第8話 神に選ばれなかった聖女
ー/ー村を離れてから、二人はしばらく無言で歩いた。
風が草を揺らす音だけが、妙に耳に残る。さっきまで村の中にあった重たい空気は少しずつ遠ざかっているはずなのに、セシアの胸の奥にはまだ、あの墓の前で聞こえた声の余韻が残っていた。
――違うって、言って。
マリナの声はもう聞こえない。
でも、消えたというより、届いたから静かになったような気がした。
それが少しだけ救いで、少しだけ怖かった。
こんなふうに声が消えていくのなら、自分はこれから先、何人分の最期を聞くことになるのだろう。
その重さを考えかけて、セシアはやめた。
今はまだ、そこまで考えられない。
前を歩いていたリゼが、ようやく口を開いた。
「……あれ、いつもなの?」
セシアは少しだけ考える。
「いつも、というほどでは……」
「でも前にもあった」
「はい」
「何回くらい?」
何回、と聞かれると困る。
白祈院の中で、死者の声は何度も聞いた。
も全部が全部、はっきり届くわけではなかった。最後に残った断片だけが落ちてくることもあれば、ただ寒さや痛みだけが流れ込んでくることもある。
「……分かりません」
そう答えると、リゼは呆れたように肩を落とした。
「分からないってのは便利な言葉だね」
「すみません」
「だから謝らなくていいって」
その声には、前より少しだけ刺が少なかった。
道はゆるやかに森沿いへ続いていた。昼の光はまだ高いが、影が伸び始めるには少し早い。どこかで休むなら、日が傾く前に場所を決めた方がいいのだろうと、セシアにも何となく分かるようになってきていた。
しばらくして、リゼが林の脇へ外れる。
「少し休もうか」
そう言って、大きめの石のそばへ腰を下ろした。
セシアも少し遅れて、その近くの草地へ座る
歩き続けていたせいで、足の裏がじんじんと熱を持っていた。白祈院では長く歩くこと自体あまりなかった。掃除や洗濯、祈祷の立ち仕事はあっても、こうして荷物もなくひたすら歩き続けることはない。
それを口にすると、リゼが変な顔をした。
「こんなに歩いたことないの?」
「……あまり」
「ほんとに箱入りだね」
箱入り、という言葉の意味を考えて、セシアは少しだけ苦笑した。
箱。
たしかにそうかもしれない。
白祈院は広かった。
でもその広さは、外の世界と繋がっていなかった。どれだけ廊下が長くても、どれだけ庭が整えられていても、その外へは出られない。
白い箱の中で育てられていたのだと、今なら分かる。
「……変ですか」
「だいぶ」
リゼは即答した。
「でも、変なのは今さらか」
それにセシアは返せなかった。
風が吹き、林の葉が揺れる。
少しだけ静かな時間が流れた。
リゼは腰の小袋から干し肉を取り出し、ひとつセシアへ投げた。
反射的に受け取る。
「食べる?」
「……いいんですか」
「さっきも言ったけど、今日中に死なれると困る」
やっぱりその言い方なのだな、とセシアは思う。
でも、それで十分だった。
干し肉は固くて塩気が強かった。白祈院で出るものとはまるで違う。噛むたびに少しずつ旨味が出る。慣れていないせいでうまく噛み切れず、少しだけ時間がかかる。
その様子を見ていたリゼが、眉をひそめた。
「……何その食べ方」
「え」
「初めて?」
「干したお肉は、たぶん」
リゼは目を細めたあと、諦めたように空を見上げた。
「ほんと、どうやって今まで生きてきたの」
その問いに、セシアは少しだけ考えてから答えた。
「生かされてきた、の方が近いかもしれません」
リゼが顔を向ける。
その視線に気づいて、セシアは少しだけ言葉を続けた。
「食事も、服も、寝る場所も、全部決められていました。必要なものは与えられていたので……自分で選ぶことが、あまりなかったんです」
「神殿ってそんな感じなんだ」
「たぶん白祈院は、特に」
そう言ってから、少しだけ間が空いた。
リゼは続きを促さない。
でも、今は自分から話してもいい気がした。
さっきの村で、自分は死者の声を聞くと口にした。
それでもリゼは、完全には離れなかった。
なら、もう少しだけ話してもいいのかもしれない。
「……候補生、だったんです」
「何の」
「聖女の」
風が止まったように感じた。
リゼはすぐには何も言わなかった。
それがかえって、セシアには話しやすかった。
「白祈院には、そういう子たちが集められていました。神に近いとか、祈りが深いとか、加護に触れやすいとか……そういう理由で」
「ふうん」
「でも、わたしは違いました」
祈祷書を抱える腕に、少しだけ力が入る。
「ずっと、足りない方だったんです」
リゼの目は静かだった。
「祈りが浅いとか、乱れやすいとか、向いていないとか……直接言われることはなくても、分かります」
誰が前に呼ばれるか。
誰が修女に長く見られるか。
誰が別の部屋へ呼ばれるか。
白祈院では、選ばれる側と、そうでない側が静かに分けられていた。
「名前を呼ばれる子がいました」
セシアは自分でも驚くほど、穏やかな声で続けていた。
「特別な祈祷に進む子とか、上の方に見られる子とか。わたしは、そういうのに一度も入らなかった」
「それで?」
リゼが短く聞く。
「それで……たぶん、選ばれなかったんだと思います」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥に妙な感覚が広がった。
