第6話 同行者
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追手の蹄の音が完全に遠ざかったあとも、セシアの身体はしばらく強張ったままだった。
小屋の中には、何事もなかったようなざわめきが戻りつつある。鍋の煮える音、木椀の触れ合う音、朝早くから酒を飲んでいるらしい男たちの低い笑い声。
けれどセシアには、まだ自分の心臓の音しか聞こえなかった。
白い布を頭から剥がされたあとも、すぐには顔を上げられない。
「もう行ったよ」
リゼが言った。
短い声だった。慰めるでも、気を遣うでもない。ただ事実を告げるだけの声。それがかえって、セシアにはありがたかった。
「……はい」
やっとそれだけ返す。
声が少し掠れていた。
リゼは向かいの椅子を引いて、今度はちゃんと卓の前に座った。肘をつき、じっとセシアを見る。さっきまでよりもあからさまに、値踏みする目だった。
「で?」
「……で?」
「何やらかしたの」
セシアは口を閉じた。
何を、どこまで話していいのか分からない。
正確に言えば、話した瞬間に現実になってしまいそうで怖かった。白祈院を抜け出したことも、追手が自分を探していたことも、エルナの死をなかったことにしようとしていたことも。
まだ、どこかで夢みたいだと思っている自分がいた。
リゼは返事を待ったが、セシアが黙ったままなのを見て、浅く息を吐いた。
「言いたくないなら別にいい」
言葉の割に、完全に引いたわけではなかった。
「ただ、白い服の娘を探してる連中が来たのは事実。あんたがそれで震えてたのも事実。ついでに、追手を見た時の顔からして、単なる家出じゃない」
セシアは祈祷書を抱く腕に力を入れた。
「……帰れません」
ぽつりと言う。
リゼの眉がわずかに上がる。
「帰りたくない、じゃなくて?」
「帰れません」
今度は少しだけ、はっきりと言った。
自分の口から出たその言葉は、思ったよりも重く感じた。
帰りたくない、ではない。
帰れない。
白祈院はもう、自分が戻れる場所ではない。戻れば静室へ入れられる。もしかすると、それで済まない。エルナの記録の切れ端を持ち出したことも、記録庫にいたことも、追手が動いている以上、いつか知られるだろう。
それに何より。
「戻ったら……」
喉が詰まる。
「戻ったら、何もなかったことになります」
リゼは黙っている。
それが続けろという意味に思えて、セシアは少しだけ俯いた。
「人が死んだのに。ちゃんと、嫌がってたのに。怖がってたのに。そういうの全部……なかったことにされて、それで終わります」
「人が死んだ?」
「……候補生が」
リゼの目が細くなる。
「神殿か何かにいたの?」
セシアは少しだけ迷って、それでも頷いた。
「白祈院、というところです」
「へえ」
リゼの反応は薄い。
でも、知らない名前というわけではないらしかった。
「聞いたことある。街から離れたとこにある、白い建物」
「知ってるんですか」
「名前だけ」
そこで一度言葉を切ってから、リゼは鼻で笑った。
「近づかない方がいい場所って意味でも有名」
セシアは顔を上げた。
その一言だけで、胸の奥が少しざわつく。
白祈院は、外ではそう見られているのか。
中にいた時、そんなことは一度も考えたことがなかった。候補生たちにとって、白祈院は世界そのものだった。息苦しくても、冷たくても、そこしか知らなければ、それが普通になる。
でも外から見れば、あれは“近づかない方がいい場所”なのだ。
少しだけ、気分が悪くなった。
「何」
リゼが言う。
「……いえ」
「そうやって飲み込まれると気になるんだけど」
セシアは困った。
白祈院では、余計なことは飲み込むのが当たり前だった。思ったことをそのまま言う方が難しい。
「外からだと、そう見えるんだなって」
ようやくそう言うと、リゼはあっさり返した。
「見えるよ」
何の含みもない声だった。
「白くて、綺麗で、静かで、近寄りがたい。そういう場所って大体ろくでもない」
セシアはわずかに目を見開いた。
あまりにあっさり言われて、怒ることもできない。
