第10話 町の底
ー/ー翌朝、二人が町の門をくぐったのは、まだ日が高くなりきる前だった。
石造りの低い外壁と、荷馬車が二台並べばいっぱいになる程度の門。
白祈院の白い壁とも、昨日までに通ってきた村の木柵とも違う、無骨で擦れた色合いの壁だった。
門の前にはすでに列ができている。荷を積んだ馬車、背嚢を背負った旅人、籠を抱えた女、眠そうな顔で槍を持つ門番。人の匂い、獣の匂い、湿った石の匂い、朝から焼かれている何かの焦げた匂いが混ざり合っている。
セシアは思わず足を止めかけた。
多い。
昨日の宿場とも、あの小さな村とも比べものにならない。
人がいる。
声がある。
視線が飛び交っている。
リゼが振り返りもせずに言った。
「止まらない」
「……はい」
慌てて後を追う。
門番は二人を横目に見ただけで、特に何も言わなかった。セシアはそれだけで少しだけ息を吐く。追われている身であることを思い出すたび、門や兵士の存在が妙に喉を詰まらせる。
町へ入ると、すぐに音が増えた。
石畳を打つ車輪の音。
朝の仕込みをする店先の金属音。
客を呼ぶ声。
喧嘩のような笑い声。
遠くから聞こえる鐘の音。
白祈院の静けさに慣れた耳には、すべてが一度に押し寄せてくるようだった。
視線があちこちへ引かれる。
焼き立ての平たいパン。
色の濃い果物を積んだ露店。
道の脇で鍋をかき回す女。
荷物を担いで走る少年。
壁際で眠る、家のないらしい男。
町は整っていないのに、ちゃんと動いていた。
誰かが決めた祈りの時間ではなく、誰かが生きるために動いている時間で回っている。
それがセシアには少しだけ眩しかった。
「あんた見すぎ」
リゼの声で我に返る。
「え」
「顔に出る。田舎から出てきましたって」
「……間違ってはいません」
「そういう問題じゃない」
リゼは人の流れを縫うように歩きながら、低く続けた。
「この手の町は、慣れてないやつから狙われる」
「狙われる」
「金、荷物、見た目、全部」
セシアは反射的に祈祷書を抱き直した。
それを見て、リゼが半眼になる。
「そうやって、これが大事ですって抱えるのもやめる」
「でも」
「でもじゃない。大事なもんほど、雑に持つんだよ」
言われてみればその通りなのかもしれない
でも、祈祷書を“雑に持つ”という感覚が、セシアにはまだうまく掴めなかった。
白祈院では、祈祷書は触れる前に手を洗うものだった。
地面に置くなど論外で、持つ時も姿勢まで見られた。
その名残が、まだ指先に残っている。
リゼはそれ以上言わず、路地を一本曲がった。
表通りの喧騒が少しだけ遠ざかる。
石畳はひび割れ、壁には雨染みが走り、建物同士の間隔も急に狭くなる。表の明るさに比べると、空気が少しだけ湿っていた。
「こっちの方が安いし、目立たない」
そう言ってリゼが足を止めたのは、古着を扱っているらしい小さな店の前だった。
扉は半分壊れ、布の切れ端が風に揺れている。店先には洗いきれていない古着が雑に吊るされていて、色も形もばらばらだった
セシアはそれを見上げる。
「ここで……服を?」
「ほら、いくよ」
リゼは迷いなく中へ入っていく。
セシアも後に続くと、店の中には古い布と湿気の匂いがこもっていた。奥の卓で針仕事をしていた女店主が、二人をちらりと見て鼻を鳴らす。
「朝から冷やかしかい」
「違う。着替えたい」
リゼはそう言って、セシアを軽く顎で示した。
女店主の目がセシアの白い衣に止まり、眉が上がる。
「……あんた、それ、神殿の娘かい?」
セシアの肩がわずかに強張る。
だがリゼは先に口を開いた。
「遠縁の葬式帰り。泥だらけで目立つから替えるだけ」
あまりにも自然な嘘だった。
女店主はしばらく二人を見ていたが、やがて面倒くさそうに立ち上がる。
「安いのしかないよ」
「それでいい」
「上等なのは別だ」
「そんなの最初から期待してないよ」
店主は鼻で笑い、奥の棚を指した。
リゼは迷いなく布を漁り始める。セシアはその横で、どうしていいか分からず立ち尽くした。
