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第7話 残された声

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宿場を離れてから、二人のあいだにはしばらく会話がなかった。

街道をそのまま進めば早いのだろうが、リゼは途中で道を外れ、林沿いの細い獣道のような道へ入った。踏み固められた街道に比べれば歩きにくい。けれど人目は少なく、馬も通りづらい。追手を避けるにはその方がいいのだろうと、セシアにも分かった。

朝の光はすでに高くなっている。
白祈院を出てからまだ半日も経っていないはずなのに、ひどく長い一日だった。

セシアは祈祷書を抱え直し、前を歩くリゼの背を見つめた。

歩き方に迷いがない。
どこへ足を置けば滑らないか、どの枝を避ければ服を引っかけずに済むか、考えなくても分かっているような歩き方だった。

女がひとりで歩いている。でも自分とはまるで違う。

セシアがいかに何も知らずに白祈院を出てきたかを、歩くたびに思い知らされる。

前を歩いていたリゼが、振り返らないまま言った。

「疲れた?」

「……少し」

「正直でよろしい」

声は素っ気ない。
でも足は少しだけ緩んだ。

それに気づいて、セシアは胸の奥がほんの少しだけ温かくなるのを感じた。
ありがたい、と思うのに、その言葉をそのまま口にするのはまだ少し照れくさい。

林を抜けると、視界が開けた。

小さな畑と、低い石垣と、その向こうに煙の上がる屋根がいくつか見える。村だ。宿場よりさらに小さい。街道から少し外れた場所にある、通り過ぎる者がほとんど立ち寄らないような村に見えた。

「ここ、通るの?」

セシアが聞くと、リゼは短く答えた。

「水だけ。あと様子見」

「様子見?」

「村ってのは、近づいた時の空気でだいたい分かるから」

「……何がですか」

「面倒そうかどうか」

あまりにも率直で、セシアは何も言えなかった。

けれど村が近づくにつれて、その言葉の意味が少しだけ分かる気がした。

妙に静かだった。

人の気配はある。
煙も立っているし、畑には鍬が立てかけられている。洗濯物も揺れていた。なのに、生活の音が少ない。子どもの声も、家畜の鳴き声も、ほとんど聞こえない。