でも、それを否定できない自分がいた。
「……そんなに分かるものですか」
「分かる」
リゼは迷わなかった。
「綺麗すぎる場所って、だいたい中で何か潰してるから」
その言い方が、妙に胸に刺さった。
セシアは答えられなかった。
ちょうどその時、店主が椀を乱暴に回収しに来た。セシアの前に残ったパン屑と、空になった木杯を見て、眉をひそめる。
「そいつ、知り合いか?」
「今日からそうなるかも」
リゼが言う。
「は?」
「宿代、ちょっとツケ」
「ふざけんな」
「じゃあこの子、ここに置いてく?」
店主の顔がさらに渋くなった。
セシアは自分のことだと分かって、慌てて立ち上がりかける。
「すみません、わたし」
「座ってて」
リゼが片手で制した。
店主は頭を掻きながら、露骨に嫌そうな顔をした。
「面倒ごと持ち込むなよ」
「持ち込まれたんだって」
「同じだろうが」
「違うね」
言い返す声は軽いのに、その下に少しだけ棘があった。
店主は舌打ちして去っていく。
その背を見送りながら、セシアは小さく言った。
「……ごめんなさい」
「さっきから謝ってばっか」
「でも」
「面倒なのはほんとだし」
リゼはあっさり言った。
セシアの肩がわずかに落ちる。
それを見て、リゼは少しだけ目を逸らした。
「……まあ、だからって今さら放り出すのも面倒なんだけど」
どっちなのだろう、とセシアは思う。
でも聞けない。
小屋の外では、朝のざわめきが少しずつ大きくなっていた。荷馬車が出る準備を始めている。馬のいななき。木箱を運ぶ音。旅人たちの荒い声。
日が高くなれば、ここにも人が増えるだろう。追手がもう一度来る可能性だってある。
そう思った時、リゼが立ち上がった。
「行くよ」
「え」
「ここにいたいの?」
セシアは首を横に振った。
「でも……どこへ」
「まずはここじゃないとこ」
リゼはそれだけ言って、さっさと小屋の外へ出る。
セシアは慌てて祈祷書を抱え、あとを追った。
外へ出ると、朝の光がさっきよりも強くなっていた。眩しさに目を細める。リゼは足を止めず、宿場の裏手へ回り込んでいく。
「歩ける?」
「はい」
「ほんとに?」
問いかけは意地悪っぽいのに、歩幅はセシアに合わせて少しだけ遅くなっていた。
宿場の裏には、使われていない荷車と、壊れた樽と、干し草を積んだ粗末な納屋があった。その陰まで来たところで、リゼはようやく立ち止まる。
「ここなら、少し話せる」
「……話す?」
「聞かないと困るから」
リゼは振り返って、セシアを真っ直ぐ見た。
「どこまで追われるのか。何を持ってるのか。何を知ってるのか」
その言葉に、セシアは反射的に祈祷書を抱く腕に力を入れていた。
リゼの視線がそこへ落ちる。
「やっぱそれ、ただの本じゃないんだ」
「……」
「取らないよ、今は」
今は、という言い方が少し怖い。
でも嘘をついても意味がないことは分かった。リゼは勘がいい。中途半端に隠そうとすれば、たぶん余計に見抜かれる。
セシアは少し迷ってから、祈祷書を開いた。中から、折りたたんだ紙片を取り出す。
「これを」
「何それ」
「持ってきてしまいました」
リゼが受け取る。
紙片を開き、目を通す。
――フィセル
――儀式適合 低
「何これ」
「死んだ子の、記録の一部です」
リゼの顔つきが少し変わる。
「持ち出したの?」
「……はい」
「自分で?」
「はい」
沈黙が落ちた。
風が納屋の板を鳴らす。
遠くでまた馬が鳴く。
しばらくして、リゼは低く言った。
「そりゃ追われる」
セシアは俯いた。
自分でも分かっている。
「でも」
気づけば、言葉が出ていた。
「置いていけなかったんです」
リゼは黙ったまま聞いている。
「その子、エルナっていうんですけど……ただ死んだんじゃなくて、消されるんです。死んだことも、嫌がってたことも、たぶん全部」
喉が少し震える。
「ちゃんとしていたのに、って言ってました」
「は?」
「……死んだあと」
言った瞬間、空気が少し変わった。
リゼの目が、まっすぐセシアを見る。
その視線に耐えきれず、セシアは唇を噛んだ。
おかしいと思われる。