服は、こんなふうに選ぶものなのか。
棚には、くすんだ茶、灰色、紺、薄い緑。白祈院のような白はほとんどない。布の厚さも、手触りも、長さも全部違う。
リゼが一着を引っ張り出し、セシアの肩に当てる。
「これ」
「……地味ですね」
「目立たない方がいいって言ったよね?」
たしかにその通りだった。
結局、買ったのは灰色がかった長めの上着と、生成りの簡素なワンピース、それから頭を軽く覆える薄布だった。どれも白祈院の衣に比べればずっと質素で、少しだけ頼りない。
だが着替えてみると、自分が自分ではないみたいで、セシアは鏡代わりの鈍い金属板の前でしばらく動けなかった。
白くない。
祈祷衣でもない。
候補生でもない。
当たり前のことなのに、急に足元がぐらつくような感覚がある。
「変?」
思わず聞くと、リゼは短く答えた。
「やっと人になった」
「ひどいです」
「白いままだとかなり浮いてたからね」
それは否定できない。
店を出る頃には、白祈院の衣は布袋の奥に押し込まれていた。もう着ないかもしれない。そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。
嫌な場所だった。
戻りたくもない。
でもあの衣は、そこで過ごした自分の時間そのものでもあった。
切り捨てるには、まだ少しだけ重い。
店を出たところで、リゼが手を差し出した。
「それ」
「え」
「銀のやつ」
昨夜、木箱から見つけた飾りのことだと気づいて、セシアは慌てて袋から取り出す。
リゼはそれを受け取り、陽に透かすように見た。
花の形の小さな銀飾り。裏にはやはり、細い字で「ルナへ」と刻まれている。
「これ、表じゃなくて裏から探した方が早いかも」
「裏?」
「質屋とか、盗品を流す場所とか」
セシアは少しだけ目を見開く。
「そんな場所があるんですか」
「ある。だから町は便利なんだ」
便利、という言い方に少しだけ戸惑う。
でもこの町が生きるために回っている場所だと思えば、不思議ではないのかもしれない。
表で売れないものは、裏で流れる。
正しくないものも、誰かの腹を満たす。
リゼは銀飾りを布に包み直して返した。
「なくすなよ」
「はい」
「あと、それ持ってる時の顔もやめて」
「顔」
「すごく大事ですって顔」
セシアは口を閉じた。
そんなに分かりやすいのだろうか。
でもたぶん、分かりやすいのだろう。
その時だった。
道の向こうから、男たちの笑い声が聞こえた。
何気なく視線を上げた瞬間、セシアの背筋が凍る。
白い上着に、細い銀の縁取り。
神殿付きの巡回兵だ。
白祈院の修女たちとは違うが、同じ側の匂いがする。
門番とは違う、探すための目をした男たち。
セシアは反射的に足を止めた。
呼吸が浅くなる。
その変化に、リゼがすぐ気づいた。
「こっち」
低い声と同時に、腕を引かれる。
ほとんど反射で路地の影へ引き込まれた。壁と樽の隙間、荷布の陰。そこへ身体を押し込まれ、リゼが前に立つ。
男たちの足音が近づいてくる。
笑い声。
革靴の音。
金具の擦れる音。
セシアは息を止めた。
胸の中で心臓が痛いほど鳴っている。
見つかる。
見つかったら終わる。
その時、リゼが何でもない声で言った。
「妹、酔ってるから吐きそうなんだよね。だから今は話しかけないで」
思わずセシアは顔を上げそうになり、慌てて堪えた。
巡回兵の一人が足を止める。
「何だ?」
「見りゃ分かるでしょ。朝から飲ませたらこうなる」
呆れたような口調だった。
男は布陰の奥を少しだけ覗き込んだが、セシアは薄布を深く下ろし、顔を伏せたまま動かない。
数秒がやけに長かった。
やがて男は鼻を鳴らす。
「面倒くさいガキだな」
「ほんとそう」
リゼが即答する。
足音が遠ざかるまで、セシアは一度も顔を上げられなかった。
完全に気配が消えてから、ようやく息を吐く。
膝が少し震えていた。
「……大丈夫?」
リゼの声が少しだけ低くなる。
セシアは頷こうとして、うまくいかなかった。
「たぶん」