悔しいのか。
寂しいのか。
あるいは、今さらそんなことを認めること自体が少し苦しいのか。
セシアにも、よく分からなかった。
「聖女になりたかったの?」
リゼの問いは、ひどくまっすぐだった。
セシアはすぐには答えられない。
なりたかった、という言い方は少し違う気がした。
「……そうなれれば、意味があると思ってました」
「意味?」
「はい」
白祈院で過ごす日々は、祈りと沈黙と選別でできていた。
それに耐える意味があるのだとしたら、“選ばれる”ことしかなかった。
苦しくても。
寒くても。
誰かが消えても。
それでも最後に何かになれるなら、自分がここにいる意味になる。
そう思わないと、あの場所で息をするのは難しかった。
「でも、結局わたしにはそれがなくて」
セシアは少しだけ笑おうとして、うまくいかなかった。
「代わりに残ったのが、これです」
死者の声。
口に出さなくても、リゼには伝わったらしい。
「それは皮肉だね」
あっさりした言い方だった。
でも、その一言はひどく的確だった。
神に選ばれなかった少女に残ったのが、神の声でも祝福でもなく、死者の声だけ。
たしかに、皮肉だった。
セシアは少しだけ俯いた。
「変ですよね」
「そうでもない」
意外な返答に、セシアは顔を上げた。
リゼは干し肉の残りを噛みながら、何でもないことみたいに言う。
「選ばれたから正しい、ってわけでもないでしょ」
その言葉は、セシアの中に静かに落ちた。
白祈院の中では、そんなふうに考えたことがなかった。
選ばれることは、良いことだった。
選ばれないことは、足りないことだった。
それ以外の見方があるなんて、思いもしなかった。
「……でも、わたしには何もなかったです」
「今も?」
セシアは言葉に詰まる。
今、自分の手元にあるもの。
祈祷書。
エルナの紙片。
死者の声。
どれも、白祈院にいた頃にはまともなものとは思えなかった。
けれど。
マリナの声は届いた。
ラジルの最期の渇きも、自分は聞いた。
エルナの恐怖も、置いてこなかった。
それを“何もない”と言ってしまっていいのか、少しだけ分からなくなる。
リゼはそんなセシアを見て、少しだけ目を細めた。
「少なくとも、さっきの村じゃ役に立ってた」
その一言に、セシアは返事ができなかった。
胸の奥が、少しだけ熱くなる。
役に立つ。
白祈院でずっと欲しかった言葉だった気がする。
選ばれる側ではなかった。
祈りも足りなかった。
でも、今の自分にしかできなかったことがあった。
その事実は、思っていたよりずっと大きかった。
セシアは祈祷書を見下ろした。
「……聞こえるのが、嫌じゃないわけじゃないです」
「だろうね」
「怖いです。たまに、苦しいです。見たくないものもあります」
「うん」
「でも」
そこで少しだけ息を吸う。
「聞こえたのに、なかったことにする方が、もっと嫌です」
風が吹いた。
リゼは何も言わなかった。
でも、その沈黙は不思議と冷たくなかった。
少ししてから、リゼが立ち上がる。
「行こ」
「……はい」
「日が落ちる前に、寝られそうな場所探す」
セシアも立ち上がった。
足はまだ少し痛い。けれど、さっきまでよりは軽い気がした。
歩き出してしばらくしてから、リゼがふいに言う。
「ねえ、セシア」
「はい」
「たぶんあんた、聖女には向いてなかったと思う」
あまりにも率直で、セシアは思わず足を止めかけた。
「……ひどいです」
「ほんとのことでしょ」
「そうかもしれませんけど」
「でも」
リゼは前を向いたまま続ける。
「そういうの拾うのは、たぶん向いてる」
セシアは少しだけ目を見開いた。
そういうの。
死者の声。
誰にも聞かれなかったもの。
なかったことにされるはずだったもの。
それを拾うこと。
そんなふうに言われたのは初めてだった。
それは神聖でも、綺麗でも、白くもない。
でも確かに、自分にしかできないことのように思えた。
セシアは小さく息を吐く。
「……変な慰め方です」
「慰めてない」
「じゃあ何ですか」
「事実」
リゼは短く言って、それ以上は何も足さなかった。
でも、そのぶっきらぼうさが今は少しだけ心地よかった。
林を抜ける風が、朝よりも柔らかくなっている。
空はまだ明るい。
道は先へ続いている。
どこへ向かうのかは、まだはっきり決まっていない。
何を知ることになるのかも、まだ分からない。
それでも、セシアは今、自分がただ“足りなかった側”として終わる物語の中にはいないのだと、ほんの少しだけ思えた。
神に選ばれなかった。
それはたぶん、事実だ。
けれどその代わりに、自分のところへ落ちてくる声がある。
誰にも拾われなかったものを、聞いてしまう耳がある。
それが呪いなのか、役目なのかは、まだ分からない。
でも、たとえどちらでも。
もう、それをなかったことにはしたくなかった。

みんなのリアクション
まだリアクションはありません。最初の一歩を踏み出しましょう!
おすすめ作品を読み込み中です…
作者の他の作品
この作者の他作品はありません。
この作品と似た作品
似た傾向の作品は見つかりませんでした。
この作品を読んだ人が読んでいる作品
読者の傾向からおすすめできる作品がありませんでした。
おすすめ作品は現在準備中です。
おすすめ作品の取得に失敗しました。時間をおいて再度お試しください。