気味悪がられる。
白祈院の中ではそうだった。外でも同じだろう。むしろ外の方が、余計にそうかもしれない。
それでも、ここで隠しても仕方がない気がした。
「わたし、死んだ人の声が聞こえるんです」
言ってしまった。
納屋の裏の空気が、ひどく静かに感じられた。
リゼはすぐには何も言わなかった。
笑うかと思った。否定されるかと思った。気味悪いと言われても不思議ではない。
でもリゼはただ、少しだけ長く沈黙したあと、ひとつ息を吐いた。
「……ほんと、変なやつ」
その言い方は素っ気なかった。
けれど、完全に拒絶する響きではなかった。
セシアは少しだけ目を見開いた。
「信じない、ですか」
「今の時点じゃ、半分」
「半分」
「でも追手が来てるのは本当。記録を持ってるのも本当。神殿絡みでろくでもないことになってるのも、まあ本当っぽい」
リゼは紙片を折り直し、セシアへ返した。
「あと、そういう嘘つく顔じゃない」
セシアはそれに何と返せばいいのか分からなかった。
リゼは腕を組み、納屋の壁に背を預ける。
「問題はここから」
「ここから……」
「追手がいる。あんたは無一文。世間知らず。たぶん自分がどれくらい危ないかも、まだちゃんと分かってない」
その通りすぎて言い返せない。
「だから、選択肢はそんなにない」
リゼの声は乾いていた。
「ひとつ。今すぐここから消える」
「はい」
「ふたつ。街道沿いは避ける」
「……はい」
「みっつ。勝手に死なない」
そこで初めて、セシアは顔を上げた。
リゼは目を逸らしたまま、少しだけ不機嫌そうに続ける。
「言っとくけど、別に面倒見たいわけじゃない」
「はい」
「ただ、放っといたらほんとに死ぬ。今日中に」
同じ言葉だ。
さっき小屋の中で言われたのと。
けれど今は、その意味がもっと具体的に分かった。
水がない
金がない
寝る場所もない
追手がいる
世間も知らない
自分ひとりでは、本当に今日中に死んでもおかしくない
セシアは小さく息を吸った。
「……お願いします」
言ってから、自分でも少し驚いた。
人に頼ることに慣れていない。白祈院では、必要なものは願う前に与えられる代わりに、自分で選ぶことは許されなかった。
だから助けてほしいと言うのは、思っていたよりずっと難しかった。
リゼは少しだけ目を見開き、それからすぐに嫌そうな顔に戻った。
「素直なのも面倒」
「ごめんなさい」
「それもやめて」
「……はい」
「はい、は別にいい」
そこで初めて、リゼの口元がほんの少しだけ緩んだ気がした。
短い沈黙のあと、リゼは言う。
「次の町まで」
「え」
「そこまで。とりあえず一緒に行く」
セシアは息を止めた。
「それ以上は、その時考える」
「……ありがとう、ございます」
「敬語もそのうちやめて」
「はい」
「だから、それ」
呆れたように言いながら、リゼは身体を起こした。
「行くよ、セシア」
名前を呼ばれて、セシアは少しだけ目を見開く。
白祈院を出てから初めて、自分の名前がちゃんと地面の上に落ちた気がした。
「はい」
「あと」
歩き出しかけたリゼが、振り向きもせずに言う。
「その白い服、目立つからどっかで替える」
たしかにそうだ、とセシアは思った。
白祈院の衣は、外ではあまりにも白すぎる。
追手に見つけてくださいと言っているようなものだ。
でもそれは同時に、白祈院の中では一度も考えたことのないことでもあった。服は支給されるもの。選ぶものではない。
その当たり前の違いが、妙に新しかった。
リゼのあとを追って歩きながら、セシアは祈祷書を抱き直した。
その中には、エルナの紙片が挟まっている。まだ終わっていない声が残っている。
ひとりではない。
そう思った瞬間、自分でも驚くほど胸が軽くなった。
相手は口が悪くて、感じも悪くて、面倒そうな顔ばかりしている。
でも、それでも。
白祈院を出て初めて、自分は完全にひとりではなくなったのだ。
宿場の裏道を抜ける風が、少しだけやわらかく感じられた。
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