それがどこか、息を潜めているように感じられた。

セシアの足が、わずかに止まる。

その瞬間。

『……ちがう』

胸の奥に、声が落ちた。

セシアの喉がひゅっと鳴る。

知らない声だった。
若い女の声。
細く、かすれていて、それでも妙に耳に残る声。

『……ちがう』

リゼが振り返る。

「何」

「……いえ」

反射でそう返してしまう。
でももう、耳の奥がざわつき始めていた。

この感じを知っている。

死者の声が近い時の感覚だ。

セシアは村を見た。
低い屋根。
石垣。
閉まった戸口。
何もおかしなものは見えない。なのに、空気だけがどこか沈んでいる。

「どうしたの」

今度は少しだけ真面目な声で、リゼが聞いた

セシアは迷った。

言えば、また変な顔をされるかもしれない。
でも、ここまで来て黙っていても仕方がない。

「……声がします」

リゼの眉がわずかに動く。

「誰の」

「たぶん、死んだ人の」

短い沈黙。

リゼは空を見上げるでもなく、ため息を吐くでもなく、ただ一度だけ目を細めた。

「どこから?」

セシアは少しだけ驚いて顔を上げた。

否定されると思っていた。
なのにリゼは、信じるでもなく笑うでもなく、先に“どこから”と聞いた。

それだけで、少しだけ呼吸がしやすくなる。

「……まだ、はっきりしません」

「じゃあ慎重に行こう」

それだけ言って、リゼはまた歩き出した。

村の入口には、低い木の柵と、申し訳程度の門があった。門といってもただの横木に近い。そこをくぐると、土の道が数軒の家のあいだを縫うように伸びている。

近づいてみると、やはり人はいる。

井戸の近くで水を汲む老婆。
干した草を束ねる男。
家の戸口からこちらを見る若い母親。

でも皆、どこか視線が落ち着かない。

よそ者を警戒している、というだけではない。
もっと別のものを見ないようにしている感じだった。

リゼが井戸の方へ向かう。
セシアもその後ろについて歩く。

井戸端の老婆は、二人を見るなり口を引き結んだ。

「旅の人かい」

「水を少しだけ」

リゼが答える。

老婆は何も言わず、桶を少しだけこちらへ寄せた。親切というより、早く済ませて出ていってほしいという態度に近い。

リゼが水を汲む横で、セシアはまた胸の奥がざわつくのを感じていた。

『……ちがう』

さっきより少し近い。

『……落ちたんじゃ、ない』

その言葉に、セシアの指先が強張る。

落ちたんじゃない。

事故じゃない、ということだ。

何かが、違う。

リゼが柄杓を差し出してくる。

「飲む?」

「あ……はい」

受け取ったものの、喉を通る感覚が遠い。
視線が、村の奥へ引かれていく。

そこには小さな祠のような石造りの建物があり、その前にまだ新しい土の盛り上がりが見えた。

埋葬跡だ、とすぐに分かった。

村の共同墓地なのだろう。
だが、そこだけ土の色が新しい。

セシアは思わず一歩そちらへ足を向けた。

「おい」

リゼの声が飛ぶ。

でも、もう止まれなかった。

土の盛り上がりの前まで来た瞬間、声がはっきり落ちてきた。

『……ちがう』

若い女の声。

『押された』

セシアは息を呑んだ。

『……落ちたんじゃない』

喉が乾く。

頭の中に、一瞬だけ景色がよぎった。

石の縁。
濡れた足元。
背中に触れる手。
短い悲鳴。

セシアは思わずよろめいた。

「セシア!」

リゼが腕を掴む。

その瞬間、視界が戻った。

目の前には土の盛り上がり。
墓標代わりの木札。
そこに雑な字で書かれた名前。

マリナ

セシアはそれを見つめたまま、浅く呼吸した。

「……落ちたんじゃない」

口からこぼれる。

「は?」

「この人……落ちたんじゃないです」

リゼの手に力が入る。

「何の話」

「押されたって」

その言葉を聞いた瞬間、背後で何かが落ちる音がした。

振り返る。

井戸端にいた老婆が、空の桶を取り落としていた。
その顔はひどく青ざめている。

リゼの目がすっと細くなる。

セシアはそれを見て、あ、と思った。

この村ではすでに何かが事故として片づけられている。
そして今、自分はそれに触れてしまった。

「……余計なこと言うもんじゃないよ」

老婆の声は、震えていた。

「さっさと出ておいき」

リゼが一歩前へ出る。

「ただの独り言だよ」

「そういう話じゃない」

老婆は明らかに怯えていた。
でも、それはセシアたちに対する怯えだけではない。

もっと別のものを怖がっている顔だった。

その時、背後から男の声が飛んだ。

「何してる!」

振り向くと、三十代くらいの男がこちらへ歩いてくるところだった。日に焼けた肌、太い腕、農具を持ったままの姿。村人だろう。
だがその目つきは、よそ者を見るというより、面倒ごとを潰そうとする目だった。

