第9話 拾う者
ー/ー日が傾ききる前に、二人は街道から少し外れた林の縁で足を止めた。
大きな街道筋をそのまま進めば、次の町へ出るのは早い。
けれどリゼは、途中から何度も道を外して細い脇道へ入り、また戻り、時にはわざと人の多い場所を避けるように歩いた。
追手を撒いているのだと、今のセシアにも分かる。
白祈院を出たばかりの頃は、ただ前へ進くことしか頭になかった。
でも今は少しだけ、自分がどう見つかるのか、どう追われるのかを考える余裕が出てきていた。
それはたぶん、隣にリゼがいるからだ。
木の根が露出した斜面を避けながら歩き、ようやく腰を下ろせそうな平らな場所を見つけると、リゼはそこで小さく息を吐いた。
「今日はこの辺まで」
短く言って、近くの倒木へ腰を下ろす。
セシアも少し遅れて、その向かいの石へ腰を下ろした。
膝に置いた祈祷書の重さが、今は少しだけ落ち着く。
白祈院を出てから、祈祷書はもう“祈りのための本”というより、持ち出してしまったもの、残してしまったもの、そして繋がっているものの象徴みたいになっていた。
中にはエルナの紙片がある。
そのことを思うたび、胸の奥でまだ細い熱が残る。
林の隙間から差す夕方の光は、白祈院の窓から見るものよりずっと低かった。
木々に引き裂かれて、斑に地面へ落ちる光。
湿った土の匂い。
名も知らない虫の羽音。
何もかもが知らないものだった。
それなのに、今は白祈院の中にいる時よりも、少しだけ息がしやすい。
リゼが腰の小袋を探り、硬いパンを半分に折ってひとつ寄越した。
「食べる?」
「……ありがとうございます」
「まだ敬語」
「あ」
「まあ、いいけど」
そう言いながら、自分ももう半分にかじりつく。
パンは昨日のものなのか、かなり固かった。セシアは両手で持って小さくかじる。白祈院なら、こういう食べ方は行儀が悪いと注意されたかもしれない。でも今は誰も何も言わないし、リゼも気にしていないようだった。
大きな街道筋をそのまま進めば、次の町へ出るのは早い。
けれどリゼは、途中から何度も道を外して細い脇道へ入り、また戻り、時にはわざと人の多い場所を避けるように歩いた。
追手を撒いているのだと、今のセシアにも分かる。
白祈院を出たばかりの頃は、ただ前へ進くことしか頭になかった。
でも今は少しだけ、自分がどう見つかるのか、どう追われるのかを考える余裕が出てきていた。
それはたぶん、隣にリゼがいるからだ。
木の根が露出した斜面を避けながら歩き、ようやく腰を下ろせそうな平らな場所を見つけると、リゼはそこで小さく息を吐いた。
「今日はこの辺まで」
短く言って、近くの倒木へ腰を下ろす。
セシアも少し遅れて、その向かいの石へ腰を下ろした。
膝に置いた祈祷書の重さが、今は少しだけ落ち着く。
白祈院を出てから、祈祷書はもう“祈りのための本”というより、持ち出してしまったもの、残してしまったもの、そして繋がっているものの象徴みたいになっていた。
中にはエルナの紙片がある。
そのことを思うたび、胸の奥でまだ細い熱が残る。
林の隙間から差す夕方の光は、白祈院の窓から見るものよりずっと低かった。
木々に引き裂かれて、斑に地面へ落ちる光。
湿った土の匂い。
名も知らない虫の羽音。
何もかもが知らないものだった。
それなのに、今は白祈院の中にいる時よりも、少しだけ息がしやすい。
リゼが腰の小袋を探り、硬いパンを半分に折ってひとつ寄越した。
「食べる?」
「……ありがとうございます」
「まだ敬語」
「あ」
「まあ、いいけど」
そう言いながら、自分ももう半分にかじりつく。
パンは昨日のものなのか、かなり固かった。セシアは両手で持って小さくかじる。白祈院なら、こういう食べ方は行儀が悪いと注意されたかもしれない。でも今は誰も何も言わないし、リゼも気にしていないようだった。

ただ食べる。
腹が減っているから。
それだけのことが、まだ少し不思議だった。
「変な食べ方」
案の定、リゼは言った。
セシアはパンをかじったまま、少しだけ視線を上げる。
「まだ慣れなくて」
「白祈院の食事ってそんなに上等だった?」
「上等、というより……いつも同じでした」
「同じ?」
「はい。量も、時間も、食べる順番も」
リゼが眉を上げる。
「順番まで?」
「汁物から、とか、パンは最後に、とか……食べ終える速さも、あまり遅すぎても早すぎてもいけませんでした」
言ってから、自分で少しだけおかしくなる。
外に出て初めて、あの細かな決まりの多さが変なのだと分かる。
でも、白祈院にいる間はそれが普通だった。
普通だから、皆守る。
守れないものから目立つ。
目立てば見られる。
見られれば、弾かれる。
そういう場所だった。
「……息詰まりそう」
リゼがパンを噛みながら言う。
「はい」
セシアは小さく頷いた。
「でも、それしか知らなかったので」
