシアの視線はどうしてもあちこちへ引かれる。壁際に積まれた木箱。半分壊れた看板。昼間から扉の閉まった店。顔を隠したまま通り過ぎる男。どれも白祈院の中にはなかったものばかりだ。
リゼが足を止めたのは、細い路地の奥にある小さな店の前だった。
店、と言っても看板らしい看板はない。入口の上に、すすで黒く汚れた鉄の輪がひとつ吊られているだけだ。扉は半分だけ開いていて、中から古い木と酒と煙の匂いが流れてくる。
「ここ?」
セシアが小声で聞くと、リゼは頷いた。
「質も話も流れるとこ」
つまり、あまり表で堂々と聞けないことを聞く場所なのだろう。
セシアは少しだけ身を固くしたが、リゼはそのまま迷いなく中へ入っていった。
中は思ったより狭かった。
窓が小さいせいで昼間でも薄暗く、奥の棚には瓶や小箱や古い金具が雑多に並んでいる。卓の向こうには、髭面の男が一人。年齢は五十前後だろうか。片目の上に古い傷があり、こちらを見る目だけは妙に澄んでいた。
「朝から珍しい顔だな」
男はそう言って、卓の上の帳面を閉じた。
「売るなら先に出しな」
「売るとは限らないよ」
リゼがそう返すと、男は少しだけ笑った。
「その言い方をするやつは、大抵面倒ごとだ」
セシアは思わず口を閉ざす。
この手のやりとりに口を挟んでいいのか分からない。
リゼは男の前まで進み、布に包んでいた銀飾りを卓の上へ置いた。
「これ、見覚えある?」
男の目が細くなる。
銀飾りを指先でつまみ上げ、表、裏、側面まで順に見ていく。
やがて、裏の刻印に視線が止まった。

ルナへ。
男はそれを見て、短く鼻を鳴らした。
「……見覚えはある」
セシアの心臓が少しだけ速くなる。
「誰のものか分かりますか」
思わず口を開くと、男の視線がこちらへ向いた。
値踏みするような目だ。
「嬢ちゃんには、ちょっと重い話かもな」
「そういうのいいから」
リゼが割って入る。
「知ってるなら話して」
男は肩をすくめ、銀飾りを卓に戻した。
「これは少し前に裏で流れかけた品だ。ちゃんと売りには出なかったが、話だけは来た」
「売れなかった?」
「刻印付きの贈り物は面倒を呼ぶ」
男は淡々と言った。
「誰かに向けて選んだ品ってのはな、あとから揉める。形見かもしれんし、女絡みかもしれんし、私怨の種かもしれん。金に変えりゃ終わる品とは違う」
その言い方が妙に生々しくて、セシアは少しだけ息を呑んだ。
物には持ち主がいて、事情がある。
当たり前のことなのに、白祈院の中にいるとそういう“個人の事情”はひどく薄かった。
衣も食器も寝具も、全部“誰のものでもないもの”として配られていた。
だから、こうして誰かのために選ばれた品があるということ自体が、少しだけ胸に残る。
リゼが問う。
「じゃあ売れずに戻った?」
「たぶんな。少なくとも、ここには残ってない」
「持ってきたやつの顔は?」
「覚えてる」
その一言に、空気が少し変わった。
男は二人を見た。
その目は、ただの店主のものではない。どこまで話すかを測る目だ。
「で、あんたらは何を追ってる」
リゼは少しだけ黙り、それから言った。
「死んだ男の持ち物だった」
男の片眉が上がる。
「……へえ」
「街道脇に埋められてた。木札に名前があった」
「名前は」
「セド」
その瞬間、男の顔からわずかに色が抜けた。
ほんの一瞬だった。
でもセシアは見逃さなかった。
リゼも見ていたらしい。声の温度を一段下げる。
「知ってるんだ」
男はすぐには答えなかった。
代わりに、卓の端に置いてあった空の杯を指で転がす。
「……荷運びだよ」
やがて、低い声で言った。
「表の商人じゃない。だが裏の運びも請けてた。腕は悪くなかった」
「盗賊?」
「違う。盗賊と組むことはあっても、自分から奪う側じゃない」
セシアは少しだけ息を整える。
セドという人の輪郭が、ようやく少しずつ形になっていく。
ただ死んだ人ではない。
名前のある人だ。
「ルナは?」
セシアが聞くと、男の視線がまたこちらへ向いた。
「……女だよ」
その言葉は、思ったより静かに落ちた。
「町外れの療養院にいる。長く身体を悪くしててな。セドは、あいつのところに顔を出すたび、何かしら持って行ってた」
セシアは銀飾りを見た。
花の形をした、小さな銀の飾り。
高価ではない。
でも、誰かのために選ばれたものだ。