「墓の前で騒ぐな」

「騒いでません」

リゼが先に答える。

「水をもらっただけ」

「済んだなら出ていけ」

男の視線がセシアへ向く。
その一瞬、セシアの背筋に冷たいものが走った。

この人だ。

根拠はない。
でも、分かった。

死者の声が落ちた時の嫌な感覚と、この男の視線がぴたりと重なった。

『……あいつ』

声が落ちる。

『……あいつ、が』

セシアは唇を噛んだ。

リゼがそれを見て、わずかに位置をずらす。さりげなくセシアを背にかばうような立ち方だった。

「行こ」

低く言う。

セシアは頷きかけた。
でも、その時だった。

墓の前の木札が、風もないのにかすかに揺れた。

そして胸の奥へ、今まででいちばんはっきりと声が落ちる。

『……違うって、言って』

セシアの足が止まる。

言って、と。

今まで聞こえてきた声は、願いや断片ばかりだった。
でもこれは違う。
明確な意思だ。

違う。
事故じゃない。
押された。

ここで黙って立ち去れば、この村でもまた“なかったこと”になる。

白祈院と同じだ。

それが、どうしても嫌だった

セシアは顔を上げた。

「……この人」

声が震える。

でも止めなかった。

「事故じゃないです」

空気が凍る。

男の顔が強張った。
老婆が小さく息を呑む。
井戸の向こうで戸口から見ていた女が、慌てて子どもを抱き寄せる。

リゼが、低く舌打ちした。

「セシア」

「この人、落ちたんじゃない」

もう止まらなかった。

「押されたって言ってます」

男の顔色が変わる。

「何を……」

「石場から落ちたって、村ではそうなってるんでしょう。でも違う。背中を押されたって」

「ふざけるな!」

男が一歩踏み込んだ。

リゼが間に入る。

「落ち着いて」

「こんなよそ者のガキが何を知ってる!」

「じゃああんた、なんでそんな顔してるの」

リゼの声は低く、冷たかった。

男が一瞬言葉に詰まる。

セシアは男の目を見てしまった。
そこに浮かんでいたのは怒りだけではない。

怯えだ。

見抜かれたことへの怯え。

その瞬間、背後の家の戸が勢いよく開いた。

「やめて!」

飛び出してきたのは、二十歳前後の若い女だった。髪を乱し、顔を泣き腫らしている。男の方を見て、震える声で言う。

「もうやめて……!」

男が振り返る。

「お前、何を」

「見てたの!」

女は叫んだ。

「わたし、見てた! あの日……兄さんが、マリナを……!」

その場の空気が、一気に崩れた。

老婆が膝をつく。
誰かが戸口を閉める音。
遠くで犬が吠える。

男の顔が引きつる。

「黙れ!」

「ずっと怖かった……でも、でも……!」

女の泣き声が、村の静けさを引き裂く。

リゼがセシアの腕を掴んだ。

「走るよ」

「え」

「今すぐ」

次の瞬間、男が怒鳴り声を上げた。
何を叫んだのかは聞き取れなかった。ただ、村人たちが一斉にざわめいたのだけは分かった。

リゼは迷わずセシアを引っ張った。

井戸の脇を抜け、村の外れへ向かって駆ける。セシアは必死に足を動かした。土が跳ねる。膝が痛む。息が切れる。

背後で怒鳴り声がする。
追ってきているのか、村の中だけで揉めているのかは分からない。

でも止まるわけにはいかなかった。

村を抜け、石垣の向こうまで走って、ようやくリゼが足を止める。

二人とも息が上がっていた。

セシアは膝に手をつき、荒い呼吸を整えようとする。胸が苦しい。心臓が痛い。

しばらくして、リゼが言った。

「……あんたさ」

その声に、セシアは顔を上げた。

リゼはまだ少し息を乱しながら、じっとこちらを見ている。

「本当に聞こえてんのか」

その言葉は、疑いというより確認に近かった。

セシアは少しだけ息を整え、それから小さく頷いた。

「……はい」

リゼはしばらく何も言わなかった。

やがて空を仰ぎ、短く息を吐く。

「最悪」

いつものようにそう言ってから、ほんの少しだけ口元を歪めた。

「でも、助かったのはたぶんあの子だね」

村に残っていた、泣いていた女のことだろう。

セシアは胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。

マリナの声は、もう聞こえない。