「たぶんじゃ困るんだよ」
「……すみません」
「それも」
言いかけて、リゼは途中でやめた。
その代わり、路地の向こうを一度だけ確認してから言う。
「やっぱ探されてる。しかも思ったより広く」
その一言で、背中に冷たいものが走る。
白祈院を出たことは、もうただのひとりの候補生の脱走では済まされていないのかもしれない。
エルナの記録。
自分が見たもの。
そして持ち出した紙片。
どれが原因なのかは分からない。
でも少なくとも、神殿側は動いている。
リゼは腕を組み、少しだけ考えるように黙った
「予定変更」
「え」
「宿より先に、話を聞く場所に行く」
「……話を聞く場所」
「裏の方」
また裏だ。
セシアは少しだけ身構える。
だが今は、怖いからといって立ち止まっている場合ではないことも分かる。
リゼが歩き出す。
「銀飾り、あれを見れば反応するやつがいるかもしれない」
「……盗んだ人、ですか」
「までは分かんない。でも、流れを知ってるやつはいる」
セシアは袋の上から銀飾りを押さえた。
小さく、ひやりとした感触が指先に伝わる。
ルナへ。
たったそれだけの文字が、今は妙に重い。
セドという人が最後まで取り返したかったもの。
それがこの町に繋がっている。
そして今、自分たちもまたこの町の底へ足を踏み入れようとしている。
表通りから外れ、さらに細い路地へ入ると、空気はまた少し変わった。
酒と煙草と湿気の匂い。
窓を閉め切った建物。
昼間なのに薄暗い通り。
誰かに見られているような気配。
セシアは無意識に祈祷書を抱き直しそうになって、途中で止めた。
大事なものほど、雑に持つ。
リゼの言葉を思い出し、腕の力を少しだけ抜く。
その変化にリゼが気づいたのか、前を向いたままほんの少しだけ口元を緩めた気がした。
「少しは学んだじゃん」
「……少しだけです」
「十分」
その短い会話のあと、二人はさらに奥へ進んでいく。
町の底は、まだ口を開けたばかりだった。
石造りの低い外壁と、荷馬車が二台並べばいっぱいになる程度の門。
白祈院の白い壁とも、昨日までに通ってきた村の木柵とも違う、無骨で擦れた色合いの壁だった。
門の前にはすでに列ができている。荷を積んだ馬車、背嚢を背負った旅人、籠を抱えた女、眠そうな顔で槍を持つ門番。人の匂い、獣の匂い、湿った石の匂い、朝から焼かれている何かの焦げた匂いが混ざり合っている。
セシアは思わず足を止めかけた。
多い。
昨日の宿場とも、あの小さな村とも比べものにならない。
人がいる。
声がある。
視線が飛び交っている。
リゼが振り返りもせずに言った。
「止まらない」
「……はい」
慌てて後を追う。
門番は二人を横目に見ただけで、特に何も言わなかった。セシアはそれだけで少しだけ息を吐く。追われている身であることを思い出すたび、門や兵士の存在が妙に喉を詰まらせる。
町へ入ると、すぐに音が増えた。
石畳を打つ車輪の音。
朝の仕込みをする店先の金属音。
客を呼ぶ声。
喧嘩のような笑い声。
遠くから聞こえる鐘の音。
白祈院の静けさに慣れた耳には、すべてが一度に押し寄せてくるようだった。
視線があちこちへ引かれる。
焼き立ての平たいパン。
色の濃い果物を積んだ露店。
道の脇で鍋をかき回す女。
荷物を担いで走る少年。
壁際で眠る、家のないらしい男。
町は整っていないのに、ちゃんと動いていた。
誰かが決めた祈りの時間ではなく、誰かが生きるために動いている時間で回っている。
それがセシアには少しだけ眩しかった。
「あんた見すぎ」
リゼの声で我に返る。
「え」
「顔に出る。田舎から出てきましたって」
「……間違ってはいません」
「そういう問題じゃない」
リゼは人の流れを縫うように歩きながら、低く続けた。
「この手の町は、慣れてないやつから狙われる」
「狙われる」
「金、荷物、見た目、全部」
セシアは反射的に祈祷書を抱き直した。
それを見て、リゼが半眼になる。
「そうやって、これが大事ですって抱えるのもやめる」