「恋人、ですか」
男は小さく鼻を鳴らす。
「そういうことだ。別に大層な話じゃない。金も身分もない若い二人が、くっついて、片方が寝込んで、片方が無茶する。どこにでもある話だ」
どこにでもある。
その言葉が、セシアには少しだけ苦しかった。
どこにでもあるからこそ、消えても誰も気に留めない。
そういう人生がある。
白祈院の外にも、当たり前に生きている人たちがいて、当たり前に誰かを想っていて、当たり前に奪われる。
そのことを、今さらのように思い知る。
「最近見ないと思ってたら、そういうことか」
男はそう言って、杯を止めた。
「で、その飾りをどこで拾ったって?」
リゼが場所をざっくり伝えると、男は短く舌打ちした。
「やっぱりあの辺か」
「心当たりがある?」
「街道荒らしのガキどもが最近よく使う隠し場がある。大した腕もねえくせに、人数だけで襲って、盗って、流す」
「セドはそれにやられた」
「十中八九な」
店の中の空気が、少しだけ重くなる。
セシアの胸の奥にも、昨夜から残っていたざわつきがまた微かに揺れた。
返せ。
あの声は、たぶんただ銀飾りを取り戻したいだけじゃなかった。
届けるはずだったもの。
渡すはずだったもの。
その先ごと、奪われたくなかったのだ。
「ルナさんは、今も療養院に?」
セシアが聞くと、男は少しだけ眉を寄せた。
「生きてるならな」
その言い方に、セシアの喉がわずかに詰まる。
「どういう意味ですか」
「病人は、急にいなくなる」
低い声だった。
白祈院でも、急にいなくなる人はいた。
祈りのため。
静養のため。
上に呼ばれたから。
理由はいくらでもつけられた。
でも残された側には、本当のことは何も渡らない。
それを思い出した瞬間、胸の奥に小さく、しかしはっきりとした声が落ちた。
『……ルナ』
セシアの指先が強張る。
今までよりずっと近い。
店の中なのに、土の匂いと血の鉄臭さが一瞬だけ鼻を掠めた気がした。
「セシア?」
リゼの声が飛ぶ。
セシアは銀飾りを見た。
花の輪郭が少しだけ滲んで見える。
『……名前を』
今度は、はっきりそう聞こえた。
名前を。
それだけで、セシアは息を呑む。
返せ、ではない。
名前を。
その意味を考えるより先に、言葉が口をついていた。
「……返したかったんじゃなくて」
自分でも驚くほど静かな声だった。
「届けたかったんだと思います」
店主もリゼも、一瞬だけ黙る。
セシアは銀飾りを見つめたまま、続けた。
「ただ物を取り返したかったんじゃなくて……ちゃんと、自分が届けたかったって。それが誰のものだったか、誰に向けたものだったか、それを消されたくなかったんだと思います」
言いながら、胸の奥が少しだけ熱くなる。
エルナの紙片が頭をよぎる。
なかったことにされるもの。
消される記録。
残らない名前。
それが嫌だったのは、きっとセドも同じだった。
リゼが小さく息を吐く。
「……なるほどね」
店主はしばらくセシアを見ていたが、やがて低く笑った。
「妙な嬢ちゃんだな」
「よく言われます」
思わず返してしまってから、自分で少しだけおかしくなる。
店主も鼻を鳴らした。
「療養院は古井戸通りの先だ。町の東外れ。だが急げ」
「なんで」
「最近あっちに、白い連中が出入りしてる」
その言葉に、セシアとリゼが同時に顔を上げる。
「白い連中?」
「神殿付きの連中だよ。巡回にしちゃ妙に人数が多い。病人相手に施しでもしてるつもりか、あるいは……」
男はそこで言葉を切った。
でも、その先を聞かなくても嫌な予感だけは十分だった。
白い連中。
病人。
外れ。
急にいなくなる。
それだけで、胸の奥に冷たいものが走る。
白祈院の外にも、同じ匂いがある。
それはもう何度も感じている。
でも今、その匂いが“名前を持った誰か”に繋がった。
ルナ。
セドが最後まで届けたかった相手。
もしまだ生きているなら。
もしまだ間に合うなら。
セシアは銀飾りを強く握りしめた。
「行こう」
口に出してから、自分で少し驚いた。
リゼがこちらを見る。
でも止めなかった。
「……うん」
それだけ言って、卓に銅貨を数枚置く。
「情報料」
「律儀だな」
「性分なんだよ」
リゼは短く返し、セシアの肩を軽く押した。
「行くよ。今ならまだ日もある」