あの墓の前に残っていた声は、ちゃんと誰かに届いたのだ。

それだけで、少しだけ救われた気がした。

風が吹く。

村の方からはもう、怒鳴り声も泣き声も聞こえなかった。

ただ遠く、どこかで鳥が鳴いている。

セシアは祈祷書を抱き直した。

聞こえる声は、きっとこれからも増えていく。
苦しいものも、怖いものも、見たくないものも。

でも今はもう、あの白い場所にいた時みたいに、それを全部“なかったこと”にしたくはなかった。

リゼが歩き出す。

「行くよ」

「……はい」

「次からは、言う前に一回こっち見て」

「え」

「心の準備がいる」

セシアは一瞬きょとんとして、それから少しだけ笑いそうになるのを堪えた。

「……分かりました」

「ほんとに?」

「たぶん」

「……ったく」

そんな短いやりとりが、少しだけ可笑しかった。

白祈院を出てから初めて、セシアはほんの少しだけ、自分が前へ進んでいる気がした。


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次のエピソードへ進む 第8話 神に選ばれなかった聖女


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宿場を離れてから、二人のあいだにはしばらく会話がなかった。
街道をそのまま進めば早いのだろうが、リゼは途中で道を外れ、林沿いの細い獣道のような道へ入った。踏み固められた街道に比べれば歩きにくい。けれど人目は少なく、馬も通りづらい。追手を避けるにはその方がいいのだろうと、セシアにも分かった。
朝の光はすでに高くなっている。
白祈院を出てからまだ半日も経っていないはずなのに、ひどく長い一日だった。
セシアは祈祷書を抱え直し、前を歩くリゼの背を見つめた。
歩き方に迷いがない。
どこへ足を置けば滑らないか、どの枝を避ければ服を引っかけずに済むか、考えなくても分かっているような歩き方だった。
女がひとりで歩いている。でも自分とはまるで違う。
セシアがいかに何も知らずに白祈院を出てきたかを、歩くたびに思い知らされる。
前を歩いていたリゼが、振り返らないまま言った。
「疲れた?」
「……少し」
「正直でよろしい」
声は素っ気ない。
でも足は少しだけ緩んだ。
それに気づいて、セシアは胸の奥がほんの少しだけ温かくなるのを感じた。
ありがたい、と思うのに、その言葉をそのまま口にするのはまだ少し照れくさい。
林を抜けると、視界が開けた。
小さな畑と、低い石垣と、その向こうに煙の上がる屋根がいくつか見える。村だ。宿場よりさらに小さい。街道から少し外れた場所にある、通り過ぎる者がほとんど立ち寄らないような村に見えた。
「ここ、通るの?」
セシアが聞くと、リゼは短く答えた。
「水だけ。あと様子見」
「様子見?」
「村ってのは、近づいた時の空気でだいたい分かるから」
「……何がですか」
「面倒そうかどうか」
あまりにも率直で、セシアは何も言えなかった。
けれど村が近づくにつれて、その言葉の意味が少しだけ分かる気がした。
妙に静かだった。
人の気配はある。
煙も立っているし、畑には鍬が立てかけられている。洗濯物も揺れていた。なのに、生活の音が少ない。子どもの声も、家畜の鳴き声も、ほとんど聞こえない。
それがどこか、息を潜めているように感じられた。
セシアの足が、わずかに止まる。
その瞬間。
『……ちがう』
胸の奥に、声が落ちた。
セシアの喉がひゅっと鳴る。
知らない声だった。
若い女の声。
細く、かすれていて、それでも妙に耳に残る声。
『……ちがう』
リゼが振り返る。
「何」
「……いえ」
反射でそう返してしまう。
でももう、耳の奥がざわつき始めていた。
この感じを知っている。
死者の声が近い時の感覚だ。
セシアは村を見た。
低い屋根。
石垣。
閉まった戸口。
何もおかしなものは見えない。なのに、空気だけがどこか沈んでいる。
「どうしたの」
今度は少しだけ真面目な声で、リゼが聞いた
セシアは迷った。
言えば、また変な顔をされるかもしれない。
でも、ここまで来て黙っていても仕方がない。
「……声がします」
リゼの眉がわずかに動く。
「誰の」
「たぶん、死んだ人の」
短い沈黙。
リゼは空を見上げるでもなく、ため息を吐くでもなく、ただ一度だけ目を細めた。