「それもだいぶ不便だね」
そう言われると、たしかにそうだった。
食べ方も。
歩き方も。
お金のことも。
道を選ぶことも。
全部、自分では知らなかった。
白祈院の中では、生かされていた。
けれどそこには、見えない線がいくつも引かれていて、その線の内側にいる限りしか生きられないようにもなっていた。
パンを食べ終えた頃、リゼがふと言った。
「明日には町に入るよ」
セシアは顔を上げた。
「昨日の宿場より大きいとこですか」
「うん。中継の町。荷も人も集まるし、裏も表もある」
「裏と表」
「表通りだけじゃ回らないってこと」
リゼは倒木に片肘をついた。
「昨日の村みたいなとこばっかりじゃ、情報も金も手に入らない。でかいとこ行くなら、それなりの準備がいる」
「……わたし、何をしたら」
「まず白い服で歩かない」
即答だった。
セシアは思わず自分の衣を見る。
白祈院の候補生の衣。すでに裾は土で汚れ、裂けてもいるが、それでもまだ十分に白祈院の側の人間に見えるのだろう。
「替えが必要、ってことですか」
「必要。目立つし、探されてるなら余計に」
それは分かる。
でも、服を替えるということが、セシアには少しだけ現実味の薄い話だった。服は支給されるものだったから、自分で選ぶものではなかった。
その戸惑いが顔に出ていたのか、リゼが言う。
「そんな大げさな話じゃない。適当な古着を買うか、盗るか、どっちか」
「盗るのは、だめです」
反射でそう言ってしまう。
リゼがじろりと見る。
「へえ。そこは言うんだ」
セシアは少しだけ気まずくなる。
「……よくないことです」
「そりゃそう。でも、そうしなきゃ死ぬなら?」
返事に詰まる。
白祈院の中なら答えは簡単だった。
盗みは罪。
正しくないことはしてはいけない。
でも外では、それだけでは済まない。
水がなければ死ぬ。
食べなければ死ぬ。
追われれば捕まる。
そして、見つかれば何もなかったことにされるかもしれない。
生きることと、正しさが、同じ場所に立っていない。
その当たり前が、今さらみたいに重くのしかかる。
セシアが答えられないままでいると、リゼは小さく鼻を鳴らした。
「まあ、あんたに今すぐやれって言ってるわけじゃない」
「……はい」
「ただ、考え方は変えた方がいい。神殿の中の正しいは、外じゃそのまま使えない」
白祈院の中の正しさ。
祈り。沈黙。整った言葉。従うこと。
そのいくつかが、外に出た瞬間、急に頼りなくなった気がする。
エルナの死も、マリナの死も、あの正しいの外側で起きていた。
正しい言葉は、彼女たちを救わなかった。
そのことを思うと、喉の奥に少し苦いものが残る。
リゼはそれ以上その話を引っぱらず、腰の小袋を探っていた。
細い紐、小さな刃物、布切れ、火打ち石。何に使うのか分からないものがいくつも出てくる。
「何でも入ってるんですね」
「何でもはないよ」
「でも、いろいろ」
「必要なものだけ」
その言い方が少しだけ格好良く聞こえて、セシアは口を閉じた。
必要なものだけを持つ。
白祈院では、必要なものは与えられ、不要なものは持たせてもらえなかった。
でもリゼは、自分で選んでいる。
同じ必要なものでも、意味がまるで違うのだと分かる。
ふと、胸の奥に薄いざわめきが走った。
セシアは顔を上げる。
「……どうしたの」
リゼがすぐに気づく。
「分かりません」
言いながら立ち上がる。
心臓が少しだけ速くなる。
死者の声が近い時の感覚。
でも、いつもほどはっきりしていない。
音ではない。
寒さでもない。
もっと曖昧で、胸の奥に何か引っかかるだけの感覚だった。
セシアは林の奥を見る。
夕方の光が木々の間を細く通り、地面に影を落としている。そこには何もないように見えた。けれど、ほんの少しだけ地面がめくれている場所がある。
人の手で掘り返したような、浅い跡。
セシアは無意識にそちらへ足を向けていた。
「おい」
リゼの声。
「ひとりで行かない」
「……はい」
追いついてきたリゼと並んで、林の奥へ入る。
湿った土の匂いが濃くなる。鳥の声が遠ざかり、葉擦れの音だけが残る。浅い窪みのそばまで来ると、セシアの胸の奥に、ようやく言葉にならない感覚が落ちてきた。
悲鳴ではない。
願いでもない。
ただ、ひどく強い“執着”の残りのようなもの。
視線を巡らせる。
窪みの脇、土の中から半分だけ覗いた金具が見えた。
リゼの目が細くなる。
「掘る?」
問いかけというより確認に近い声。
セシアは少し躊躇った。
でも、胸の奥のざわめきはそこから離れない。
「……ここだと思います」
リゼは短く頷き、小さな刃物で土を掻き始めた。セシアも手を使って手伝う。土はまだ固くなりきっておらず、最近埋められたものだとすぐに分かった。
やがて出てきたのは、小さな木箱だった。