店を出ると、外の空気はさっきより少しだけ重く感じた。
同じ町の中なのに、どこへ行くかで空気の質が変わる。
表通りの喧騒も、裏路地の湿気も、そのさらに先にある町の外れも、全部違う顔をしている。
セシアは歩きながら、銀飾りの裏を親指でなぞった。
ルナへ。
その短い言葉の中に、名前がある。
誰かに向けた思いがある。
そして、まだ消えていないものがある。
それを今度こそ“なかったこと”にしたくないと、セシアは思った。
リゼが先を歩く。
その背を追いながら、セシアは小さく息を吸う。
次に向かうのは、たぶんまた嫌な場所だ。
白い匂いがする場所だ。
でも今度は、ただ逃げるためじゃない。
届けられなかったものを、拾いに行くのだ。
男はそれを見て、短く鼻を鳴らした。
「……見覚えはある」
セシアの心臓が少しだけ速くなる。
「誰のものか分かりますか」
思わず口を開くと、男の視線がこちらへ向いた。
値踏みするような目だ。
「嬢ちゃんには、ちょっと重い話かもな」
「そういうのいいから」
リゼが割って入る。
「知ってるなら話して」
男は肩をすくめ、銀飾りを卓に戻した。
「これは少し前に裏で流れかけた品だ。ちゃんと売りには出なかったが、話だけは来た」
「売れなかった?」
「刻印付きの贈り物は面倒を呼ぶ」
男は淡々と言った。
「誰かに向けて選んだ品ってのはな、あとから揉める。形見かもしれんし、女絡みかもしれんし、私怨の種かもしれん。金に変えりゃ終わる品とは違う」
その言い方が妙に生々しくて、セシアは少しだけ息を呑んだ。
物には持ち主がいて、事情がある。
当たり前のことなのに、白祈院の中にいるとそういう“個人の事情”はひどく薄かった。
衣も食器も寝具も、全部“誰のものでもないもの”として配られていた。
だから、こうして誰かのために選ばれた品があるということ自体が、少しだけ胸に残る。
リゼが問う。
「じゃあ売れずに戻った?」
「たぶんな。少なくとも、ここには残ってない」
「持ってきたやつの顔は?」
「覚えてる」
その一言に、空気が少し変わった。
男は二人を見た。
その目は、ただの店主のものではない。どこまで話すかを測る目だ。
「で、あんたらは何を追ってる」
リゼは少しだけ黙り、それから言った。
「死んだ男の持ち物だった」
男の片眉が上がる。
「……へえ」
「街道脇に埋められてた。木札に名前があった」
「名前は」
「セド」
その瞬間、男の顔からわずかに色が抜けた。
ほんの一瞬だった。
でもセシアは見逃さなかった。
リゼも見ていたらしい。声の温度を一段下げる。
「知ってるんだ」
男はすぐには答えなかった。
代わりに、卓の端に置いてあった空の杯を指で転がす。
「……荷運びだよ」
やがて、低い声で言った。
「表の商人じゃない。だが裏の運びも請けてた。腕は悪くなかった」
「盗賊?」
「違う。盗賊と組むことはあっても、自分から奪う側じゃない」
セシアは少しだけ息を整える。
セドという人の輪郭が、ようやく少しずつ形になっていく。
ただ死んだ人ではない。
名前のある人だ。
「ルナは?」
セシアが聞くと、男の視線がまたこちらへ向いた。
「……女だよ」
その言葉は、思ったより静かに落ちた。
「町外れの療養院にいる。長く身体を悪くしててな。セドは、あいつのところに顔を出すたび、何かしら持って行ってた」
セシアは銀飾りを見た。
花の形をした、小さな銀の飾り。
高価ではない。
でも、誰かのために選ばれたものだ。
「恋人、ですか」
男は小さく鼻を鳴らす。
「そういうことだ。別に大層な話じゃない。金も身分もない若い二人が、くっついて、片方が寝込んで、片方が無茶する。どこにでもある話だ」
どこにでもある。
その言葉が、セシアには少しだけ苦しかった。
どこにでもあるからこそ、消えても誰も気に留めない。
そういう人生がある。
白祈院の外にも、当たり前に生きている人たちがいて、当たり前に誰かを想っていて、当たり前に奪われる。
そのことを、今さらのように思い知る。
「最近見ないと思ってたら、そういうことか」
男はそう言って、杯を止めた。
「で、その飾りをどこで拾ったって?」
リゼが場所をざっくり伝えると、男は短く舌打ちした。
「やっぱりあの辺か」
「心当たりがある?」