「どこから?」
セシアは少しだけ驚いて顔を上げた。
否定されると思っていた。
なのにリゼは、信じるでもなく笑うでもなく、先に“どこから”と聞いた。
それだけで、少しだけ呼吸がしやすくなる。
「……まだ、はっきりしません」
「じゃあ慎重に行こう」
それだけ言って、リゼはまた歩き出した。
村の入口には、低い木の柵と、申し訳程度の門があった。門といってもただの横木に近い。そこをくぐると、土の道が数軒の家のあいだを縫うように伸びている。
近づいてみると、やはり人はいる。
井戸の近くで水を汲む老婆。
干した草を束ねる男。
家の戸口からこちらを見る若い母親。
でも皆、どこか視線が落ち着かない。
よそ者を警戒している、というだけではない。
もっと別のものを見ないようにしている感じだった。
リゼが井戸の方へ向かう。
セシアもその後ろについて歩く。
井戸端の老婆は、二人を見るなり口を引き結んだ。
「旅の人かい」
「水を少しだけ」
リゼが答える。
老婆は何も言わず、桶を少しだけこちらへ寄せた。親切というより、早く済ませて出ていってほしいという態度に近い。
リゼが水を汲む横で、セシアはまた胸の奥がざわつくのを感じていた。
『……ちがう』
さっきより少し近い。
『……落ちたんじゃ、ない』
その言葉に、セシアの指先が強張る。
落ちたんじゃない。
事故じゃない、ということだ。
何かが、違う。
リゼが柄杓を差し出してくる。
「飲む?」
「あ……はい」
受け取ったものの、喉を通る感覚が遠い。
視線が、村の奥へ引かれていく。
そこには小さな祠のような石造りの建物があり、その前にまだ新しい土の盛り上がりが見えた。
埋葬跡だ、とすぐに分かった。
村の共同墓地なのだろう。
だが、そこだけ土の色が新しい。
セシアは思わず一歩そちらへ足を向けた。
「おい」
リゼの声が飛ぶ。
でも、もう止まれなかった。
土の盛り上がりの前まで来た瞬間、声がはっきり落ちてきた。
『……ちがう』
若い女の声。
『押された』
セシアは息を呑んだ。
『……落ちたんじゃない』
喉が乾く。
頭の中に、一瞬だけ景色がよぎった。
石の縁。
濡れた足元。
背中に触れる手。
短い悲鳴。
セシアは思わずよろめいた。
「セシア!」
リゼが腕を掴む。
その瞬間、視界が戻った。
目の前には土の盛り上がり。
墓標代わりの木札。
そこに雑な字で書かれた名前。
マリナ
セシアはそれを見つめたまま、浅く呼吸した。
「……落ちたんじゃない」
口からこぼれる。
「は?」
「この人……落ちたんじゃないです」
リゼの手に力が入る。
「何の話」
「押されたって」
その言葉を聞いた瞬間、背後で何かが落ちる音がした。
振り返る。
井戸端にいた老婆が、空の桶を取り落としていた。
その顔はひどく青ざめている。
リゼの目がすっと細くなる。
セシアはそれを見て、あ、と思った。
この村ではすでに何かが事故として片づけられている。
そして今、自分はそれに触れてしまった。
「……余計なこと言うもんじゃないよ」
老婆の声は、震えていた。
「さっさと出ておいき」
リゼが一歩前へ出る。
「ただの独り言だよ」
「そういう話じゃない」
老婆は明らかに怯えていた。
でも、それはセシアたちに対する怯えだけではない。
もっと別のものを怖がっている顔だった。
その時、背後から男の声が飛んだ。
「何してる!」
振り向くと、三十代くらいの男がこちらへ歩いてくるところだった。日に焼けた肌、太い腕、農具を持ったままの姿。村人だろう。
だがその目つきは、よそ者を見るというより、面倒ごとを潰そうとする目だった。
「墓の前で騒ぐな」
「騒いでません」
リゼが先に答える。
「水をもらっただけ」
「済んだなら出ていけ」
男の視線がセシアへ向く。
その一瞬、セシアの背筋に冷たいものが走った。
この人だ。
根拠はない。
でも、分かった。
死者の声が落ちた時の嫌な感覚と、この男の視線がぴたりと重なった。
『……あいつ』
声が落ちる。
『……あいつ、が』
セシアは唇を噛んだ。
リゼがそれを見て、わずかに位置をずらす。さりげなくセシアを背にかばうような立ち方だった。
「行こ」
低く言う。
セシアは頷きかけた。
でも、その時だった。
墓の前の木札が、風もないのにかすかに揺れた。
そして胸の奥へ、今まででいちばんはっきりと声が落ちる。