「でも」
「でもじゃない。大事なもんほど、雑に持つんだよ」
言われてみればその通りなのかもしれない
でも、祈祷書を“雑に持つ”という感覚が、セシアにはまだうまく掴めなかった。
白祈院では、祈祷書は触れる前に手を洗うものだった。
地面に置くなど論外で、持つ時も姿勢まで見られた。
その名残が、まだ指先に残っている。
リゼはそれ以上言わず、路地を一本曲がった。
表通りの喧騒が少しだけ遠ざかる。
石畳はひび割れ、壁には雨染みが走り、建物同士の間隔も急に狭くなる。表の明るさに比べると、空気が少しだけ湿っていた。
「こっちの方が安いし、目立たない」
そう言ってリゼが足を止めたのは、古着を扱っているらしい小さな店の前だった。
扉は半分壊れ、布の切れ端が風に揺れている。店先には洗いきれていない古着が雑に吊るされていて、色も形もばらばらだった
セシアはそれを見上げる。
「ここで……服を?」
「ほら、いくよ」
リゼは迷いなく中へ入っていく。
セシアも後に続くと、店の中には古い布と湿気の匂いがこもっていた。奥の卓で針仕事をしていた女店主が、二人をちらりと見て鼻を鳴らす。
「朝から冷やかしかい」
「違う。着替えたい」
リゼはそう言って、セシアを軽く顎で示した。
女店主の目がセシアの白い衣に止まり、眉が上がる。
「……あんた、それ、神殿の娘かい?」
セシアの肩がわずかに強張る。
だがリゼは先に口を開いた。
「遠縁の葬式帰り。泥だらけで目立つから替えるだけ」
あまりにも自然な嘘だった。
女店主はしばらく二人を見ていたが、やがて面倒くさそうに立ち上がる。
「安いのしかないよ」
「それでいい」
「上等なのは別だ」
「そんなの最初から期待してないよ」
店主は鼻で笑い、奥の棚を指した。
リゼは迷いなく布を漁り始める。セシアはその横で、どうしていいか分からず立ち尽くした。
服は、こんなふうに選ぶものなのか。
棚には、くすんだ茶、灰色、紺、薄い緑。白祈院のような白はほとんどない。布の厚さも、手触りも、長さも全部違う。
リゼが一着を引っ張り出し、セシアの肩に当てる。
「これ」
「……地味ですね」
「目立たない方がいいって言ったよね?」
たしかにその通りだった。
結局、買ったのは灰色がかった長めの上着と、生成りの簡素なワンピース、それから頭を軽く覆える薄布だった。どれも白祈院の衣に比べればずっと質素で、少しだけ頼りない。
だが着替えてみると、自分が自分ではないみたいで、セシアは鏡代わりの鈍い金属板の前でしばらく動けなかった。
白くない。
祈祷衣でもない。
候補生でもない。
当たり前のことなのに、急に足元がぐらつくような感覚がある。
「変?」
思わず聞くと、リゼは短く答えた。
「やっと人になった」
「ひどいです」
「白いままだとかなり浮いてたからね」
それは否定できない。
店を出る頃には、白祈院の衣は布袋の奥に押し込まれていた。もう着ないかもしれない。そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。
嫌な場所だった。
戻りたくもない。
でもあの衣は、そこで過ごした自分の時間そのものでもあった。
切り捨てるには、まだ少しだけ重い。
店を出たところで、リゼが手を差し出した。
「それ」
「え」
「銀のやつ」
昨夜、木箱から見つけた飾りのことだと気づいて、セシアは慌てて袋から取り出す。
リゼはそれを受け取り、陽に透かすように見た。
花の形の小さな銀飾り。裏にはやはり、細い字で「ルナへ」と刻まれている。
「これ、表じゃなくて裏から探した方が早いかも」
「裏?」
「質屋とか、盗品を流す場所とか」
セシアは少しだけ目を見開く。
「そんな場所があるんですか」
「ある。だから町は便利なんだ」
便利、という言い方に少しだけ戸惑う。
でもこの町が生きるために回っている場所だと思えば、不思議ではないのかもしれない。
表で売れないものは、裏で流れる。
正しくないものも、誰かの腹を満たす。