「街道荒らしのガキどもが最近よく使う隠し場がある。大した腕もねえくせに、人数だけで襲って、盗って、流す」
「セドはそれにやられた」
「十中八九な」
店の中の空気が、少しだけ重くなる。
セシアの胸の奥にも、昨夜から残っていたざわつきがまた微かに揺れた。
返せ。
あの声は、たぶんただ銀飾りを取り戻したいだけじゃなかった。
届けるはずだったもの。
渡すはずだったもの。
その先ごと、奪われたくなかったのだ。
「ルナさんは、今も療養院に?」
セシアが聞くと、男は少しだけ眉を寄せた。
「生きてるならな」
その言い方に、セシアの喉がわずかに詰まる。
「どういう意味ですか」
「病人は、急にいなくなる」
低い声だった。
白祈院でも、急にいなくなる人はいた。
祈りのため。
静養のため。
上に呼ばれたから。
理由はいくらでもつけられた。
でも残された側には、本当のことは何も渡らない。
それを思い出した瞬間、胸の奥に小さく、しかしはっきりとした声が落ちた。
『……ルナ』
セシアの指先が強張る。
今までよりずっと近い。
店の中なのに、土の匂いと血の鉄臭さが一瞬だけ鼻を掠めた気がした。
「セシア?」
リゼの声が飛ぶ。
セシアは銀飾りを見た。
花の輪郭が少しだけ滲んで見える。
『……名前を』
今度は、はっきりそう聞こえた。
名前を。
それだけで、セシアは息を呑む。
返せ、ではない。
名前を。
その意味を考えるより先に、言葉が口をついていた。
「……返したかったんじゃなくて」
自分でも驚くほど静かな声だった。
「届けたかったんだと思います」
店主もリゼも、一瞬だけ黙る。
セシアは銀飾りを見つめたまま、続けた。
「ただ物を取り返したかったんじゃなくて……ちゃんと、自分が届けたかったって。それが誰のものだったか、誰に向けたものだったか、それを消されたくなかったんだと思います」
言いながら、胸の奥が少しだけ熱くなる。
エルナの紙片が頭をよぎる。
なかったことにされるもの。
消される記録。
残らない名前。
それが嫌だったのは、きっとセドも同じだった。
リゼが小さく息を吐く。
「……なるほどね」
店主はしばらくセシアを見ていたが、やがて低く笑った。
「妙な嬢ちゃんだな」
「よく言われます」
思わず返してしまってから、自分で少しだけおかしくなる。
店主も鼻を鳴らした。
「療養院は古井戸通りの先だ。町の東外れ。だが急げ」
「なんで」
「最近あっちに、白い連中が出入りしてる」
その言葉に、セシアとリゼが同時に顔を上げる。
「白い連中?」
「神殿付きの連中だよ。巡回にしちゃ妙に人数が多い。病人相手に施しでもしてるつもりか、あるいは……」
男はそこで言葉を切った。
でも、その先を聞かなくても嫌な予感だけは十分だった。
白い連中。
病人。
外れ。
急にいなくなる。
それだけで、胸の奥に冷たいものが走る。
白祈院の外にも、同じ匂いがある。
それはもう何度も感じている。
でも今、その匂いが“名前を持った誰か”に繋がった。
ルナ。
セドが最後まで届けたかった相手。
もしまだ生きているなら。
もしまだ間に合うなら。
セシアは銀飾りを強く握りしめた。
「行こう」
口に出してから、自分で少し驚いた。
リゼがこちらを見る。
でも止めなかった。
「……うん」
それだけ言って、卓に銅貨を数枚置く。
「情報料」
「律儀だな」
「性分なんだよ」
リゼは短く返し、セシアの肩を軽く押した。
「行くよ。今ならまだ日もある」
店を出ると、外の空気はさっきより少しだけ重く感じた。
同じ町の中なのに、どこへ行くかで空気の質が変わる。
表通りの喧騒も、裏路地の湿気も、そのさらに先にある町の外れも、全部違う顔をしている。
セシアは歩きながら、銀飾りの裏を親指でなぞった。
ルナへ。
その短い言葉の中に、名前がある。
誰かに向けた思いがある。
そして、まだ消えていないものがある。
それを今度こそ“なかったこと”にしたくないと、セシアは思った。
リゼが先を歩く。
その背を追いながら、セシアは小さく息を吸う。
次に向かうのは、たぶんまた嫌な場所だ。
白い匂いがする場所だ。
でも今度は、ただ逃げるためじゃない。
届けられなかったものを、拾いに行くのだ。
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