両手で抱えられるほどの大きさ。金具は錆びているが、箱そのものはそこまで古くない。
リゼが蓋をこじ開ける。
中に入っていたのは、布に包まれた小さな包みと、革の袋、それから木札が一枚。
セシアは木札へ目を向けた。
そこには名前が刻まれていた。
セド
知らない名前だ。
でも、その瞬間。
『……返せ』
声が落ちてきた。
若い男の声だった。
荒く、怒りとも執着ともつかない強い感情が混じっている。
セシアは目を閉じる。
断片がよぎる。
夜。
数人分の足音。
奪い合い。
袋を抱える腕。
土の匂い。
殴られる衝撃
息を吐いて目を開けると、リゼがこちらを見ていた。
「何が聞こえた」
もう聞き方が変わっている。
“本当に聞こえるのか”ではなく、“何が聞こえたのか”。
それだけで、少しだけ足元が強くなる気がした。
「……返せ、って」
「何を」
「これかもしれません」
セシアは木箱の中の布包みを見る。
リゼがそれを開いた。
中にあったのは、小さな銀の飾りだった。安物ではないが、ひどく高価にも見えない。花の形をしていて、裏には細い文字が刻まれている。
ルナへ
セシアはその文字を見つめた。
贈り物。
あるいは形見。
セドという人が最後まで取り返そうとしていたものなのだろうか。
「恋人か何か?」
リゼが言う。
「分かりません。でも……」
胸の奥にまだ、執着の残滓がある。
怒りだけではない。
奪われたままにしたくないという、ひどく個人的で小さな思い。
それが妙に切実だった。
リゼは革袋の中も確認した。銅貨が少しと、擦れた紙片。それから街道の先にある町の名前が乱雑に書かれた走り書き。
リゼがその紙を掲げる。
「たぶん、これだね」
そこに書かれていた町名は、明日向かう予定の町と同じだった。
セシアは息を呑む。
「この人、あの町に行くつもりだったんですね」
「そういうこと。で、行けなかった」
リゼが木箱の中身を見回す。
「誰かに奪われて、ここに埋められた」
それはつまり、ただの旅人の荷物じゃない。
誰かにとって“隠したいもの”だった可能性が高い。
そして死者の声は、それを返せと言っている。
セシアは木札の名前をもう一度見た。
セド。
その人が何者なのかは分からない。
でも少なくとも、最後まで守ろうとしたものがここにある。
それを、見つけてしまった。
リゼが木箱を閉じる。
「持ってく」
「え」
「返せって言ってるなら、行き先は決まってる」
あまりに迷いのない言い方だった。
セシアは少しだけ驚いて、リゼを見る。
「信じるんですか」
「全部は信じてない」
即答だった。
「でも、あんたが聞いたって言うものは、だいたい現実と繋がってる」
それは信じているのと、たぶんあまり変わらない。
セシアは言葉にできず、ただ小さく頷いた。
リゼは木箱の中身を整理し、布包みと木札、紙片だけを持つことにしたらしい。箱そのものは掘り返した跡の脇に残した。
「全部持つと目立つ」
「……はい」
「で、この町」
紙片を指で叩く。
「明日の目的地だったけど、もっとちゃんと理由ができた」
セシアは銀の飾りを見た。
ルナへ
たった三文字のその名前が、妙に胸に残る。
恋人か、妹か、娘か。
分からない。
でも、誰かに届けようとしていたのだろう。
最後まで、手放したくなかったのだろう。
「この人も……」
セシアは小さく呟く。
「聞いてほしかったんでしょうか」
「どうだろ」
リゼは立ち上がった。
「でも、返したかったのは本当っぽい」
それで十分かもしれない、とセシアは思う。
聞いてほしい、だけじゃない。
返したい。
届けたい。
違うと知ってほしい。
死者の声に残るものは、悲しみだけじゃないのだと、少しずつ分かってくる。
それはきっと、怖いことでもある。
でも同時に、この力が死に近いだけのものではないと教えてくれていた。
リゼが歩き出す。
「暗くなる前に出る」
「はい」
「あと」
振り向かずに言う。
「次から何か来たら、もうちょい早く言って」
「すみません」
「それも」
少し間があいてから、リゼが続けた。
「慣れて」
セシアは小さく息を呑んだ。
慣れて。
死者の声に。
それを伝えることに。
そして、こうして二人で動くことにも。
「……はい」
今度は少しだけ、ちゃんと答えられた気がした。
林を出る頃には、夕方の光はかなり傾いていた。
木々の影が長くなり、空は薄い金色から少しずつ青へ戻り始めている。
セシアは祈祷書を抱え直した。
その重さは相変わらずある。
けれど今は、その中にあるエルナの紙片と同じくらい、さっき見つけた銀の飾りもまた、自分たちを先へ進ませるもののように思えた。
拾ってしまった。
聞いてしまった。
だから、行くしかない。
その感覚は、少しだけはっきりしてきていた。
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