『……違うって、言って』
セシアの足が止まる。
言って、と。
今まで聞こえてきた声は、願いや断片ばかりだった。
でもこれは違う。
明確な意思だ。
違う。
事故じゃない。
押された。
ここで黙って立ち去れば、この村でもまた“なかったこと”になる。
白祈院と同じだ。
それが、どうしても嫌だった
セシアは顔を上げた。
「……この人」
声が震える。
でも止めなかった。
「事故じゃないです」
空気が凍る。
男の顔が強張った。
老婆が小さく息を呑む。
井戸の向こうで戸口から見ていた女が、慌てて子どもを抱き寄せる。
リゼが、低く舌打ちした。
「セシア」
「この人、落ちたんじゃない」
もう止まらなかった。
「押されたって言ってます」
男の顔色が変わる。
「何を……」
「石場から落ちたって、村ではそうなってるんでしょう。でも違う。背中を押されたって」
「ふざけるな!」
男が一歩踏み込んだ。
リゼが間に入る。
「落ち着いて」
「こんなよそ者のガキが何を知ってる!」
「じゃああんた、なんでそんな顔してるの」
リゼの声は低く、冷たかった。
男が一瞬言葉に詰まる。
セシアは男の目を見てしまった。
そこに浮かんでいたのは怒りだけではない。
怯えだ。
見抜かれたことへの怯え。
その瞬間、背後の家の戸が勢いよく開いた。
「やめて!」
飛び出してきたのは、二十歳前後の若い女だった。髪を乱し、顔を泣き腫らしている。男の方を見て、震える声で言う。
「もうやめて……!」
男が振り返る。
「お前、何を」
「見てたの!」
女は叫んだ。
「わたし、見てた! あの日……兄さんが、マリナを……!」
その場の空気が、一気に崩れた。
老婆が膝をつく。
誰かが戸口を閉める音。
遠くで犬が吠える。
男の顔が引きつる。
「黙れ!」
「ずっと怖かった……でも、でも……!」
女の泣き声が、村の静けさを引き裂く。
リゼがセシアの腕を掴んだ。
「走るよ」
「え」
「今すぐ」
次の瞬間、男が怒鳴り声を上げた。
何を叫んだのかは聞き取れなかった。ただ、村人たちが一斉にざわめいたのだけは分かった。
リゼは迷わずセシアを引っ張った。
井戸の脇を抜け、村の外れへ向かって駆ける。セシアは必死に足を動かした。土が跳ねる。膝が痛む。息が切れる。
背後で怒鳴り声がする。
追ってきているのか、村の中だけで揉めているのかは分からない。
でも止まるわけにはいかなかった。
村を抜け、石垣の向こうまで走って、ようやくリゼが足を止める。
二人とも息が上がっていた。
セシアは膝に手をつき、荒い呼吸を整えようとする。胸が苦しい。心臓が痛い。
しばらくして、リゼが言った。
「……あんたさ」
その声に、セシアは顔を上げた。
リゼはまだ少し息を乱しながら、じっとこちらを見ている。
「本当に聞こえてんのか」
その言葉は、疑いというより確認に近かった。
セシアは少しだけ息を整え、それから小さく頷いた。
「……はい」
リゼはしばらく何も言わなかった。
やがて空を仰ぎ、短く息を吐く。
「最悪」
いつものようにそう言ってから、ほんの少しだけ口元を歪めた。
「でも、助かったのはたぶんあの子だね」
村に残っていた、泣いていた女のことだろう。
セシアは胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。
マリナの声は、もう聞こえない。
あの墓の前に残っていた声は、ちゃんと誰かに届いたのだ。
それだけで、少しだけ救われた気がした。
風が吹く。
村の方からはもう、怒鳴り声も泣き声も聞こえなかった。
ただ遠く、どこかで鳥が鳴いている。
セシアは祈祷書を抱き直した。
聞こえる声は、きっとこれからも増えていく。
苦しいものも、怖いものも、見たくないものも。
でも今はもう、あの白い場所にいた時みたいに、それを全部“なかったこと”にしたくはなかった。
リゼが歩き出す。
「行くよ」
「……はい」
「次からは、言う前に一回こっち見て」
「え」
「心の準備がいる」
セシアは一瞬きょとんとして、それから少しだけ笑いそうになるのを堪えた。
「……分かりました」
「ほんとに?」
「たぶん」
「……ったく」
そんな短いやりとりが、少しだけ可笑しかった。
白祈院を出てから初めて、セシアはほんの少しだけ、自分が前へ進んでいる気がした。