リゼは銀飾りを布に包み直して返した。
「なくすなよ」
「はい」
「あと、それ持ってる時の顔もやめて」
「顔」
「すごく大事ですって顔」
セシアは口を閉じた。
そんなに分かりやすいのだろうか。
でもたぶん、分かりやすいのだろう。
その時だった。
道の向こうから、男たちの笑い声が聞こえた。
何気なく視線を上げた瞬間、セシアの背筋が凍る。
白い上着に、細い銀の縁取り。
神殿付きの巡回兵だ。
白祈院の修女たちとは違うが、同じ側の匂いがする。
門番とは違う、探すための目をした男たち。
セシアは反射的に足を止めた。
呼吸が浅くなる。
その変化に、リゼがすぐ気づいた。
「こっち」
低い声と同時に、腕を引かれる。
ほとんど反射で路地の影へ引き込まれた。壁と樽の隙間、荷布の陰。そこへ身体を押し込まれ、リゼが前に立つ。
男たちの足音が近づいてくる。
笑い声。
革靴の音。
金具の擦れる音。
セシアは息を止めた。
胸の中で心臓が痛いほど鳴っている。
見つかる。
見つかったら終わる。
その時、リゼが何でもない声で言った。
「妹、酔ってるから吐きそうなんだよね。だから今は話しかけないで」
思わずセシアは顔を上げそうになり、慌てて堪えた。
巡回兵の一人が足を止める。
「何だ?」
「見りゃ分かるでしょ。朝から飲ませたらこうなる」
呆れたような口調だった。
男は布陰の奥を少しだけ覗き込んだが、セシアは薄布を深く下ろし、顔を伏せたまま動かない。
数秒がやけに長かった。
やがて男は鼻を鳴らす。
「面倒くさいガキだな」
「ほんとそう」
リゼが即答する。
足音が遠ざかるまで、セシアは一度も顔を上げられなかった。
完全に気配が消えてから、ようやく息を吐く。
膝が少し震えていた。
「……大丈夫?」
リゼの声が少しだけ低くなる。
セシアは頷こうとして、うまくいかなかった。
「たぶん」
「たぶんじゃ困るんだよ」
「……すみません」
「それも」
言いかけて、リゼは途中でやめた。
その代わり、路地の向こうを一度だけ確認してから言う。
「やっぱ探されてる。しかも思ったより広く」
その一言で、背中に冷たいものが走る。
白祈院を出たことは、もうただのひとりの候補生の脱走では済まされていないのかもしれない。
エルナの記録。
自分が見たもの。
そして持ち出した紙片。
どれが原因なのかは分からない。
でも少なくとも、神殿側は動いている。
リゼは腕を組み、少しだけ考えるように黙った
「予定変更」
「え」
「宿より先に、話を聞く場所に行く」
「……話を聞く場所」
「裏の方」
また裏だ。
セシアは少しだけ身構える。
だが今は、怖いからといって立ち止まっている場合ではないことも分かる。
リゼが歩き出す。
「銀飾り、あれを見れば反応するやつがいるかもしれない」
「……盗んだ人、ですか」
「までは分かんない。でも、流れを知ってるやつはいる」
セシアは袋の上から銀飾りを押さえた。
小さく、ひやりとした感触が指先に伝わる。
ルナへ。
たったそれだけの文字が、今は妙に重い。
セドという人が最後まで取り返したかったもの。
それがこの町に繋がっている。
そして今、自分たちもまたこの町の底へ足を踏み入れようとしている。
表通りから外れ、さらに細い路地へ入ると、空気はまた少し変わった。
酒と煙草と湿気の匂い。
窓を閉め切った建物。
昼間なのに薄暗い通り。
誰かに見られているような気配。
セシアは無意識に祈祷書を抱き直しそうになって、途中で止めた。
大事なものほど、雑に持つ。
リゼの言葉を思い出し、腕の力を少しだけ抜く。
その変化にリゼが気づいたのか、前を向いたままほんの少しだけ口元を緩めた気がした。
「少しは学んだじゃん」
「……少しだけです」
「十分」
その短い会話のあと、二人はさらに奥へ進んでいく。
町の底は、まだ口を開けたばかりだった。
みんなのリアクション
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